こっちへおいで
一ノ宮は逃げていた。ただ一人、暗闇の中で何かが追ってくる。捕まってはいけない。助けを呼ぶが誰もいない。
『…杏ちゃん……私だけの杏ちゃん…こっちへおいで…。』
後ろから幾千もの黒い手が伸び、足を取られ、一ノ宮は泣きながら「い、嫌…!誰か…!」腕も首も太ももも全て黒い手に掴まれる。
…嫌、嫌……!
すると、光が見えた。そこに立っていたのは…。
「い、郁ちゃん…!助けて…!」
と一ノ宮はやっとの思いで手を伸ばすが、桐生は振り向く事なく光の向こうへ行ってしまった。
一ノ宮は段々と黒い手に覆われて視界が黒くなる。
本能的に思っていた。捕まっては殺されてしまう、と。
やだ…死にたくない…!郁ちゃん、郁ちゃん!助けて…!
ジリリリリ、と携帯の目覚ましが鳴る。思わず一ノ宮はがばっと上体を起こす。頬が生暖かいと思い袖で拭うと涙を流していた。
はあ、最悪の目覚めだ、と溜息つく。
一ノ宮は顔を洗い、着替え始める。
体が怠いのは気のせいだろう、と学校に行く準備をした。
理科室で生物の授業、前回の小テストが返される。柳と一ノ宮は同じ班で、順々に返された。
「葵ちゃんまた満点だねー!物理もだけど生物も得意なんだね!」
「…う、うん、理科は好きなの…。」
「へえー!将来は学者さんとか?」
その言葉に柳はあわあわと顔を赤く染めて、小テストで顔を隠した。一ノ宮はきょとんとして首を傾げた。するとポンと丸めた教科書で叩かれた。「無駄話はそこまで。ちゃんと授業に集中しなさい。」と教師に注意されてえへへと笑う。だからこそ、柳の返事に気づかなかった。
「……将来は解剖学者かな…。」
*
昼休み、一ノ宮はいつものように柳とお昼ご飯を食べようと彼女を探したが、どこにもいなかった。
…どこに行ったんだろう、仕方ない莉子と食べるか。
ここは柳の部屋。電気がカチカチと消え入りそうなそんな中、柳はとあるケージをうっとりと眺めながら呟いた。
「可愛い可愛い鼠さん、もうすぐでお友達が来るからね…。」
そこにはぐちゃぐちゃに解剖された鼠の死体があった。
*
「も〜、葵ちゃん、昼休みどこいたの?探したんだよ?」
と5限が終わった後、一ノ宮は柳に話しかけた。柳はそんなに私のこと好きなんだ…と密かに照れていた。
一ノ宮は決して柳のことが好きという訳ではなかった。でも柳と付き合っていれば桐生のことを忘れられる、と思っていたのだ。
「ご、ごめんね、昼休みは用があって部屋に戻ってたの。」
「そっかあ。そうだ!今夜、葵ちゃんの部屋に遊びに行ってもいい?」
その言葉に柳の目は見開いた。
「…いいの?」
「え、うん。」
すると柳は目を爛々と輝かせて、一ノ宮の両手を強く握った。
「嬉しい!杏ちゃんから来てくれるなんて!」
「そ、そう?付き合ってるんだから普通じゃない?」
柳の変わり様に少したじろぐ一ノ宮は何か喜ぶこと言ったかな…と少し後退りすると背中に誰かぶつかった。
「…あ、い、郁ちゃん……。」
「……。」
しかし、桐生から返事はなかった。桐生は繋がれた一ノ宮と柳と両手を見て眉を潜めて、ふいと無視して自席に向かった。そんな桐生の背中を見ている一ノ宮の表情は落ち込んでいた。そして、一ノ宮の様子を見ていた柳は桐生に恨みしかなかった。
いつまで、私の杏ちゃんを独り占めするのか、怒りが込み上げてきた柳であったが、気が弱い故そんなこと言える筈もなかった。
するとパッと一ノ宮は笑顔で柳の方を見る。
「そろそろ、次の授業始まるからまた後でね?」
と柳は名残惜しそうに一ノ宮の手を離した。
*
そして、夜、柳は部屋でウロウロしていた。こ、今夜杏ちゃんが来る…!私の物になってくれる…!と、喜んでいた。
この服買っておいてよかった…と、クローゼットから出したのはあの日、一ノ宮と服屋に行った時に見つけたロリータファッションのワンピース。
…杏ちゃんに絶対似合うと思う……。
嗚呼、早く、早く、杏ちゃん来ないかなあ…!と目をキラキラさせていると
コンコンと外からノックされた。
杏ちゃん!と駆け足でドアを思いっきり開けるとそこには…
桐生がいた。
カチーンと石の様に固まる柳。桐生はというとドアから見えた壁一面貼られた一ノ宮の写真の柳の部屋を見て目を丸めた。そして悟った。
こいつヤバイ。
いやいやいや、見なかったことにしよ。と手で目を瞑る桐生に柳はハッと我に返りドアを少し閉めて、部屋を見せない様にした。もう遅い。
「な、なななななんで桐生さんががががが…」
「いや、さっき廊下で通りかかった杏が風邪を引いていてね。今、寮母さんに知らせて…じゃなくて、だから柳に杏は来れないと知らせに来たんだ。」
ガーン!!!その瞬間、柳はその場座り込みうえーんと泣き始めた。
折角…折角楽しみにしてたのに…!私だけのお人形にしようと思ってたのにーー!!!
と叫びたかったが勿論出来ない。
「そ、それじゃあ、私は伝えたからね…。」
「ま、待って!」
部屋に戻ろうとする桐生を必死な思いで立ち止まさせる柳は顔を真っ赤にして言った。
「こ、この部屋のこと、杏ちゃんには黙ってて、ほ、欲しいの…!お願い…!」
「も、勿論…。」と桐生は目を逸らした。
これが吉と出るか凶と出るかは一ノ宮の風邪が治ってからだ。




