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サヴァンになれずともシリーズ

続続・サヴァンになれずとも ~斎藤唯子の告白

作者: 雄野ひよこ

『サヴァンになれずとも ~作業所の斎藤さん』(https://ncode.syosetu.com/n2771fr/)及び『続・サヴァンになれずとも ~斎藤唯子の失敗と時田巧の回り道』(https://ncode.syosetu.com/n8587hb/)の続編です。

 十八年生きてきて、初めて人を好きになった。

 時田(たくみ)君。

 私が通う就労継続支援B型事業所――所謂障害者のための作業所の副所長の息子さん。知り合ったのは去年だ。私が作業所に行くと彼が来ていて声を掛けられたのが始まり。

 そして夏祭りの日にあろうことか彼から告白された。私は驚き思わず拒絶してしまったが、友達から始めようという提案は受け入れて私達の関係はスタートした。

 それからは主に携帯のチャットアプリでやりとりしていて、彼と会って遊ぶ約束は極力断っていた。自分に自信がなかったし、彼の遊び友達とも付き合うなんてとてもできる気がしなかった。一度だけ映画に行ったきり。あの時はその映画が最悪の出来で私がつい不貞腐(ふてくさ)れて気まずくさせてしまった。そういうわけで彼との仲は特に深まることはなかった。

 一方で、私の人生はずっと上手くいってなかった。その年のクリスマスイブ、私は練炭自殺を試みたが失敗に終わり、警察に通報されてそのまま精神病院に三か月近く入院させられることになった。入院生活は辛いこともあったが、一人友達と呼べる人と出会えた。その人のおかげもあって、今年の三月に退院できた。

 そして作業所に再び足を運んで、彼と再会した。


「俺さ、看護師目指して勉強してるんだよ」


 久々に会うなり巧君がそんなことを言ったので私は少し驚いてしまった。


「いやなんとなくそっちの道に行きたくてさー、でも急に志望校変えたから対策ちゃんとできなくて、落ちちまったよ。現在一浪中ってわけ」

「それは……大変だね……」

「まぁ別にいいんだ、しょうがないしさ。俺頭悪いのは。でも何が言いたいかっつっと、アレだ。色々勉強してるから、その……唯子(ゆいこ)のことをもっとわかりたいから俺頑張るよ」

「私の……為に?」


 それを聞いた瞬間、火を噴きそうなくらいに私は顔を真っ赤にしてしまう。その後すぐ首をブンブン振って目線を()らした。


「そんなのおかしいよ……私なんかの為に、巧君の人生を棒に振るなんて……私、最悪。また気を遣わせてる」


 私は今にも逃げ出したかったが、巧君に手を掴まれた。


「いや、たんに俺がやりたいからやってるだけだよ。信じてくれ唯子。むしろお前に感謝してる。唯子がいなければ目的もなく大学に行って、ただ社会の歯車として生きていくだけだった。遠回りかもしれないが、俺はこの道を行きたい」

「それは……立派だと思う……私なんかと違って。私には未来がない。どう生きていけばいいかわからないよ」

「なら一緒に探そうぜ。そう簡単に見つかるもんじゃないけどさ、付き合うよ俺。しばらく暇だしな」


 私はうるんだ瞳で巧君をじっと見た。それから片手で涙を(ぬぐ)いつつ前髪を掻き分けた。


「うん。それなら……巧君を信じるよ」


 私はその時、恋に落ちたんだと思う。




 でも人として欠陥のある自分に人を愛する資格なんてあるのだろうか。

 私、斎藤唯子がアスペルガーだとわかったのは十七歳の誕生日に学校で飛び降り自殺未遂騒動を起こした後、精神病院に連れて行かれた時であった。検査を受けて初めて自分が障害者だったと知った。でも薄々気づいてはいた、昔から自分は異質な人間だと。

 幼い頃のあだ名は唯子姫だった。なんでも自分の思い通りにならないと気が済まない性格を揶揄(やゆ)されたものだった。私は我の強く協調性のない子供だった。それ故周りと衝突が多かった。そして仲間外れにされるのも当然だった。

 私が触ったものは唯子菌が移る――よくあるいじめだったと思う。最初はそんな感じでそれがエスカレートして私は挨拶(あいさつ)代わりに死ねだの消えろだの言われるようになった。それを私は亡き母に泣きついて、母も抗議したのが余計良くなかった。完全に味方がいなくなり、母の病状の悪化もあり、私は暗黒の小学生時代を過ごした。そして思い知った。自分を主張するのは悪いことだ。ひっそりと目立たぬよう声を殺して生きていくのが正しいのだと。

 中学生になるとそれを実践した。自己主張することなく、休み時間はひたすら読書して周囲と関わらなかった。しかしそれはそれで私の評判は悪く、かえって反抗しないちょうどいいサンドバック的な扱いを受けた。私もまだ感情を抑制できておらず、愛読書を馬鹿にされて一度喧嘩したことがあってそれで一層クラス内の立場を悪くした。学校という小さな社会に馴染むことは不可能に思えた。

 高校に入ってもそれは決定的に変わらない。自然と私は孤独になり、それがクラスで軽んじられることとなり、他の生徒から嫌がらせを受けることとなる。それに私もいい加減うんざりして、死ぬことを考えていた。母を亡くして、死について考えることは多くなっていた。死後の安寧などあるはずないと思うが、やはり死ぬしかないという強迫観念にやがて支配されるようになっていった。

 でも飛び降り自殺も失敗して退学になってこのざまだ。それから作業所に通うようになったが社会不適合者はどこへ行っても社会不適合者だ。自分よりずっと年上の人が多いコミュニティに馴染めるはずがなかった。

 私は人間未満の存在だとかつて人から言われたことがある。自分でもそう思うようになった。今でもそう思い続けている。私には障害があった。私は人として欠陥のある人間――

 そんな人未満が普通の人である巧君を好きになっていいはずがないんだ。

 私は密かに芽生えた恋心を打ち消そうと躍起になった。

 でも、できない。

 どうしようもない私にも巧君は優しくて、好きだとまで言ってくれる。そんな彼を急に嫌ったりなんてできない。

 それならせめてこの想いは秘めておくべきだと考えた。

 携帯が鳴る。チャットアプリの着信を告げていた。巧君からだ。

 週末どこかに行かないか、という漠然とした誘いだった。私は丁寧に断りの文面を打ち込み返信した。いつものように。

 そう、これでいいのだ。これ以上親交を深める必要はないんだ。それに巧君の貴重な時間を私なんかのために消費させてはいけない。

 これでいいんだ、これで。




 春の陽気が体を突き抜ける。風が鬱陶(うっとう)しい。

 私は母の形見の緑色の自転車で駆け抜けていた。

 私が中学に上がって今まで乗っていた自転車では小さいとなった時に、すでに病気が進行していた母がもう自分では乗らないからと譲ってくれたものだった。随分ガタがきていてギコギコ音を鳴らすのだが、買い替えるお金もないのでそのまま乗っている。

 道中、私は巧君の顔を浮かべた。彼は浪人生だから時間の融通が利くのだろう、たまに作業所に顔を出しては仕事を手伝ったりしている。その時に私とも少し話をする。大抵私の方が上手く会話できなくて気まずくさせてしまうのだが……。

 今日は巧君と会わなかったなと思って、何を期待しているんだろうと私は心の中で否定する。全く、どうしちゃったんだろう私。昔はもっと諦めが良かったのに。

 無心になろうと運転に集中する。

 やがて私は目的地に着き、オンボロを駐輪場に停める。

 そこは市内で一番大きい図書館だった。作業所帰りにここに寄って本を借りるのが日課となっていた。返すのは休日にまとめて、というのが多い。

 読書は中学時代から続けている暇潰しの最適解だ。作業所のなけなしの工賃では大量の本を買うことは難しいのでこうして図書館を利用している。私は中に入ってすぐ小説コーナーに向かった。今日は何を借りようか――

 いくつか物色しながら、パッと目についた文庫本を手に取ってみる。前にも読んだことあるけど久々に読んでみようか、『甲賀忍法帖(こうがにんぽうちょう)』。異能力バトルものの元祖とも言うべき傑作忍者小説だ。巧君にも薦めてみようかな。アニメにもなったくらいだから取っつきやすいだろうし。

 もっとも私は『甲賀忍法帖』のアニメはあまり好きではない。一巻で完結している小説を二十四話のアニメにするにあたって色々付け足したりしているのだがそれが蛇足に思えてならないし、何よりも原作の文体が好きなんだ。巧君にも是非小説を読んでほしい。

 私は本を選んでカウンターに持っていく。貸し出しの手続きをしようとしたちょうどその時だった。図書館に見覚えのある人物が入ってきた。


「巧君?」

「あれ、唯子じゃないか? おーい!」


 向こうも気が付いた。巧君に呼ばれ、私は慌ててカウンターから離れる。彼も私に向かって歩いてくる。


「巧君……どうしたの?」

「そりゃ、本を借りに来たんだよ。浪人生っつったって勉強ばかりしてるのもキツイしさ。まぁお前に会えるかも、ってちょっとは期待してたけどまさか本当にいるとはな。ちょうどいい、借りる本探すの手伝ってくれよ。俺、本のこととかよくわかんないしな」

「それなら……ちょうど巧君に薦めようかなって思ってた本があるけど……」


 私は手に持っていた本を取り出してみせる。すると巧君はじゃあそこで教えてくれないかと近くのテーブル席を指差し、座席に座った。彼に続いて私も座り、本を手渡す。


「ええと、甲賀忍法帖? どういう話なんだ?」

「簡単に説明すると徳川家の跡目争いを掛けて甲賀の忍者十人と伊賀の忍者十人が相手を全滅させるまで死力を尽くして忍法争いをする話なの。二十人の忍者達にはそれぞれ特別な能力があって、例えば手足が自由自在に伸びる忍者とか……」

「ルフィみたいだな」

「甲賀忍法帖がオリジナルなの。半世紀以上も前の小説だから……とにかく多種多様な能力者が登場しては死闘を繰り広げるから目が離せない、はず……」

「面白そうだな、俺が借りていいか?」

「勿論!」


 どうやら巧君も興味を持ってくれたらしくて私は嬉しくなった。しかし途端に別のことを考え始めていた。

 『甲賀忍法帖』の敵同士で決して結ばれることのない弦之介(げんのすけ)(おぼろ)のカップルと比べれば、巧君と私はまだ目があるんじゃないか――そんなわけないじゃないか、と心の中で首を横に振る。私が彼と結ばれるなんて思うことがおこがましい。

 私みたいなゴミカスに巧君のような素晴らしい人は相応しくない。

 するとどんどん嫌な方に想像が働く。

 そもそも巧君がここにいるのがありえない。こんなところにいる人じゃない。本だって私に付き合って話を合わせてるだけ。そうだ。いつもチャットアプリで本の感想とか伝えてくれるけど、全部私が無理させて付き合わせてるんだ。ごめんね。気づいてなくて。私はなんて馬鹿なんだろう。


「唯子?」


 私の中の悪魔が(ささや)く。そうだ、洗いざらい吐いて全部終わらせてしまえ、と。巧君、私は――


「おーい唯子」

「巧君」

「おっ唯子、急に固まっちゃったからどうしたのかと」

「本、無理に読まなくていいよ」

「えっ?」

「いつも私に話を合わせて付き合ってくれているだけなんだよね。でもわかってるから、いいんだよ。そんなことしなくても。巧君の貴重な時間をゴミにする必要なんかない。私みたいなゴミに付き合う必要もないから」

「……唯子、それは違うぞ」


 えっ、何が違うんだろう。巧君は言葉を続ける。


「いや、確かに最初は話を合わせるために本を読んでいたかもしれない。それは認めるよ。お前のことを理解したくて必死で、わけもわからず本を読んでいた。でも今は違う。読書する喜びを知ったんだ。本を一冊読み終えるとなんというかこう、視野がパーっと広がって心が豊かになるんだ。読書する時間は間違いなく有意義と言える。だからゴミなんかじゃない。勿論お前のこともだ、唯子。卑下(ひげ)しないでいいんだ」


 巧君の回答はひたすら優しかった。だから狭量な私は頭ごなしに受け入れることができない。


「そんなこと言われても、信じられないよ……」

「信じてくれ。俺はお前の友達だろ? それともお前にとっては俺はどうでもいい他人か?」

「いや……そんなことは……」


 さっきまで関係を終わらせる気だったのに弱い私は結局「友達」という関係にしがみつく。本当に全てを断ち切ってしまうのは恐ろしくてたまらなかった。


「ともかく俺は俺の好きで本を読んでいるんだ。そう思ってくれていい。それが真実だということを伝えておきたかった」

「……わかった」


 それでこのやりとりは終わった。しかし随分気まずくなってしまった。私は席を立つ。


「唯子、帰るのか?」

「うん……今日はもう用がないし、それに……」

「なんでもいいさ。また今度な。甲賀忍法帖、読んだら感想送るよ」


 そう言って巧君は手を振り送り出してくれた。

 私は駐輪場まで戻ってきて大きな溜息をつく。巧君の前であんなことを言ってしまうなんて最悪だ。考えなしに喋る癖をやめよう。

 それと巧君はああ言ってくれるが彼の優しさに付け込むような真似はしないように気を付けよう。距離を置くんだ。甘えないように。

 結果として彼を突き放すことになるのは申し訳なく思うがそれでも情にほだされてしまうのが怖かった。

 何よりも障害のある自分が幸せになれるかもしれないと錯覚するのが怖かった。そんなの、ありえないのに。




 今年も六月十七日がやってきた。

 梅雨真っ只中、外は雨が降りしきっていて気分が沈む。毎年こうなので今に始まったことではないのだが。

 私の誕生日。二十歳に死ぬと決めてからは地獄へのカウントダウンだ。今日で十九歳になったので猶予はもう後一年。だが正直言って後一年も生きてやることもない。今すぐ死んでも構わない気がする。

 今まで二回死にぞこなっているので次は確実性のある方法がいいだろう。電車に飛び込むとか――バラバラのグチャグチャになる轢死体(れきしたい)を想像して、あまり痛そうなのは嫌だなと考えを改めた。やはり無難に首吊りとかだろうか。材料はホームセンターで揃うだろう。

 だが作業所から帰ってきたばかりで、しかも雨天では外に出かけたくならない。私は家の中で一人グズグズしていると、ピンポーンとインターホンが鳴った。配達か何かだろうか。通販を利用した覚えはないけど……。

 玄関へ行って私は扉を開ける。すると見知った顔が現れた。


「よう、唯子」

「巧君? 一体どうして……」

「誕生日おめでとう」

「どうしてそれを?」

「いや、母さんが生年月日とか知ってるから、聞いて……」


 そうか。巧君のお母さんである副所長さんを通じて個人情報は筒抜けらしい。


「ケーキ買ってきた。クリスマスの時食べ損ねただろ。だから今回は一緒に食べようぜ」

「じゃあ、どうぞ……」


 非情に追い払うことはできず、私は巧君を家の中に迎え入れる。リビングに案内すると彼は席に座ってケーキの入った箱を机の上に置いた。私も向かい合って着席する。


「良かった~断られるかと思ったよ」


 いの一番に巧君はそんなことを言い出した。


「唯子、放っておいてほしいのかと思ってたから」

「別に、私は……」


 彼にそう思わせたのは最近の私の態度が原因だろう。あの図書館での件以来、私はチャットアプリでの巧君の送信を全て無視していた。そうすれば呆れて私に構わなくなるだろうと思ったからだ。

 しかし現実には彼は私に会いに来てくれた。そういうことをしてくれるからますます好きになってしまうし、ますます怖くなる。彼の底知れぬ優しさが私には恐ろしい。


「まぁ誕生日なんだしパーっと遊ぼうぜ。今日実はゲーム機も持ってきたんだよ。後でやろうな」

「えっ……ゲームはちょっと……私全然出来ないし……」

「まぁそう言うなって。唯子でも楽しめるオススメの奴があるんだ。いつもオススメの本を教えてくれるから少しでも恩返しがしたくってさ。なっ、上手くやる必要なんて全然ないからさ」


 巧君にそう言われると断りづらくてつい頷いてしまう。彼は気分を良くして、ケーキの箱を引っ張って中身を取り出す。


「まぁそれよかケーキだな。じゃーん、イチゴのケーキにしてみました。定番だけあって味も悪くないだろうしな。あーろうそくも買ってくるんだった」

「いいよ、邪魔だし」

「まぁ唯子ならそう言うと思ったけど、あった方が雰囲気出たよな。まぁそれは心の目で見るとして……ハッピバースデートゥーユーハッピバースデートゥーユーハッピバースデーディア唯子―ハッピバースデートゥーユー」


 巧君は歌った後ふっとまるでろうそくの灯を消すかのように息をケーキに吹きかけた。その仕草を見てつい私は笑ってしまう。


「どうした唯子、なんかおかしかったか?」

「いや、変だなと思って。こうやって誰かに誕生日を祝われるなんて」

「唯子……」


 一瞬巧君に憐れまれた気がして私は嫌な気分になる。折角誕生日を祝ってもらっているのに。自分でも私が厄介な子だってわかってる。でもどうしようもなく気分が暗くなる。


「ほら、ケーキ食べような」


 巧君はケーキを切り分けて私の分を渡してくる。だけど口を付ける気になれなかった。彼は美味い美味いと言ってケーキを頬張る。私にもそうしてほしいと(うなが)すかのように。


「もしかしてイチゴのケーキ、嫌いだったか? すまん、俺気づかなくて……」

「そういうわけじゃ……」


 たちまち気まずくなってしばらく沈黙が訪れる。だがやがてそれを巧君が意外な問いかけで破った。


「なぁ、もしかして唯子、俺に隠し事してるのか?」

「えっ。巧君?」

「おかしいと思ったんだよ。何かなければチャットを無視したり唯子がするはずないもんな。何か俺に対して怒ってるんだろ? それを教えてくれよ。隠し事はなしにしてくれよ。俺達友達だろ。俺も唯子の前では正直でいるからさ」


 隠していることなら一つある。まさかそれをここで言うしかないのか? そんなの無理! できるわけがない!

 でも今、純粋な巧君を裏切るのはもっと恐ろしかった。言うしか、ないのか……この瞬間、私の秘めたる想いを。


「巧君、私は……私は……」


 駄目だ、言葉が詰まる。言う勇気がない……だから私は先に彼の気持ちを確かめる。


「巧君はその、まだ私のこと、好き?」

「唯子? ああ、まぁその、好きだよ。俺は唯子のことがずっと好きで、それは変わらない。俺の一方的な思いだと思うけど」

「一方的、じゃない」


 卑怯(ひきょう)な私。巧君が私のことを好いてくれていると確信がないと自分の気持ちを言い出せないなんて。でもこれでなんとか言えそう――


「私も、その……巧君のことが……好き、なの」

「えっ、本当か?」

「うん……」

「良かった……嫌われてるんじゃなかったんだな」


 巧君の顔色がパッと明るくなる。反対に私は胸が張り裂けそうな痛みに襲われていた。どうして? 巧君と両思いになれたのに、どうしてこんなに心苦しいの?

 私はつい力余ってフォークでケーキを潰してしまう。目からはボロボロと涙が流れ出ていた。


「唯子、どうしたんだよ!」


 異変に気が付いた巧君が席を立つ。私がおかしくなったせいで彼はおろおろとしてしまっている。心配させては駄目だ。でも胸が痛くてそれどころじゃない。


「痛い……」

「大丈夫か唯子、身体がどこか悪いのか? 救急車呼ぶか?」

「いい、身体は大丈夫……ただ心がひび割れて痛むの……障害者が、欠陥品が幸せになんてなれるわけなんかないのに、告白なんてしたから……その罰なんだ。もう死んでしまいたい……」

「唯子!」

「こんなことになるのが怖くて、巧君を遠ざけてた……けどやっぱり駄目だったね私、人を愛する資格なんて障害者にはないのに、だから隠してたのに……」

「俺のせいか? 唯子、ごめん……」


 やってしまった。私は想いをぶちまけて何も悪くない巧君に謝らせてしまった。最悪だ。今すぐこの世から消え失せたいと思った。席を立ってその場から逃げ出そうとする。

 しかし止められた。後ろから巧君に抱き着かれて。彼の温もりが伝わる。彼は静かに言った。


「待ってくれ唯子。話を整理させてくれ。唯子は俺のことが好きでいいんだな」

「うん……でも駄目なの。私は人間未満の障害者だから、人を好きになってよくなかった」

「それは……誤解だ唯子」


 何が誤解なのか。私には見当もつかない。巧君は言葉を続ける。


「言い方よくないかもしれないが障害、ハンデだって個性の一つだ。障害者だからといって人間未満なんてことはねぇよ。障害者も健常者も人間は人間だ。だから障害者だから幸せになれないだとか、障害者だから人を愛せない、なんてことはないんだよ」


 そんな風に考えたことはなかった。ハンデも個性? そう思えるほど私は強い人間じゃない。けど巧君は言う。


「唯子、お前は普通に一人の人間として誰かを好きになっていいし、幸せになる権利がある。俺は唯子の幸せを願っているよ」

「どうしてそう、言えるの……?」

「そりゃ……お前のことが好きだからだよ。恋愛感情もなくはないが人として尊敬してるから」

「人として尊敬?」

「色々本について教えてくれるし、そういう情熱的なところとか、それにいつも一人で頑張ってるだろ。俺には真似できない強さだと思ってるよ」


 そんな風に巧君から見られていたなんて、思いもしなかった。私が強い? 私自身はこんなに弱い人間は他にいないと思っているのに……意外だった。

 でも巧君が頑張る私が好きだと言うのなら、もっと頑張った方がいいのかな。本当に強い人間になれるように――


「ともかく俺が言いたいのは、唯子は負い目を感じなくていいってことだ」

「わかってる。巧君は本当に優しいね」


 巧君の言葉はやさぐれた私を癒してくれる。彼の体の温かさが心地良かった。私は手を私の下腹部にある彼の手の上に重ねる。もっと抱きしめていてほしくて。

 さっきまであんなに痛かったのに、今はただただ温かい。幸せになろうとすることが。

 ああ、この瞬間が永遠になればいいのに。

 でも私と巧君の関係は永遠に続かないことを結ばれた今悟った。私は優しく彼の手を振りほどく。


「もういいのか?」


 名残惜しそうに巧君は()く。私は頷くことしかできない。


「チュー、するか?」


 巧君がそんなことを言い出したから慌てて首を横に振る。


「まぁ、付き合うとなっても唯子のペースでいいからな。それじゃあケーキ食べるか?」


 巧君は席に戻った。ただ私一人立ち残される。


「ケーキいいのか?」

「うん……」

「わかった」


 巧君は私の皿も取ってケーキを二人分食べ始める。そんな彼を私はただ見つめていた。

 巧君は将来看護師になって多くの人を救うのだろう――私などは通過点に過ぎない。

 私は彼に何もしてあげられない。いつか別れなきゃいけない時が来る。それならいっそ――

 幸せな今、死んだ方が良いんじゃないだろうか。

 そう心の中でもう一人の私が囁くのだった。




 梅雨明け。突き抜けるような晴天。うだるような暑さ。風は家の中だから感じない。

 私はようやくその気になって、ホームセンターで縄を買ってきた。それを自室の照明器具に括り付け、上から垂らす。

 私は勉強机の椅子の上に乗って、縄を結んで輪っかを作った。結び目は緩くしているが後で首を括った時にちゃんと締めるようにする。まぁ、こんなところでいいだろう。準備が整った。


「後は、死ぬだけ……」


 自分に勇気を奮い立たせるように呟く。大丈夫。ネットで見たけど今回の方法は確実性が高いし、電車に飛び込むよりは楽な死に方のはずだ。それでも緊張で汗が頬を伝う。

 どのみち二十歳までにはこうするつもりだったんだ。それを今するだけ。大丈夫だ、私ならやれる。

 しかし輪っかを手にした時インターホンが鳴って私の心が揺らいだ。誰か来た。いや無視しよう。輪っかをぎゅっと握りしめる。だがその直後ガチャガチャと乱暴にドアノブを回しバタンと扉が開く音が聞こえた。私、また鍵を閉め忘れた――

 来客は勝手に家の中に入ってきてドタドタと廊下を歩き回る。私は恐怖した。警察じゃないだろうな――今回はSNSに自殺を予告するなんて間抜けなことはしてないはずなのだが。足音は真っ直ぐ私の部屋へ向かってきて――扉が開いて見知った顔が飛び出した。


「唯子!?」


 巧君だ。彼は思いっきり走ってきて椅子の上の私を押し倒そうとした。バランスを崩して私の華奢(きゃしゃ)な体は床に叩きつけられる。軽い痛みが走って私は一瞬目を閉じたが、再び目を開けると縄の輪っかは遠くにあって、代わりに巧君の顔がすぐ近くにあった。彼が私の体に馬乗りになって手を押さえている。


「嫌な予感がしてたんだよ……相変わらずチャットの返信は来ないしさ、今日作業所に行ったら唯子が無断欠勤してるって聞いたから何かあったのかと急いで来たんだよ……良かった、今回は間に合って……」

「巧君、邪魔……どうして止めるの?」

「唯子に死んでほしくないに決まってるだろうが! そんなの当り前だろ! どうして死のうとするんだよ! 俺達付き合い始めて、唯子がちょっとでも幸せになったと思ったのに……」

「逆だよ巧君。幸せだから死ぬの。幸せなのは今だけだから、今死ぬの。いつか巧君と別れるのが耐えられないから……」


 私はボロボロと大粒の涙を(こぼ)す。巧君も何故か泣いていた。彼は馬鹿野郎と怒鳴る。


「なんで別れる話を今するんだよ。俺が唯子と別れたいなんて一言でも言ったかよえーっ! 俺は一生かけてお前を幸せにしてやるぞ。じゃなきゃ看護師なんて目指す意味ないもんな」

「一生、かけて?」

「そうだよ。お前が嫌だって言っても俺は絶対にお前を離す気はない。命を救うには命を()ける必要があるって今学んだよ。俺は生涯をお前のために使ってもいい。だからお前は生きろ、唯子!」

「そんなの無理……私なんかのために巧君の人生を棒に振るなんて、許せないよ」

「お前ならそう言うと思ったよ……でもな、俺がやりたいからやってることなんだよ。これからも俺の好きにさせてもらう」


 そう言って巧君は私の唇を奪った。あまりにも不意のことに心臓がバクバクして体から突き抜けそうだ。こんな形でファーストキスをするなんて。彼の大胆さには恐れ入る。

 そっと唇を離して、巧君は再び言葉を口にした。


「唯子には生きていてほしい、それはそんなにも難しいことなのか?」

「難しいよ……巧君がどんなにいいように言ってくれたって、私自身に生きる価値があるなんて思えないもの」

「それが間違いなんだよ……頼む唯子、お前は生きていいんだ」

「そうなのかな……私が生きてると都合が悪い人もいる」

「誰だよ……そんな奴ぶっ飛ばしてやるよ」

「お父さん、とか……」


 そう言って父の顔を思い浮かべる。ここ数年はろくに言葉を交わしていない。一緒に住んでいるのに。高校を退学になって以来、父は私と顔を合わすと露骨に不機嫌になるのだから。


「じゃあいつか唯子のお父さんとも話つけるよ。唯子を嫁に貰う時にな」


 えっ、今なんて言った? 嫁に貰うって?


「巧君、本気なの……?」

「ああ、よくよく考えるとそうなるんだよな。まだまだ先のことだけど、ゆくゆくはそうなりたいと思ってる。言ったろ。一生離さないって」


 巧君は押さえていた手を離し、私の涙を優しく拭った。


「だから約束してくれよ。もう死のうとしないって」

「それはできない……生きてる限り死にたくなるよ。でも……」


 私は遠くなった縄ともう私を押さえていない巧君を見た。そして観念した。


「今は、いいよ……馬鹿なことしてた。ごめん、巧君……」

「唯子ぉ!」


 巧君が私に抱き着いた。彼の涙の理由が今はわかる。嬉し泣きしているようだった。私が生きていることを彼は本当に喜んでくれた。

 その後私達は照明に括り付けた縄を外し、その縄は巧君が持ち帰った。どうせまた買えばいいだけなのだが、しばらく買おうという気にはなれなかった。こうして三度目の自殺も未遂に終わった。

 巧君は帰る前にこんなことを言った。


「そういえば唯子、覚えてるか。初めて会った日のこと」

「ごめん……覚えてない」

「作業所でさ、俺名乗ったけど返事も貰えなかった」

「……本当にごめん」

「別にいいよ。ただそれが去年の今日でさ、ちょうど一年経ったんだよな。出会ってから」

「そうなんだ。なんというか……あっという間だったね」

「ああ。というわけで次の一年もよろしくな」


 じゃあなと手を振って巧君は私の家を後にした。次の一年、か。これからも彼が私と一緒にいる気でいることが嬉しく思えた。そうだ、彼と一緒なら――




 季節は巡り巡って六月十七日。梅雨なのに珍しく雨は止み――二十歳の誕生日を生きて迎えた。

 こんな日が来るなんて、高校を退学した頃には想像もつかなかった。しかし目に前にはバースデーケーキがある。今度こそ私はそれを口に含む。


「美味しい……」

「だろ! 母さんに聞いていい奴買ってきたんだぜ。その甲斐はあったなぁ」


 今年も向かいの席に巧君が座っている。私の家に来ることはもう決して少なくないのだが、今日みたいな日は少し緊張する。それはお互い様なのか、彼も今日はずっとそわそわした感じだった。


「あのさ、唯子、実はもう一つ渡したいものがあるんだけど……」

「何? 巧君」

「誕生日プレゼント、受け取ってくれないか」


 そう言って巧君はポケットから小さなケースのようなものを取り出した。私はそれを受け取って、なんとなく開けてみる。すると中にダイヤの指輪が入っていた。


「巧君、これ……」

「俺が正式に看護師になったら、それ、はめてほしい」

「……わかった。ありがとう」


 巧君は本気で私と結婚する気だとわかって、私は安堵した。彼のいつかの言葉には嘘偽りはなかった。ならば彼を信じよう。心の底から。

 ありがとう巧君。私に人を愛することを教えてくれて。今は障害者だから人を愛する資格がないとは思っていない。もし資格がなくとも、私はどうしようもなく巧君を愛している。それを止めることは誰にもできない。

 私には特別な能力なんて何一つない、コミュニケーションの苦手なただの人間。サヴァンになれずとも、私は人を愛し今を生きている――

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