その五 自覚
恋をした。自覚をした。
「けど、どうすればいいものなのか」
今まで恋愛経験のない雅雪に、どう行動を起こせばいいか考えろというのは酷なことである。
ハラハナのバイトを終えた雅雪は自室で一人、悩んでいた。どうすればいいかわからない、というのもあるし、この間、遠井との約束を放り出してしまったため顔を合わせ辛いということもあるのだ。
「ううん」
声に出してみる。
勿論、なにも変わらない。
自分でわからないのだから、誰かを頼るしかないのはわかる。けれど相談できる相手なんてごく僅かだ。一番頼りにできるのは母だろうが、自分が恋をした、と知った父は非常に面倒な存在だった。この間だって泣いて喚かれ、最終的に母と寝室に入っていったのだからどうしようもない。
「あっ」
そういえば、彼も恋愛経験者じゃないか。
ふと思い出す、金色の少年。少年――武田も、桜子に恋をしていた恋愛経験者なのだ。
成就はしていないが、それでも相談するには充分だろう。
「もしかしたら、遠井さんのこととか聞けるかもしれないし」
相談が一番の理由だが、武田だったら遠井の近況を聞けるかもしれないのだ。利用するようで申し訳ない、と思うけれど仕方がない。
アドレス帳から武田の名前を探し、かける。
「あ、もしもし、たけちゃん――」
「なんの用だよ」
相談相手に選ばれた武田は盛大に顔を歪めながらも、指定された公園に来てくれた。なんだかんだ言って優しいんだから、と雅雪が挨拶をすると、ため息をつき「さっさとしろ」と促した。
「あのね、遠井さんのことなんだけど」
そう話を切り出すと、武田は一瞬ぽかん、と目を丸くする。どういうことだと無言で尋ね、それに答えるように雅雪は経緯を話し始めた。
勉強会のその後の流れを話していると、だんだん悲しくなってくるのは仕方のないことだろう。
「ねえ、どうすればいいかなあ」
話し終える頃には、雅雪の顔はくしゃくしゃに歪んでしまっていた。けれど武田からすれば「そんなことか」程度の内容で、めんどくさそうに息をつくばかり。
「今までこんな風になったことないし、わからないんだよ。好き、ってなって、告白するのはわかるけど、あんな、可愛い女の子に勝てるわけないじゃない」
雅雪の瞳に、じんわり涙が溜まり始めた。
あんなに幸せそうな遠井を初めて見た。その隣で笑う女の子は、自分がどんなに頑張っても勝てないくらい素敵だった。
三年も片思いしている相手ってあの子のことなんだろうなぁ、と考えるには充分すぎるものを見てしまったのだ。
小さく、「ふざけんなよ」と呟かれる。
え、と雅雪が武田へと顔を向けると、彼の顔はいつになく険しいものになっていた。
「勝てるわけがない、って思っても、そこで諦められるならその程度のことだったってだけだろ」
苛立ったような武田に、雅雪も思わず反論するべく口を開いた。
「だって、もう入る隙間なんてないな、って思うくらいだったんだよ。そんな簡単に言わないで」
「でも、そこで諦めようとしてるんだろ」
「私だって、諦めたくなんてないよ。でも」
「……それでいいだろ」
続けようとする雅雪を遮り、武田はゆっくり話し始めた。
「桜子さんに恋をして、でも結婚して、子供だっているって知った。それでも告白したのは、そういうことだ。いつまでも泣いてんじゃねぇぞクソが」
それは、桜子に恋をした自分の話だ。
ああ、そうか、と。雅雪は今になって、ようやくあの日の武田の行動を理解することができた。
「おら、さっさと帰れよ。いつまでも鬱陶しい」
頭を叩かれる。しかしその手はいつも以上に優しくて、嬉しさやら悔しさやら、武田への申し訳なさやらが入り混じり、雅雪の瞳からほろり、と大きな涙が流れた。
「うえっ、たけちゃぁん~……」
ありがとう、と続けようとした瞬間
「たけちゃん、いい天気だね。ところで、なんで雅雪ちゃんが泣いてるのかな」
凜と響く、しかしいつもより少し低い声が耳に届いた。
「と、遠井さん……」
それは間違いなく遠井のもので、武田は顔をサッと青くさせる。雅雪も青くなるほどではないが、なんでここにと固まってしまう程度は驚いていた。
「たけちゃん」
「……なんスか」
「そういえば今日さ、これから用事あるって言ってなかったっけ」
そう言う遠井はニコニコと笑っているが、穏やかさは微塵もない。それを察した武田はそそくさと公園から逃げ出すように出ていった。
残された雅雪は、未だに動くことができない。
自分も離れよう、と足に命じるがうまくいかず、遠井を凝視するのみだ。
「久しぶりだね」
雅雪はなにも返せない。
不思議に思ったらしい遠井は、困ったように「どうしたの」と首を傾げた。
「泣いてるのはなんで?」
その質問に答えるわけにはいかない。けれど無視し続けることもできず、顔を伏せてはあげてを繰り返し、目線を泳がし続けることしかできなかった。
遠井が再び口を開こうとするが、
「あれっ、兄貴じゃん」
という明るい声に遮られた。
「こんなところで女の子と二人とか、兄貴も隅におけない……って、泣いてるじゃん。ちょっと兄貴、なにしてんのさ」
声の主は先日見かけた美少女で、雅雪は一瞬肩を揺らした。
「俺だって何があったのかは知らないよ。……本当に、どうしたの?」
「ねぇねぇ、大丈夫?」
二人に声をかけられるが、雅雪は何も答えられない。えっと、あの、その、としか返せず、遠井はもどかしそうに「相談なら乗るよ」と言った。
「雅雪ちゃん」
「〝がせつ〟……?」
遠井が呼んだ名前に、少女が反応する。なんだろうと思うより先に
「君が噂の雅雪ちゃんか! 兄貴から話は聞いてるよ!」
少女は無邪気にそう話す。それにまた涙が出て来そうになるものの、手を握りしめることでどうにか持ちこたえる。
「あ、の、その子は」
必死に紡いだその質問に、遠井は軽く笑って少女の紹介をし始めた。
「この子は花幸鈴悧。俺の大事な子だよ」
「どーも。気軽にれいちゃんて呼んでね」
その言葉に、握っていた手に痛みを感じなくなった。
やっぱりそういうことかと思うと、わかっていたはずだが、目頭が熱くなるのを感じた。
――たけちゃんに、諦めたくないって言ったのにな。
先ほど公園を出た彼をぼんやり思い出す。視界がぼやけて、あ、と思った。
「雅雪ちゃん、ボクに着物について教えてよ」
ぽたり、と涙が溢れたが、次の瞬間視界いっぱいに現れた鈴悧に、流れようとスタンバイしていた涙はどこかへ逃げてしまったらしい。
きらきらと嬉しそうに雅雪を見つめる鈴悧。それをきょとんと見返す雅雪。
「あー、あのね、前にれいちゃんに雅雪ちゃんのこと話したことがあるんだ。それで」
「そう。兄貴に『着物に詳しい子がいるよ』って聞いて、絶対会いたいって思ってたの。ほら、もうすぐで夏じゃんか? 雑誌で〝浴衣で出かける、彼との夏デート特集!〟とかさ、そういうのいっぱい出て来てさー、それがもう可愛くって。けど持ってないうえに着付け? もわからないから、協力してもらえたらなーって思ってたの」
「こういうこと」
着付けならハラハナに任せて。浴衣っていいよね。デートするの? その協力は、遠井さんとのデートに着ていきたいからってことかな。
マシンガンのような鈴悧の話に、雅雪は様々な思いが頭をよぎるのがわかった。
浴衣に興味があるのは嬉しい、けれど着ていくのが遠井とのデートなら、協力したくない。
そう考える自分が嫌になって、雅雪はすぐに返事はできなかった。
「お願い。ボク、ちゃんと浴衣を着てみたいんだよ」
顔の前で両手をあわせ、必死に頼む鈴悧はそれだけでもとても可愛い。どうしようかと困っているが、鈴悧の気持ちは本物らしく何度も「お願いだよ」と頭を下げられた。
ここまで熱心な子を断りたくない。
鈴悧の姿に、雅雪にはそんな思いが浮かんだ。きっと彼女は、浴衣を着れたらとても嬉しそうに笑うんだろう。――今まで見てきた、お客様と同じように。
心はキリリと締め上げられる気がするが、それでも彼女に教えたい、と、思う。そうなれば返す言葉は一つである。
「……勿論。どうせなら教室でお教えしますよ」
「では、今から必要なものをご用意しますので少々お待ちください」
「はぁい。えっへへ、楽しみにしてるね」
本当に嬉しそうに笑う鈴悧を見て少しチクチクとしたものを感じるものの、彼女が本当に楽しみにしていることがわかり、こちらまで嬉しくなってしまう。
それに答えられるように頑張ろう、と気を引き締め、道具類を保管してある部屋へと急ぐ。
浴衣は体に凹凸が少ないほうが綺麗に着こなせるので、胸を強調するような下着は控えたほうがいい。鈴悧は全体的にほっそりとしているため、肌に直接浴衣用のインナーでも構わないとは思うが、それでは落ち着かない人もいる。念のため和装用のブラジャーと補正用のタオル、それから紺色に花喰鳥《はなくいとり》という柄の浴衣を用意した。帯は明るめの黄色のものを、そして腰紐を二本、伊達締めを用意し、忘れているものがないか確認。
大丈夫とわかったらカゴにいれ、二人の待つ教室へと急いだ。
からりと開ければ待ちきれないとばかりに鈴悧が「早く」と声をかけてきて、思わず笑いながら「楽しみなんだね」と話しかけてしまった。
あ、敬語、と思った時には既に遅く、けれど鈴悧は怒った様子はなく、むしろ嬉しそうにまた笑った。
「別にいーよ。堅苦しいのより、今のほうがずっと好き。ね、早く早くっ」
「あ、あの、すみませんけど、着替えをするので遠井さんは席を外していただいても」
「別にいてもいーよ」
「えっ」
なんて大胆な。
驚くと逆に驚かれ、「別に兄貴だし」と言っている。今どきの子はこんなに進んでいるものなのか、と頬を赤くさせると、遠井はなにか察したように「じゃあ、別の部屋で待ってるね。どこにいればいいかな」と尋ねてきた。
「出て左に小部屋があるので、そこでお待ちいただければ」
「兄貴なら案内なくても平気だよね」
「えっ。え、え、あの、冷蔵庫にあるお菓子とか飲み物とか、食べても大丈夫なので。すみません」
穏やかに笑い、移動のために腰をあげる。
出て行ったのを確認すると、雅雪は「さて」と鈴悧に向き直った。
「改めて、夕陽坂雅雪です。今日は浴衣ということなので、順を追って説明させていただきます」
「はい、先生」
目に見えてウキウキしている鈴悧の体を見て、タオルはやっぱり使わなくても大丈夫そうだ、肌着はどうするか確認もして、など考えを巡らせる。
「では、服を脱いでください」
「ガッテン!」
そう言い脱ぎ始める鈴悧から視線を外し、肌着をすぐに手渡せるよう準備する。
そんなに時間はかからないので、すぐに彼女と向き合うことになるのだが
(あ、あれ)
ゆっくりと現れるその体に、どこか違和感。なんだろう、と失礼と思いつつ体に目を向ける、と――
「あああああああああっ」
突然の悲鳴に驚いたのは、まだ脱ぐ途中の鈴悧、隣で待っている遠井の二人だ。
鈴悧は目をぱちくりとさせ、遠井は焦りを露わに雅雪の名を呼びながら部屋へと戻ってきた。
「え、あの、ええ。れ、れいちゃん? え、え」
「えっ、ボクなにかしたかな」
「れいちゃん、なにがあったの」
「ボクのせいじゃないよ!」
どうしたのかと慌てる二人に、雅雪は必死に言葉を紡ぐ。
「れいちゃん、に胸がないです……」
……。
「は」
「……ねぇれいちゃん、もしかして教えてないの?」
「なにを? って、ああ」
思い当たることがあるようで、鈴悧はぽんと手をうった。状況を理解できない雅雪に、鈴悧はなんてことはない、というように、
「ボク、これでも男の子なんだよ」
と説明した。
「……は?」
しかし、それでも雅雪は混乱したままだ。
「れいちゃん、説明が足りないだろ。
……あのね、れいちゃんは、女装が好きな男の子なんだ」