その二 優しい笑み
「雅雪、今日はなんで助けてくれなかったの?」
もう、と頬を膨らませる桜子は、とても子持ちには見えない。けれど、どれだけ可愛らしい顔をされても、雅雪にだって考えあっての行動だったのだから、それはわかってもらいたい。
「お母さんなら、どうにかできると思って」
なにもしなかったのではなく、しなくても解決できると思ったのだ。誤解されては困る、と、雅雪は桜子と向かい合い、自分の考えを主張した。
「変に刺激して暴力沙汰になっても困るなって思ったんだよ。それに、お母さんを指名したなら、そのまま対応してもらった方が穏便に進むんじゃないかな、って」
もぐもぐとご飯を頬張りながら、雅雪はそう説明する。桜子は納得いったように頷いたが、「結局手を出してたけどね」と難しい顔をした。ご飯前に十分説教はされたのだが、不満はまだまだ残っているようだ。
「彼らが大きな問題にせず、去ってくれたからよかったものの……。それに、あの子に告白されてたらもっと――前回みたいに時間がかかったかもしれないじゃない」
「あー、あの、遠井さんて人が来るまで四十分だっけ。……でも、名前を呼んだだけで『これから告白するのか!』とはわからないしなー。それは無理ってものですよ」
ゆらゆらと湯気が舞うお味噌汁を口に入れると体がじんわりと暖かくなるのがわかり、笑みが浮かぶ。今日の夕飯もおいしいな、とのんびり考えていた雅雪だが、驚いたように目を丸くする桜子の姿に思わずびっくりしてしまう。
「なんで驚いてるの?」
「いや、ちょっと雅雪の言い分に理解できない点があったから」
なにか変なことを言っただろうか、と雅雪は首を傾げた。その様子を見た桜子は「本当にわからないの?」と、念を押すように問いかける。
わからない、と頷けば、桜子は勢いよく机に乗り出し雅雪へと近付いた。
「ちょっと、顔近いよ」
「だって! アンタね、男が切なげに名前を呼ぶのは告白のときだって、相場は決まってるのよ!? しかも、あのセリフ! 『もう一度聞いてください』なんて、明らかにそういうシチュエーションでしょう!!」
熱く語る桜子をきっかけに、昼の光景が頭をよぎる。名前を呼ぶ少年、もう一度、と離し、そして手を――
顔が熱くなったのを悟られまいと、雅雪はバッと顔を伏せた。
その反応を見て、桜子は「もしかして」と口を開いた。
「雅雪って、恋愛経験、ないの?」
「違うもん!」
反論するためにあげられた顔は見事に真っ赤で、それは桜子の言葉を肯定しているようなものである。桜子は信じられないというように目を見開いた。
「雅雪、あんたね、もう高校生でしょ? 今までに恋人の一人でもいたことはないの!?」
「うっ、な、ない、ことはない、よ!」
「その反応! ああ、もったいない。私に似て可愛らしい顔してるのに、恋人がいないなんて……。確かにそういう話題は出て来ないなって思ってた、思ってたわよ。でも中学生だし、隠したいお年頃なのかなってさ」
ブツブツと何かを呟き始める桜子。なんとなく雅雪はいたたまれなくなり、とりあえずと残りの夕食を口へと運んだ。あ、卵焼きおいしい。
「……私だって、恋くらいするもん……」
ぽつりと呟くが、雅雪自身、「恋をする自分」を想像できなかった。
「雅雪、明日はオシャレして学校にいきなさい。あたしがセットしてあげるから、いつもより三十分は早く起きなさい。いいわね」
それに反応したのか違うのか、桜子は雅雪に指を突きつけそう言い放つ。反論しようと口を開いたが、桜子の勢いに勝てるはずはなく。また丁度よく帰ってきた父が桜子側についたため、諦めるほかないか、と一つ、大きなため息をついた。
「よーし、カンペキ。うん、やっぱり可愛いじゃない」
にこにこと機嫌よく話す桜子に、雅雪はおずおずと声をかける。
「本当に? というか、いきなりオシャレしたらさ、なんか言われたりするんじゃあ」
雅雪の髪型はお団子と変わりないが、目はいつもよりぱっちりし、またふんわり甘いチークがうっすらと頬を彩っている。劇的に変身したわけではないが、いつもすっぴんで過ごしている雅雪にとっては恥ずかしく感じられ、背中がかゆくなるようだった。
「高校生ならこれくらい普通よ。あ、今日のお弁当も力入れてみたから楽しみにしててね」
瞬間、パッ、と雅雪の周りに花が舞う。
色気より食い気の雅雪には、オシャレよりも力の入ったお弁当のほうが魅力的だ。
(……そういえば、遠井さんは高校生なのかな)
そう考えて、雅雪は自分に驚く。
自分はなんで、あの人のことを考えたのだろう。
接点もないのにな、と不思議に思い、けれどすぐに頭を切り替え学校へと意識を向ける。現在七時五十分。そろそろ家を出なければまずい時間だ。
忘れ物がないか確認し、鞄を持って玄関へ向かう。
「いってきまーす!」
今日の予約は何人だっけ、と、すでに放課後のことを考えながら、雅雪は自転車に跨った。
――桜子が告白されたあの日から一週間。
雅雪は、遠井のことで悩んでいた。
「なんで~……?」
理由はわからない。ただ、ふとした時に彼を思い出し、その度にどうしようもない「何か」が雅雪をもやもやさせるのだ。それら彼女の動きを制限し、話しかけられても反応できない、前を見ないせいで電柱にぶつかるなど日常生活にも支障が出始めている。
今日も仕事が一段落し、さぁ片付けようという時間。雅雪も勿論参加しているのだが、他のスタッフに比べ動きは格段に遅かった。
いつもなら、誰よりも早く動いているはずなのに。
そんな雅雪を心配する者は多く、「大丈夫?」「風邪ひいたんじゃないの」「お腹空いたの?」と沢山の声をもらっていた。そのたびに雅雪は「心配するようなことじゃない」と話すのだが、知っている人が見ればおかしい、とすぐわかってしまう。
「なぁに、風邪?」
桜子にもそう聞かれ、雅雪は今までと同じように答える。しかし、彼女は納得しない。
「動いてはいたから見逃してたけどさ、今のアンタ、すごいおかしいよ」
ずばりと言われ、雅雪はうっ、と言葉に詰まる。
自分でも、自分の調子がおかしいことは自覚していたのだ。だけど――その原因が言えるようなものではないから、誰にも相談できないだけ。
「流石に、これ以上対応しないっていうのはできないわ。だから」
これは話さないといけないパターンか、と雅雪は小さく固くなる。けれど桜子は、雅雪の腕を掴んで玄関へと歩き始めた。
「へ?」
まさか外で? と思うと同時に、桜子は扉を開け――
ぽい、と、雅雪を外へ放った。
「あいたっ! え、え!?」
混乱する雅雪を気にせず、桜子は静かに扉を閉めた。
「お母さん!?」
呼んでも返事はない。聞こえてきたのはカチャ、という小さな音だけだ。
……まさか、今の音って。
嫌な予感、と恐る恐るドアノブに手をかける。ゆっくり回せば、開くはずの扉。だが
「やぁっぱりー」
ハハハと乾いた笑いが漏れる。なんと桜子、娘を締め出してしまったのだ。
雅雪にとってハラハナはとても居心地の良い場所なのだ。(実家より居心地がいい、なんて言ったらお母さんがなんて言うか)
スペアキーを持っている、なんてことない雅雪には、再びハラハナへ入る術は残されていなかった。このまま帰れってことですかー、と途方にくれる。六月だが蒸し暑くはなく、むしろ心地よいくらいの気温ではある。
ヴー、ヴー。
小さく響いたその音は、雅雪の携帯から発せられている。帯から取り出し、内容を確認する。
――差出人:お母さん
件名:気分転換してらっしゃい
本文:(なし)
「……せめて本文に書こうよ……」
けれど、桜子の気遣いは素直に嬉しく思う。確かに今の状態でいられても邪魔なだけだろう。考える時間も欲しかったし、どうせならこの時間、有効活用させてもらおう。
ファミレス、カラオケ、ゲームセンター、コンビニ、本屋。どこにいこうか考えて、決定した先は公園だ。
雅雪の家からほど近くに、『海驢野公園』という公園がある。子供達の良き遊び場所で、雅雪も小さな頃にお世話になっていた。
海驢野公園ならそんなに歩かないし、ほんのり暗いこの時間なら、子供もそんなにいないだろう。という考えから、雅雪は公園へと向かっていた。
それにしても、なんであの人なんだろう?
今までは、誰かのことを考え過ぎて日常に支障が出ることはなかった。まぁ、着物の勉強のしすぎでちょっと、ゴネゴネとあったのは記憶に新しいが、それでもここまでひどいものではなかったはずだ。
「どこかで会った、なんてわけないしなぁ」
仮に会ったことがあっても、懐かしいなぁ、元気にしてるんだ、また会えるといいな、くらいで終わりだろう。
そこまで考え、ならなんで、と余計に分からなくなる。
「ううん? なんだろなー?」
呟きながらも、足はしっかりと進んでいる。
公園が目に入る。と、雅雪が瞳を輝かせた。うわあ、ちゃんと来たのは三年ぶりだ! と懐かしくなり、体がうずうずと動きたがった。着替える間もなく出てきたので、勿論着物のまんまである。けれど、だからといって我慢できるほど雅雪は大人ではなかった。
「海驢野公園よ、私は帰ってきた!」
公園に着くと、雅雪は両手を広げそう叫ぶ。
子供がいないからこそできることだよね、コレは!
と妙な満足を感じながらも、そろそろちゃんと考えよう、とポーズを解いた。さてどこに座ろうか、と公園内を見渡す。
「…………え」
木陰にあるベンチの一つに、見覚えのありすぎる金色が。更にその奥、木の根元にも人影が見える。
これは、どういう状況だ?
金色の下から覗く切れ長の瞳はひどく殺気立っているし、その後ろの人影もこちらを窺うように目を丸くさせている。
「あれ、もしかして、ハラハナの?」
響くその声は間違いなくあの日のもので、更に更に、立ち上がったその人も間違いなくあの日の彼で。
雅雪はすでに頭を抱えたいほどである。何が楽しくて悩みの原因である彼と、一緒の空間にいなければならないのか。
それだけでなく、武田もこの場に存在するのだ。嫌いとまではいかなくても、武田には良い印象がない。なんか言われたらどうしよう、と冷や汗が背中をつたったのは分かる。
「あ、ちょっと、たけちゃん」
良い印象がないのは武田も同じようで、不機嫌な顔をそのままに、ベンチから腰をあげた。そして大股で出入り口へと歩き始めた。
出入り口は二か所あるのだが、武田の進行方向は雅雪のいる方だ。
やるならやったる、と雅雪は身構えるがなにもなく、すれ違う時でさえ武田はまっすぐに前を見つめるだけだ。声をかけられるのは嫌だが、これはこれで嫌なものだな、と思っていると、今度は遠井が近くへやって来た。
「ごめんね、怖かったでしょ」
ちょっとだけ眉を下げ、申し訳なさそうに話しかけられる。うおう、と驚きながらも、ここで避けるのはかえって不自然だ、と雅雪は動揺を隠しながらも笑い返した。
「いえ、まぁ、大丈夫です」
当たり障りのない答えを返すと、遠井は突然小さく噴出した。
「あ、あの、どうしましたか」
変な顔でもしてしまっただろうかと焦る雅雪に、遠井はクスクス笑いながら「私は帰ってきた」と呟いた。
「聞こえて、ていうか、えっ!?」
慌てる雅雪を見た遠井は余計おかしそうに笑い始めた。
「いや、なんかね、叫べるくらい元気な子が大人しいから、ちょっと面白くて。バカにしてるわけじゃないんだけど」
彼に悪気がないのはわかっているが、だからといって戸惑いを抑えられるわけじゃない。どうしよう、と目を泳がせていると、遠井は優しい笑みを浮かべた。
「良かったら少し、お話しませんか」