捌
残酷描写があります。
「〝もしも〟という言葉はとても魅力的な言葉だと思わないかい?この言葉を使う術は様々だろうけど大体は未来に願望を馳せて、過去の後悔に夢想する。しかしそれだけで終わらないのがこの言葉の魅力的かつ甘美さを引き立てるのだろうネ。例えば恋仲同士の男女が良く使う『もしも君が世界中の人の敵になっても僕(私)はあなたの味方』嗚呼、実に美しい愛の物語さ。きっと誰しも一度は憧れる台詞に堂々ランクインするだろうネ。吾輩の勝手な持論だけど。まあ、吾輩からしたらその世界中敵に回すような莫迦なことする恋人はごめんだけどねぇ。そんなことになっても続く二人はそれはそれは深く愛し合っているのだろうネ。うんうん実に素晴らしい。でも実際はどうだろう?吾輩が言ったように大抵の者はその恋人を容赦なく切り捨てるんじゃないカナ?だってそんなことになるなんて本気で想像する者なんていないのだから。いや、いるかもしれないけどそれは本当に一握りだろうネ。これはその場の雰囲気を盛り上げるためのちょっとした材料さ。料理に使う隠し味なんかに似てるかもしれないネ。んん?話が大分ずれた気がするけど、でもそれはご愛嬌ということでいいよネ?つまり吾輩が何を言いたいかというと〝もしも〟というのは使った者にとってもっとも良いことか、悪いことかの結果の先にあるんだヨ」
口の端を三日月のように吊り上げて笑いながら朗々と淀みなく話す『鬼』は目深に被った学帽を更に深く被る。
肩に掛けられた白地に咲く大輪の椿の赤が毒々しい。
しかしそれ以上に毒々しくて美しいその真紅の髪が床に散らばり広がって夕焼けの川のようだ。
「吾輩が聞いてきたのは断トツで後悔の〝もしも〟だけどネ。『〝もしも〟あの時ああしていれば』これは誰しもが一度は必ず使うだろうネ。どんなに恵まれた者でもこれを使わない者はいないさ。状況によってこの言葉に重みが増すのも面白いところだと吾輩は思うヨ。これを言ったら吾輩の人格を疑うと青鬼に言われたことがあるけどねぇ。でもそう感じるのだから仕様がないと吾輩は思うんだ。ほら『人の不幸は蜜の味』て、言うだろう?つまり誰しも自分より劣った者を見るときは少なからず愉悦を感じているのだろうネ。そして安心するのさ。『ああ、自分はこいつよりはましだ』とネ。こう答えるから益々嫌な奴だと言われるのだろうけどネ。あ、勘違いしないでもらいたいんだけど吾輩は別に他人の不幸を眺めて愉悦に浸る下衆な性格ではないよ?多少は愉快には思うけどネ。吾輩が見たいのは不幸ではなくその〝もしも〟の先なんだよ。その言葉を吐いたその後の行動が見たいのさ。だって想像するだけで気分が高揚するだろう?その〝もしも〟に押し潰されるのか、それとも乗り越えるのか、はたまた停滞するのカナ?嗚呼、藻掻き足掻いた先にあるその姿は何て美しいのだろうネ!」
くつくつと喉を震わせて笑う『鬼』は不気味だった。
まるで子どもの中に大人が入っているようなその口調も、思考も、仕草も、この『鬼』を形成する全てが雪姫にとって不気味だった。
「おや?どうにも吾輩は話が脱線しがちでいけないネ。失敬失敬。だからお詫びに吾輩の質問に一つ答えてくれたら聞きたいことをタダで教えてあげるヨ。何でもいい、何でもさ。」
きっと見えないその眼は雪姫を視て哂っているのだろう。
――――楽しそうに、つまらなそうに、面白そうに、退屈そうに。
「さて、君はどんな〝もしも〟を望んでるのカナ?」
不快を一切隠さない蔑んだ眼で雪姫は吐き捨てる。
「……気持ち悪い」
そんな返事すら予測していたように『赤い鬼』は朱雀門楓は哂うのだ。
「褒め言葉さ」
ああ、本当に気持ちが悪い。
雪姫はかつてない嫌悪感を確かにこの『鬼』に感じていた。
◆
すっかり機嫌を直した空模様の中びしょ濡れの格好で帰って来た雪姫とクラウディは丁度良く暖簾を潜ろうとしていたライと鉢合わせ小言を言われながら津軽の許まで連れていかれた。
因みにクラウディが土産だと言って椿を渡すと一瞬訳が判らないといった顔をしていたがすぐに何かを察したのかニヤニヤとした笑みをクラウディ向けこっそりと雪姫の耳元で囁いた。
「ね?見かけによらず優しいやつでしょ?」
パチリと片目を閉じて得意げなライに雪姫は口元を緩めて頷いた。
諦めたような呆れ顔の津軽に湯船に浸かってくるといいと言われ二人はありがたくその厚意に甘えることにした。
湯上りの雪姫がライとクラウディの使っている客間に行くといつも既に上がっていたクラウディとライが高級そうな座布団に胡坐をかいて待っていた。
その二人の正面に同じように高級そうな座布団が一つ。
二人の方に目をやれば目線で座れと促されたので大人しくその座布団の上に正座する。
ふかふかとした感触を楽しんでいるとまるで見ていたかのような絶妙なタイミングで御膳が運ばれてきた。
彩りよく盛られた野菜や、天ぷらにつやつやとした白米。刺身やおひたしに汁ものまで付いている。
今まで食べたことがないような高級なご飯に目を瞬かせる雪姫とは違い慣れた手つきで箸を持った二人はそれをさっさと咀嚼していく。
刺身に手を付けながらライが不思議そうに固まっている雪姫を見た。
「食べないの?おいしいよ」
その一言に弾かれたようにして慌てて箸を持った雪姫が迷った末に天ぶらに手を付ける。
それを見届けたライが笑って今度はおひたしに手を伸ばした。
「話は食べた後にしようね」
思いがけない先手をくらい天ぷらを齧った状態で再び固まった雪姫を見てライがまた笑う。
何処かふてぶてしさを感じる笑みだった。
「気をつけろ。こいつは性悪だぞ」
「実は君僕のこと嫌いなんじゃないの?」
「……」
「否定してよ!?」
嘆くライを無視して黙々と箸を進めるクラウディに尚も食って掛かるライが親猫にかまってもらえない子猫のようだと想像して雪姫は二人に気付かれないようにそっと笑みを漏らした。
◆
「それじゃあお腹も膨れたことだし、はい!話したいことがある人は挙手!」
「……え!?」
「構うな。ただの悪ふざけだ」
豪華な料理に舌鼓を打ち余韻に浸っていた雪姫に突然の宣告をするライの頭をクラウディが容赦も躊躇も一切なく思い切り叩いた。
もの凄い音がしたはずなのにケラケラと笑っているライは頑丈なのか慣れなのかと判断に迷っていると急にライが静かに雪姫を見て笑った。
「でも話したいことあるんでしょ?」
いつもとは違う大人びたその声と表情に少し戸惑ったが雪姫はクラウディの時と同じように腹をくくることにした。
初めて会った時とは比べ物にならない強い意志が見て取れるその赫い瞳にライは目を細めた。
「わたし『幸せ』になりたいの……ううん、なるの」
「うん」
「だからねわたし、知りたいの。わたしのこともあの子のことも両親のことも全部知りたいの」
「うん」
「でもわたしだけじゃ多分できない。情けないけどわたしは本当に何も知らないから」
雪姫の長い睫毛が震えて影を落とす。
ライは変わらず静かに笑ったまま彼女の言葉の続きを待つ。
「だから、この国にいる間だけでいいから……わたしに協力してください!」
「うん、いいよー」
「……え!?」
少しも考える素振りを見せずライは軽い返事で承諾した。
確かにクラウディは二つ返事で了承するだろうとは言っていたがあまりにもこれは軽すぎるのではないだろうか。
呆ける雪姫を見てライが首を傾げた。
「あは、鳩がガトリング喰らったみたいな顔になってるよ」
正しくは豆鉄砲である。そんな木端微塵な鳩の顔をどうやって確認すると言うのだろう。
「どうせクラウディは引き受けたんでしょ?なら問題ないない」
「ほ、ほんとにいいの……?」
「あは、当然だよ。可愛い女の子のお願いは断れないよ」
そこらの女子よりも綺麗な顔立ちのライに言われてもとは思うが言われ慣れない言葉に驚き黙りこむ雪姫に気付かずライは片手をひらひらさせてクラウディを見遣る。
それに頷くだけで返事を返したクラウディを見てライは改めて雪姫を見た。
「それじゃ、改めてよろしくね!ユキちゃん」
自然な動作で出された片手におそるおそるといった動作で雪姫が手を握るとぎゅっと一度だけ強く握られた。
雪姫よりも大きくてゴツゴツした少しカサついていたその手にやはり綺麗な顔をしていても男の子なのだとぼんやりする思考の中思った。
「じゃあこれから暫く一緒にいるんだしお互いのことを知らなきゃだね」
手を放したライが自分たちについて雪姫にざっと説明する。
自分たちの出自と所属していた組織について噛み砕いて説明する中それを聞いている雪姫が始終百面相をするものだから途中ライがふざけて話を大袈裟に盛り、クラウディがそれを(物理で)止めたりと忙しいことこの上なかったが大方のことは雪姫に話すことはできた。
話し終えたところで本当に見ているんじゃないかと思うほどの良いタイミングで使用人がお茶を運んで来たので三人ともそれに口を付ける。
しかしライと雪姫にはそのお茶が熱かったらしく二人とも一口で飲むのを止めてしまった。
一人優雅に茶を啜るクラウディを恨みがましげに見ているライに雪姫はお茶が冷めるまでの辛抱だと苦笑いした。
そこで思いついたかのように二人に質問する。
「二人を匿ってくれた神父様と女の子ってどんな人だったの?」
「ん?ああ、そうだなぁ……名前はギルベルド・クロス・ゴーシュ、て言って僕らはギル神父って呼んでたよ。基本的に目が細いからいつも笑ってるように見える人だったな。実際怒ることなんか滅多にない穏やか~な人だったな。でも怒ったら本気で怖い人だった」
言いながらその時を思い出したのかぶるりと身を震わせたライが自分の腕をさする。
心なしかクラウディも少しだけ顔色が悪く見えた。
「女の子の方はアリア、て名前でね。几帳面なんだか大雑把なのか良く判んないとこがあってさ。でも子どもとかには凄く優しかったな。本人も子ども好きって言ってたし。基本的にはしっかりしてたけどたま~にドジやらかしてたね。ギル神父と同じでこっちも怒ると怖いんだよねぇ……」
二人のことを話すライの表情は穏やかで優しいものだった。
話しながら色々なことを思い出しているのだろう。その瞳は慈しむように細められている。
きっとその二人もクラウディと同じくらいライにとって大切な人なのだろうと予想を付け雪姫は何となしにそれを口にした。
「じゃあ、この国を出たらその人たちの所に戻るの?」
瞬間、ライの雰囲気が凍った。
表情も仕草も何も変わらないはずなのに纏う空気だけが酷く寒々しいものになる。
しかしそれは一瞬だけだった。
気のせいだったと錯覚してしまいそうなほどの一瞬だったが背中を伝う尋常じゃない冷や汗に気のせいじゃないと雪姫は確信して戸惑う。
何となしに発した言葉がライの何かを刺激したという事実に酷く戸惑ったのだ。
ちらりとクラウディを横目に見たがクラウディは何も言うことは無くただじっとライを見ていた。
「…………うん。会いたいなぁ」
眉を下げて〝ふにゃ〟と笑うライの声にいつもの覇気がないのは明白だった。
力なく肯定も否定もしなかったライに掛ける言葉を探そうとして止めた。
雪姫はそんな言葉を探せるほどまだ二人のことを何も知らない。何より今何を言ってもライにはきっと届かないだろう。
謝罪や慰めの言葉など必要としていないはずなのだから。
それに今度は雪姫の番なのだ。
そんな言葉を掛ける余裕など欠片ももない。
目を瞑れば浮かぶ優しい思い出。その中にある目を背けてきたことと話しながら雪姫自身が向き合わなければいけない。
きっとライが自分たちについて語り出したのは雪姫が少しでも話しやすくするためだったのだろう。それだけは短い付き合いの今でも察することはできた。
膝の上で重ねた手を握り目を開ける。
「……じゃあ、わたしの番ね」
お腹に力を込めて二人としっかり目を合わす。
逃げ続けた自分と決別する時だった。
◆
わたしはまだ小さな頃、母と父と三人で何処かの山奥の小さな家で暮らしていました。
冬になると雪が積もるような寒くて厳しい土地でしたからわたしたち以外に住む者はなくもちろん豊かな生活が送れるわけもなくどちらかと言えば貧しい生活だったと思います。
細々としたその暮らしは他人から見れば可哀想なものだったかもしれません。でも優しい両親と暮らしていたわたしはその時確かに幸せだと感じていました。
母は線の細い儚げな雰囲気の美しい人でした。でも細すぎて膝枕してもらうと少し痛かったのを覚えています。
父は豪快で頼りになる人なのに見た目がまるで女性のように美しい人でした。男の人に美しいは可笑しい気がするけれど本当に美しかったのです。
わたしは父に似たのだと母は嬉しそうにわたしによく言っていました。
それを父に話した時父はすまなさそうな顔をしてわたしの頭を撫でました。
その時は何故父がそんな顔をしたのか判りませんでしたが今なら判ります。
わたしはこの見た目のせいで『鬼子』と人々から蔑まれてきたのですから。
きっと父もそうだったのでしょう。
父はわたしと同じ〝白髪〟に〝赫い双眸〟を持っていたのです。
ああ、でも正確には少し違うんです。
父はわたしよりもずっと〝銀〟に近い髪色をしていました。
夜に揺れるその髪を小さなわたしはずっとお星さまのようだと感じていたのです。
何も知らなかった小さなわたしはこんな優しい暮らしがずっと続くんだと思っていました。
終りが来るなど知らずただ愚かに信じ切っていたのです。
日付までは正直覚えていません。
ですが寒いのが苦手なわたしが雪にはしゃいで外に飛び出したのですからやはりあれは冬だったのでしょう。その頃のわたしは自分と同じ名前の雪がとても好きだったのです。
雪遊びに夢中で帰るのがすっかり遅くなったわたしは怒られるのが怖くて足音をたてないように慎重に玄関の戸を開けようとしました。
でもその戸は少しだけ開いていて不思議に思いつつその戸を引いたわたしは自分の目を疑いました。
一番最初に目に入ったのは〝黒〟の色。
流れるように美しい黒い髪。その下に見えるお星さまの銀の色。
赫。
その二つの色が染まりそうなほど強烈な赫。
生臭いような鉄錆のようなぬらぬらとした赫。赫赫赫赫赫赫アカアカアカアカアカアカあかあかあかあかあかあかあか。
真っ赤に染まった大好きな優しい両親がそこにいました。
何が起こっているのか判らなくて茫然とする中それでも父と母を起こさなければと幼いわたしは思ってよろよろと覚束ない足取りで二人の傍まで行きました。
父の上に重なるようにして倒れた母を揺すっても笑いかけてくれることも撫でてくれることもありませんでした。
父を揺すってもその腕で抱き上げてくれることはありませんでした。
どんなに揺すっても、声を掛けても、二人は返事どころか目すら開けてはくれないのです。
硬く冷たくなった二人を揺すり続けて不意にわたしは自分の掌を見ました。
赫。
赫くなった自分の手を見てわたしは漸く怖いという感情を思い出しました。
頭を鈍器で殴られたような衝撃と痛みが襲って来て視界がぐるぐると回って脂汗まで出てきて、震える手足を止めることも出来ずその場に膝を突いてうずくまりました。
膝を突いた時にその赫がわたしの着物を濡らして噎せ返るような鉄錆のツンとした匂いが鼻に刺さりましたがその時のわたしは気が動転てしいてそれどころではありませんでした。
それでもわたしは動くことだけはせずに、まるでこの場にある全てから逃げるように硬く目を瞑って耳を塞いでずっと動きませんでした。
あれはきっと幼いわたしが無意識にした現実逃避だったのでしょう。
こうしていば両親はきっと起きて「からかってごめんね」何て言いながらわたしを起こしてくれるのだと思っていたのかもしれません。
それが両親の庇護の許にあったわたしが唯一出来たことだったのです。
どれぐらいそうしていたか判りません。
何時間も経っていたのかもしれないし、一分も経っていなかったのかもしれません。
勿論父と母がわたしを起こすはずもなく目を開けて二人を見たわたしはただ、だれか人を呼ばなければいけないと思い縋るような祈るような気持ちで玄関を出ようとして――――
――――次に目を開けるとわたしはあの檻の中でした。
何が起きたか判らなかったわたしにも一つだけ確かに判ったことがありました。
もう、二度と父と母には会えないこと。
それだけははっきりと幼くて無知なわたしでも理解できたのです。
ここまでがわたしの覚えている両親の最後なのです。
「それがあの見世物小屋に至るまでのお前の出自か」
いつも通りの淡々とした冷たいその声音に雪姫は少しだけほっとした。
「……うん。だからどうしても知りたいの。お父さんとお母さんが何であんな目に合ったのか……殺されたのか」
できるだけ平静を保ったままの声で言ったはずの雪姫の声は少しだけ震えていた。
それに気付かないフリをして腕を組んで考える仕草をしていたライが首を傾げる。
「起きたら、てことは誰かに連れていかれたってことだよね?ということは最初からユキちゃんが狙いだったとか?」
「でもお父さんだってわたしと同じ見目よ?」
「それはほら、子どもの抵抗ってたかが知れてるけど大人はどんなことするか判らないから先に……ってごめん、不躾だったね」
申し訳なさそうに眉を下げたライに雪姫は気にしてないと首を横に振る。
「その可能性もあるが……人がいない場所に住んでいてしかも父親は容姿のせいもあって警戒心が強いはずだ。そんな男が突然来た見知らぬ他人を家に招き込むとは思えない」
「あ、そっか。ユキちゃんの家はちゃんと鍵閉めてたの?」
「うん。わたしが遊びに行くときはお母さんが鍵をわたしに渡して見送ってから閉めてたはずだから」
「じゃあ、やっぱり自分から招き入れたっぽいね。でもそれはお父さんがやったっぽいし……」
「どうして判るの?」
「お前の母親は父親の上に覆いかぶさるようになっていたんだろう?なら父親からやられた可能性が高い。母親を庇ってという可能性も否めないが……何より人が本来来ない場所だ。誰かが来れば警戒して普通は父親が出るだろう」
話を聞いただけでどんどん仮説を立てる二人に感心しながら雪姫は取り敢えずと言うように頷いた。
クラウディが逡巡して雪姫を見た。
首を傾げる雪姫を見てまた何か考えて口を開く。
「お前のそれも父親似か?」
急に言われて何のことか判らなかった雪姫だが何となく察して考える。
クラウディのそれとはおそらく雪姫のこの異常な治癒力のことだろう。
そうだ、自分は母が言った父に似ているという言葉をずっと見た目の話だけかと思っていたがもしそうでないなら父のあの表情の意味はまた少し意味合いが変わってくるとはたと雪姫は気が付いた。
しかし気が付いたのが残念ながら判らなかった。
「ごめんなさい、お父さん病気どころか怪我の一つすらしたことなかったから……」
眉を下げて溜息を吐く雪姫に気にするなとクラウディが言った。
もしかしたらしないように極力気を付けていたのかもしれないがそれも定かではない。
母は一体どういう意味を含めて自分にああ言ったのか、父のあの表情の意味はと考えてみるがやはり答えが出ることはなかった。
幼かったため仕方がないとは判ってはいるがそれでもやはり遣る瀬無い気持ちになってくる。
項垂れるような雪姫を見てライがパンッと手を叩いてにっこりと笑う。
「取り敢えずこの話は一旦置いておこうよ。それを調べるために今から行動するわけだし」
「あ、うん……だったら二人はあの子の名前とか聞いた?」
ライに言われたとおり一旦両親のことを考えるのを止めた雪姫は今度は例の少女について二人に尋ねた。雪姫のいうあの子がすぐに判った二人は揃って眉を顰めた。
それを見て気を悪くさせたと勘違いした雪姫が謝ろうとするのをライが慌てて止めて、逆に謝った。
「ごめん違うんだよ。僕らもさあの子の名前うっかり聞き忘れたというか聞くタイミングがなかったと言うか……とにかく何も知らないんだ」
「そ、か……」
明らかに落ち込んだ雪姫にライは余計慌てたがクラウディがぽつりと呟いた。
「知っているかもしれない」
「「え!?」」
二人から同時に驚きと期待が混じった目を向けられ一瞬固まったクラウディだがいつも通りの淡々とした抑揚のない声でとある怪しい占い屋の子どもについて説明した。
同じように呆けた二人を見て似た者同士なのかと考える。
ライはライで何でそんなスレたような変な子どもにしか自分たちは会わないのだろうかと考えていた。
「じゃあ、その子に聞けばあの子のことは判るかもしれないんだよね」
頷いたクラウディに雪姫の目が輝いた。
身を乗り出した雪姫に対してクラウディが若干下がる。
他人事のライは珍しい光景だと内心でひっそりと笑っていた。
「だが……」
「お願い!その子の所に連れて行って!!」
縋るような目で見る雪姫にクラウディは手で額を押さえて溜息を吐いて、了承の返事をする。
それに喜ぶ雪姫に準備して来いと言い、彼女が部屋を出た所でライが慌てて叫ぶ。
「拠点変えるから荷物全部持って来てね!!」
そう叫んだが果たして雪姫に届いていたのかは判らない。届いていなかったら面倒だろうけど戻って来たときにもう一度言おうと考えているとクラウディからのもの言いたげな視線を感じてそちらを見る。
探るようなクラウディの視線にライは片を竦めた。
「怒ってる?勝手に拠点変える宣言したから」
「それは別に構わんが何故急に?てっきりお前のことだから一週間ぐらいはここにいるのかと思っていたが」
至極真面目なそのクラウディの顔にライは頬をひくつかせる。
そして全身で怒りを表すかのように両手を上げて拳を握るという大袈裟な動作をした。
「失礼だな!僕だって流石に五日が限度だよ!!」
あまり変わっていない気がすると思うのはきっとクラウディだけではないだろう。
そう思っても口にしなかったクラウディにライが頬を掻きながら明後日の方向に視線を投げた。
「ほら、その、あの、あれあったじゃん?君が濡れ鼠で帰って来たときの……」
「誰が濡れ鼠だ。抱き合っていたやつか?」
歯切れ悪いライに代わってバッサリとクラウディが言いきる。
「違うからね!?」と往生際悪く何か言おうとするライを適当に宥め続きを話すように促した。
こほんと誤魔化すように咳払いを一つしたライが先程までとは違い真剣に考えるような仕草でクラウディを見据えた。
「元々この家って、正直きな臭いでしょ?あの時の雪姫ちゃんは本当に怯えてたんだよ。理由は判らなかったけど」
きな臭いと言う言葉にクラウディは否定しなかった。
それもそうだろう。そのきな臭さを判っていて敢えてここに拠点を構えていたいたのだから。
ライとクラウディだけなら本当に一週間や五日は余裕でここにいたかもしれない。しかし二人は雪姫と共に行動すると決めたのだからいつまでもそんな怪しいところにいるわけにはいかない。
見た目が普通でなくても雪姫自身は至って普通の娘だ。そんな普通の娘を脅かす何かがこの屋敷にあるのだ。それだけでここを出る理由は充分だろう。
それが判っているからこそクラウディが特に反論することはなかった。
いや、彼がこういうことに反論することは滅多にないかとライは笑った。
笑うライを不審そうに見るクラウディに誤魔化すように苦笑しながら先程から少し気になっていることを聞いた。
「それで〝だが〟の続きは何だったの?」
少し間を置いたクラウディは言いにくそうにそれでもはっきりと口にした。
「……だがあの子どもは相当捻くれているぞ」
その答えにやっぱりかとライは呑み込め切れなかった 大きな溜息を零した。
◆
部屋に喜び勇んで戻って来た雪姫はライの声が一応聞こえていたらしく言われたとおりに荷物をまとめていた。とは言ったもののまとめるような荷物は彼らから貰った着物ぐらいしかないのだが。
ここにお世話になってもう二日は経つ。二人の性格上長居し過ぎるのは嫌なのかもしれないと、自分を気遣っての考慮だということには欠片も気付かず雪姫は最後に広い部屋を見渡した。
そうして満足したのかここを出て行く前にやらなければいけないことをやるために雪姫は貰った椿を手にとって部屋を出た。
ライたちの部屋とは反対方向の奥の廊下を進んで、一つの部屋の前で立ち止まりそっとその襖を開いた。
そこは相変わらず物が少ない彼女の部屋。
部屋を見渡すが彼女の姿は無い。それに少しほっとして我ながらおかしなことだと頭の片隅に思う。
あんなに恐ろしいと逃げだした彼女の部屋に進んで来たくせに彼女がいなくて安心するのだ。これほどおかしいことはないだろう。
部屋な中に足を踏み入れお手玉が入っていた漆塗りの高級そうな箱の上に椿をそっと置いた。
一応雪姫なりのお礼だった。
雪姫にはできない髪型を器用に結ってくれたお礼だ。
自分の髪を手に取る。
湯船に入ったため今は片側に髪をまとめているだけだった。
目に入った赤い髪紐。
これのお礼も含めているつもりだ。
それに彼女には椿の花が良く似合う気がしたのだ。何故かは判らないけれど。
自分の用を済ませた雪姫は踵を返して部屋を出た。
本当は会ったこともない彼女に感じる既視感と少しの懐かしさの正体が気にかかったが思い過ごしだろうとその考えを振り切るように足を速めた。
耳鳴りのような何かを聞こえないふりをして。
◆
再びライとクラウディの部屋に戻って来た雪姫が風呂敷を背負っているのを見て二度手間にならないで済んだと内心ライは胸を撫で下ろした。
雪姫は雪姫でほぼ手ぶらな二人に多少面喰っていたがそれを口に出すことはしなかった。
三人で玄関に続く長い廊下を進むとどうやら止んだ雨のおかげで客が戻って来たらしく大変繁盛しており従業員や使用人が忙しなく動いていた。
客の一人に挨拶をしていた津軽がこちらに気付き近付いて来る。
三人の様子を見て何となく察したのかいつものように人の良さそうな笑顔で言う。
「不自由なく暮らせましたかな?」
「はい。おかげ様で何不自由なく暮らすことができました。本当にありがとうございます」
爽やかな笑顔を貼り付けたライの口調に呆気に取られていた雪姫だったがすぐに慌てたように頭を下げた。
「見ず知らずのわたしにして頂いた御恩は一生忘れません。ありがとうございました」
深々と頭を下げた雪姫に津軽は皺を深めて柔和に微笑んだ。
「御気になさらず。こちらが勝手にしたことですからね。着物も似合っているようで良かったよ」
「御世話になりました」
雪姫と同じように丁寧に頭を下げたクラウディにも雪姫は驚いたのだが努めて平静を装った。
玄関まで送るという津軽に最初は断ったが折角だからと押し切られ四人で暖簾を潜り、三人は津軽を振り返った。
挨拶もそこそこに雑踏の中に足を踏み込んでいく三人を見送って津軽も店に戻る。
やんちゃな神の使いが鬼を引き連れた姿は実に滑稽だと嗤いながら。
不意に雪姫は今しがた出て来たあの呉服屋を振り返った。
立ち止まった雪姫に合わせて歩を止めたライとクラウディ不思議そうに雪姫を見た。
忘れ物でもしたのかと問うライに否と答える。
視線を感じた気がして振り返ったが雪姫の目からは何も見えない。変わらぬ大きな呉服屋がそこにあるだけだった。
いつの間にか感じた視線も無くなったので気のせいだったのだろうと彼らと共に雪姫は歩を進めた。
◆
かごめかごめ
籠の中の鳥はいついつ出やる
夜明けの晩に鶴と亀と滑った
後ろの正面だあれ?
鼻歌を歌い鏡台の前で髪を梳く。
指通りの良いその髪に手を這わせて櫛を置いた娘は同じように置かれていた椿の花を手に取った。
置いていったのは雪姫だろうと検討はついていた。
そしてこの屋敷を出たことも使用人たちが噂していたので容易に知ることができた。
赤く、花の中でも珍しく香りのしない花。
虫や鳥がその色に引かれるので香りは必要ないという説を昔読んだ本に書いてあったことを思い出す。
香りは無くその目立つ外見で人や虫を惹き付ける美しい花。
ふっと笑みが零れた。
手の中にある椿を触り目を伏せながら鼻歌を歌う。
一層嬉しそうに微笑んだ娘はその表情のまま椿を握りつぶした。
手を広げれば花弁が重力に従ったまま落ちる。
はらりはらりと落ちる花弁を目を細めて見つめながらぽつりと呟いた。
――――本当に何て…………
「醜い花」
愛でるような表情のまま娘は美しく笑った。
そうして何事もなかったようにまた鼻歌を歌いながら髪を梳き始めるのだ。
何事もなかったように――――
◆
雨晴れの空の下、町は人気がなかったのが嘘のように活気を取り戻していた。
その雑踏の中を歩く三人はやはりそれぞれが視線を集めていた。
ライとクラウディに集まるのは異性の羨望の眼差しが主で、雪姫に集まるのは好奇の視線と奇異の目だった。
ひそひそと聞こえるそれは聞いていてあまり気分が良いものではない。
顔を顰めたライが心配そうに雪姫を窺うが当の本人は慣れているのだろう。どこ吹く風である。
すると雪姫が囁くように言った。
「ごめんなさい」
驚いたライが瞠目する。
クラウディも何故急に謝られたのか判らず首を傾げた。
「わたしのせいで変な注目浴びてるから……ごめんなさい」
「ユキちゃんのせいじゃないよ。それに僕ら元々注目集めるから慣れてるし、ユキちゃんの方が……」
「平気。慣れてるから」
あっさりと言いきった雪姫に無理をしている様子は無い。
幼いころから見世物小屋に身を置いていた彼女が慣れるのは無理もないがそれでもやはり遣る瀬無い気持ちがライを襲い意味のない呻き声のようなものを漏らす。
がっくりと肩を落としたライを心配した雪姫が何か言おうとする前に「そうだ!!」と勢いよく顔を上げたライが矢継ぎ早に雪姫に言った。
「ユキちゃんちょっと待ってて!あ、クラウディと居てね!!すぐ戻るから!!」
まるで風のような早さで俊敏に二人から離れて何処かに向かうライが去った方向をポカンとした顔で見ていた雪姫の頭をクラウディが軽く撫でた。
上目遣い気味にクラウディを見ると想像した通りの涼しい顔。
ライの突飛な行動を気にするなという意味なのか自分の謝罪に対して気にするなといった意味なのかどちらかは判らなかったが気を使ってくれたことは判る。
本当に判りにくい人だと雪姫は苦笑いした。
そうして宣言通りすぐに走って戻って来たライにまた驚いていると頭に何かを被せられた。
被せられたそれを手に取って見ると白くて少しつばが広い上品な帽子だった。巻かれた桜色のリボンが可愛らしいものだった。
「可愛い……」
思わず出た本音を聞いてライが嬉しそうに笑った。
「よかった。気に入らなかったらどうしようかと冷や冷やしたよ」
「これ……」
「被ってたら少しは静かになるかなって」
確かに被っていればぱっと見雪姫の目と髪が隠れて今のようにあからさまな好奇の視線や奇異の目は減るだろう。
その優しさは嬉しいがそれ以上に雪姫の中で申し訳なさが勝った。
それを感じ取ったのかライが困ったように笑って雪姫の手から帽子をとってまた被せる。
「いいんだよ。僕が好きでしたことなんだから。それより折角可愛くて似合ってるんだから喜んでくれる方が僕は嬉しいな」
首を傾げて可愛らしく微笑むライは本当に少女のようだった。
ぎゅっと両手で柔らかいつばを掴んではにかんだように雪姫も微笑した。
「ありがとう、ライ」
「どういたしまして」
そのやり取りを微笑ましい気持ちで表情一つ変えず見ていたクラウディにライがにやりとした意地の悪い笑みを向けた。
この顔の時は大抵ロクでもないことを考えている時だと知っているクラウディは柳眉を顰め嫌そうな顔をした。
クラウディの脇腹を肘で突いて猫撫で声を出すライを心底面倒臭そうな目で見下ろすクラウディは顔が整っているだけに無駄な迫力を感じる。
慣れてしまったライはそんなことお構いなしなのだが。
「ね~ね~クラウディ~。感想がまだだよ」
「感想?」
「気が利かないなあ君は。女の子が新しい服やアクセサリーを身につけてたらきちんと感想言ってあげなくちゃ。それが神父の第一歩だよ」
やれやれと肩を竦めて見せるライにクラウディはさて何から訂正するべきかと考える。
そもそも自分たちはもう神父であるし、それを言うなら紳士だろう。一文字違うだけでこんなに大惨事になるとは知らなかった。判ってやっているのだから性質が悪い。
しかし訂正するのも面倒になったクラウディはそのまま黙殺することにした。
別に感想などライが言ったのだから必要ないだろうにと思いつつこのままライのにやけた顔を見続けるのも癪なので素直にライの意見に従うことにした。
「似合っている」
「もう一声!!」
「何を値切っているんだお前は」
「そんなのいいから!そんなスタンダードな感想じゃなくてもっと具体的に!!」
一体何にそこまで突き動かされているのか楽しそうに拳を握って興奮しきった様子のライにクラウディは頭を抱えたくなった。
それに挟まれた状態の雪姫はどうしていいか判らず先程からオロオロしっぱなしだ。
これ以上の時間の浪費は勘弁したかったのかはたまた雪姫に申し訳なかったのか、クラウディは溜息を零して早々に決着をつけることにした。
「可愛い」
照れもせずはっきりと雪姫を見たまま真顔で言ったクラウディにライは漸く満足したのか何故か得意気に鼻を鳴らした。
「さてクラウディの感想も聞いたことだし行こう……ってどうしたのユキちゃん?」
帽子を深く深く被った雪姫は下を向いて項垂れているようだった。つばを掴んだ手が微かにだが震えている。
それを見て驚いた二人は雪姫の顔を覗きこもうとするが雪姫は頑なに顔を上げようとしなかった。
突然の雪姫の態度に先程の様子から一転。ライが途端に困り果てたように眉を下げて泣きそうな顔をした。
「ゆ、ユキちゃん?どうしたの?え、僕ふざけ過ぎた?ご、ごめんね」
「どうした?具合が悪くなったのか」
気遣うような二人の声に雪姫ますます顔を上げられなくなる。
どうして普段は鋭い癖にこんな時は二人して鈍いんだと八つ当たりに似た気持ちも湧いてくる。
「だ、大丈夫だから!何でもないから、早く行こう!!」
二人から逃げるようにして小走りで駆けて行った雪姫に目を合わせて首を傾げた二人は結局最後まで雪姫が耳まで真っ赤にしていることに気が付かなかった。
駆け出した雪姫の華奢な後ろ姿を見ながらその長い髪を見る。
一筋一筋が極めて細いその白髪は日の光で時折銀色に見える。いや、元々が父親に似て銀に近いのだろう。蜘蛛の糸のようだとクラウディは思った。
雪姫の隣に急いで並んだライが未だに心配そうにしているのを二人から少し離れた場所でぼんやりと見るクラウディは何処か物憂げに見えた。
不思議な雰囲気が漂うその美丈夫を行き交う女性たちが頬を染めて見つめるのだがそんなことに興味のないクラウディはただ二人を見ていた。
首に提げた十字架にそっと触れて目を細める。
すると不意にライと雪姫がほぼ同時に振り返った。
きょとん、とした二人はやはり同じように首をかしげてクラウディに問う。
「どうかしたの?クラウディ?」
「早く来なよ。置いてっちゃうよ?」
言いながら悪戯っぽく笑ったライが雪姫と共に自然な動作でクラウディの隣に並んだ。
ライとクラウディの間に立つ雪姫がクラウディを見上げてじっと見つめる。
「どうかしたの?」
先程と同じ口調だがほんの少し心配そうな色が混ざっている雪姫の声。それに何でもないと首を振る。
探るようにこちらを見るライを一瞥して二人より一歩前に出る。
「大体俺が案内しなければそこに行けないだろう」
「……あっ」
しまった、と言うような顔をしたライが頬を掻いて誤魔化すように渇いた笑い声を漏らすのをを見て雪姫がくすくすと笑う。
そんな二人を見てクラウディも秘かに柔らかな笑みを零した。
突然足元がよろけるほどの強い風が吹いた。切り裂くようなその風が雪姫の帽子を浚う。
慌ててそれを追うために駆け出した雪姫に遅れた二人が後を追う。
強風は一瞬だったためか帽子は意外と近くに落ち、ほっとした雪姫がそれを拾うよりも先に近くにいた女性がそれを拾った。
「あなたものですか」
凛としたその声の主が雪姫を見た。
色素の薄い髪を肩ほどの長さで切り揃え横髪だけが胸元まで長い。動きやすさを考慮してなのか膝丈の短い巫女服を身に纏ったその女性は神秘的な雰囲気だった。
その雰囲気に拍車を掛けているのは女性の双眸だ。
異国の者のそれとも違う昼と夜の狭間、黄昏時に出来る空の色をそのまま切り取ったかのような色をした蒼い双眸。
この国で見ることはまずないその色は不思議と女性の雰囲気と合い彼女の魅力を引き立たせるようだった。
そんな女性に魅入られた一人の雪姫は帽子を受け取ることもせず食い入るように彼女を見つめていた。
神に仕える人たちは皆このように総じて何処か人離れした美しさを持つものなのだろうかと頭の片隅にぽつりと思う。
「あなたのものではないのですか?」
少し困ったようなその声に我に返った雪姫は慌ててその帽子を受け取った。
「す、すみません……ありがとうございます」
頭を下げて顔を上げると女性と目が合った。
本当に見れば見るほど神秘的な雰囲気に拍車を掛ける美しいその蒼は女性の雰囲気も相まって汚れ一つない澄んだ水のようだ。
女性の瞳に魅入られるばかりに雪姫はその女性が雪姫を観察するように注意深く見ていることに気がつけなかった。
雪姫の背中に焦ったような声が一つ。
振り返ると人ごみのせいで思った以上に時間を取られたらしいライとクラウディが漸く雪姫に追いついて来たらしい。
それを聞いてか女性は雪姫に背を向けた。
「それではこれで。次は飛ばされないようお気をつけて」
もう一度礼を言うために急いで女性を振り返った雪姫はそこにもうない女性の姿に目を丸くする。
辺りを見回してみたがあるのは行き交う人の群れだけで巫女服のその女性の姿は無かった。
雪姫に追いついたライとクラウディは何かを探すような雪姫を見てどうかしたのかと尋ねる。
「……ううん、何でもない」
しっかりと握った帽子を被って二人に先を促した雪姫に多少気にはなるがまあいいかと納得したライとクラウディは元来た道を引き返す。
雑踏の中に消えていく三人を遠くから見届けたその女性もまた人ごみの中へと消えて行った。
◆
クラウディに案内されて到着した目的の場所は人通りのない古い軒下だった。
雨の中緊張していたこともあり周りをよく見ていなかった雪姫も数時間前に通った場所ぐらいは流石に覚えている。
拍子抜けしたような気持ちで呆気に取られる雪姫に何か言うことは無くクラウディは辺りを見渡した。
「子どもの姿どころか人の姿もないよクラウディ、ん?」
「どうした?」
何かを見つけたらしいライがクラウディと雪姫を手招きしてしゃがみ込んでそれを拾う。
「椿?」
驚いたように呟いた雪姫の言葉のとおりそこに落ちていたのは椿だった。
風で何処からか飛んできたというふうでもない汚れていないまだ新しい椿の花。
その地面を見ると赤い花弁が間隔を保って続いているのが判る。
「どうする?」
立ち上がってクラウディに視線を向けたライが尋ねるとクラウディは仕方がないと頭を掻いた。
「行くとしよう」
道しるべのような花弁は軒下をぐるりと一周するように落とされていたらしく三人が付いたのは初めにいた軒下からは死角になって見えなかったすぐ傍の一軒家に着いていた。
終着点を意味するのであろう戸の前に落ちている真新しい椿を視て態々一周させなくても良かっただろうがと内心で舌打ちしたクラウディだったがあの子どもなら仕方がないと無理やり納得することにした。
声も掛けることなくその引き戸を開けるとそこには三人が望んだ子どもが本に埋もれるようにしてそこにいた。というより既に埋もれているようなものだったが。
狭い部屋に所狭しと並べられた本棚に隙間なく並べられた本だけでは飽き足らず、足の踏み場もないほど乱雑に置かれた本の山。
高く積み上げられすぎてほんの少しの振動で崩れるであろうその高い本の塔の間に挟まれている無造作に伸ばされた真紅の髪に前髪で隠れているその顔を更に隠すように深く学帽を被る男児。肩に掛けるだけの白地に咲く大輪の椿が嫌に目に入る。
「ようこそ吾輩の城へ」
存外低い声が不自然なほどに良く通った。
相変わらず胡散臭い笑顔を浮かべる楓は立ち上がって本を踏みながら三人の前に立つ。
「好きな所に腰掛けるといい。土足は厳禁だけどネ」
それだけを言いまた自分の定位置と言わんばかりのその本の塔の間に座る楓に仕方なく三人は中に入り靴を脱ぎ本を避けながら腰を下ろす。
「吾輩は楓。さて、何を聞きに来たのカナ」
ニヤニヤと愉しそうに楓は哂う。
自分たちも名を名乗ろうとしたライと雪姫をクラウディが手で制した。
「必要ない」
「おやおや別に名乗ってくれてもよかったのにねぇ。まぁ知ってるからいいんだけどネ。初めましてライナス・エヴァンズ少年。それから玉縁雪姫お嬢さん」
「え……?」
吐息のような声が雪姫の唇から零れた。
名前を言われたことに対しての驚きではなかった。自分すら幼すぎて忘れてしまっていた苗字を楓が知っていたことを驚いたのだ。
クラウディが目を細めて冷たく楓を見た。
楓はヘラヘラとした笑みのままおどけて見せる。
「いやだなぁそう睨まないでおくれよ。吾輩占い屋兼情報屋だからサービスだよサービス。こうすれば最初は疑っていたお客様達も吾輩を信じてくれるしネ。むしろ思い出せなかった大事な大事な苗字を教えてあげたんだ。感謝しておくれよ」
思い出せなかったことすら楓には調べられていたらしい。
何処まで知られているのか判らず不気味に思った雪姫は鳥肌の立った両腕をさする。
「えっと、君が凄腕の情報屋ってことは判ったけど取り敢えず僕らの目的を言ってもいい?」
苦笑しながら頬を掻くライが楓に対して言う。
腰が引けているようだがその目は注意深く楓を捉えて離さない。
それを判っているのだろう楓は一層楽しそうに口元を歪める。
「これは失敬。さて、何が知りたいのカナ?」
ライが雪姫をチラリと見る。
雪姫は一つ頷いて被っていた帽子を膝の上に置いた。
「おやおや?アルビノとは珍しい」
「あるびの?」
聞き慣れない言葉に雪姫は目を瞬かせた。
「動物学においては、メラニンの生合成に係わる遺伝情報の欠損により 先天的にメラニンが欠乏する遺伝子疾患がある個体のことさ。この遺伝子疾患に起因する症状は先天性白皮症、先天性色素欠乏症、白子症などの呼称があってね。また、この症状を伴う個体のことを白化個体、白子などとも呼ぶのさ。更に付け加えると、アルビノの個体を生じることは白化、あるいは白化現象というんだよ」
専門用語を多大に含んだその説明は雪姫にとってはさっぱり理解できないものだったがライとクラウディはああ、と納得した顔をしてみせた。
つくづく優秀すぎる二人である。
「本来なら光に弱く皮膚が焼けてしまうから容易に外に出られないけれどまぁ、それは人にとっての話しだからねぇ。我々には関係ないさ」
その言葉に引っ掛かりを覚えたクラウディとライが追求しようとする前に楓が事も無げに言った。
「『鬼』の我々には関係のない話しだろう?」
当然の如く言ってのけたその言葉に雪姫だけでなくライとクラウディも息を呑む。
そんな三人を嘲笑うかのように楓は続ける。
「何を驚いているんだい?君たち『人』はずっと彼女にそう言い続けていたじゃなかいか?大体君たち二人はアルビノを知っていたのだろう?なら少なからず思っていたはずさ。もしかしたら彼女は本当に『人』ではないのかもしれないと言うことを。だってそうだろう?常人ではありえない治癒力にアルビノでありなが平気で日の光を浴びて見せる。こんなに『人』でない証拠は揃っているじゃないか」
覚悟はしていたはずだった。
鬼子とずっと言われ続けて来たのだから少なからず自分はそうなのだろうと思い続けて来た。
ただ不確かだったそれが確固たる形を持っただけ。
けれど同時にそれは――――……
足元が崩れて行くような感覚。
自分を支えていた何かが音もなく崩れて行く。
判っていたことじゃないか。自分が化け物だったなんて。ずっと感じてきていたはずだ。普通ではないことを。普通には成れないことを。
それでも心の何処かで信じていた。祈っていた。
自分が『彼ら』と『彼女ら』と同じ存在であることを。
……ああ、でも本当に
「わたしは、『人』ですらなかったんだね」
自嘲気味に笑いながら雪姫はポツリと呟いた。
痛々しいその小さな雪姫の姿はまるで迷子になって行き場を失くした幼い子のようで。
暗い思考に呑まれそうな雪姫に刹那――――
――――火花が飛んだ。
額に衝撃が二つ。
つい最近同じような痛みを体験した雪姫はその原因をすぐに察する。
額を押さえやはり涙目でその原因である二人、ライとクラウディを見ると同じような体制で固まった二人が何故か驚いたようにこちらを見ていた。
驚きたいのはこっちだ。
「……一応前回よりは手加減した」
「あれ?僕も手加減したはずなんだけどなあ……」
はっきり言ってもの凄く痛い。
雪姫の恨みがましげな目を見てライが朗らかに笑いクラウディは至って真面目な顔をする。
「大丈夫だよユキちゃん」
一体何処が大丈夫だというのだろうか。
「大丈夫だろう。雪姫」
だから何が大丈夫だと言うのだろうか。
どうやらこの二人の目は節穴らしい。いや、そうに違いない。
未だ熱を持つ額を片手で押さえて袖で目をする。
一度泣いてからどうにも涙腺が緩くなってしまったようだ。そう、これはあまりの痛みに出た生理的な涙だ。断じて他の要因で出た涙ではない。
チカチカとする視界は良好とは言い難いが前を見据えるには十分だ。
呑まれるなと雪姫は自分を奮い立たす。
一人だけならきっと呑まれていた。けれど雪姫は今一人ではないのだ。
ここに『鬼』に付き合ってくれると言う変わり者の聖職者が二人もいる。『鬼』の手を取ってくれた変わり者の少女だっていたのだ。
それだけで十分だ。
パチパチと手を叩く渇いた音が鼓膜を揺らす。
叩いているのはもちろんこの場に一人しかいないだろう。
「素晴らしい。実に素晴らしい愛が溢れる劇だった。吾輩感動してしまったヨ」
おどけるように一層大きな拍手をすると楓は首を傾げた。
「それにしても、流石にそこまで嫌がられると傷つくヨ。別に『鬼』といってもそこまで『人』と変わっているわけではないのに」
大袈裟に両手で顔を覆って泣く真似をしてみせる楓にはたと気付く。
そうだ、自分が本当に『鬼』だったという事実にすっかり失念していたが彼は確かにこう言ったのだ。
『鬼』の『我々』には、と。
不意に手の隙間から楓がニィっと口の端を吊り上げたのが見えた。
突然勢いよく立ち上がって両端に積まれていた本を楓が軽く押した。それだけで高く積まれ過ぎた塔は支えを保てずに崩壊する。
落ちた本の音と舞い上がった埃に咄嗟に顔を覆って雪姫が目を瞑る。
少し経ってからそっと目を開けると散乱とした本の山が目に入った。
「ライ、クラウディ……っえ?」
自分の両端に座っていたライとクラウディが忽然と姿を消していることに雪姫は漸く気付いた。一瞬本の山に埋もれたのかと思ったが二人が座っていた場所はきっちりと本が避けられていることと距離的にそれはありえないと否定する。
なら彼らは何処に消えたと言うのだろう。
「大丈夫さ。二人には少しの間退場して貰うだけだから」
雪姫の疑問に答えるようなその存外低い声は楓のものだ。声のした正面に勢いよく顔を向けるといつの間にいたのか楓が雪姫のすぐ傍で胡坐をかいてその足に肘を突いて座っていた。
愉しそうに哂う楓を強く睨み見据える。
「……二人はどこ?」
「言ったろう?少しの間退場して貰っただけさ。吾輩はまずお客様とは一対一を基本としているからネ」
ふざけ切ったその態度に声を荒げそうになるが何とか平静を保つ。
ニヤニヤと口元を吊り上げる楓をいっそのこと一発殴ることができれば何とスッキリすることが出来るだろうか。
「改めて名乗ろうか。吾輩は〝赤き鬼〟の一族現頭首朱雀門楓」
〝赤き鬼〟〝一族〟という言葉に引っ掛かる。それではまるで『鬼』にたくさんの種類があるようではないか。
「その通りさ。我々『鬼』は南北東西に縄張りを持ち、そこをそれぞれの頭首が混乱のないよう統治しているのさ。吾輩たち〝赤鬼〟は南に。〝銀鬼〟は北に。〝青鬼〟は東に。そして〝黒鬼〟は西に」
雪姫の心の中を読んだかのように疑問に答えた楓が面白そうに笑いながら無造作に伸ばした髪を摘み上げる。
特に手入れもしていなさそうな髪なのに痛んだ様子は無く楓の指からサラサラと微かな音を立てて数本零れ落ちる。
「特徴もあるのさ。吾輩たちはこの赤毛。銀鬼は雪の如く白い肌。青鬼は青い双眸。黒鬼は黒い爪、と言った具合にね。能力は元々人間を遥か上回っているけれどこれもそれぞれの違いがあってネ。我々は膨大な知識を授かったとでも言おうか。一度見たモノは生涯忘却を許さない身でネ。便利なようで不便な能力さ。銀鬼は治癒力。そうは言っても内面的な傷は治しにくいようだけど。例えば病気とかネ。青鬼は先視の力を。力に応じて視え方は限られるそうだねぇ。黒鬼は怪力を。吾輩からしたら脳筋集団だけどネ」
最後の方は完璧にただの悪口な気がしたが雪姫が口を挟むことはなかった。
「あぁ、ついでだからそれぞれの頭首達の性を教えてあげよう。〝赤の朱雀門〟に〝銀の白銀〟。〝青の蒼生〟に〝黒の黒葛〟。さて君は自分が何処の『鬼』か理解することが出来たのカナ?」
四つの指を立てて首を傾げる楓を苦々しく睨みながら小さく呟く。
「銀……」
「正解正解だ~いせ~いか~い!そんな君に吾輩からの出血大サ~ビス~!」
間延びした馬鹿にした声に心底腹が立って殴りたい気持ちに駆られるがライとクラウディのことと少しでも情報が欲しいことからぐっと押し黙る。
そんな雪姫の葛藤すら愉しいのだろう。可笑しげに喉を震わす楓は万歳するように両腕を上げて哂った。
「君の御父上は何と!あの才色兼備、清廉潔白で『鬼』の間でも有名な銀鬼の現頭首〝白銀夜露〟の双子の兄上〝白銀白野様なのです!!」
「そしてそして更に驚き桃の木山椒の木なのは君の御母上〝玉縁百々〟が何の変哲もない『人』だと言うことだろうねぇ」
父が『鬼』母が『人』だと言うことは二人から生を受けた雪姫はつまり――――
「そう、君はつまり異端中も異端!『鬼』と『人』の混血!本来なら生まれるはずもなかった異例中の異例の子なんだヨ!!」
高らかに宣言する楓はまるで雪姫に祝福の言葉を掛けているようで、しかし実際は祝福何て言うありがたいものではなかった。
『鬼』と『人』の混血。人でないものと人が混じった異形の血。
……それがわたしの正体、か
知ってしまえば何と呆気ないことだろう。
あの檻の中に入れられた時から『化け物』と『鬼子』と蔑まれていた雪姫の正体は『鬼と人の混血』だった。しかもただの『鬼』から血を受け継いだのではなく鬼を統べる頭首の実の兄から受け継いだ『鬼』としての能力。
父親似だと笑っていた母とは違いすまなさそうな顔をしていた父。それはきっと『鬼』としての血を雪姫が濃く受け継いでしまったことに対してもあったのかもしれない。
しかしどんなに雪姫が『鬼』としての能力を濃く受け継いだとしても所詮雪姫は混血だ。『鬼』にも『人』にも成り切れない中途半端な存在。
いっそのこと『人』としての血を濃く受け継げば雪姫は普通に暮らせたのかもしれない。そもそも父親に似さえしなければ隠し通して平穏な暮らしができたのだろう。
いや、だったら最初から――――……
頭を振って雪姫はその考えを振り払おうとした。
駄目だ、こんなこと考えてはいけないと必死に別のことを考えようとすればするほどにその考えは頭の中で鮮明になる。
父と母は今でも好きだ。たとえ父が『鬼』だろうが母が『鬼』であろうがそれは雪姫の中で絶対に変わることはありえない。
それでも考えてしまうのだ。思ってしまうのだ。
……こんな風に苦しくて悲しくて惨めな思いをするくらいだったらわたしのことなんて生まなければ――――
「〝もしも〟という言葉はとても魅力的だと思わないかい?」
唐突に楓が雪姫にそんなことを投げ掛けた。
あまりにも突然のその言葉に思考に耽っていた雪姫はノロノロと楓に視線を遣った。
雪姫と目が合った(実際は前髪に隠れて判らないが)楓は仕切り直しと言うようにもう一度同じ言葉で口火を切った。
「〝もしも〟という言葉はとても魅力的な言葉だと思わないかい?この言葉を使う術は様々だろうけど大体は未来に願望を馳せて、過去の後悔に夢想する。しかしそれだけで終わらないのがこの言葉の魅力的かつ甘美さを引き立てるのだろうネ。例えば恋仲同士の男女が良く使う『もしも君が世界中の人の敵になっても僕(私)はあなたの味方』嗚呼、実に美しい愛の物語さ。きっと誰しも一度は憧れる台詞に堂々ランクインするだろうネ。吾輩の勝手な持論だけど。まあ、吾輩からしたらその世界中敵に回すような莫迦なことする恋人はごめんだけどねぇ。そんなことになっても続く二人はそれはそれは深く愛し合っているのだろうネ。うんうん実に素晴らしい。でも実際はどうだろう?吾輩が言ったように大抵の者はその恋人を容赦なく切り捨てるんじゃないカナ?だってそんなことになるなんて本気で想像する者なんていないのだから。いや、いるかもしれないけどそれは本当に一握りだろうネ。これはその場の雰囲気を盛り上げるためのちょっとした材料さ。料理に使う隠し味なんかに似てるかもしれないネ。んん?話が大分ずれた気がするけど、でもそれはご愛嬌ということでいいよネ?つまり吾輩が何を言いたいかというと〝もしも〟というのは使った者にとってもっとも良いことか、悪いことかの結果の先にあるんだヨ」
口の端を三日月のように吊り上げて笑いながら朗々と淀みなく話す『鬼』は目深に被った学帽を更に深く被る。
肩に掛けられた白地に咲く大輪の椿の赤が毒々しい。
しかしそれ以上に毒々しくて美しいその真紅の髪が床に散らばり広がって夕焼けの川のようだ。
「吾輩が聞いてきたのは断トツで後悔の〝もしも〟だけどネ。『〝もしも〟あの時ああしていれば』これは誰しもが一度は必ず使うだろうネ。どんなに恵まれた者でもこれを使わない者はいないさ。状況によってこの言葉に重みが増すのも面白いところだと吾輩は思うヨ。これを言ったら吾輩の人格を疑うと青鬼に言われたことがあるけどねぇ。でもそう感じるのだから仕様がないと吾輩は思うんだ。ほら『人の不幸は蜜の味』て、言うだろう?つまり誰しも自分より劣った者を見るときは少なからず愉悦を感じているのだろうネ。そして安心するのさ。『ああ、自分はこいつよりはましだ』とネ。こう答えるから益々嫌な奴だと言われるのだろうけどネ。あ、勘違いしないでもらいたいんだけど吾輩は別に他人の不幸を眺めて愉悦に浸る下衆な性格ではないよ?多少は愉快には思うけどネ。吾輩が見たいのは不幸ではなくその〝もしも〟の先なんだよ。その言葉を吐いたその後の行動が見たいのさ。だって想像するだけで気分が高揚するだろう?その〝もしも〟に押し潰されるのか、それとも乗り越えるのか、はたまた停滞するのカナ?嗚呼、藻掻き足掻いた先にあるその姿は何て美しいのだろうネ!」
くつくつと喉を震わせて笑う『鬼』は不気味だった。
まるで子どもの中に大人が入っているようなその口調も、思考も、仕草も、この『鬼』を形成する全てが雪姫にとって不気味だった。
「おや?どうにも吾輩は話が脱線しがちでいけないネ。失敬失敬。だからお詫びに吾輩の質問に一つ答えてくれたら聞きたいことをタダで教えてあげるヨ。何でもいい、何でもさ。」
きっと見えないその眼は雪姫を視て哂っているのだろう。
――――楽しそうに、つまらなそうに、面白そうに、退屈そうに。
「さて、君はどんな〝もしも〟を望んでるのカナ?」
不快を一切隠さない蔑んだ眼で雪姫は吐き捨てる。
「……気持ち悪い」
そんな返事すら予測していたように『赤い鬼』は朱雀門楓は哂うのだ。
「褒め言葉さ」
ああ、本当に気持ちが悪い。
雪姫はかつてない嫌悪感を確かにこの『鬼』に感じていた。
アルビノについて - Wikipediaより抜粋
ここまでお読みいただきありがとうございます。