世界の終わり
「ねえねえ起きてよ、世界が終わるって。」
心地の良い朝だった。鳥はいつもように飛んでいて、アパートの屋根の上には猫がいて、その屋根の下で僕は寝ていた。
三度彼女に揺さぶられて起きると、僕はポケットからタバコを探した。昨晩着替えずに寝たせいで身体がなんだかゴワゴワする。
「世界が終わるってどういう事?」
タバコに火をつけながら一応聞いてみる。箱の中にはあと4本しかない。後で買いに行こうか、いや世界が終わるのであればそんな必要はないか、とくだらない事を考えてみる。
「だから世界が終わるんだってば、ホラ見てよ。」
彼女は僕の髪をグイと引っ張って、テレビの前に持っていった。確かにテレビではアナウンサーがこう言っていた。「まさしくこれは世界の終わりです。」
チャンネルを変えてみても、ほとんど全ての局がこう言っていた。世界が終わる、と。
専門家はやけに難しい説明をしていた。太陽フレアがどうだか、おおよそ僕には縁のない事を話した後こう言った。そういう訳で世界は終わります、と。
僕はそれを眺めていた。そうか、世界の終わりとはここまで実感のないものなのか。試しにシフォンケーキのお化けについて想像する。やけに美味しそうな匂いを漂わせるお化けが墓場で立っている。子供達が鼻水を出して逃げ去っていく。なんのリアリティーもない想像だ。これと、目の前で起こっている事何が違うのだろう。
僕はすっくり立ち上がるとキッチンに行って紅茶を淹れることにした。世界の終わりにパンと紅茶がないなんておかしい。ティーバッグは残り三つだった。
「何してるの?」
「紅茶を淹れているんだよ。」
「世界の終わりなのに?」
「世界の終わりだからこそだよ。」
「ふーん。」
普段ミッシェルガンエレファントなんか聞かない彼女にとって僕の行動は不思議なものだったのだろう。彼女はこの光景について何か読み取ろうとしていたように思える。視線を感じる。なんだか緊張してくる。でも紅茶はきちんと淹れる。ついでに食パンをトースターに放り込む。
「そっか、ミッシェルガンエレファントか!」
読んでいた雑誌を投げ捨て、そう言うと彼女は大声でゲラゲラ笑い始める。壊れたねじまきおもちゃみたいだ。
「どうしたの?」
「だって世界の終わりなのにすっごく下らないんだもん。」
なんだか僕は恥ずかしくなって来てしまった。こう言うことはよくある。例えば、卒業式でふざけて着ぐるみを着てきて名前も知らない教員に侮蔑の目で見られた時とか、結婚式のスピーチで受けを狙った結果悲惨な事になったりとか。そう言う時、自分の中の熱が冷めていくのを感じる。つまるところ、誰もいない所で一人で興奮して調子に乗った結果の恥なのだ。まあミッシェルに関しては僕はそこまで恥ずかしくはないと思うが。それにしても世界の終わりなのにこんな事を考えている僕は大丈夫なのだろうか。両親や友人などもっと考えるべき事があるのではないだろうか。
しかしふと、僕はこうとも思う。世界の終わりだからなんだというのか。世界的な危機とされる出来事は今まであった。戦争、政治的内乱、株価の暴落、その他もろもろ。その時僕は何をしていただろう。テレビを見たり、パソコンいじったり、女の子と会ったり。世界的な危機なんてものは所詮会話のタネにしかならないのだ。僕にとっては。
寝そべりながらまだクスクスしている彼女を尻目に紅茶はまともに出来上がった。ティーバッグなので失敗しようもないが。
僕と彼女の分の紅茶二つをちゃぶ台におき、トースターから食パンを二つ救い出してやる。僕はジャムとバターを持ってきてベタベタに塗ってムシャムシャやる。ついでに紅茶にジャムをタップリ入れガブガブとする。
パンも紅茶も終えた所で彼女がこちらにやってきて、自分の分をちょぼちょぼ飲み食いする。普段ならどうでもいい光景も少しだけ高尚に見えるのは、やはりエゴイズムだろう。やっぱり僕は愚かなやつだと思う。
「ねえ、紅茶にジャム入れたら美味しい?」
「うんまあ、美味しいよ。ロシアンティーって言うんだけど。」
「へー。あ、音楽かける?」
「うんいいよ。」
彼女はスマートフォンをいじりスピーカーから音楽を流した。爆音でミッシェルガンエレファントが流れる。僕は思わず苦笑いする。
「あーあ、世界が終わらなきゃいいのにな。終わらなきゃ、この事長いことイジれたのにな。」
「そうかい。イジられるのはゴメンだけどね。」
僕はふと、ここまで世界が終わって欲しくないという思考に自分が陥っていない事に気付いた。僕はただ世界が終わる事に対して受け止めるばかりで反攻や苛立ちを覚えなかった。そうか、僕の世界は大層価値のないものなのか。だから素晴らしい彼女の世界が終わる悲しさがないのか。この世界は終わるが、その世界の価値は平等ではなかったのか。
厄介な気持ちになった。悲しくない事が悲しかった。
「…やっぱり寂しい?世界が終わるの。」
「どうして?」
「だってちょっと泣きそうな顔してるもん。」
「なんでもないんだよ、心配しないで。」
「…そう、まあ最後だし無理はしないでね。なんの意味もないんだから。」
彼女はパンを平らげると、紅茶にジャムを入れた。彼女が紅茶を飲むその瞬間に、強い光を感じた。太陽フレアなのだろうか。
「眩しっ。」
彼女が目を伏せたその瞬間、僕は救われた。
世界が終わろうがなんだろうが、この彼女を、太陽フレアに晒された彼女を見たのは僕しかいない。大体、世界がなんだというのか。彼女がいるだけで僕の世界は完結しているじゃないか。彼女の世界と比べてどうこうとか、そんなアホらしい事を考えている暇なんかないのだ。僕の世界は、一緒にミッシェルガンエレファントを聞いて自分の入れた紅茶を飲んでくれる人がいる。それでいいじゃないか。僕は先ほどの自分が恥ずかしくなった。そしてこれからはこういう生き方で行こうと思った。まあみんな今から死ぬのだけれど。
「参ったね、ほんと。」
彼女は紅茶を一度机に置き直し、水面をじっと見つめていた。紅茶のかさは音を立てながら増していた。
「ねえあのさ。」
「何?」
「僕は大変に幸福な気持ちだよ。」
「なんで?」
「君がいるからだよ。」
「言ってくれるねえ。」
少しの沈黙の後、紅茶は音を立てるのをやめた。
彼女は紅茶を持って立ち上がり、僕の隣に座った。
「狭くない?」
「最後の晩餐みたいでいいでしょ?」
「生憎最後じゃないから。」
「そうなの?」
「多分ね。」
多分、と言ってしまったが僕はこの瞬間は続くと思った。ミッシェルガンエレファントはまだ歌っていたし、紅茶はまだカップの中にあった。相変わらず眩しすぎるけど、そんな事はどうでもいい。ここで空間の檻の中に入れれば、きっと幸福なままでいられる。内省的かもしれないけど、世界の終わりだからそんなものだとも思う。
彼女はぐいと紅茶を飲み干す。
僕は洗濯物を思い出して、立ち上がった後眩しさが増