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5話(1/2)「意外と攻めてく金田ちゃんと、」

 わたし、金田かねだ絵美えみは、ちょっとした悩みをいくつか抱えています。


 ひとつは内気な性格なこと。


 前に出るのがどうしても怖くて、いつも何かの、あるいは誰かの陰に隠れなくては満足に生きていけない。そのせいか、存在感がないというか、これと言った個性もなくて、水で薄めたお湯みたいな、いよいよわたしが生きている意味さえ薄れて見失いかけようとしていた。

 このままではさすがにまずいと思って、高校入学を機に新しい自分になろうと、覚悟を決めて学校に通ってはいるんだけど……。


 成果のほどは、あまり振り返りたくないかな。

 細かいことを挙げていくとキリがないから中略して、ここからが本題。


 もうひとつの悩みは、恋の悩み。


 こんなどうしようもないわたしにも好きな人ができるんだって、正直自分でも驚いている。

 でも……あの人を前にすると胸が痛くなるくらいにドキドキするのは、きっとそういうことなんだと思う。


 しかも相手は、同じ部活の先輩。


 立場が違うというか、身分が違うというか、今も昔もシンデレラストーリーには憧れてるけど、いくらなんでもひとつとはいえ年上の人を好きになっちゃうなんて、まだまだわたしも子供……というか幼いのかもしれない。その先輩は後輩に好かれるとか、女子からキャーキャー言われるような人じゃないからチャンスはあるのかもしれないけど……そもそも色恋に疎そうな感じすらあるし、望みは薄いかもしれない。


 こうやって自分のことを見つめ直せるんだから、多少の成長は認めてもいいかな、うん。


「ちょっと遅くなっちゃった」


 放課後になって、わたしは美術室に足を運ぶ。未だに部活中の美術室に入るのは少し緊張する。だって一年生で美術部なのはわたしだけ。つまりわたし以外はみんな先輩なのだ。緊張するなと言うほうが無理があると思う。


「今日はいるかなぁ……?」


 たまにしか顔を出さない先輩の姿を想像して呟く。この呟きが、いてほしいという期待の呟きなのか、いてほしくないという願望の呟きなのか、自分でもいまいち判然としない。


 わたしは扉の前に立って、取手に手をかけながらも開けるのに躊躇する。


 扉の向こうからは話し声が聞こえてきていた。楽しそうに団欒だんらんする、数人の先輩たちの声。この声の中に、あの人の声は混ざってない。そもそもこんなに楽しそうに誰かとお喋りするような人じゃない。


「…………」


 このまま突っ立っていてもどうしようもない。描きかけのキャンバスはこの先に置いてあるのだから、それを回収しなくては続きを描きようがない。


「いけいけ……がんばれわたし……!」


 口の中で呟くように自分のことを小さく鼓舞して、全身に力を込めた。


 軽く触れるようなノックをしてから、ガラガラと音を立てて開かれる引き戸の音は応援のように聞こえて、なんとなくわたしの緊張を和ませた。

 でもそれも一瞬のこと。いつまでも開き続ける扉なんてない。


 先輩たちの団欒の時間が瞬間凍結したかのように静まり返り、すくむわたしに視線が集まる。

 息を飲む時間を経て、わたしから視線が外れて団欒の時間へ戻っていく先輩たち。


「……失礼します」


 形だけでも体裁は保ちつつ、わたしは美術室に重い一歩を踏み入れた。


 毎日毎日これだから、いつか心臓がひとりでに握り潰されるんじゃないかとさえ思う。


「ひう」


 グジャっ! と心臓が潰れたのは錯覚で。

 その人が視界に入った瞬間、身震いさえ起こるような勢いでハートがざわめき出す。


 いた。

 いる。

 今日は来てる。


 わたしの好きな先輩——佐々木(ささき)先輩が。

 どうせ今日もいないんだろう、と勝手に思い込んでたから変な声出ちゃったよぅ……聞こえてないといいんだけど……。


 そんなわたしの心配とは裏腹に、佐々木先輩はわたしの存在に気づいて、気だるげにこちらを見た。


「ひゃっくりなら限界までゆっくり息を吸ってから数秒止めて、限界までゆっくり吐き出せば止まるよ」


 佐々木先輩の落ち着いた声音が耳朶をくすぐって、わたしは条件反射的に返事をしていた。


「あ、は、はい。やってみます!」


 それは深呼吸とどう違うのだろうかと疑問に感じながらも、言われた通り実践してみる。っていうか「ひう」はひゃっくりではなかったんだけど。

 おかげで深呼吸(のようなもの)が堂々とできた。


「すぅー…………」


 大きく息を吸って肺の中を空気で満たし、口を噤んで数秒。


「はぁー…………」


 今度は肺を絞って全てを吐き出す。

 暴れていた心臓も大量の酸素を取り込んで平静を取り戻したのか、ようやく呼吸も落ち着いてきた。

 酸素よりも、佐々木先輩と同じ空間の空気を取り込んだからかもしれない。


 ……いやわたしキモっ!


「どう?」


「あ、はい、落ち着きました。ありがとうございます佐々木先輩。……こんにちは」


「んー」


 遅れて挨拶をして、帰ってきたのは生返事。毎度こんな感じだけども、なんとなく、今日はちょっと疲れているように感じた。

 そのまま佐々木先輩は作業へ戻ってしまう。


 わたしも団欒している先輩達には極力近づかないようにして自分のキャンバスを準備室から回収して画架イーゼルに立て掛け、次に絵の具の準備を進める。


 キリのいいところまで頑張って進めておいたから今回は再開が楽で助かる。よく頑張ってくれた昨日のわたし。


「よしっと……」


 これで絵を描く準備は整った。


 しれっと佐々木先輩が視界に入るようにさりげなくポジションを決めて椅子に腰を落ち着かせ、白い絵の具をパレットに絞り出す。


 それはパソコンの待ち受けのような草原にいろんな動物を放った絵で、

 子供の頃に見た夢をそのまま描いた絵で、

 わたしの心象風景そのもの。


 あとは青空にたなびく雲を描き込めば、この絵は完成だ。ちなみにこの雲もいろんな形になる予定。


 平筆に絵の具を乗せて、青空に描かれる積雲のようなわたあめ。高積雲のような羊の群れ。積乱雲のようなカキ氷。そうだ、うっすら色を変えて、味も付けちゃおう。

 正直めんどくさいことを思いついてしまって、実行に移すか少し悩んだけど、夢の内容に近づけるには必要なこと。つまりはより高い完成度に近づく。ならば手間は惜しんではならない、だよね。


 調子に乗り始める前に佐々木先輩をチラリと盗み見てみた。


「…………」


 佐々木先輩は真剣な表情でペンを走らせている。


 それにしても、相変わらず佐々木先輩の作業環境は面白いなぁ。

 大きめのタブレットに、確かスタイラスペンとかいうので絵を描いている。わたしと違ってデジタルで絵を描いているわけだ。

 ペンを持っていないほうの手もときおり動かして何か操作している。わたしは機械音痴だから、それで何がどうなるのかよくわからない。画面が見えればわかるかもしれないけど、さすがにここからじゃ角度的に見えそうもない。

 でも、視線を落とした佐々木先輩の真剣な顔を拝めるこの時間はとっても至福であり眼福であった。むしろそのための位置どりだから、目に焼き付けておかないと損ってものだよわたし。


 ジロジロ見過ぎていたのか、佐々木先輩が息を吸って口を開くところまではっきりと見えた。


「金田ちゃん」


「〜〜〜?!」


 唐突に名前を呼ばれて、キュッと萎縮した体から声にならない声が絞り出された。喉から出たのか、おへそから出たのか、はたまたそれ以外か。それさえもわからなくなるほどテンパってしまった。


 気づけばわたしは、おもちゃのロボットみたいに直立不動で起立している。


 佐々木先輩は画面から目を離さず、教室の隅に置いてあるカバンを指差して、


「そこのカバンからスマホ取ってもらえる? チャックのポケットの中」


「ハイ゛ッ!」


 喉にクルミでも詰まったかのような苦しい声で無理やりに返事をして、ギッコンバッタンと油の切れたロボットが言われた通りにカバンからスマホを取り出した。


 ガラスフィルムが画面にピシッと貼られて、無地のシンプルなケースに収まった実に佐々木先輩らしいスマホ。変に力が入っちゃってホームボタンか電源ボタンを押してしまい、ロック画面が表示される。


 ……女児向けアニメのキャラクターが集合写真のように集まった画像だった。

 佐々木先輩……こういうの、好きなんだ……へー……。


 遅いかもしれないけど見なかったことにして、佐々木先輩へスマホを手渡した。


「ありがとう」


「イ゛エ゛……」


 喉にゴルフボールでも詰まったかのような辛い声を絞り出して返事をした。


 佐々木先輩は受け取ったスマホのロックを指紋認証で解除して、メッセージの有無だけを確認してポケットにしまい、作業を再開した。

 ちょうどいいので画面を覗いてみると、どっかで見たような美少女のラフが描かれていた。

 しかもかなり上手かった。


「あまり見られると気が散っちゃうんだけど」


「あっ! ご、ごめんなさい!!」


 高速で、いや光速で頭を下げて謝る。わたしも絵を描いているから佐々木先輩のその気持ちは痛いほどよくわかる。誰だってジロジロと見られたらいい気はしないだろう。


 でも、


「そんなに気になるならもっと近くに来て描けば? さっきからずっと気にしてたでしょ」


「ぁぅ……」


 これには何も言い返せず、モゴモゴとするばかりだった。


 バレてた。


 佐々木先輩が他の人とどこか違うのはこういうところだ。

 バレてないと思っていたのに、気づいてる。隠せていると思っていたのに、見つかっている。

 そしてそれを平然と許容している。

 わたしには到底無理そうだった。


 でもこれはチャンスでもある。


「で、では失礼しまして……」


 許可も降りたので、画架イーゼルを持って佐々木先輩の近くへそそくさと移動する。

 それでも微妙に距離が開いてしまうのは、単純にわたしの気が小さいが故だった。


「金田ちゃんは偉いよね」


 佐々木先輩は画面から目を離さず、手も止めないままにサラッと言ってきた。


 流れるようにあまりにも自然に言うものだから、一瞬言葉の内容を理解できなかった。


「ヘェッ?! そそそそそそそんあことはないれす!!!!」


 遅れてやってきた畏敬の暴風にわたしの呂律は攫われて遭難する。


 なんで? どうしてそういうあれな感じ??

 あぁぁこんがらがってきた……。


「だってちゃんと部活動してるの金田ちゃんだけだよ」


「そ、それなら佐々木先輩だって……」


「ぼくのはこんなだよ? 美術とは違うでしょ」


 タブレットの画面をわたしに見せつける佐々木先輩。確かにデジタルで描くキャライラストは美術部の活動というよりも、漫画部? とかのほうがしっくりくる内容だよね。そんな部活があればだけど。


「それにぼくは毎日顔を出してるわけじゃないしね。あそこの連中と違って」


 団欒している先輩たちを軽くアゴで指す佐々木先輩。

 佐々木先輩にとっても先輩のはずだけど、あまりいい感情を抱いている様子ではなかった。


 わたしは声のボリュームを落としてずっと気になっていたことをこのままの勢いで思い切って聞いてみた。


「その…………あの先輩たちは、どうしていつもお喋りを?」


 毎日毎日、ああして集まって楽しそうに話しをしているだけで、絵を描いているところを見たことは一度もない。


「顧問の先生が言うには、廃部を阻止するために名前だけ貸してもらったんだってさ。名義上は美術部員だから、ここにいてもおかしくない。放課後に堂々と居残れるし、人も少ないから都合がいいんでしょ」


 なんとなく怖くて今まで挨拶すらまともにできなかったけど、そういう理由だったんだ。言ってしまえば、なんちゃって美術部員。仲間のようで仲間でなかった。


「他にはいないんですか?」


「いないよ。これで全員」


 名実ともに美術部員と胸を張って名乗れるのはわたしだけで、微妙なところに佐々木先輩がいて、あとはただの間に合わせ。

 実質二人だけの美術部だった。


「それにしても——」


 話を区切るようにわざとらしく言って、今度は佐々木先輩がわたしのキャンバスを覗き込む。


「金田ちゃん絵うまいよね」


「わ、わ、わ! あんまり見ないでくださいっ! 人様に見せられるようなものでは……!」


 特に佐々木先輩には恥ずかしくって見せられないよ! 夢の内容を他人に見られるって結構恥ずかしいんだから! 相手が佐々木先輩じゃなおさらだよぅ!


 視線を遮るように立ちはだかって両手をブンブン振って、壁を作るも時すでに遅し。


「わかった、あんまりは見ない。よ〜く見る」


「そういうことじゃないです! 揚げ足取らないでくださいよ〜!」


 顔を真っ赤にして見られないように守ろうとしても、キャンバスはわたしの体よりも大きい。布でも被せない限り隠しようがなかった。


 わたしがあまりにも必死すぎたのか、佐々木先輩はおとなしく引き下がってくれた。


「ま、金田ちゃんがくる前に見させてもらったからいいけど」


「わたしの努力が水の泡?!」


 キャンバスは準備室に置きっぱなしだったし、佐々木先輩のほうが先に美術室に来ていたから見られていても文句は言えなかった。


 ……ううん、ちょっと待って。


「佐々木先輩勝手に見たんですか? わたし布被せてましたよね?!」


 絵の具が乾いてから人目と埃を避けるために布を被せて隅っこのほうに置いておいたのをしっかりと覚えている。


 対する佐々木先輩は変わらず平坦な口調で言い返してきた。


「わざとじゃないよ。埃っぽいから空気を入れ替えようとしたら、布のほつれが袖のボタンに引っかかったんだよ」


「それ、本当ですかぁ……?」


 佐々木先輩は嘘でも平気で言ってきそうだから、疑わしい声が出てしまった。


「本当です」


 どうにも嘘っぽいというか、いまいち信じきれないというか、どこかわざとらしい感じがしたけど、わたしは佐々木先輩を信用することにした。


 好きって感情はずるいと思う。


「油絵ってことは厚塗りってやつだよね。上から重ねて塗ってくのって本当なんだね」


「は、はい。乾かしながら描いたりするので完成には随分と時間かかっちゃいますけど……。アトリエとかある人なら複数の絵を同時進行で描くって聞いたことあります」


 たまにテレビとかで紹介されている大きな絵画は完成に数日とか数週間とか平気でかかっているものが多い。一つの作品だけに絞って見れば驚きだけど、別の作品も同時に進めていたと考えると、途端に「それくらいかかるよね」って一気に身近に感じられる不思議。


 わたしの場合は宿題とか勉強とか読書とか、そういうのをやる時間になっている。


「さ、佐々木先輩はデジタルですよね。どんな感じなんですか? わたし機械音痴で……」


 電気屋さんとかで展示品の落書きされたデジタルのやつをよく見かけるけど、設定がよくないのかいくらペンを走らせても線の一本も引けなかった。それからというもの、デジタルには微妙に抵抗がある。立ってる店員さんもなんか怖いし。


 でも佐々木先輩はこうして実際に絵が描けているわけだし、やっぱり気になった。


「どんな感じって言われても……触ってみたほうが早いんじゃないかな」


「いいいやいや! 爆発させちゃったら大変ですし!」


 ペンとタブレットを差し出されて、わたしはそれを全力で拒否。感触とか感想を聞きたかっただけで、別に触りたかったわけじゃない。佐々木先輩のものを使わせてもらうなんて恐れ多くてそれどころじゃなくなりそう。


「爆発かそれは大変だ。——はい」


「えぇえぇえ?!」


 おどけたように言いながらも無理やりわたしにタブレットを持たせ、ペンを握らせてきた。ペンとタブレットがなんだかぬくいのは機械の発熱のせいだよね? ね??


 あっという間に手汗でビッショリになりながらも、わたしは恐る恐るペン先を画面上に滑らせてみた。


「お、おぉ、どうして……?」


 あろうことか、スラスラと線が描ける。ツルツルしてて実際に描いている感覚とは違うけど、線が引かれていく感じは面白い。わたしは感動すらしてしまった。


「お店にあるやつは線も引けなかったのに」


「消しゴムにでもなってたんじゃない?」


「けしごむ……?」


 もしかして画面を消しゴムでこすると線が消えるの? デジタルとアナログの融合がわたしの知らないところで実現していた?


「右上の、消しゴムみたいなマークをタッチしてから描いた線をなぞってみて」


「は、はい」


 わたしは言われた通り大きさの違う二つの四角が重なった、言われてみれば消しゴムに見えなくもないマークをタッチして、線をなぞる。

 すると謎の円形が薄っすらと現れて、円の中に入った線がまるで手品のように消えていく。


「未来です……!」


「現代に生きてるよー帰ってきてー」


 SF映画でも見ているような光景だった。


「でもやっぱり、なんか不安になっちゃいますね」


 慣れの問題だと思うけど線が安定しない。長い筆を持って画架イーゼルにどっしりと構えたキャンバスに描くほうが安心感がある。


 未来に生きている感動と先輩のものを触らせてもらった嬉しさからくる震えを堪えながら、ペンとタブレットを返す。


「ぼくからしたらアナログのほうが不安になっちゃうけどね。背景とか苦手だし」


 受け取った佐々木先輩は、わたしのキャンバスを見ながら肩をすくめた。


「そ、そうなんですか……?」


 こんなに頼もしく構えてくれる画材たちが、佐々木先輩には不安に感じるらしい。


「下書きの段階ならまだしも、アンドゥ——えっと、やり直せないじゃない」


 アンドゥというのがなんなのかわからないけど、先輩が不安になっている要素には納得がいった。

 デジタルは消したり書き直したりが簡単なのが強みなんだっけ。


「確かに絵の具を乗せちゃったらそれまでですけど、戻れないからこそ方向修正で手を加えているうちに思わぬ出来になったりするんですよ。いい意味で」


 いろんなことに尻込みして逃げたくなってしまうわたしには、簡単には後戻りできないアナログ絵が性に合っているわけだ。


「あ……」


 厚塗りよりも厚かましいお願いを思いついて、でもここに来て内気な性格がわたしの口にチャックをする。


 けど……もしこのお願いが叶うなら、佐々木先輩との時間を増やせる。一緒に過ごして話す口実を作れる。

 どうしよう。言いたい。けど、佐々木先輩にだって都合がある。わたしのわがままで先輩の貴重な時間を無駄にさせるわけには……。


 そんなわたしの逡巡を知ってか知らずか、佐々木先輩は助け舟を出してくれた。


「なに? 何かミスでも見つかった?」


「そ、そうじゃなくって……あの、えと……」


「言いたいことがあるなら遠慮せず、どうぞ」


 手のひらを差し出して、わたしに言葉を整理する時間をくれた。言い出しやすい雰囲気を作ってくれた。

 この波に乗っからないのは、いくらなんでももったいない。

 どれだけ待たせてしまったのか、もはやよくわからないけど、充分に頭の中で言いたいことを整理してから、わたしは口を開いた。


「夏に絵画コンクールがあるじゃないですか」


「あるんだ」


「あるんです。そ、それに出す絵を……………………わたしと合作しませんか?!」


 目をギュッと瞑り、肺もお腹も絞って、心の底から根性でひねり出したお誘いの言葉。

 一世一代の頑張りをしたから、もう一生こんな頑張りはできない気がする。

 賞を取った経験はない。でも、佐々木先輩となら、取れる気がする。そんな気がする!


「理由を聞いても?」


 わたしの一世一代のお誘いをちっとも驚かず平然と受け止めて、気だるげな瞳を向けた。


 あ……これ、なんだかんだ言って断られるやつだ。


 わたしはそう悟ってしまった。


「理由……は」


 はっきり言えば佐々木先輩ともっと同じ時間を共有したかったから。


 でもそれこそ口が裂けてもこんなことは言えない。絶対言えない。

 だから、言葉を整理するときにそれらしい理由を考えた。


「佐々木先輩は、背景が苦手と言いましたよね」


「言ったんだ」


「言ってました。それでわたしは、人物を描くのが苦手です」


「なるほどね。それで合作、と」


 佐々木先輩はわたしが考えたことを察してくれた。


 いま描いている絵も、今まで描いてきた絵も、たぶんこれから描いていく絵も、風景画ばかりで、そこに人はいないだろう。

 佐々木先輩の描くキャラも、色を付けただけの簡単な背景ばかりで、どこかの地に足を付けることはないのかもしれない。


 なら、お互いの足りないところを補い合えばどうだろうか。

 一枚の絵に、人の温かみを感じるような、自然の広大さを感じるような、そんな絵が出来上がるかもしれない。


 でも一つ、問題があった。


「アナログとデジタルの壁はどうするの」


「それ、は……」


 当然佐々木先輩もこの問題にはすぐに気づいた。

 こればっかりは、解決策を出したところですぐにどうにかなる問題ではない。そこには二次元と三次元くらいの隔たりがある。


「まさか、ぼくがアナログ——というか油絵の練習をすればいい、とか考えてる?」


「…………」


 わたしは無言で頷いた。


 だって、他の方法なんか思いつかないんだもん。


 解決策とも言えない解決策に、佐々木先輩は天を仰いで小さくため息をひとつついて「やれやれ」と首を振った。


「わかった。別にいいよ」


「…………え?」


 自分の耳を疑った。いま佐々木先輩は『いいよ』と言った? 否定的な『いいよ』ではなく肯定的な『いいよ』とおっしゃった?


 なかなか飲み込めなくて口をポカン、目をパチクリとさせていると、わたしの狼狽ろうばいにしびれを切らしたのか今一度ハッキリと、


「別にいいよって言ったの。これからはもうちょっと顔出せそうだしね」


 と言った。

 言ってくれた。


「ほ、本当ですか?」


「本当です」


「嘘じゃないですか?」


「嘘じゃな——っていうかぼくってそんなに信用なかったの?」


「いいいいえいえ! そんなことないです!」


 全力で両手と首をブンブン振る。


 そんなに顔を合わせたこともない後輩の頼みなんて断られると思ってたのに。断られて当然だと思ってたのに。

 神様仏様お釈迦様ありがとうございます! これからはもっと真面目にお参りしたいと思います!


 半信半疑だった全知全能の存在にありったけの感謝の念を送っていると、当然目の前に差し出される一本の指。


「ただし、ひとつ条件がある」


「ぅ……な、なんでしょう……?」


 やっぱり世の中には美味しい話ばかりではないという教えなのか……なんだか佐々木先輩の目が怖く感じてしまった。


「ぼくだけが油絵の練習をするっていうのは、フェアじゃないよね」


「…………ま、まさか?」


「そのまさか。金田ちゃんにもデジタル絵の練習をしてもらうよ。表彰されるのは油絵だけじゃないってことをお忘れなく」


「は、はい……」


 これは対等な取引だ。世の中は常に等価交換という理の中にある。考えてみれば、当たり前とすら思う条件だった。

 でもこれで、佐々木先輩との共同作業が実現する。頑張って一歩を踏み出せば、踏み出した分だけ前に進めるんだ。ずっと物陰に隠れるようにして生きていたから、こんな単純なことを今の今まで忘れていた。


「めんどくさいけど後輩の頼みだし、これからは暇な時間も増えそうだし、ちょうどいいかな」


 まるで自分に言い聞かせるように小さな声でつぶやく佐々木先輩。


 もしかして佐々木先輩は、わかりにくいだけでわたしが思っているよりももっとずっと優しい先輩なのかもしれないと思った。


 なんというか、なんというか。

 幸せが舞い降りた。

 そんな放課後になった。

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