プロローグ
寒さがピリリと肌を刺す十二月。高校受験を控えた夕陽坂雅雪は、勉強浸けの毎日に少なからずストレスを感じていた。
このままでは集中できないと立ち上がり、艶やかな黒髪を一つにまとめ、家を出たのが十分前のことである。彼女が向かっているのは、母の営む着付け教室『ハラハナ』。着物を愛する雅雪にとって息抜きには絶好の、むしろ毎日でも居たいと思う楽園だ。
小さい頃から着付け教室に親しんで育った雅雪が、着物に興味を持つのはごく自然な流れである。着物の魅力に惹き込まれた雅雪は中学生ながらに着付けもできるし、そこらの大人よりも着物に関する知識を豊富に持っていた。
うきうきと足どりも軽く進む雅雪は、小柄な体、つやつやと輝く黒髪、一重だがくるりと大きい瞳……と、「可愛らしい」といって間違いない容姿をしていた。しかし着物に夢中になるあまり、いわゆる『今どき』のファッションを取り入れようとはせず、現に今もジーンズにパーカーと、年頃の女の子にしてはラフなものだ。いいものを持ってるのにもったいない、と言われることもあるが、本人は一切気にしていない。
(今日はどんな人に会えるかな)
着物は勿論、着物に興味を持つ人たちも大好きな雅雪は、これから向かう場所を想像し思わず頬を緩めてしまう。
五分もせずについたビルを、エレベーターで四階へ。チン、と軽い音をたて開いた扉の右側に、『ハラハナ』と書かれた表札がかけられている。相変わらず寂しい文字だよなぁ、なんて考えて、ふと気付く。
「――、――――!」
扉の中から、なにか音が漏れている。
はて、今日はなにかイベントでもやっていただろうか。首を傾げてみるが、母はそんなこと一切口にしていないし、ホームページにだって告知もなにも載せていなかった。
ここで悩んでいても仕方がない、と雅雪は扉に手をかける。
「こんにちはーっ」
と声をかけても、誰からもなにも反応がない。いつもなら、スタッフさんが見つけてくれるのにな。そう思いながらも、先ほど聞こえた音の正体を見つけるべく歩き出す。
そんなに広い部屋ではないため、母のいる教室へは一分もかからない。トコトコと間抜けな足音を響かせていると、
「桜子さん、大好きです。お願いします、オレと付き合ってください!」
……と、映画でしか聞いたことのないような、熱烈な求愛の言葉が聞こえてきた。
「……は?」
思わずぽかんとしてしまう。ついで、「はぁ」と息が漏れる。
これは一体。というか、私はどうすればいいんだろう。
明らかに誰かが告白している現場に入っていこうと思うほど、雅雪の肝はすわっていなかった。
「大好きなんです」と声が続く。その言葉の意味を今更ながらに理解した雅雪はほんのりと頬を赤くし、慌てたように目線を泳がし始めた。
「えっ、えと、えー……っ」
弱弱しい声をあげながら、雅雪は右往左往し始める。扉の前を、右へうろうろ、左へうろうろ。自分が告白されているわけではない、と理解はしているが、中から聞こえる愛の言葉はひたすらに真っ直ぐで、ただ聞いているだけなのに照れてしまう。
(息抜きに来たのに、これじゃあ疲れるだけだよー!)
なんて内心で愚痴をこぼすが、雅雪はこの状況をどうにかする術なんて持っていない。
と、
「ごめんね、ちょっと右にずれてもらっていい?」
凜。聞いただけで背筋の伸びるような、不思議な響きの声がかけられた。
え、と雅雪が振り向くと、そこには背の高い、一人の青年が立っていた。さらさらの短い黒髪、穏やかな光を宿した瞳に、思わず、数秒動きを止めてしまう。
青年は顔を扉に向けたまま「用があるんだけど、入っていいかな」と雅雪に尋ねる。硬直したまま無意識のうちに「はい」と返事をしたが、「あっ」と慌てて説明を付け加える。
「あの、入っても大丈夫なんですけど、今なんか、こう」
もごもごと口ごもる雅雪だが、青年は大丈夫、というように小さく頷くだけだ。大丈夫じゃないですよ。そう思うものの、声に出すことは叶わない。次の瞬間には、青年がガラリと扉を開けたのだ。
そのまま入っていく青年を追うと、そこには金髪で目つきの悪い――不良、と呼ばれるような外見の少年と、彼に手を握られている母・桜子がいた。
桜子はキョトンとしているが、雅雪の姿を視界に映すと「どうにかしなさいよ」と目で訴えはじめる。そんな助けを求められても、と雅雪が困ったように眉を下げると、桜子は目の前の少年にばれない程度に小さく一つ、息をついた。
あ、やばい。
娘である雅雪には、桜子が何をしようとしているのかすぐにわかった。
桜子は今、猛烈に苛立っている。
ひっ、と思わず息を呑む。交流の浅い人にはいつもと変わらないように見えるが、桜子の頬が先ほどから小さく動いているのだ。桜子は優しいが、それは普段の話である。勿論裏の顔も存在し、その顔が出てくるのは今のような――自分の意見を聞かない相手と会ったとき、なのである。
「すみません。そいつ、俺の友達です」
どうしよう、と雅雪が迷っていると、先ほどの青年が声をかけた。
それに驚いたのは雅雪だけでなく、母の手を握り続ける少年も、驚いたように目を丸くさせる。
「遠井さん!? な、んでここに……」
青年――遠井は、困ったように眉を下げ、言葉を続ける。
「それはこっちの台詞だって。行き先も伝えずに走り出してさ、おかげで、見つけるのにすごい時間かかったんだからね」
「それは、すんませんっした……。でも」
「今日は特別な日、だっけ。だとしても、それはたけちゃんだけの話だろう。ここはまだ営業中、そんなときに来られても迷惑でしかない」
その言葉に、少年は「う」、と口ごもる。力が緩んだのを見計らい、桜子が手の自由を取り戻す。気付いた少年は息を呑んだものの、それだけに留まった。
「はい、じゃあ、たけちゃん。ちゃんと謝って、帰ろう」
眉を寄せ、思いっきり不機嫌な顔になる少年。その顔は、雅雪も思わず身構えてしまうほどの迫力だ。
しかし遠井は気にせず、目線で行動を促すだけだ。
数秒の沈黙。
「……桜子、さん。あの……すんません、した……」
少年は素直に謝罪を口にした。雅雪は「意外だな」と思ったが、確かに彼の言い分は正しい。反論できなかったのか、と納得するが、聞いた声はさっきまで愛を叫んでいた時とは別人のようで、ひどく弱弱しかった。
桜子が目をぱちくりとさせている間に、少年は背を向け、そのまま外へ出ていく。雅雪の横を通ったと同時に、遠井が「はぁ」、と一つ、ため息をついた。
「すみませんでした。営業中に飛び込んで、しかも告白されて……」
「確かに驚きましたが、あんな若い子に好意を持ってもらえるなんて嬉しいですわ」
「お綺麗ですし、彼のほかにも懸想している男は多いと思いますよ。――あの、申し訳ないのですが、今回は見逃していただけないでしょうか? 図々しいお願いとはわかっているのですが、あいつも必死だったんです」
そう言うと、遠井は深く頭を下げた。
確かに、彼が言うとおり、随分図々しいお願いだ。ハラハナは営業中で、しかもお客さんだってまだいらっしゃる。予約の時間まで残り僅かだし、次の方への影響も少なからず出るだろう。
しかし、何かを請求できるようなことでもない。
「ええ。まぁ、正直に言うと許せない面もあるのですが、私への好意故の行動を、厳しく罰するのも嫌な気分ですもの」
母も同じことを考えていたようで、薄く微笑みながらそう返す。
「ありがとうございます。貴方が優しい人でよかった」
安心したのか、遠井は先ほどの難しい顔と打って変わり、嬉しそうに目を細めた。もう一度礼をし、彼もまた外へと向かう。
邪魔になるかな、と雅雪は少し右へずれた。
(……あ)
すれ違った一瞬。雅雪は「何か」を感じ、彼の姿を目で追いかけた。しかし彼の後姿を見ても何もなく、小さく首を傾げる。
パタン、と扉が閉まった音が小さく響く。
「遠井、さん……」
会ったことはない。話したのもさっきが初めて。
だというのに、何故か彼の横顔が頭から離れない。なんでだろうともう一度首を傾げるが、桜子が大声で名前を呼ぶので、考えを中止するほかなかった。