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三国志天の記  作者: 沖家室
序章 天をくつがえす者【張角伝】
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第10話 孫堅という男

 張角の本軍が敗戦を喫していたころ、逆に南の豫州(よしゅう)では黄巾軍が勢いづいていた。

 この方面の黄巾軍は渠帥(きょすい)波才(はさい)という人物に率いられ、豫州のなかでも潁川郡(えいせんぐん)(現在の河南省中部)の東部から汝南郡(じょなんぐん)(現在の河南省東南部および安徽省(あんきしょう)阜陽市(ふようし)一帯)北部、陳国(ちんこく)(現在の河南省周口市(しゅうこうし)一帯)を中心に展開していた。

 波才の軍は十万近い規模に膨れ上がっていて、豫州刺史(しし)王允(おういん)をはじめとする豫州の諸軍では歯が立たず、手がつけられない状態であった。


 ただ、184年4月になって状況は変わり始めた。

 右中郎将(うちゅうろうしょう)朱儁(しゅしゅん)左中郎将(さちゅうろうしょう)皇甫嵩(こうほすう)が率いる官軍が潁川郡に入り、波才軍の支配地域に向かって進軍を開始したのだ。

 猛威を振るう波才軍の前に、なすすべもなく息をひそめていた豫州の地方長官たちは安堵した。

 早速、朱儁や皇甫嵩が率いる軍に向けて続々と使者が送られてきて黄巾軍の状況を知らせるとともに、救援を要請してきた。

 彼らから寄せられた情報や朱儁らが独自に集めた情報によると、波才軍は官軍の到着を知って潁川郡東部に戦力の結集をはかっているようだ。


 黄巾軍の具体的な情報をつかむと、朱儁と皇甫嵩は軍議の場をもうけた。

 両者は同格の中郎将であるが、朱儁が50代なかば、皇甫嵩が40代後半という年齢もあって、自然と皇甫嵩が朱儁を立てるかたちとなった。


 両者の前には豫州の地図が広げられている。

 主な城の位置が書き込まれ、黄巾軍が奪取した地域と官軍が確保している地域がわかるようになっていた。

 目を引くのは、至る所に伸びる細い線である。

 それらは大小さまざまな河川であった。

 そう、豫州は水路が入り組む複雑な地形を持つ土地であった。


長社(ちょうしゃ)城だな。」


「そうですな。」


 両者の意見はあっさりと一致し、まずは長社城へ向かうことになった。

 長社県は黄巾軍の支配地域の最も西側に位置しており、距離的に最も近い。

 黄巾軍の支配地域の端にあるということは、波才が率いる主力と遭遇する危険も低いわけだった。

 何しろ、朱儁・皇甫嵩の軍はごく一部の精鋭を除いてその多くが義勇兵で成り立っており、軍の質は黄巾軍とそう大きく変わらない。

 そのような軍勢で倍はいると思われる波才の黄巾軍と戦うのは無謀とみたのだ。


 宦官の悪意が混じった人事ではあるが、朱儁・皇甫嵩ともに有能な人材だった。


 朱儁は(あざな)(通称)を公偉(こうい)と言い、揚州(ようしゅう)会稽郡(かいけいぐん)上虞県(じょうぐけん)(現在の浙江省(せっこうしょう)紹興市(しょうこうし)上虞区)の出身である。

 元々家柄がそれほど悪いわけではなかったが、父親を早くに亡くし、母子家庭となって家運は傾いていた。

 幼少期から少年期にかけての朱家は困窮し、朱儁の母が内職をして生活費の足しにするくらいであった。

 そのような境遇でも朱儁は腐ることなく、かえって金に執着せずに義理人情に厚い青年へと成長していた。

 いくら後漢王朝が腐っていると言っても、世の中そう捨てたものではなく、朱儁は篤実な人柄と機転を評価されて地元の役人に抜擢され、以後出世を重ねた。


 軍事についても経験があり、交州刺史の時代には反乱軍の鎮圧を指揮していた。

 前にも紹介した通り、州の長官である刺史には直接軍隊を指揮する権限はないのだが、朱儁は管轄下の交州七郡の太守らの心をつかみ、その総力を結集して反乱軍と戦ったのだった。

 今回の任務も適任と言ってよく、洛陽から豫州へ進む間に麾下の将兵は早くも朱儁になつきつつあった。


 一方、皇甫嵩は字を義真(ぎしん)と言い、涼州(りょうしゅう)安定郡(あんていぐん)朝那県(ちょうなけん)(現在の寧夏回族自治区(ねいかかいぞくじちく)固原市(こげんし)彭陽県(ほうようけん))の人だ。

 若いころから文武両道で知られ、儒学の素養だけでなく弓馬の技術にも優れていた。

 彼の名声は地元の安定郡において鳴り響き、2度にわたって中央へ推薦されたばかりか、最終的には霊帝から辟召(へきしょう)(馬車を派遣して特別に招聘すること)された。


 なお、この時代の高級役人が推薦によって登用されることは前に述べた。

 このうち、毎年全国の郡によって推薦されるパターンが本来のエリートコースであるが、皇甫嵩が選ばれたのは「孝廉(こうれん)」と「茂才(もさい)(秀才)」の2つであった。

 後漢王朝では学識よりもモラルが重視されたため、群を抜いて親孝行であったり公正と評判な人物が選ばれる「孝廉」の方が、学識を評価される「茂才」よりも上に位置づけられていた。

 これらエリートコースに乗った者は中央で近衛兵に当たる「郎官(ろうかん)」に任じられたあと、地方の「県令」や「太守」へと出世していく。


 ただ、これらエリートコースを上回る、超エリートコースも存在していた。

 地方長官や「開府」の権限を持つ政府高官、さらには皇帝までもが行う辟召がそれで、特に皇帝や高官に招かれた者はいきなり皇帝や高官の補佐官として高い地位に登った。

 スタートがより高い地位なのだから、出世も早い。

 ほんの数年、なかにはほんの数ヶ月で宰相クラスである「三公(さんこう)」や大臣クラスである「九卿(きゅうけい)」になる者までいた。


 つまり、これらすべての推薦方式で選ばれたことがある皇甫嵩は安定郡、いや涼州全体における期待の星であったわけだ。

 まさにスーパーエリートである。

 この時点では朱儁に比べると軍事面での実績はないが、実は皇甫嵩は朱儁以上の軍才に恵まれていた。

 この後、彼は将軍としての才能を遺憾なく発揮していくことになるが、それはおいおい語っていくとしよう。


 さて、朱儁・皇甫嵩の連合軍は、決定通り長社へと向かって進み始めた。

 怠りなく偵察を行い、敵の大軍がいないか確認しながらの行軍である。

 長社城の周辺には黄巾軍の大軍はおらず、それだけでなく長社に拠っていた黄巾軍もすでに逃げ去った後だった。

 官軍は簡単に長社城を奪還した。


 ところが、そこへ思わぬ知らせが入った。

 汝南太守の趙謙(ちょうけん)が郡の兵を率いて北上しているという。

 趙謙は気骨のある人物で、賊軍がのさばる豫州の状況を嘆いていたが、朱儁らが近くまで来たことに勇気づけられ、合流するために出撃したのだった。


「それはまずい・・・!」


 汝南郡の北部から潁川郡の東部にかけては波才率いる黄巾軍の本軍が展開している。

 朱儁たちに合流しようとしているのかもしれないが、その3分の1にも満たない汝南の兵だけで向かうのはあまりにもリスキーだ。


「こうしてはおれん。わが軍は直ちに汝南へ向かう。義真(皇甫嵩のこと)殿はこの長社をお願いしますぞ。」


「承知いたした。ご武運を!」


 朱儁は長社城周辺の平定を皇甫嵩に任せると、軍をまとめて急速に南下をはじめた。

 波才の黄巾軍とぶつかる前に趙謙の軍と合流するためだった。

 だが、急行軍にも関わらず、その目的は達せられなかった。

 そのことに朱儁が気づいたとき、すでに趙謙の軍に召陵県で大勝した波才軍が目前に迫っていた。


「しまった・・・。」


 朱儁はほぞをかんだ。

 いつもは慎重な彼も、先を急ぐあまり偵察を怠り、敵の大軍の接近に気づかなかったのだ。

 この辺りは河川以外は平坦な地形が続いており、数に劣る朱儁軍には不利であった。

 また、今から戦いを避けることも不可能であった。


 まるで引きずり込まれるように朱儁軍は波才軍と開戦し、そして無残に敗北した。

 義勇兵主体の軍は倍以上の敵軍を見ただけで動揺し、ほんのわずか戦っただけでもろくも崩れた。

 朱儁は声を()らして督戦(とくせん)したが、臆病風に吹かれた兵ではどうしようもない。

 ついには朱儁の本陣を固める中軍も崩れ、朱儁は周囲の勧めもあって退却を決意した。


 朱儁の真価が発揮されたのは退却戦においてであった。

 数少ない精鋭部隊を中心にしっかりと軍勢をまとめると、時には先走って追撃してくる敵軍の一部に対して痛烈な反撃を加えた。

 多くの義勇兵が散り散りになりながらも、朱儁はある程度軍のまとまりを保ちながら撤退戦を戦い抜いた。


 だが、黄巾軍の追撃をしのぎながら、朱儁軍は大きく西へと進路を転じていた。

 それは長社城にいる皇甫嵩から遠ざかることを意味していた。

 結局、朱儁はまっすぐ長社城に入ることを断念し、潁川郡に入って軍勢を立て直すことにしたのだった。

 多くの義勇兵が逃げ散り、無残な有様となった朱儁軍だが、穎川郡では朱儁が呼び寄せ、到着を待ち望んでいた人物が待っていた。

 

「そなたが孫文台殿か。よう来てくれた。高名はかねがねうかがっておってな、ぜひともに戦いたいと思っておったのじゃ。」


かつて経験したことがないひどい敗戦にさすがに気落ちしていた朱儁だったが、およそ1千の兵を従えた若い武将が面会を求めてきたことを聞き、愁眉を開いた。

男の名は孫堅(そんけん)、字を文台といい、徐州(じょしゅう)下邳(かひ)国のなかの下邳県丞(けんじょう)を務めていた。


県丞とは県令や県長を補佐して行政に当たる官職であり、現代の日本であれば副市長に該当するだろうか。

各県には軍事を司る「県尉(けんい)」がいるのだが、朱儁が声をかけたのは孫堅であった。


その理由は2つある。

ひとつは孫堅が朱儁と同じ揚州の出身であること、もうひとつはまだ29歳という若さながら孫堅の武名が南方で鳴り響いていることだ。


孫堅の名が知られるようになったのは、彼がまだわずか17歳だったときのことだ。

あるとき、孫堅は所用で揚州会稽郡(かいけいぐん)銭塘県(せんとうけん)(現在の浙江省杭州市)に行き、そこで海賊の一団と遭遇した。

それを見た孫堅は逃げるどころか小高い見晴らしの良い場所に移動し、あたかも後続の軍勢を指揮するかのような身振りをした。

大軍が迫って来ていると勘違いした海賊は我先にと逃げ出し、孫堅はとっさの機転で賊の被害を防いだと賞賛され、役所に登用されて以後官職を歴任してきたのだった。


義勇兵主体で構成され、頼れる武将を欲していた朱儁にとって、孫堅はぜひとも指揮下に迎えたい逸材であった。


「もったいないお言葉・・・。」


孫堅は堂々たる体躯と鋭い眼光を持ち、それでいて物静かな男だ。

一見何を考えているのかわからない雰囲気をまとっているが、その内には情熱的な性質をたぎらせていた。

言わば素朴な感激屋であり、同郷の先輩から最大限の賛辞を受け、おおいに感動していたのだ。


「いやぁ、大負けに負けましたわい。」


 朱儁は気落ちしている自分を悟られまいとあえて自嘲気味に語ってみせた。

 ただ、死なせてしまった大勢の部下を思って胸が痛め、次こそは勝利をつかんでやろうという思いがこみ上げていることは、怒ったような肩の辺りにあらわれていた。


「勝敗は兵家(へいか)(つね)(戦いには勝つこともあれば負けることもあるという意味)と申します。どうかお気に病まれますな。わたしが来たからには次の戦、必ず勝てます!」


(気持ちのいい若者だな。)


 朱儁の口元には微笑が浮かんでいた。

 やや気負いすぎているきらいはあるが、孫堅という男の純良さが染みてくる。

 人選に間違いはなかった、と朱儁は目の前の若者に最大限の好意を持った。


 一方その頃、朱儁が逃げ込み損ねた長社城では、皇甫嵩軍が十万以上と称する波才軍の包囲を受けていた。

 


この時代について書かれた『続漢書』には、汝南太守の趙謙が「邵陵」において黄巾軍に敗れたとあります。

しかし、「邵陵」はこの時点から約80年後に荊州零陵郡の北部を分割して新設された郡であって、この時点では存在していません。

また、「邵陵郡」は現在の湖南省邵陽市の辺りにあり、汝南郡からははるか遠くに離れていて、汝南太守が軍を率いて行ったとは考えにくいです。


筆者は「邵陵」ではなく汝南郡の「召陵県」がその舞台であったのではないかと考え、今作において採用しました。

「召陵県」は汝南郡では北西の郡境に位置する県で、潁川郡に隣接しています。

そこで、「汝南太守趙謙が召陵県で敗れる」→「救援に向かった朱儁軍も撃破される」→「敗走した朱儁は長社城に逃げ込めず孫堅と合流して立て直しを図る」→「勝った波才率いる黄巾軍が長社城を包囲する」といった流れで今話を構成しました。

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