第1話 張角、悩む
さて、序章の主役となるのは、大賢良師張角です。
彼が主役ということは、もちろん舞台となるのは黄巾の乱になります。
太平道目線で描きたいなぁ、と考えております。
なお、序章ではこの時代について紹介することが色々ありますので、いささか退屈な箇所もあろうかと思います。
悪しからず、お付き合いください。
歴史は繰り返す。
昨日興り、今日は栄えに栄えている国も、明日には一朝にして滅び去る。
その大いなる流れはとても人知の及ぶところではなく、人々の苦しみと悲しみを残してまた新しい時代が始まっていく。
2世紀、中華(中国)の大地を治める後漢王朝にもそのサイクルが訪れようとしていた。
もちろん神ならぬ人の身のこと、その事実に気づく者はほとんどいない。
紀元36年に初代光武帝(劉秀)が中華の統一を果たした後漢は、紀元184年に当たるこの年まで約150年間統一王朝として続いていた。
「後漢」があれば「前漢」が当然あるわけで、前漢は高祖(劉邦)が紀元前202年に中華統一を果たしてから紀元8年に臣下の王莽という男に国を奪われるまで200年以上続いた。
光武帝は高祖と同じ劉姓であることからわかるように高祖の子孫に当たる人物で、つまりは本家が滅ぼされてしまった代わりに分家の分家のそのまた分家くらい遠縁の光武帝が漢を復活させたのだった。
中華の皇帝は別名を「天子」と言った。
文字通り天の子、わかりやすく言えば神の子のような存在だ。
当時の人々は自分たちが住む中華が世界の中心と揺るぎなく信じていたが、その頭上には常に「天」が存在し、その天を全人類を代表して祀るのが天子の役割と考えられていた。
そして、その天子を漢の皇族である劉家が代々継いでいくことも、天が不滅であるのと同じくらい絶対的なものととらえられていた。
何しろ、前漢と後漢を合わせれば300年以上劉家の天下が続いていて、しかも間でいったん滅ぼされても不死鳥のごとく復活を遂げたのだ。
劉家の帝位が天によって守られているかのような想いが社会の隅々まで行きわたっていたとしても、何の不思議もない。
ただ、歴史は繰り返す。
永遠に思われた漢の天下も終わりのときは確実に近づいていた。
そのきっかけは冀州鉅鹿郡広宗県で行われた、4人の男たちの密談だった。
「太平道」と呼ばれる新興宗教団体の最高幹部であった彼らは、どちらかと言えば追い詰められていた。
ただ、後漢王朝を聖なる絶対的なものと信じて疑わない皇帝や多くの民に対し、彼らは自分たちの信じる別の存在を強く信じ、新しい世をつくろうとする気概に溢れていた。
彼らによって、長く続いた漢の世は激しく動揺し、やがて戦乱の時代が訪れる。
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「では、各地の刺史や太守が我らを弾圧しようとしているという話、あれは事実なのだな?」
「はい。冀州や兗州などでひそかに準備が進められているとのこと。いずれ我らの拠点に踏み込んでくるかもしれません。どうやら、荊州や揚州で信者を集めていたことが、実際は兵を集めているのではと警戒されたようです。いかがいたしましょうか?」
「うむ・・・。」
上座に座る男は、そう言ったきり黙り込んでしまう。
彼の名は張角という。
細面で黒々とした豊かなあごひげをたくわえ、知性を感じさせる風貌である。
ただ、その目は鋭く、そしてどこか人とは違う雰囲気をまとっていた。
この人物こそはこの太平道という宗教組織を一から立ち上げ、わずか十数年で数十万人の信者を獲得するほどまでに成長させた大賢良師張角その人であった。
太平道は貧しい民衆を中心にまじないや符水(お札と神にお供えした水)を使い、病を治すなどの慈善事業を行って教団の勢力を伸ばしてきた。
その勢力拡大に大きな影響を及ぼしたのが、張角のカリスマ性だった。
「どういたしますか、兄上。」
先ほどの男が再び張角に尋ねた。
張角に対して兄と呼びかけただけあって、どこかその風貌は張角とよく似ている。
彼は張角の次弟にあたり、名を張宝という。
張宝は兄と同じく生真面目な雰囲気を身にまといながら、どちらかと言えば温和な印象を与える人物だった。
兄弟の間にはしばらくの沈黙が流れた。
切迫した状況ではあるが、あまりピリピリしたムードになっていないのは、張宝の物柔らかな雰囲気のおかげでもあるだろう。
さて、刺史や太守といった聞き慣れない官職、冀州やら兗州やら聞き慣れない地名が出てきた。
兄弟の会話の間が少し開いたこの機会に、後漢王朝時代の地方官や地名について紹介するとしよう。
まず、この時代の中華は全部で13の州に分かれている。
それが先ほど名前の出た冀州や兗州といった州だ。
詳しく書くと、次のようになる。
・司隸(現在の河南省南部から陝西省南部にまたがる地域。首都の洛陽と旧都の長安の周辺地域。)
・冀州(現在の河北省の大部分。黄河中流域で、なおかつ黄河の北に広がる地域。)
・兗州(現在の河南省北部から山東省南部にまたがる地域。黄河中流域で、なおかつ黄河の南側に位置する。)
・青州(現在の山東省の大部分。黄河下流域で、ほぼ山東半島の範囲と一致する。)
・并州(現在の山西省の大部分と河北省・内モンゴル自治区の一部。黄河中流域、冀州の西に位置する。)
・徐州(現在の山東省の南東部と江蘇省の長江以北。兗州・豫洲の東に位置する。)
・揚州(現在の安徽・江西・浙江・福建の各省にまたがる地域。長江の下流域。)
・荊州(現在の湖北・貴州・湖南の各省にまたがる地域。長江の中流域。)
・豫州(現在の河南省の大部分と安徽省の一部。兗州の南に位置する。)
・涼州(現在の甘粛省・寧夏回族自治区にまたがる地域。司隸の西北に位置する。)
・益州(現在の四川省。長江上流域、司隸の南に位置するが、司隸との間は2000m級以上の山々が連なる秦嶺山脈で隔てられている。)
・幽州(現在の河北省・遼寧省・北京市・天津市にまたがる地域。現在では首都近郊だが、この当時は辺境の地であった。)
・交州(現在のベトナム北部や広西チワン族自治区の一部など。最も南に位置する。)
そして、州の長官は「刺史」と呼ばれ、州の下に置かれた「郡」や「国」を監督した。
「太守」とは郡の長官のことを言い、その下にあって「県令」や「県長」によって治められている県を管轄した。
国とは王国のことで、皇族である劉家の王が代々その支配者となったが、実際の政治は「相」と呼ばれる皇帝が任命した各王国の宰相が行っていた。
つまり、見た目こそ分家が自治する王国だが、中身は郡とそれほど変わらない。
実を言えば、刺史は元々長官というより監察官だったりするなど他にも語るべきことはまだまだあるのだが、あまりゴチャゴチャ言ってもわかりにくいので、割愛する。
長々と書いたが、要はこの時代の中国はいくつかの州に分かれ、その下には郡や県があって、それぞれ皇帝が任命した長官が治めるようになっていたと考えていただければ問題ない。
現在、張兄弟ら太平道のメンバーは布教活動を行っていた冀州や兗州といった地方の長官たちににらまれ、弾圧を受ける一歩手前の状況にあるのだった。
さて、黙考することしばし、張角が意を決したように発言した。
「・・・時が来たのかもしれんな。今年は甲子の年(暦の始まりの年のこと)。蒼天すでに死す、黄天まさに立つべしじゃ。各地の「方」へ使者をやり、一斉に決起させよう。」
蒼天とは単純に言えば青空だが、後漢王朝が国教としている儒教の経典『詩経』に出てくる言葉で、儒教があらわすところの天を意味する。
一方で、黄天とは太平道が奉じる道教が定義する天のことだ。
つまり、張角は後漢王朝の天をぶっ潰し、自分たちが信じる新しい天を頂点とする国をつくろうと宣言したのだ。
内なる興奮を抑えきれないのか、張角の目は妖しく光っていた。
「しかし兄上、我らには兵らしい兵はおりませんよ!?一斉蜂起したとしても、各個撃破されるだけでは?」
対照的に張宝は冷静である。
張宝の言う通りで、十数年に渡る布教活動の結果、太平道は数十万人の信者を獲得していた。
その範囲は8つの州にまたがり、教団ではこれを36の「方」(支部組織のこと)に分け、それぞれに「渠帥」と呼ばれるリーダーを置き、統率させていた。
しかしながら、彼らの大部分は一般の民衆であり、プロの兵隊ではない。
さらに言えば、数十万の中には多数の老人や女子供が含まれ、兵として使えそうなのはせいぜい2,3割程度に過ぎぬであろう。
これで後漢の正規軍と戦うのは無謀だと張宝は主張したのだった。
もっともな指摘に、張角は再び黙り込んだ。
このところ将来の反乱を目指して教団の拡大と武装化を進めて来たが、まだ十分なレベルには達していない。
ロマンチストである張角とて、そのことを知らぬはずがないのだ。
張宝は内心最近の教団のあり方に疑問を持ち始めていただけに、この機に何とか軌道修正をしたかった。
だが、張宝の意に反し、兄弟の問答は不意に破られることになった。
「師よ。俺が洛陽へ行くことを認めてはくれませんかね?」
史実では、張角・張宝兄弟に関する記述が少なく、どんな人となりかまったくわかりません。
そこで、筆者が勝手に夢見がちな長男、堅実な次男として描写いたしました。
後漢王朝への反乱に乗り気の張角兄さんに対し、弟の張宝はどちらかと言えば消極的というふうに。
今話では最後に会話だけの登場となりましたが、次話では残る2人が登場します。