もしもまたあなたに好きと言ってもらえたなら、
一年ぶりに書いた彼女視点。
真っ白な部屋。
そこは上も下も右も左も白一色に染められた空間で、気を抜いてしまうとすぐに方向が分からなくなりそうな場所だった。
彼はそこから、遠くに見える彼らを覗いていた。
「理、理」
ふいに後ろから声がかかった。
「ねぇ、―――賭けを、しないかい?」
ひどく落ち着きのある優しい声だった。
しかし、彼は振り返りもせずに言った。
「そんなことに意味はないでしょうに」
それはひどく冷たく、機械的な声だった。
「それはどうかな」
誰かが、笑った、気がした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
私はふわふわした空間にいた。
上も下も右も左も白一色に染められていて、自分がどこにいるかさえも分からなかった。
そもそも、自分が誰なのか、何なのかもわからない。
ただただこの不思議な空間で漂っている。
前はもっと賑やかだったと思う。
みんながいた。
だけど、ふと思う。
―――みんなって、誰だっけ?
けれど、それに答えはでなくて、私はまた一人白い空間で漂った
また、唐突に思う。
私は、待っていたのだった、と。
だけど、同時に思う。
―――誰を待っていたんだっけ?
けれど、その答えは見つからなくて、私はまた一人白い空間で漂った。
ある時、急に思った。
白が綺麗だなぁ、と。
だけど、疑問が湧いた。
―――なぜ白がこんなに懐かしいの?
けれど、その答えを深く考えることもなく、私はまた一人白い空間で漂った。
私はずっと、ずっと、時間も分からない場所で漂うだけだった。
時に何かを考えるけれど、全てに霞がかかっているようで、分からなかった。
私のことさえ、分からない。
けれど、確かに私は待っていた。
誰かを。
顔も名前も何もかもが思い出せない、彼を。
―――彼?
自分の頭の中に突然浮かんだその単語を繰り返した。
誰かも分からなかったはずなのに、確かに彼ということが分かった。
彼。彼。彼。
誰?
いや、彼だ。
彼。
でも、分からない。
分からない。
ずっと、悩んでいた気がする。
どれくらい経ったのか分からない。
けれど、彼ということを思い出してから、そのことが頭から離れなかった。
今までは分からなくなるといつか考えればいいかと思ってこの白い空間を一人で漂うのに、今回はそんな気もしなかった。
彼は誰?
私の、大切な人?
私は誰?
彼の、どんな人?
浮かんでくる疑問は尽きなかったけれど、やっぱり分からなくて、思い出せなくて、胸がじくじくと痛んだ。
だから、私は頑張って誰かも分からない彼のことを考え続けた。
そうしなければすぐにでも前と同じように、自分が何も考えずにまたこの空間を漂い始めるような気がしたからだ。
それが、怖かった。
でもそれ以上に、彼のことを考えることがなぜか心を温めた。
彼。彼。彼。
今日という時がこの空間にあるかわからないけれど、私は今日もまた彼のことを考えていた。
誰だろうか。
相変わらず分からない。
それが胸を焦がすのにそれ以上にどんな人であるか思い浮かべるのが、何とも誰とも分からない私を満たしていった。
彼。彼。彼。
彼はどんな風に笑うのだろう。
どんな風に怒るのだろう。
どんな風に泣くのだろう、と思いかけて、気づいた。
泣く?
泣く、の?
あれ?
―――泣いている声。
それは誰かのすすり泣く声だった。
いつからその声が聞こえたのか分からない。
けれど、確かに誰かの、嗚咽の含んだ泣き声がどこからともなく聞こえてきたのだ。
上とも下ともわからない白い空間をぐるりと見まわしても、誰もいない。
誰?
誰?
誰なの?
呼びかけても返事はなかった。
泣く声は相変わらず止まらない。
喉から込み上げてくるものを少しずつ吐き出すように、えぐえぐと呻き声を漏らす。
それはすごく、すごく悲しそうで、私は胸を締め付けられた。
だって、彼もこうやって泣くから。
―――あれ?
彼?
彼なの?
誰?
分からない。
分からない。
何も、分からない。
彼は誰?
私は?
彼は私の?
好きなんだ、俺の―――……
そう、聞こえた。
それで、私は確信した。
ああ、確かに、彼だ。
幼馴染で、恋人。
私の大好きな彼。
そして、私は、私は、彼の―――……
好きよ。
気づくと、その言葉が零れ出ていた。
いつの間にか涙が流れ、景色が変わっている。
なぜかわからない。
この涙は、悲しいから?
それとも、嬉しいから?
わからない、やっぱりわからない。
―――彼が、目の前にいるのに、それが嬉しくて堪らないのに、涙が、止まらないの。
彼は私の手を包み込んで、なぜか涙を流していた。
その表情は、驚き?
それとも、喜び?
まさか、悲しみ?
ねぇ、せっかく会えたのに泣かないで。
私の、私だけの―――……
好き。好き。大好き。
この気持ちはそうとしか言えない。
微睡む意識の中、私はずっとその言葉を心の中で繰り返してた。
何度言っても足りない。
何百回言ってもこの気持ちは表しきれない。
いつの間にか、私は意識がなくなっていたようだった。
目が開きそうで、でも重くて開けない。
けれど、耳はちゃんと聞こえていて、さっきと同じ泣き声がした。
それは彼だと今度はすぐにわかって、頬に滴る涙が私はあの白い空間から彼のもとへ来たと実感させてくれて、早く彼にこの心の中で繰り返される言葉をまた言いたかった。
好き。好き。大好き。
だから、私は頑張って瞼を開いた。
随分と体が重い。
でも、頭ははっきりしていた。
好き。好き。大好き。
早く伝えたい。
その気持ちで満たされていた。
彼が私の頬に手を当てているからか、そこから焼けそうなくらいの熱が伝わる。
それは火傷しそうなのに、愛おしくて、すぐにでも自分の手を重ねてすり寄りたかった。
あの白い空間では自分の体という感覚がなかったから、それを思い出すように頑張って力を入れて、入れて、やっと―――私の瞳は彼を映した。
少しぼやける彼はみっともなく涙を流していて、真っ赤な鼻を啜ってはいるのに少し垂れていて、擦ったのか瞼は腫れていた。
正直言って情けないし、かっこ悪いと思う。
けれど、私には、世界一かっこいいと思えた。
ねぇ、となぜか掠れている声で彼の名を呼ぶ。
あれだけ好きという言葉を伝えたかったのに、私の口から出たのは泣かないで、だった。
その声もあまりにも途切れ途切れで、自分の耳でも何を言ったか判断しかねるものだった。
でも、彼はきちんと聞き取ってくれたようで、だって、と止まらぬ涙を流したまま言った。
君が、いるんだ、と。
その声も、私みたいに絶え絶えで、その言葉の意味が私はなぜか理解しきれなくて、また何を言っているのかわからない声音で言った。
馬鹿ね、と。
だって、私たちは幼馴染で、離れたことなんてなかった。
ずっと隣に暮らしていて、毎日のように顔を合わせた。
だから、いなかったことなんて、なかった。
いなくなるわけ、ないじゃない。
そういうと、彼は顔をくしゃりと歪めて、また泣き出して、そうだ、そうだ、と私を縋るように強く抱きしめた。
その身体は温かくて、私を抱きしめるその腕は少し不器用で慣れなくて、なぜだか昔を思い出した。
けれど、いつの間にか昔よりも彼の体はずっとがっしりと男性らしくなった。
それがなんだか嬉しくて、まだ力の入り切らない腕を彼の背に回して抱きしめ返す。
やっぱり記憶よりも筋肉がついて、肩幅も広くなった気がする。
そういえば、顔つきもずっと大人らしくなっていた。
―――あれ?
疑問が湧いた。
なぜ、彼は記憶よりも成長しているのだろう。
一つ不思議に思うと、他のことにも疑問を抱くのはすぐだった。
まるで、何かに思いとどまらせられていたそれが雪崩のように頭を走る。
なぜ、私の体はこんなにも動かないの?
ここはどこ?
彼がさっき言った言葉の本当の意味は?
なぜ、彼はこんなにも泣いているの?
さっきから靄がかかるこの記憶はなに?
わからない。
わからないの。
なんで、こんなに胸が痺れるように痛くて、苦しいのか。
彼の服を弱々しく握った。
私は、私は―――……
自分の瞳から流れ出る涙を追うと、私の視界に、白い仮面が映った。
それで、私は全てを、思い出した。
私がしたこと、全部。
私の、―――罪を。
私は未だ私の耳元で嗚咽を漏らす彼と自分の間に腕を持ってきて、そして、突っ張るようにお互いの体を離した。
あんなにも強く私を抱き締められていたはずなのに、思ったよりも簡単に愛しい温もりは消え去った。
彼がどうしたのと優しく尋ねるが、私はその顔を見ることができなかった。
だって、だって、もう顔向けできない。
私は、私は、彼が知っている私では、―――もう、ない。
人を殺した。
何人も、何十人も、何百人も。
それこそ命じたのを含めると、何千人も、何万人も。
彼らはみな、助けを求めていたし、私はその声をちゃんと聞いていた。
でも、助けなかった。
見殺しにした。
恐怖に、苦しみに、痛みに喘いでいたというのに。
私は、ただ眺めていただけだった。
私の手は、もう、汚れてしまった。
拭えぬほどの血が染み込んでいるだろう。
それこそ、呪いのように。
それに、私は彼に償いようもない酷いことしてしまった。
私を、殺させるという。
魔王と思っていたとはいえ、私が彼を人殺しにしてしまった。
だから、だから、私はこうして彼の目の前にいる資格がない。
私は魔王で、―――彼は、勇者だ。
世界を救った英雄だ。
魔王である私を、絶対的な悪を、打ち倒した。
もう私は、彼に会うことはできないだろう。
彼には、お姫様がいるはずだ。
なぜ私が生き返ったのかわからないけれど、私は、過去の人。
もう、死んだ人間なのだ。
お姫様と結婚しているはずの彼には邪魔なだけだ。
私はもう、彼とは―――……
力の入らない身体でも、魔力は自由に操れた。
私は不思議そうに顔を覗こうとした彼の顔を避けた。
そして、涙とともに零れたのはごめんなさいと言う謝罪。
掠れているのに、妙にはっきり言えたその言葉とともに、私は転移魔法を発動した。
もう会わせられる顔なんてないのに、未練がましい私は、転移する直前に、彼の顔を見た。
さっきも見たけれど、死ぬ前に思ったとおり、彼の顔つきはかっこよくて、凛々しくなっていて、私は改めて思った。
―――ああ、やっぱり好き、だなぁ……。
次は彼視点。




