その四 いたいのは、それは
「はぁ」
無意識のうちに溜息が漏れる。
あれ以来なんとなく元気が出ず、雅雪のもやもやも晴れることはなかった。
けれど連絡が途絶えることはなかった。夏前といえど遠井は高校三年生で、受験も近いため直接会う機会は減ったが、それでもメールは結構な頻度で交わされている。
「勉強会、大丈夫かなぁ」
そう、雅雪と遠井は三日後の日曜日、勉強会をする約束なのだ。
雅雪も宿題が出ている、テストが近いなどの理由で教わりたいのは山々だが、今の状態で会っても失礼な態度しかとれる気がしない。
それは失礼だし、ならいっそ、断るというのはどうだろう。
ふとよぎった考え。できることなら避けたい方法だが、このままでは自分にも相手にも悪いことしかないのなら、と思う。
でも、この間のもやもやは実際に会って話し合うことで解決したのだ。
(できれば会いたい、ってのもある、たしかに、うん)
と思えば、雅雪はどうするか、すぐに決まった。
「よし、日曜日にちゃんと話そう」
……意気込んだのはいいものの
「『今日は行けなくなっちゃった。申し訳ないけど、また今度にしてもらえるかな』か……」
問題の日曜日、集合時間の一時間前。雅雪に届いたメールにはそう書かれていた。
正直安心した感はあるが、それでもこんな直前に断りのメールをもらうなんて思わなかったため驚きの方が大きい。
「でも、なんでだろ」
近所のファミレスで行う予定だったため、雅雪はまだ家から出ていなかった。今から別のところへもいける、が、そんな気分でもない。
「うーん、気になるなあ」
自分から断ろうと思ったくせになんだが、何故いけなくなったのか気になってしょうがない。
ぼすん、と着替えた姿でベッドに倒れこみ携帯をいじくる。しかしそんなことをしても気が紛れるわけもなく、ふかふかと気持ちのよい敷布団へ顔を埋めた。
「雅雪ー? アンタ出かけるんじゃないのー?」
桜子の声が少し遠くから聞こえる。
雅雪の私室は二階にあるが、桜子は階段をあがるのを嫌がるのだ。そのため部屋にいる雅雪に用があるときは一階から声がかかるのだ。
「なんかねー、今日は来れなくなっちゃったんだってー」
雅雪もその場で返事をすると、桜子からの声がすぐに返ってきた。
「あら、残念ねー。だったらちょっと、お使いお願いしてもいいー?」
「えー、やだー」
「勉強会しないなら家の手伝いくらいしなさいよー! てことで、玄関にお金と買出しリストとエコバッグ置いておくからお願いねー。あ、お釣りは必ずあたしに渡してね」
うぐ、と声を詰まらせた雅雪に、桜子は次々とお願いをしていく。そして断る前にさっさと買出しに必要なものを揃えてしまったようだった。
「じゃ、よろしくー」と語尾に音符でもつきそうなほど軽やかにそう言われ、ドアが開けられた音がしたかと思うと家に人の気配がなくなる。
いつもは騒がしいので、なんとなく寂しく感じてしまう。
「……買出し」
こんな気持ちで静かな場所にいてもなにも解決しないよね。そう自分を納得させ、しょうがないから買出しを済ませてあげようと準備を始める。といっても着替えは済んでいるので、財布と鍵を持つ程度なのですぐに終わる。
玄関にきちんと置いてあったそれらを持ち、外に出て鍵をかけたことを確認すると近くのスーパーへと走る。
自転車でいってもいいが、走ったほうがすっきりするかも、と思い、そのままダァッと駆け出した。
リストに載っていたものは全て買い終え、コンビニで何か買おうかなと歩いている途中、ここ最近で見慣れた金色、背中を見かけ走り寄る。
「たけちゃん」
名前を呼ぶと一瞬動きが止まったものの、すぐに歩みを再開される。
「ちょっと、聞こえてるでしょ、たけちゃん」
ぱたぱたと慌てて追いかけるが、彼の足の長さと歩くペースには簡単に追いつけない。
たけちゃん、たけちゃん、と名前を呼び続けると、武田は突然立ち止まった。その隙に、と慌てて傍に寄ると、武田に射殺さんばかりの視線を向けられた。
「そんな顔しないでよー。たけちゃんが止まってくれないのが悪いんだから!」
「……てめぇはよ、ここが昼間で、日曜で、ついでに人通りも多いのを理解してるのか?」
「当たり前じゃない」
なにを言っているの、と不思議そうに首を傾げる雅雪に、武田の頬がひくりと引き攣った。
「だったら、人の名前をそんな風に呼ぶんじゃねぇ、よ!」
「あ……いたっ、いたたたたた」
ギリギリギリギリ、と容赦なく頭を鷲づかみにされる。痛みに呻くが、武田がやめてくれる様子はない。
名前くらいいいじゃない、と思ったものの、「そういえば、自分は彼を愛称で呼んでいたんだっけ」と思い出した。確かに、男の子がそう呼ばれるのは恥ずかしいのかもしれない。ちゃん付けだし。
「ちょっ、たけちゃん、ごめんって」
「………………」
言ってから気付く。
――またたけちゃんって呼んじゃったよ!
いたたたた、と呻く声はどれほど続いただろうか。やっと解放されると、雅雪は急いで掴まれていた部分をさすりだす。時間にすれば五分も経っていないはずだが、雅雪からすれば非常に長い時間ああされていた気がする。
「たけちゃんのバカ。私がこれ以上バカになったらどうするの」
恨みがましく武田をにらむと、ハンと鼻で笑われた。
「それ以上バカになったら? これ以上バカになれんのか」
「なりますー、最近遠井さんのおかげで頭良くなりつつあるんですー」
二人は端から見れば馬鹿らしい言い争いをしていたが、雅雪から「遠井」という単語が出た瞬間、武田が「あ?」と眉間に皺を寄せた。
「そういやお前、今日遠井さんと勉強会じゃなかったのか。まさか、サボ……」
「まさか、そんなわけないじゃん。なんか、急用が出来たんだって。今日はごめんね、ってメールが届いたんだよね」
すると武田は頭上に「?」を浮かべ、そして納得したように一つ頷いた。
「あー。あれって今日だったのか」
何か知っている様子の武田に、雅雪はとびかからんばかりに近づいた。その際持っていた食材の袋が彼にあたり少し顔を顰めたものの、雅雪が説明を求める前に自分の持っている情報を教えてくれた。
「人と会うことになった、って前言っててよ。その時は日取り決まってなかったみてぇだから、急用っつったらそれじゃねえか」
確定ではないがな、と続ける武田。なるほどそういうことかと雅雪が息をつくと、武田はくるりと背を向けてしまう。
「あっ、えっと、たけちゃん」
彼は歩くのが早いので、追いかけるのは疲れてしまう。ならせめて、とその背中に一つ、言葉を飛ばす。
「ありがとう」
何も反応はないが、それでも雅雪は彼の優しさに触れ、少しすっきりした面持ちになった。
――差出人:遠井さん
件名:こないだはごめんね
本文:この間は突然ごめんね。
お詫びっていったらあれだけど、次の土曜日に会えないかな?
武田に会った日の夜、遠井からメールが届いていた。特に用事もないので「大丈夫ですよ」と返信し、時間やら集合場所やらを確認してから眠りについた。
あっという間に時間は過ぎ、気がつけば土曜日になっていた。
完全に吹っ切れてたわけではないのでやはり少し緊張する。
しかし会いたかったのは確かなので、雅雪は集合時間の十分前には到着するよう家を出ていた。
「あんまり早くにいても気にされちゃうかな」
あと二分も歩けば集合場所には到着できる。
午後一時に集合予定だが、現在十二時四十五分。微妙に早くついてしまうのだ。
「一応様子を見て、それから少し、どっかで時間を潰せばいっか」
ここで考え込んでも邪魔になるだけだ、と雅雪は歩き始める。
「あれ、もしかして……」
集合場所近くまで来て、見慣れた姿が視界に入った。すらりと背の高いその姿は、紛れもなく遠井である。
「遠いさん、もう着いてる!」
まだ早いといえど、待たせるわけにはいかないだろう。小走りで近付き、そして――異変に気付いた。
もう一人、小柄な少女が立っているのだ。
親しげに会話していることから、二人は他人ではないと確信する。
少女はひどく可愛らしく、すれ違う人も思わずといった様子で振り向いているほどだ。ぱっちりとした瞳、ふわふわと巻かれた髪、水色のワンピースに薄手の白いボレロを羽織った少女は遠井の隣でキラキラと輝いている。
少女が遠井に話しかける。遠井はそれに笑って答える。その微笑みは今までにないくらい幸せそうで、少女もそれに笑って答え――それは、どこから見ても『幸せな二人』に違いなかった。
キリ、と締め付けられる。何が、と聞かれても分からない。
けれど、いたい。
一分も歩けば彼の前に着ける距離なのに、彼が顔を上げれば自分に気付く距離なのに、会いたいと思っていたはずなのに――雅雪はたまらなくなって、その場から逃げ出した。
時間になっても現れない雅雪に遠井から心配するメールが送られて来たが、返信する気にはなれなかった。
二日前、雅雪は遠井との約束をすっぽかし家に帰ってしまった。
いたい、と思っていたらいつの間にか泣いていたらしい。ぼろぼろと涙を流し帰ってきた雅雪を見て、桜子も、丁度休みだった父の雪太郎も驚き、何があったのかと問い詰めてきた。いたいと思うだけで、自分でも自分の状況を理解できていない雅雪は困ったように眉を下げることしかできない。
心配されているのは分かる。けれどどう説明すればいいかわからない。
そんな娘の心境を二人は分かりきっているようで、涙の理由については何も尋ねず、たださりげなく気を使ってくれるに留めている。
刻々と時間は過ぎ、大好きなハラハナのお手伝いにも身が入らず、二日。
どうしよう、と自室で枕に頭を埋めていると、コン、と控えめに扉を叩かれた。
「……なぁに?」
「あたしよ。入っていいかしら」
いいよ、と返すと、ゆっくりと桜子が入ってきた。その顔には心配が滲んでおり、申し訳ないなと思う。
「そろそろ、話してもらおうと思ってね」
「うまく、説明はできないけど、それでいいなら」
「平気よ。――じゃあ、聞くわね。土曜日に、一体何があったの?」
静かに語りかける桜子。雅雪はすう、と息を吸い、そしてゆっくり話し出した。
「恋ね」
遠井との出会いから二日前の出来事までを話し終えると、桜子は静かにそう呟いた。
え? と聞き返すと、話し始める前の様子とは一転。嬉しそうに顔を綻ばせ、桜子は「だから、それが恋よ」と繰り返した。
「こい」
「そう、恋。あんたはね、その遠井くん、て子が好きなのよ」
「すき」
恋。すき。自分は、遠井のことが好き。
「好き? 私が、恋ぃい!?」
まさか、と声をあげるが、桜子はにこにことそれを肯定した。
「そう。遠井くんと一緒にいるのは楽しいんでしょ? でも、とんでもない美少女と一緒にいるのを見たら苦しくなった……。それは嫉妬。彼のことが好きだから、なの!」
「えぇ……。でも、そんな、それくらいで……」
と反論するが、考えてみれば、最近の自分は遠井のことばかりだと気がついた。
遠井と一緒にいるのは楽しい、けれどそれだけではなかったのは知っている。
「そ、そうなのかな」
なんだか急に恥ずかしくなり、雅雪は枕を抱きしめ顔を埋めた。顔が熱い。
「絶対そうよ。はぁ、雅雪にもやっと春が来たのね」
顔を上げなくても桜子の上機嫌ぶりがわかる雅雪は恥ずかしさでいっぱいだ。言われてみれば、自分は遠井に、恋を、していたのだ。
「ううううううう」
「ふっふっふ、悩みなさいな。恋はいいものよ」
「うう……」
体中が熱を出したように熱かった。なんだこれはー、と悶えていると、桜子の雰囲気が変わったのを感じ取る。
「おか……」
「うん、安心したわ。いじめられてるのかも、とか考えてたから」
顔を上げると、そこには静かに笑う桜子が見えた。それは『母』そのもので、雅雪はつい目を見開いてしまう。
「こういう理由なら大歓迎よ。また話聞かせてね。あたしも雪太郎さんとラブラブしてこよーっと」
が、すぐにいつもの笑顔に戻り、スキップしそうな勢いで部屋から出ていった。
ありがとう、と小さく呟き、これからどうしようと雅雪はベッドへ倒れこんだ。