不思議な森
この森は動いている。深く茂った樹々、木の枝にとまっている鳥さえもが一緒に動いている。右側に傾いたかと思ったら次の瞬間には左へと動く。浮いたかと思ったら今度は沈む。常に傾きながら戻り、浮き沈みしながら、まるでバランスをとっているかのように動いている。
そんな不思議な森の片隅に洞窟があった。ひっそりと、まるでそこだけが切り取られ、存在を隠しているかのようだ。ひんやりとした空気、湿気た苔の匂い。時折、ポタンポタンと水が落ちる音、パタパタと何かが飛び回っている気配がする。
ここに瑠璃という少女がいた。色が分からないほど汚れたシャツ、擦り切れたスカートはサイズが合わなくなっていたし、髪の毛はボサボサで、手足は異様なくらいに細かった。瑠璃は8歳の時、大好きなお母さんに、「ここで待っていてね。迎えに来るから」と言われてから5年もの間、待ち続けていたのだった。
「お母さんは本当に来るのだろうか?」
最近ではそう思うようになっていた。変わりたくても変わらないこの生活、ただ待つことしかできない自分の無力さに心底嫌気がさしていた。
「私はお母さんに捨てられた」
この辛い現実を受け入れるしかなかった。それは絶望だった。
そんな瑠璃の中に何かがいるようになった。瑠璃以外の存在が呼吸をし始めたのだ。最初は小さなモノだったが、それがどんどん大きくなっている。過酷な洞窟での生活。何年も迎えにこない母親への激しい怒りと寂しさ。もうどうしようもない、そんなドロドロした想いが大きくなればなるほど、その存在もまた一緒に大きくなっていった。
(グググー)と牙をむく。小さなその細い体の中から、その唸り声がしてくる。そして、どんどん激しくなっていく。
(シャーッ、シャーッ)その存在が暴れだすと、瑠璃の目つきもきつくなり、狂気がにじみ出る。
洞窟の中を足を踏み鳴らしながら歩き回り、落ち着きがなくなる。叩きのめしたい、何かを。かみちぎりたい、何かを。お腹をすかせ、獲物を探し回っている飢えた猛獣のようだった。
「この世界も自分も、何もかもが滅んでしまえばいい。空にはひびが入り、太陽は紫になり、雨は矢となればいい。もう、どうにでもなれ! 何もかも!!」
いつも呪文のように念じ叫ぶしかなかったが、今回ばかりはもう限界が迫ってきていることを本人も気づいていた。
洞窟の外で、鳥たちが激しく鳴き始めた。そして、急に風が吹きあられ、雨が地面をたたきつけ始めた。森は知っていた。満月を迎えようとしているのだ。洞窟の中にまで、嵐が吹き込んでくる。荒れ狂う風は、何もかも信じられなくなった瑠璃の心のようだった。激しく揺さぶってくる。今まで味わったことのない恐怖を感じていた。
「何かが来る。何かがやって来る」
得体のしれないものが迫りくる。この嵐と共に。
「私は、持っていかれる体ごと。いや、心だ。持っていかれるのは体ではなく心だ!」
じっとしていられなくなり、ただ洞窟の中をうろうろと歩き回りだした。
「危ない。危ない」
いてもたってもいられなくなり、瑠璃は頭に手を当て、洞窟の中をうろうろと歩き回った。
「持っていかれる。もう帰ってこられなくなる。私が私でいられなくなる。危ない。危ない」
この嵐に自分を持っていかれたら、もう自分の名前すら分からなくなることを本能的に知った。
今、正常と異常との狭間にいる。
心にはビリビリとひびが入り、今にも張り裂けそうだった。その時、声がした。
「表か! 裏か!」
ドスのきいたはっきりした男の声だ。瑠璃はフラフラしながら、その声の方を見上げた。洞窟の天井には、白のステテコにラクダ色のシャツ、頭にハチマキをした男が、あぐらをかき腕組みをしていた。
「表か! 裏か!」
今度は、ギラッとした目で瑠璃を見下ろして言った。その目つきはまるで、一瞬でも見逃さないと言った審判の目だった。
「表か! 裏か! 表か! 裏か!」
威勢よく響く大きな声で、繰り返し言う。
嵐も今までになく怒り狂っていた。息もできないほどの激しさで、洞窟の中を渦巻いている。ついに立っていられなくなり、大きな岩にしがみついた。激しい嵐が、棒のように細い瑠璃の体を取り込もうとしている。
「ギャー、ガァー……」
瑠璃が最後の力を振り絞るように叫ぶ。
グルングルンと大きく動いている。ガランガランと大きく揺さぶられている。大きな渦の中、引っ張り合っている。それは、正常と狂気のせめぎあいだった。瑠璃はどちらへ傾くのか、興味深げに見おろしている男。
今までにないほどのドスのきいた声で、深く叫んだ。
「表か! 裏か!」
「どっちだぁー!!」
男の声が、この森に響き渡った。
静かだ。しんと静まり返っている。空気さえ止まっているように静かだった。命あるもの、ないもの、どちらも存在していないような静けさだった。
瑠璃は、恐る恐る顔を上げる。いつもと何も変わらない洞窟。あの激しい嵐の形跡もなかった。が、今までと違う感覚の中にいた。それはまるで生まれ変わったような、何かの息吹を吹き込まれたような新しい自分。私は今、しっかりと地に足がついている、ドクドクと心臓が動いているという「今この瞬間」「生への実感」を全身で感じていた。
洞窟からこの広大な森を見渡し、サラサラとした風に吹かれながら、瑠璃の気持ちは今はっきりと決まった。
待つだけの人生はもう嫌だ!
私は生きる!
私は幸せになる!
そうはっきりと決めた。




