眷属の怒り
境内の社務所には色とりどりのお守りが輝いている。種類によって効果が違ってくるだけでなく、綺麗な刺繍にも目が奪われる。瑠璃は参拝者が大事そうに手に取ったお守りを受け取り、丁寧に袋に入れて授与した。そして「ようこそお参りくださいました」と言った。いつもの日常だ。
そんな瑠璃に話し声が聞こえてきた。若いお母さんが手水舎でお清めの仕方を子供に教えているらしい。
その親子は本堂の前まできて、ここでも参拝の作法である「ニ拝二拍手一拝」を教えている。その姿を社務所の中から見ていた瑠璃は、何故か胸がザワザワしだしたのだ。
家では、奈々子さんが双子の子供たちと接している姿には何も感じなかった。むしろ、微笑ましく見ていた。それなのに、今回は違った。
このザワザワは一気に不快感へとなり、激しい嫌悪となっていった。真っ黒な血が体中を駆け巡り、煮えたぎり、ついに爆発した。
「この世界も自分も、何もかもが滅んでしまえばいい。空にはひびが入り、太陽は紫になり、雨は矢となればいい。もう、どうにでもなれ! 何もかも!!」
洞窟時代、いつも呪文のように唱えていたあのセリフが今、脳裏でこだました。激しい怒りと想いが念となり、こともあろうに、少女へ飛んでしまったのだ。人の念とは、恨みや憎しみなどの強い想いのことで、それを飛ばすとは、いわば呪いだ。相手には頭痛や不眠といった不調が現れる。それを、聖域である神社で、巫女という立場でありながら、一番してはいけないことをしてしまった。そんな負のエネルギーは、放った後には必ず自分に戻ってくる。このことに瑠璃は気づいていなかった。
巫女としてのお勤めも終わり社務所から出て、ふと感じた違和感。境内の雰囲気がいつもと違うのだ。何かが違う。いつもの柔らかい空気が今は感じられない。
瑠璃はあたりを見渡してみた。参道は、いつもどおり葉っぱ一枚落ちていなかったし、手水舎はちょろちょろと澄んだ水が流れている。何も変わっていないはずだ。それなのに、今感じているこの違和感は何なのだろう。
右京と左京もいる。なのに、何も言ってはくれない。遠く木々に目を移してみる。ご神木や木の葉や地面の咲く花たちでさえ、今は私を受け入れてくれない。そんな空気と時間が止まった感覚、
「これは、拒絶だ! いつもと違うこの感覚はまさしく拒絶だ! 私は今、この神社から突き放されている!」
瑠璃はハッとした。少女へ激しい怒りをぶつけてしまったことに。しかも、巫女の制服姿で、あるまじきことをしてしてしまったことを。
事の重大さに気づいた瑠璃は慌てた。小走りにあたりを歩き回り、恐ろしさで膝がガクガクした。
「神様を! 眷属を! 怒らせてしまった! 大変なことをしてしまった」
神様をお守りする眷属は、なにも狛犬だけではない。目に見えない眷属たちがたくさんいるのだ。それらの存在は、我々人間が鳥居をくぐった瞬間から、境内で行った行為や、心の中で思ったことなどすべてお見通しなのだ。昔から、眷属を怒らせたら怖い、と言われている所以だ。
身の置き所がない瑠璃は、後ろずさりで泣く泣く神社を後にするしかなかった。何度も何度も振り返りながら、これは私の勘違いなのだと、信じたい気持ちで。
参道へと向かう長い階段を、行ったり来たり走り回る瑠璃の姿があった。まるで何かに取りつかれたように、走っている。のたうちまわり、取り乱した心を落ち着けるには、こうするしかなかったのだ。
どれくらい走っただろうか?何往復しただろうか?
汗をびっしょりかき、息を切らしながら、へなへなと座り込みうなだれた。頭を上げ、前方見上げると階段が何段も続く参道を取り巻くように、樹々が茂っている。登り切った高い所にある真っ赤な鳥居が目に入った。
あの時初めて見た景色だった。洞窟を出て、仲間たちと一緒に山を抜け、最後はひとりで辿り着いた場所。それがこの美しく浮世離れした真っ赤な鳥居だったのだ。
(鳥肌がたつほどの感動と歓喜。細胞が、魂が歓びに溢れているような初めての感覚。そうだ。私はあの時、この階段を昇り美しい鳥居をくぐった。そして神殿の前まできた時、いきなり涙が溢れて仕方がなかったのだ。幼子のように泣きじゃくった。声を上げて泣きじゃくった。もう泣くことしかできなかったのだ。あの時はどうしてこんなにも泣くのかわからなかったが、今ならわかる。あれは、神様の至上の愛に包まれ、自分の魂が震えていたのだ。あまりにも崇高で深遠すぎて到底理解できない。受け止められない。だから泣くしかなかったのだ。
瑠璃は、すくっと立ち上がり、一段一段かみしめるように階段を昇っていった。
「神様、お許しください。眷属を怒らせてしまった私をどうかお許しください」
夕暮れの光に照らされている神殿の前で、瑠璃は祝詞を唱えだした。
たくさんある祝詞の中でも、この大祓詞は、罪穢れを祓う強力な祝詞である。
真剣に心を込めて唱えた。長い祝詞が終わると、また初めから唱えた。そして何度繰り返したが分からないほど集中していた。いつしか、陽が沈んでいた。月明かりの光だけがぼんやりと灯る中、瑠璃はひとり祝詞を唱え続けた。
鎮守の森にもうっすらと陽が差し込み始めた。神殿の前には、神秘に満ちた声でリズムをつけ、神々しいまでに祝詞を唱える瑠璃の姿があった。メロディーがつき、歌となった祝詞を神様へ奏上している姿は、この世のものとは思えないほどに眩しくて美しかった。
境内では狛犬が強面で一緒に朝を迎えていた。右京と左京の尻尾がゆらゆらと気持ちよさそうにリズムをとっていたことを、もちろん瑠璃は知らない。




