漆
薄墨を伸ばしたような雲が空を覆う。
今にも泣き出しそうな空はまだ朝だと言うのに人々の不安を掻き立て、自然と足を速めさす。
そんな天気を見上げる老人が一人。
濃い藍色の着流しに黒い羽織を肩に掛けた落ち着いた佇まいのその老人、南雲津軽は睨むようにその空を見ていた。
日が隠れ、薄暗い辺りは風すら冷たく夜を思い出す。
今日は客も少ないだろうと嘆息し自宅兼職場である呉服屋の暖簾を潜ろうとして、止まり、また嘆息。
こめかみを押さえ暫しの逡巡。
そうして結局何かを諦めたように肩を落とし暖簾を潜るのだった。
◆
「いや、何かナグモさんには悪いことしたね」
苦笑いしながら頬を掻くライにクラウディは沈黙で答える。
二人にと宛がわれた広い客室用の部屋で胡坐をかいているライに対し、クラウディは布団から身を起こした状態だった。
昨晩上に何も身に着けず寝た、無駄のない引き締まったその身体の腹部に巻かれている白く清潔感のある痛々しい包帯には血が滲んだ痕が付いていた。
しかし当の本人はそんな怪我などないようにさっさと起き上がっていつもの神父服に着替えようとする。
苦笑いから一転驚き慌てたライは彼が手に取った服を取り上げる。
柳眉を顰めたクラウディに一喝。
「まずは包帯換えなよ!」
休めと言わない辺りがライのズレたところである。
残念なことにそれを指摘する者はこの場におらず、ズレていることに気付かない二人はさっさと包帯を換えることに勤しんだ。
包帯を外すクラウディに座るように促し、どこからともなく換えの包帯を取り出したライは慣れた手つきで包帯を巻き直していく。
「傷は残るだろうね。結構ブッスリ刺さってたから」
「……服の方は?」
「あ、それならナグモさんたちが直してくれたよ。僕のもしてくれたし、ついでに洗濯も。流石だよね」
「ならいい」
自分の身ではなく、服を心配する辺りが何ともクラウディらしいとライは内心でまた苦笑する。
本来なら自分の身を案じろと口酸っぱく言い聞かせたい所だが今回は急所も外れていて(外したのだろうが)出血の割にそこまでの大怪我でもなかった。
……まあ、自分の身体のことは本人が一番判るだろうし、僕もこれぐらいなら服の方を心配するだろうしなあ……
元々命がけの任務が日常茶飯事だった二人は怪我についての認識が一般より大幅にズレている。そのことに多少の自覚はあるが、直す気は二人ともあまりなかった。
そんな環境で自分よりも長く育ってきたクラウディに注意した所で無駄だろうと諦めたライは別の話題を振ることにする。
「あの子、確かユキちゃん……だよね?」
一瞬怪訝な表情をしたクラウディがああ、と頷く。
「呼ばれていたな……一度だけだったが」
少し間が空いたのは彼なりに言葉を探したのだろう。
思わず笑うと冷たい視線が刺さり、咳払いして誤魔化す。
「そう、君のコレの原因ね」
嫌みで言うわけでもなく、ニヤニヤとからかうように巻き終えた腹部の傷の丁度真上を指で突く。
「それがどうかしたか?」
蝿を叩き落とすかの如くライの手を思い切り叩き落とすクラウディ。
赤くなった手の甲をさすりながらお返しとばかりに取り上げた服をクラウディにベシリと叩きつける。
「君さ、投げ飛ばされたでしょ?あれって油断してたから?」
顔はニヤついたままだがその声色は真剣そのものだった。
服を着ながらクラウディは静かに首を横に振る。
「むしろ警戒してあれだ」
「それ本当?」
「嘘を吐いてどうする」
キッパリと言い切るクラウディに、腕を組んで首を捻るライは「でも、」と続ける。
「あんなほっそい腕で君を横に投げたの?栄養失調気味だって医者にも言われてて見た限り体力も力も人並み以下のあの子が君を?」
「信じられないが、骨も折ったな」
「本当に信じられないよ!大人の手首をあの細腕でポッキリだよ?しかも力だけで!」
両手をブラブラとさせてライは後ろに倒れ込み仰向けの状態になって高い天井の染みを見る。眺めていると段々人の顔に見えてくるから不思議だ。
骨と言うのは個人差もあるがそもそも硬いモノで、あんな風に簡単に折れるものではない。線が細い華奢な女なら可能かもしれないが今回雪姫が折った女は至って健康体の女だった。
対して雪姫はその真逆だ。日を浴びていない青白い肌に細すぎる身体。誰が見ても不健康そのものだ。
仮に赤の他人にどちらの骨なら折れるかと聞けば結果は一目瞭然だろう。
何度頭で考え咀嚼してもしきれない。あれは夢だったのではと現実逃避したくなる始末だ。
頭を勢いよく左右に振って身を起こすと、クラウディと目が合った。
「だが、事実だ」
念を押すように、あるいは言い聞かすように断言したその鋭い瞳は冷た過ぎていっそ火傷しそうな気さえする。
氷のようなその声色が少しだけ硬い気がしたがそれはライの気のせいだろう。
「……何なんだろうね、ほんとにさあ」
「元々普通ではない奴だ。今更だろう」
「いや、まあ、そうだけど……」
歯切れの悪いライにクラウディが「それに」と続ける。
「案外本人が一番判ってないかもしれないしな」
◆
広い部屋の隅に膝を抱えて一人、雪姫はいた。
膝の上に組んだ腕に顔を埋めて気配を消すようにじっと息を殺して。
考えるのは昨夜のこと。
血まみれの少女、狂った女、二人の聖職者。
頭の中で散らかった部屋を片付けるように、絡まった糸をほどくように、少しずつ、ゆっくりと整理していく。
――――少女の死体は大きな桜の木の根元に埋めた。
座りこんで動かない雪姫の前にライと名乗ったあの少年神父はそっと腰を下ろし、腕の中で眠る少女を地面に下ろした。
ただただそれをぼんやりと見ることしかできなかった雪姫に何も言わず来た時と同じ静かな動作で傍を離れた。
少女の手を握ってみたが暖かくて柔らかかったはずの手は、冷たく硬くなっていた。
頭を撫でてみても、反応することは無い。
「……名前、わたし……聞いてない、よ」
ぽつりと零したその音は自分の声かと疑うほどに酷く弱々しいものだった。
不意に声を掛けられて肩越しに振り返る。
眉を下げて笑うライが何かを言って雪姫を立たすが何を言われたのか覚えていない。
雪姫を立たしてすぐに少女を抱きかかえ、手を引いて歩き出す。
後で気付いたのだが気絶した男も、女の骸も、首も忽然と姿を消していた。
手を引かれて雑木林の奥に進む。
起伏の激しい道を進んだ先にあったのが一つだけの大きくて立派な桜の木だった。まだ咲くには少しばかり早いはずなのに満開に咲いた桜。青白い光を浴びる桜は神秘的で儚かった。
その傍に立っている青年の神父、クラウディがこちらを見た。腹部に巻いた布が嫌に目に入る。
何か言いながら傍に行くライに手を引かれてそちらに行くと深く大きい穴が桜の根元にポッカリと空き、傍らにはそれに比例するように盛られた土の山。
こちらを見て何か言ったライに微かに頷くとその穴に入り、少女を横たえて手を重なり合せてやると穴から出て来た。
……ああ、これは墓だ
直感的にそう思った。
身寄りのない少女に自分たちが与えてやれる精一杯の墓なのだと。
考えている間に二人は黙々と、丁寧に土を掛けていく。その丁寧さはまるで布団を掛けてやるかのようだった。
柔らかい土に埋もれていく少女を瞬きすらせず食い入るように見つめる雪姫の赫い瞳は二人にどう映ったのだろうか。
完全に埋め終えると強い風が吹き木々がざわめいて花弁が風と共に舞い上がる。
その花弁がまるで涙のように雪姫には視えた。
そこまでが雪姫覚えていたことだった。
その後どうやってここまで帰って来たのか覚えていない。
気を失ったわけではないだろうと思うが、実際のところは判らない。
「起きてる?入るよー」
突然掛けられた声に顔を上げる。
思考に没頭して気付くのが遅れたようだ。
返事を返すよりも早く襖を開けたのは予想通りライだった。
お椀に湯飲みを乗せた御盆を持ちこちらを見たライが奇妙なものを見たような顔をする。
「えっと、何でそんな隅っこにいるの……?」
広い部屋の隅で膝を抱える雪姫に驚いたらしい。
苦笑しながら入ってくるとライは同じように隣に腰を下ろした。
お椀の中に入っているのはお粥だったらしく炊きたてのお米に似た匂いが鼻孔をくすぐる。
忘れていたはずの空腹を思い出し口から溢れそうになる唾液を飲み込む。
くすりと笑ったライが御盆を下に置きお椀と匙を雪姫に渡した。
「お腹すいてるでしょ?」
冷えた手からお椀の温もりがじんわりと染みてくる。
お椀を包み込むようにして動かない雪姫にライは首を傾げた。
「お粥は嫌い?」
首を小さく振って窺うようにチラリとライを見るとにこにこと笑ったまま食べろと促す。
少量匙ですくっておそるおそる口に運ぶ。
白くか細い喉が小さく動いたのを見てライは秘かに息を吐いた。
「おいしい?」
その質問に雪姫が答えることは無かった。
久方ぶりにまともな食事にありつけたことと空腹だったことも相まって貪るようにお粥を食べる雪姫に返事を返す余裕はなかった。
暫し呆気に取られたライだがこんなに腹を空かせているならもう少し早く持ってきてやればよかったと思いつつ途中、咳き込む雪姫に茶の入った湯飲みを渡してやる。
あっという間に米粒一つ残さず完食した雪姫におかわりはいるかと聞くと首を横に振られた。
空になった食器を御盆の上に乗せ廊下の外へ出しておく。(こうしておけば使用人の人たちが持って行くらしい)
雪姫を布団の上に寝かそうとしたが布団が上等過ぎて意識すると落ち着かないらしく、仕方なく部屋の隅に再び二人で腰を下ろす。
お互い相手の出方を窺うように黙っていたが以外にも先に沈黙を破ったのは雪姫だった。
「……ご飯、ありがとう」
まだ掠れてはいるがライの中世的なものとは違う、鈴が転がるような透き通った声だった。
「どういたしまして、て言っても僕が作ったんじゃないけどね」
「知ってる、けど……持って来てくれてありがとう」
「あと……」雪姫が言葉を続けようとして詰まる。
息が上手く吸えないような錯覚がして目眩がするのを深く息を吸って吐くことでぐっと堪える。
「あの子の……こ、と……」
それ以上言葉が紡げなかったがライにはもう十分伝わったらしい。
優しく目を細めて微笑まれる。神父特有の全てを許し、包み込むような優しい微笑みだった。(雪姫は二人以外の神父に会ったことは無いが)
その目に見つめられることが辛く、咄嗟に目を逸らす。
それを見て勘違いしたのかライが優しく囁いた。
「僕のことが怖い?」
下を見ているせいでライがどんな顔をしているか判らないがその声は相変わらず穏やかなものだった。
力なく首を横に振る。
「じゃあ、クラウディのことは?」
ビクッ、と雪姫の肩が僅かにだが跳ねたのをライは見逃さなかった。
膝を抱えて座っていた雪姫が叱られた子どものように身を竦ます。
「あは、大丈夫だよ。怒ってるわけじゃないから」
軽く肩を叩いて励ますライにそっと視線を向けると声色と同じ優しくて穏やかな安心する笑みを浮かべていた。
「あれはどう考えてもクラウディが悪かったんだしさ。君が驚いて怖がるのも無理ないよ。普通はそうなんだから」
肩を叩いていた手が頭に移動する。
リズムを付けて軽く撫でるそれは母親が泣く子をあやす時によく使うものと酷似しているように雪姫には思えた。
「でもね、クラウディは見た目とか声に抑揚がないから冷たく思われがちだけどね、本当は優しい奴なんだよ。今だっておくびにも出さないけど君のこと心配してるはずだよ」
雪姫の探るような双眸を微笑んで、受け入れる。
あまりに優しすぎるその瞳は見ていると目を逸らしたくなるような、ずっと見つめていたいような複雑な気持ちにさせられる。
「嘘じゃないよ。でも何であんなことしたのかは僕にも判らない。聞いても教えてくれないだろうしね。だからもし君が気になるなら聞いてみるといい。君ならその権利があるからきっと答えてくれるよ。それでも怖かった僕に言って」
パチンと片目を器用に閉じて見せるライは酷く蠱惑的で、僅かに戸惑ったがはっきりと雪姫は頷いて見せた。
頷いた雪姫を見て目尻を下げて〝ふにゃ〟という表現が似合うライの笑顔は本当に嬉しそうで彼がよっぽどクラウディを慕っているのだと判るには十分だった。
嬉しそうに花を飛ばしていたライが思い出したかのように若干慌てて布団まで近寄り枕元に置いてあった風呂敷を雪姫に渡す。
「これ、前も渡したけど君の服ね。着方とか僕は判んないし手伝えないから使用人の人たち呼ぶ?」
彼らがどういう経緯でこんな屋敷の人と知り合ったのか知らないがたかだか着替え程度で手伝ってもらうわけにはいかないと慌てて大丈夫と首を振って見せるとそうかと笑みを返された。
「それじゃあ着替えた後にね。ユキちゃん」
そう言い残してさっさと出て行ったライを目だけで見送り、コテンと小首を傾げる。
「……名前教えたっけ?」
はっきり言って拍子抜けした気分だった。
部屋に尋ねたからにはきっと昨夜の自分のことについて聞いてくるだろうと思い身構えていたが、触れるどころかその話題に掠りもせずにあっさりとライは出て行った。
気を使ってくれたのだろうかと考えると胸の内が少し温かくなった気がした。
◆
唸り声を上げ出した空にこれは本格的にひと雨来るぞと確信した津軽が使用人に拭く物や傘を準備させていると、曇り空よりも深い黒が視界の端にちらついた。
顔を向けるとその高身長と髪の色からクラウディだということが判った。
暖簾を潜り出て行こうとするクラウディの背に声を掛ける。
「外に出るなら止めておきなさい。もうすぐ雨が降りそうだよ」
振り向いた彼と視線が交わる。温度のない紫の瞳は鋭く冷ややかなものだった。
「……傘を貸してもらえますか」
どうやら津軽の忠告を聞く気はないらしい。
話し方こそ丁寧で静かだがその口調には有無を言わせない迫力がある。ここで傘を貸さなくても彼にとっては何の障害にもなりはしないのだろうが。
聞く気はないだろうと薄々予感はしていたが実際のこととなると溜息の一つも吐きたくなる。せめてもの抵抗として腕を組んで考える仕草をして見せる。
「生憎うちには西洋の傘はなくてね。番傘でいいかな?」
「凌げるのなら何でも」
彼の表情を少しでも崩してみたかったのだが残念ながらそれは叶わなかったらしい。まあ、元よりそこまで期待もしていなかったが。
近くの使用人を呼んで傘を一本持ってこさす。何でもいいと言ったせいか持ち主を知らない使用人が選んだのは定番とも言える赤い傘だった。
まあいいかとクラウディに渡すと文句を言うことはなかったが繁々と興味深そうに傘を見ている。
温度のない視線が多少の熱を持っているように津軽には見えた。
「綺麗な色ですね」
抑揚のない声色に一瞬独り言かどうか判断に迷ったが珍しいことなので答えることにした。
「そうだろう。それは赤に近いけど朱色だね。少し黄色が混じっているだろう?」
「へえ、この国は様々な色がありますね」
「おや、意外だね。君はてっきりあまりこういうことに興味がないかと思ったよ」
「良く言われます」
誰とは言わないがもっぱら言うのはあの少年だろうと検討を付けて傘を熱心に見つめるクラウディについでとばかりに問いかける。
「こんな天気に何処に行くんだい?」
「花を探そうかと」
「花?何の花だい?」
「椿です」
ほんの一瞬その花の名を聞いた老人の顔が強張ったが傘を見続けていたクラウディは気付かなかった。彼にしては珍しい初歩的なミス。
漸く傘から津軽に顔を向けたクラウディは津軽の雰囲気が微細ながら変わったことに気付いた。表情は人の好い笑顔のままだが雰囲気がどこか刺々しいような、そんな気配。
「どうしました」
「あ、いや、すまないね。昔を思い出してね」
指摘すると刺々しかった雰囲気は霧散しいつもの津軽だった。
申し訳なさそうに皺の刻まれた頬を掻く津軽は乾いた笑いを漏らす。
「いやぁね、椿は息子が好きだったんだよ。それを思い出したら懐かしくってね」
とてもじゃないが感傷に浸っているという雰囲気ではなかったがクラウディは特に口も出さず相槌を打つだけに留めた。
これ以上ここで話していると雨が降る中出なければならなくなりそうでそれを避けたいクラウディは丁度いいだろうとここで話を切ることにした。
帰るときは判らないから昼の心配はしなくていいと津軽に伝え今度こそ本当に暖簾を潜ろうとして、ふっと立ち止まり最後に背を向けた津軽を呼びとめた。
「椿はお嫌いですか」
その時の津軽は振り返ることが無かったため生憎顔を見ることは出来なかったが。
「……美しい花だとは思いますよ。後始末が大変だけどねえ」
嗤って答えたのだろうとクラウディは確信していた。
暖簾を潜って外に出る。
辺りを見渡すが薄暗いせいか唸り声を上げる空のせいか、おそらくその両方のせいだろう。人はまばらに見えるだけだった。
朱色の番傘を片手に持つ神父はどこか不釣り合いなそれを気にする風も、空も気にする仕草も見せず、静かに通りを歩き出した。
◆
薄桃色の着物は何処かに落としてきたと思っていたがきっちりと二人が回収してくれていたらしい。風呂敷を開けて一番に出てきた感想はそれだった。
振袖かと思っていた着物はどうやら小袖だったらしく袖を通してみたが長さも丈も問題なかった。
次に出て来たのは海老茶色の女袴(行灯袴と呼ばれるものだ)を胸高で身につけて、半幅と呼ばれる細い帯を締めれば完成だった。
鏡が無いので綺麗に着こなせているか不安だが多分これで合っているはずだと自分に言い聞かせ、誰もいないのをいいことにクルリと一回転して見せる。
フワリとまではいかないでも袴の裾が風に持ちあがって、揺れる。
綺麗な着物を恵んでくれた。温かいご飯を食べさしてくれた。十分な休養も取らせてくれた。とても贅沢なほどに。
嬉しい半面、不安のようなものが雪姫の中をジワジワと蝕んでゆく。恐れにも似た罪悪感。いや、こんなことを思うことすらおこがましいのかもしれない。
――――もし、ここにあの子もいたら
そう思うと胸にポッカリと空いた穴が鈍く痛む。雨の日に痛む古傷のような、治りきって無い傷の上にまた怪我を重ねるような。
何とも言えない空虚感と損失感が雪姫の中を占める。
ストン、と腰を下ろして膝を抱えそれを誤魔化すように思考する。
そうだ話さなければいけない。クラウディと話すとライと約束したのだから。
……でも何を話したらいいんだろう?
こうしているとあの時のことはまるで悪い夢だったように感じる。実は今も自分は夢を見ていて目が覚めたらまたあの檻の中なんじゃないか、と。
ぼんやりする思考を頭を振って戻す。悪夢などではなく悪夢のような出来事だったと雪姫は覚えているのだから。頭で否定してもこの身体ははっきりと覚えている。
紫の瞳は無機質で雪姫を見る目は道端に転がっている石を見るかのようだった。それなのに何処までも真っ直ぐで逸らされることが無かった視線。声だってゾっとするほど冷たくてそこに感情は一欠けらも混じっていないように思えた。
人は他人にああまでも感心を持たないことができるのかと震えたほどだ。
だからこその疑問。
……どうしてわたしを止めてまで自分でやったんだろう
「止めておけ」と彼は言った。あの女の首を刎ねた後「殺すとはこういうことだ」と振り向いて雪姫に言った彼。
人一人殺して眉ひとつ動かさなかった彼に恐怖した。愕然とした。
そう考えるとライとの約束を反故にするわけではないが気が重くなるのは確かだ。
しかし、気が重くなるのはそれだけではない。
……彼はわたしを見てどう思ったのだろうか
それが雪姫にとってクラウディと顔を合わせたくない一番の理由だった。
何故なら雪姫自身ですらあの時の自分は『異常』だと他人事のように感じていたからだ。
どうしてあんなことが出来たのか判らないがあのときの自分は紛うことなき『鬼』だった。思い返してみれば普通じゃ出来ない芸当をあのとき雪姫は簡単にやってのけた。
自分が自分でなくなる。あの時の一番の恐怖は間違いなく自分に起こった変化だろう。
それを一番近くで見て感じたのはクラウディだ。雪姫がどんなに言い繕っても彼の中での雪姫はもうほとんど固まっているようなものだろう。
優しい言葉を掛けてもらいたいわけではない。慰めてもらいたいわけでもない。
ただ、〝哀しい〟と思うのだ。
それはきっとあの時の彼の手だけが妙に優しかったからだろう。
感情など遠の昔になくなったと思ったのにと内心で毒づいて自嘲気味に笑った。
そっと思考の海から顔を出すと屋根を叩くような音がすることに気付いた。
廊下に出ると細い糸のような雨がぱらぱらと降り色々な物を叩いて音を奏でている。時々聞こえる腹の底から唸るような雷が光って消える。
使用人の人々が予想外に早く降られたことに大慌てで廊下の庭に面した雨戸を閉めている。ここも時期閉められるだろうと考え、邪魔にならないよう部屋に戻ろうと踵を返し、止まる。
視界の端に映った覚えのある何かと鼻を掠めた何かの香りに振り返ると手を力強く引っ張られつんのめるような形で廊下を走ることになった。
突然のことで頭の処理が追い付かずされるがまま使用人たちがいる逆方向、雪姫の部屋の更に奥の部屋に押し込められ膝をつく。
「ああ、良かった。もう話せないかと思ったの」
歌うように口ずさむ澄んだ声。
「あなた出て行ったままもう帰って来ないかと思ったから」
手が震える。手だけじゃない、身体全体も震えている。
「あら、やっぱり良く似合ってる。その着物、素敵ね」
耳鳴りがして何処か遠くで警鐘だって鳴っている。
冷や汗がこめかみから頬を伝って畳に落ちて吸い込まれる。
「ねえ」
いつまでも顔を上げない雪姫に業を煮やしたのかそれともただの気紛れか。何となく雪姫は後者だろうと頭の冷静な部分で考える。
両頬を手で包むようにして顔を持ちあげられる。ぐっと距離が近くなり目眩がした。
「お話しましょう?」
子どものように無邪気に彼女は笑った。
瞳だけが昨夜と同じく仄暗かった。
◆
段々と強くなってきた雨脚に急いで軒先に隠れる人や準備していた傘で悠々と歩く人。
その中の一人のクラウディは赤に近い朱色の番傘をさして特に当てもなく雨の中を彷徨っていた。
椿の花を探すと言って出てきたが当てがあるわけではないのだ。それに別に椿に思い入れがあるわけでもない。この花の名を言ったのは多分あの見世物小屋で印象に残ったからだろう。
ライにもこんな天気の中探す必要があるのかと怪訝な顔をされたがクラウディ自身、何故今探そうと思ったのか判らなかった。
しいて言えば一人の時間が欲しかったのかもしれない。
よくよく考えればこんな風に独りで過ごすのは随分と久しぶりだと思った。
別にライといる時間が疲れたとか、面倒だと思ったことはない。ライは自分にはない独特な感性を持っていてそれを共有するのは彼にとって有意義なものであるし、ライといると自然とその場が明るいものになる。この感情を〝楽しい〟と呼ぶのだろう。
ならば何故?それはクラウディにも判らない。
――――ただ今日はそんな気分だった。それだけだ。
「神父様」
ぼんやりしながら歩いていると不意に声を掛けられた。
立ち止まって声がした方を向けば古い軒下に黒い布を掛けた机に肘をつく少年、というよりも子どもと表現したほうがしっくりくる風貌の男児が薄ら笑みを貼り付けていた。歳はあの少女よりかは上だろうと予想する。
机の上に並べられている水晶や札も気になったが何よりも目を引いたのはその男児の髪だろう。
真紅と言って差し支えない燃えるような赤。月並みな表現だがそう現すのが一番だとクラウディは思った。その髪を地面に尽きそうなほど無造作に伸ばしていた。
雪姫の瞳とは違う赤。
ふと、クラウディは目線を上にあげる。視界に入った番傘を見てああ、この色だと心の中で感嘆した。
男児はくつくつと喉を震わせ被っていた学帽を目深に被る。ただでさえ長くて表情が窺えない前髪の下の顔はきっと口元と同じように吊り上っているのだろう。
肩に羽織った着物は女物でしかも大人用だった。椿の花が艶やかに散っている。
「何かお探しのようだ。宜しければお手伝い致しましょう」
存外低い声に虚を突かれた気分だった。
三日月のように口端を上げるのを見て昔ライが楽しそうに読んでいた本の猫を思い出した。
「悪いが占いの類は信じていない」
「おやおや、それは残念。ですがこれも何かの縁だ。何をお探しか当てて見せましょう」
子どもらしくない口調にあの少女のことが一瞬頭を掠めたが、男児は逆にどうして子どもなのだろうとおかしなことを考えるほどにはその口調が板についていた。
頬杖をついていない方の手で男児がクラウディの胸元辺りを指差した。
「椿の花をお探しでしょう?」
コテンと首を傾げてはいるが口元は笑ったままだ。
声にも心なしか絶対の確信があるように感じる。
「でも別に見つかっても見つからなくても良いのでしょう?それがあなたの本来の目的とは違うのだから」
番傘から雫が落ちて足元を濡らす。
「独りに成りたいと言うあなたの思いは今、達成できた。考えたいことがあったのでしょう?例えば自分のこと。相棒のこと。少女のこと。ああでもやはり一番は……」
胸元を指した指はいつの間にかクラウディの左胸を、心臓側を指していた。
「拾った『鬼』についてカナ?」
刹那。
はらりと赤毛が机の上に落ちた。黒い布地に赤は酷く目立つ。
首元には簡易なナイフ。
少しでも動けば瞬きの内に赤い華が咲くことだろう。
「それで、お前の占いとやらはまだ続くのか?」
静かに、それでいて火傷しそうなほど冷たいクラウディの声と視線にも男児は飄々と雰囲気のまま楽しそうに哂う。
「当たっているからと言ってコレは戴けないよお客サン。気に障ったのなら謝ろうか。吾輩どうにも敵を作ることが多くてね。悪い癖さ。申し訳なかった」
降参と両手を上げる姿はどうにも緊張感に欠けるものがある。
溜息を吐いてナイフを仕舞うクラウディにああ怖かったと大袈裟に驚いて見せる男児に無性に殺意に近いものが湧いたやはりクラウディの表情に変化は無かった。
「何だったらお詫びに何でも一つ教えてあげるヨ。何が良い?」
どうやらこれが素の口調のようだ。
クラウディが訝しむと男児はおどけて笑って見せる。
「そう、何でもだヨ。吾輩が知ってることは何でもさ。君が気になってる『鬼』についても、きな臭い呉服屋のことについても何でもさぁ」
餌を目の前にぶら下げられた犬のように待ち切れないと言わんばかりにニヤニヤそわそわとクラウディの返答を待つ男児。こうして見れば年相応と思えなくもない。
この男児が何者かは判らないがきっと聞けば本当に何でも答えてくれるのだろう。そのままの通り〝何でも〟
目を閉じて少し考えてクラウディは静かに口を開いた。
考えるまでもなく彼の答えは最初から決まっていたのだ。
「椿はどこに咲いている?」
きょとん、と長い前髪の隙間から瞬く目が見えた気がした。
「…………一応聞くけれどね、こんな機会滅多にないヨ?吾輩本来結構高いヨ?タダだヨ?出血大サービスだヨ?」
間抜けな声に幾分か気分が晴れた。
「元々の俺の目的だ」
「いやぁね、うん、判るけどネ?」
「まだ聞いてないんだ」
首を傾げる男児と同じように首を傾げる。
「本人に聞いてないことを勝手に詮索するのは無粋というものだろう」
沈黙。
頬杖を突いて溜息。
「ふうん……そんなものか」
不思議そうに呟いてニヤリと男児は笑う。不敵な笑みだ。
クラウディの表情は特に変わることは無い。
「楓」
「……」
「吾輩の名前さ。覚えておくと言いヨ。クラウディ・イェーガン殿。今度はライナス・エヴァンズ少年も連れてくると良い」
名前を勝手に知られると言うのは気分的にあまり良いものではない。柳眉を顰めるクラウディに楓は細い路地を指差した。
「あそこを抜けた先に一本だけ椿が立っているからそれを取ると良い」
楓を一瞥だけしてクラウディはさっさとその細い路地に入っていった。
それを特に気にする風もなく楓は相も変わらずニヤニヤとその後ろ姿に軽く手を振った。
きっと自分の着物と同じ艶やかな椿の花が咲いているだろうと思いながら。
雨はまだ止まない。
◆
「かーごめかーごーめー……」
楽しそうに歌う彼女は淀みない手つきで雪姫の長い白髪を丁寧に編み込んでいく。時折鼻歌を歌うのを忘れて手だけをせっせと動かすのだがそれに気付くとハっとして歌を再開するのだ。
その繰り返しをする彼女の行為に慣れることのない雪姫は混乱していた。
混乱しすぎて髪を弄られるのはあの子以来だとか雨は止んだのだろうかとかお香を付けているのか何か良い匂いがするとか関係のないことばかり考えている始末だ。
「はい、できた」
満足そうに彼女は頷いて髪から手を放した。
雪姫が触るとお団子になった髪の周りを三つ編みがぐるりと一周していた。涼しくなったうなじを撫でて器用なものだと感心する。
「……ありがとう」
「どういたしまして。はい、これはオマケね」
仕上げとばかりに綺麗な赤い髪紐で結ばれて雪姫は益々混乱した。
「うん、可愛い。それなら何か被れば髪の色は隠せるでしょう?」
得意満面と言った表情の彼女の瞳は楽しげだ。
仄暗かったあの瞳は見間違いだったのかと勘違いしそうになるほどに。
「ねぇ、何しましょうか。お手玉はどう?」
子どものようにはしゃぐ彼女はいそいそと部屋にある黒塗りの金の装飾が入った高級そうな箱を開けてちりめん柄のお手玉を取り出した。
物が少ない殺風景な部屋だった。年頃の少女の部屋らしくない物の少ない部屋。必要最低限な物は揃っているが何処かもの寂しさを感じる部屋だった。
「はい。これあなたのね」
三つの手渡されたお手玉を受け取ると少女は慣れた様子で器用にお手玉をする。
それをじっと見つめて雪姫は口を開いた。
「赤、好きなの?」
少し間が空いたが彼女はお手玉を操りながら言う。
「どうしてそう思うの?」
「……赤が、多いから」
先程結ばれた髪紐もそうだったが、このお手玉も比較的赤に近い色が多いがする。
「そうね。好きだったわ」
過去形であることが少し引っ掛かったがそれ以上踏み込もうとは雪姫は思わなかった。
彼女が高くお手玉を上に上げるとぽとりとお手玉は下に落ちる。
彼女は雪姫を見てにっこりと微笑んだ。
――――既視感。
彼女に出会った時から雪姫について回るそれは彼女の笑顔を見て更に増す。
それと同時に警鐘が頭の中でガンガンと音をたてるのだ。まるでこれ以上考えてはいけないと耳元で囁かれているような気分。
「あの……」
「なぁに?」
踏み込むなと誰かが言った。
それは幻聴か、それとも雪姫の中に潜む『鬼』か、雪姫には判らない。
「お名前を……」
窺っても、という言葉は続かなかった。
微笑んだ彼女の細められた瞳に暗い影が差したからだ。
「名前、嫌いなの」
ごめんねと彼女は申し訳なさそうに笑った。
「あなたは?」
「……雪姫」
「そう、良い名前ね」
ぞっと全身に鳥肌が立った。
心臓が大きく早鐘を打つ。
彼女の冷たい手がゆっくりと首に回る。力は籠っていないはずなのに息が上手く出来ない。
「羨ましい」
光のない黒曜石の瞳。
全身が痺れたように動かない。
噛みあわない歯がカチカチと音をたてた。
美しく、妖艶に微笑んだ彼女の顔が近付き、唇が触れ合いそうになった刹那。
「ユキちゃーん、どこにいるのー」
遠くでライの声が聞こえ咄嗟に彼女を突き飛ばして部屋を出た。
部屋を飛び出して廊下を走ると雪姫の部屋の前でライが忙しなく辺りを見渡していた。
雪姫に気付いたライが驚いたように目を見開いて傍に駆け寄った。
「大丈夫?顔色が悪いみたいだけど?」
心配そうなライに思わず抱きついた。
身体を少しでも温めて震えを止めるための行為だったのか、単に気が動転しているだけか雪姫自身判らなかった。
一瞬固まったライが尋常じゃない雪姫の様子に心配そうに頭を撫でる。
人の温もりに漸くまともに呼吸が出来た気がした。
◆
雪姫に抱きつかれたライは表面上何でもない風を装っているが実際内心では冷や汗が滝のように流れていた。
……よろしくない。これは非常によろしくない
神父と言えど、見た目は誰もが目を引く美少年と、見た目こそ普通とは言い難いが美少女と言っても過言ではない二人が廊下で抱き合っているのだ。
ただでさえ人の目を引く二人だ。使用人たちに見られでもすれば勘違いされることは必須だろう。
雨戸を立て終えた廊下なのだから暫くは誰に見られることはないだろうが壁に耳あり障子に目あり。何時どのタイミングで人が見ているか判らない。
しかし何故か相当怯えている雪姫を突き離すわけにもいかずライは若干途方に暮れていた。
それに慣れてくればいらないことが頭をよぎる。
……にしてもこの子ホント細いな。いや、細いっていうより薄い?これほとんど骨と皮だけなんじゃない?これでクラウディ押しのけたの?
悲しきかな。あまりの雪姫の細さに逆に心配になってきた。
頭を撫でながら次は肉を食わそうと考えて雪姫を落ち着かすためにわざと陽気に話しかけることにした。
「着物良く似合ってるね。うん良かった。それに髪型随分凝ってるけど誰かにしてもらったの?」
雪姫の肩が微かに震えた。
ふむ、と頭を撫でていない手を顎に当て考える仕草をする。
……この髪をやってくれた人と何かあったんだろうけど、うーん……でもこの屋敷にこの子を怯えさせるような人いたかなあ?
この家の使用人は必要以上に干渉はしてこない。本来そんなものかもしれないが津軽に何か言われているのもあるだろう。彼らは本当に必要最低限のことでしかライたちに関わってはこない。
雪姫に対しては特にそれが顕著だ。
口や顔にこそ出さないが雪姫を見る目は明らかに歓迎しているものではなかった。
だからこそなるべく食事や身の回りの物もライとクラウディの二人で届けるようにしていたのだが二人の目の届かない所で誰かが雪姫と接触していたようだ。
ふっと知らない匂いが鼻を掠めた。
スン、と鼻を鳴らして雪姫の首筋辺りに鼻を近づけると自分たちの国にあった香水ほど強くは無いが微かに香る花に近い香り。
こんな香りを纏った使用人はいないはずだ。
何となくだが使用人風情が手を出せない上等なものだと勘で判り、顔を上げた瞬間背中に悪寒が走った。
今後ろを振り返ると大変なことが起こる気がするが振り向かなければ更に悪い予感がすると油を注し忘れた機械のようなぎこちない動きでゆっくりと後ろを振り向いてライの時間は完璧に止まった。
石像のように固まったライを不思議に思った雪姫がライの肩越しに前を見て目を見開く。
何時の間にそこに立っていたのかライと同じ神父服の青年、クラウディがそこに立っていた。
少し濡れている袖と服を見てまさか外に出ていたのかと驚いている雪姫を余所に何を思ったのか一つ頷いたクラウディがそのまま背を向けようとするのでライが慌てて止めた。
「ちょ、待って!ストップストップ!!絶対君は何か盛大な勘違いをしてる!!」
「恥ずかしがる必要はない。だがこの国は貞淑を重んじるようだからせめて部屋の中でやった方がいい」
「やっぱりしてるじゃないかっ!!ていうか何でそんな続きを促すようなこと言うかなあ!」
「神父とはいえ所詮は男だ。幸い俺たちのところは恋愛を禁じていない。良かったな」
「話を聞いてくれるっ!?」
一旦雪姫を放して必死にクラウディの肩を掴むライに原因の雪姫は心底申し訳ない気持ちにはなったが口を挟む隙がないため黙視することにした。
「いやもうほんっとに違うから。やめて本気でやめて……。それより君この雨の中結局手ぶらで帰ってきたの?」
多少強引だが埒が明かないと話題を無理やり変えたライに特に何か言うこともなく首を横に振って答えた。
「でも何も持ってないよね?」
「元々持ち帰るためのものじゃなかったからな」
納得がいかないと小首を傾げるライを小突き振り返ると雪姫と目が合った。
驚いた雪姫は目を瞬かせて慌てたように目を逸らす。
所在なさげな手が胸元を掴んで着物に皺を作った。
同じように視線を逸らしたクラウディが何処かに行こうとしたのでライは腕を掴んで止めた。
「そ、そうだせっかくなんだしさ、クラウディ、ユキちゃんと話してみなよ!僕はもう何回か話したから今度は君たちが交流を深めなきゃね!!」
努めて明るい声で明言したライに雪姫は一瞬理解が及ばずクラウディは不審そうにライを見た。
「ほらほら早く!」
「おい、押すな」
無理やり雪姫の部屋にクラウディを押し込み手招きして雪姫を呼ぶ。
そろりそろりと近寄る雪姫の双眸は心細そうに揺れていた。
そんな雪姫に苦笑して内緒話をするようにして耳元に顔を寄せた。
「大丈夫。言ったでしょ?あれでユキちゃんのこと心配してたからさ」
クラウディと同じように半ば強引に部屋に押し込みライは大きく息を吐いた。
ぐっと伸びをして雪姫が飛び出してきた廊下の奥に目をやる。
見えない何かを睨むように目を凝らして、自分が押し込んだ二人がいる部屋に目をやり、雪姫に心の中で激励を送って自分たちの部屋に戻ることにした。
……さて、どうなることやら
思っていることとは裏腹にその足取りは随分と軽かった。
◆
襖がしまる音とほぼ同時に振り返ったクラウディと目が合った。
何を考えているか判らない冷たい紫の瞳に背中を冷や汗が伝う。
観察するように見られて動けない雪姫はまるで蛇に睨まれた蛙のようだった。
それほど時間は経っていないはずなのに雪姫にはまるで一時間も二時間もそうしていたようにさえ感じる。
クラウディがこちらを見据えたまま雪姫に向かって一歩踏み出す。
それに大袈裟に反応した雪姫の背中が襖にぶつかるがクラウディが足を止めることは無かった。
下を向いて袴を強く握る。強く握りすぎて震える手に、皺になるんじゃないかと頭の片隅で思う。
クラウディの足袋とは違う異国の履物の黒い爪先が視界に入った。
血の気が引いていく音がする。
……駄目だ落ち着け大丈夫怖い優しい人だってライが言ってた何て言われるんだろう怖いあの子だって協力者だって言って信頼してた大丈夫怖い大丈夫大丈夫怖い怖い怖いこわいこわいこわい
混乱する頭が不意にクラウディが動いたのを感知した。
ぎゅ、と思わず目をつぶる。
すると頭に軽く乗った重みに目を開いた。
優しい手つきのそれに撫でられているのだと判断するのに少しの時間を要した。
「悪かったな」
そっと顔を上げるとそこにあるのは相変わらずの冷たい瞳。
「ライは少しお節介にすぎるところがあるが気にする必要はない。俺から言っておこう。お前も無理に付き合う必要はない」
冷たい声とは裏腹にその内容は雪姫を気遣ったものだった。
すっと雪姫の頭から手を放し部屋を出ようとするクラウディの腕を反射的に掴んだ。
驚いたようにこちらを見たクラウディにこの人もこんな顔するんだと考えて雪姫も目を瞬かせた。
首を傾げるクラウディにはっとして拙いながらも懸命に音を紡いだ。
「違うの、わたしが話してみようとしてライに協力してもらったの、だから、付き合ったわけじゃない、の……」
段々と消えていく言葉尻と同じように下がる雪姫の顔。
蚊の方がまだましな鳴き方をするだろうと思うほどの声量で謝罪までされた。
「そうか」
「う、ん……」
何から話そうかと考える雪姫の手首をクラウディが掴んだ。
さほど強くない振りほどこうと思えば振りほどけるほどの力だった。
無言で部屋を出て廊下を進むクラウディに驚愕して思ったよりも大きな声が出た。
「ど、どこ行くの!?」
「話すのだろう?」
不思議そうな顔で逆に問いかけられ何と答えて良いか判らなくなった。
しかし不思議と手を振りほどく気にならなかったのはきっとその手があの時と同じで妙に優しかったからだろう。
◆
慣れない編み込みブーツは意外と雪姫の足に良く馴染んだ。
朱色の番傘に二人で入って細い路地を歩く。
傘に当たる雨音のお陰で沈黙が苦になることは無かった。
手を引かれるままにここまで来てしまったが、クラウディは雪姫に未だ目的地を伝えていない。
流石に不安になって来た雪姫が不安げにクラウディを見上げるが彼は雪姫を一瞥しただけで何か言うことは無かった。
着けば判るということなのだろうがそれでもやはり不安は不安だ。
ライトクラウディに絶対の信頼を預けるほど雪姫はまだ二人を良く知らないのだから。
何よりあまりにも急すぎる展開に頭が付いていかない。
話をしようとして何故今こんな雨の中二人で歩いているのか判らない。
悶悶と考えていると気付けば路地を抜けて目的の場所に着いていたらしい。
クラウディが視線を向けている方向に目線をやるとそこに一本だけ椿が咲いている木があった。
忘れ去られたように町の片隅に咲く椿に雨が跳ねて、地面に水溜りを作っていく。
「椿……」
呆けたようなその声は雪姫から出たものだった。
軽い力で腕を引かれて椿の前に立つと存外背の高い木だった。クラウディの背より少し高い。
樹皮はなめらかで灰白色で、時に細かな突起がまばらに出ていた。
手を伸ばして触れると雫が指先から肘まで伝う。
傘からはみ出た手に雨が当たって冷たかった。
「……これを取ってたから袖が濡れたの?」
クラウディを見上げると、まるで悪戯が見つかった子どものように目を逸らされた。それがどうにもちぐはぐに思えて笑う。
「取った椿は?」
「……手向けた」
冷たい声にほんの少しだけ含まれた戸惑ったような音。
あれだけ最初は恐ろしいと思っていたはずなのに今は何とも思わないから不思議だった。
手向けたということはあの子の墓に置いて来たのだろう。想像して、目を閉じた。
そういえばあの子に付けられた花も椿だった。
雨音しかしない、人の気配がしないこの場所はまるで世界から取り残されてしまったようで、切ないような寂しいような不思議な心地だった。
「どうして……」
目を開けて椿を見る。
「どうしてわたしに何も言わないの?どうしてわたしをここに連れて来たの?どうして……」
そっと椿からクラウディの紫の瞳に目を移す。
冷たくて美しい無機質な瞳。
「あの時わたしにやらせてくれなかったの?」
少しだけ含まれた責めるようなその赫い瞳からクラウディが目を逸らすことはなかった。
思案するように目を伏せて、真っ直ぐに彼女の双眸を見返す。
「取れないんだ」
「え?」
「一度染み付いた血の匂いは取れないんだ」
二人の足元に水が落ちる。
傘を叩く雨は一向に止む気配を見せない。
怪訝そうな顔をする雪姫にまるで諭すように淡々とクラウディが音を紡ぐ。
「何で洗っても完璧に落ちることは無い。爪の隙間や皮膚に匂いが染み付いて、取れなくなる」
他人事のように、何処か遠くを見るような目で雪姫の目を見るクラウディの表情は変わってこそいないが違和感を覚えた。
「染みついた匂いは何で洗っても落ちることは無いんだ。皮が剥けるほど強く擦っても、消えることは無い」
「…………二人とも、そう、なの?」
答えないクラウディに野暮な質問をしてしまったと後悔する。
遠くを見ていた目が不意に強い意志を秘めた。
「幸せになれと言われたな」
その言葉は眠る間際にあの子が残した言葉だった。
唇が震える。
「なら、お前は幸せを探せ」
「なに、それ……」
「言葉通りだ」
「むりだよ」
「何故?」
「そんなこと、無理だよ……」
「だから何故?」
「無理だってば!!」
悲鳴に近い声だった。
その言葉は雪姫にとって呪いのような言葉だった。
あの子は言った。『幸せにならなければ許さない』と。
判っていたのだあの子は。そう言わなければ雪姫がずっと何も行動を起こさないことを。
あの檻の中のように死んだように生きていただろうことも。
見透かすような紫の瞳が雪姫を射抜く。
その涼しい顔が無性に腹が立った。
「どうしてそんなこと言うの!判ってるくせに!!全部判ってるくせに!」
八つ当たりだと頭の一番冷静な部分で考える。
やめろと誰かが叫ぶのに雪姫の口は止まってくれない。
「なれないよ!なれるわけがない!!判ってるでしょ?わたしのせいなの、全部全部わたしのせいだったの」
「それは、」
「うるさい!!うるさいうるさい!聞きたくない」
伸ばされた手を振り払った。
後ずさったせいで背中に椿の枝が刺さって痛かった。花がいくつか落ちる。
――――首みたいだと、地面に落ちた椿を見て昨夜の女を思い出した。
強く両腕を掴まれた。
朱色の番傘が地面に転がって、遮るモノが無くなった雨が二人を容赦なく打ちつける。
『幸せ』が雪姫にはもう判らなかった。
自分に無償の愛を注いでくれた両親はもういない。
自分に普通に接してくれたあの子はもうここにはいない。
本当に何も無くなってしまったのだ。全て両手から零れ落ちてしまったのだ。
そして怖いのだ。
もし、『幸せ』を見つけてもまた失ってしまったら?壊れてしまったら?
なら初めから〝無い〟方がいい。
初めから何も持っていない方がずっといい。
そうすれば失うことなどないのだから。
それに許されなくたっていいのだ。
死ぬまでずっと背負って往くのだって構わない。
だってそれが何よりも――――
――――あの子の存在証明になるでしょう?
「いらない、幸せなんていらない!わたしは許されたくなんてない、ずっと、それこそ死ぬまで許されなくたっていい」
「落ち着け、暴れるな」
「離してよ!あなたにわたしのことなんて判らない、だってライがいるもの。全部失くしたわたしと違って何があっても味方になってくれる誰かがあなたの傍にいるもの……誰かがいるあなたはわたしとは違う、そんなあなたに何か言われる筋合いなんてない!!」
「いいから聞け!!」
響くほどの大声だった。
どんな時でも表情も、声音も変わらないクラウディが確かな怒りを湛えた瞳で雪姫を見ていた。
あまりの激昂に足が震えたがそれでも雪姫は目を逸らさなかった。睨むようにクラウディの顔を見る。
「お前は幸せにならなければいけない」
珍しく感情を孕んだ声だった。
「お前がどんなに耳を塞ごうが、目を閉じようがこの言葉はずっとお前について回る。それこそ呪いのようにお前に一生ついて回るだろう」
「――――っ」
「雪姫」
初めて呼ばれた名前は子どもを諭すような声色だった。
「この言葉は導だ」
クラウディの髪から雫が伝って雪姫の頬を濡らした。
良く見れば彼が雪姫と椿を挟んで覆いかぶさるようにしてくれているおかげで雪姫はほとんど濡れていなかった。
「そしてお前が逃げないようにするための枷だ」
「……」
「俺たちは逃げれないんだ。死んだ奴はもう何も言わない。だから生きてる間にそいつの導になるようにと言葉を残す。それを聞いたらもう、逃げれない」
掴まれていた両腕はもう放されていて力なく下がっていた。
「なれないじゃない。ならなければいけないんだ。後悔して嘆くなら尚更に、お前はならなければいけない」
濡れる頬をクラウディが拭う。
落ちては伝う雫を丁寧に拭っていく。
「だから俺はあの時お前を止めた。どんなに許せない相手でも手に掛ければそれは重荷になってお前を蝕む。普通の道徳観を持っていれば尚更にな。そうなればお前はあいつの言葉をそれこそ実行できなくなる。それがお前をあの時止めた理由だ」
そう言って締めくくったクラウディは落ちた傘を拾って雪姫の方に傾ける。
「忘れるな。あいつの生を奪ったと思うなら実行しろ。足掻いてでも藻掻いてでもその術を見つけろ。それがお前があいつにできる唯一の罪滅ぼしだ。あいつに……」
身体に当たっていた雨の方が温かく感じるほどの冷たい声。
自分の方が濡れているくせに彼は雪姫が濡れないようにと傘を傾ける。
「お前を赦させてやれ」
足の力が抜けて膝を突きそうになるのを片腕で支えられた。
その腕は雪姫が想像したよりもずっと雨水に晒されて濡れていた。
支えられている腕の水が雪姫の着物にじわじわと染み込んでいく。
喚きたいような気分だった。
泣いて縋りつきたいような気分だった。
自分の力で立とうとしない雪姫をクラウディは何も言わずにただ支えている。
「……ひどい人」
ぽつりと呟いた言葉は果たしてクラウディに聞こえていたのか雪姫には判らない。
優しい言葉を掛けてくれるわけじゃない。
慰めてくれるわけじゃない。
酷く酷な突き放すようなことを言うくせに雪姫に対してどこまでも優しく接してくるのだ。
今だってそうだ。何も言わず、無理やり立たすこともせず、ずっと雪姫の身体が倒れないようにと支え続けてくれている。
腕の温もりに泣きそうになる。
ぐっと堪えているとクラウディが何故か傘を地面に置いた。
霧のようになった雨が二人を濡らしていく。
……ああ、この人はどこまでも
もう限界だった。
雨とは違う雫が頬を伝って地面に落ちる。
せき止めていた何かが決壊して雪姫は声を押し殺してただ涙を流した。
いくら泣いたって構いはしない。どうせこの雨じゃまともな判断なんてつきはしないのだから。
ずっと泣くのを耐えていた『鬼の少女』が初めて泣いた瞬間だった。
◆
霧雨が止んで雲の隙間から日が出て来た。
何処かで雨宿りしていたであろう鳥たちが歌うように鳴き出した。
支えられていた腕を軽く押しのけて雪姫はクラウディに背を向けるようにして椿の方を向いた。
クラウディも置いた番傘を丁寧に畳んで袖で自分の顔を拭った。
「ねぇ」
か細く掠れた声が自分に向けられたものだと気付いたクラウディは華奢な背に視線をやった。
心なしかその肩は震えているように思えた。
「本当になれると思う?」
何をとはクラウディは聞かなかった。
空を仰いで目を細める。
「お前次第だ」
肯定も否定もしないその答えが判っていたかのように雪姫は笑って振り向いた。
目元は赤く、泣きそうな顔だったが美しい花が綻ぶような笑顔だった。
その笑顔にクラウディは少しだけ目を見張る。
「少しくらい優しくしてくれたっていいのに」
不満そうな言葉のわりに声は明るいものだった。
「すまない」と淡々と謝ったクラウディに雪姫はまた笑った。
ふっと急に雪姫が真剣な顔つきになった。
「まずはごめんなさい。あなたに怪我までさせたのにひどいことをたくさん言って」
泣きそうな顔を一瞬下に向けて、すぐにまた顔を上げ真面目な顔つきになる。
「わたし決めた。絶対になるの。何が何でも、絶対に。だから知りたいの」
紫の双眸と赫い双眸が交わった。
「あの子のことも、自分のことも、ずっと目を背けていた両親のことも」
掌に爪が食い込むほどに強く雪姫は手を握り締めた。
そうでもしていないとこれから自分の言うことに不安で押しつぶされてしまいそうだった。
「でもわたし一人じゃきっと何もできない……だからお願いこの国にいる間だけでいいから……」
大きく息を吸い込んで、深く頭を下げた。
「わたしに、協力してください」
唇を噛んで沈黙に耐える。
今の雪姫が協力を頼めるのはクラウディとライしかいないのだ。
唯一の頼みの綱の二人に断られたらどうしようという不安が身体を支配していくのを目を瞑って耐えた。
長くにも一瞬にも感じられる沈黙。
それを破ったのは容赦のないデコピンだった。
額に衝撃が走り目の前に火花が散る。
あまりの痛みに悶絶してしゃがみ込むと戸惑ったような謝罪が上から降って来た。
涙目で見上げると首を傾げて不思議そうな顔をしたクラウディと目が合った。
「すまない、ついライの時と同じ感覚でやってしまったが、そんなに痛かったか?」
本気でライに同情した瞬間だった。
涙目で睨むと気を取り直すような咳払いを一つ。
「基本的に旅の方針はライに任せているが、あいつのことだ。二つ返事で頷くだろう」
パチパチと瞬きをして勢いよく立ちあがる。まだ額が痛むがそれはこの際どうでもいい。
「それって……」
「俺は構わない」
今にも飛び上がらんばかりの歓喜を堪えて頭を深く下げた。
「ありがとう……っ」
鼻声の間抜けな声だったがクラウディが笑うことは無かった。
顔を上げて誤魔化すようにへらりと笑うが彼の表情は変わらない。
無言で椿の木に近付いて落ちた中でも比較的に綺麗な椿を2,3拾うクラウディを見て今度は雪姫が首を傾げる番だった。
そんな雪姫をちらりと見てクラウディは簡潔に答えた。
「土産代りだ」
その一言で何となくライにだろうと想像がついて少し笑えた。
どうやら彼らは雪姫が思っている以上に仲が良いようだ。
「一つ貰ってもいい?」
駄目元で聞いてみると3つ拾った中で一番綺麗な椿を渡された。
その行動に自然と雪姫の頬は緩み、ありがとうとお礼を言って椿を眺めて、ついでとばかりにクラウディに尋ねてみることにした。
「ここに連れて来た理由、聞いてないよ」
「……」
途端にクラウディが柳眉を顰めて嫌そうな顔をした。
少し前なら不機嫌そうなその顔にびくついていただろうが残念ながらこの短時間ですっかり慣れてしまった雪姫には効かなかった。
引く気のない雪姫に溜息を吐いて渋々といった風に口を開く。
「…………女との会話に困ったら取り敢えず花でも見せろと昔世話になった人から教わった」
ポカン、と口を開けて思わずクラウディをじっと見た。
それはつまりクラウディも雪姫との会話を探していたというわけで気まずさを感じていたのは自分だけではなかったのか、と頭の中でぐるぐると考えながら目を瞬かせて無遠慮に彼を見遣る。
しかしその目はすぐに逸らされ背を向けられた。
「帰るぞ。遅くなるとライがうるさい」
その言葉にぎこちなく頷いてクラウディの横に小走りで向かう。
必死に笑いを堪えるように小刻みに揺れる雪姫の肩を見て不機嫌そうにクラウディが呟いた。
「……笑うな」
拗ねた子どものようなその一言が雪姫の中で起爆剤になった。
堪え切れないとばかりに噴き出した雪姫の笑い声がクラウディの耳に入る。
肩を震わせて笑う雪姫を見てクラウディの眉間の皺は益々深くなる。
そんな彼を見て雪姫が更に笑うものだからクラウディは諦めて溜息を吐いた。
温かい穏やかな風が吹いた。
まるで背中を押すようなその風が嬉しくて雪姫は花のように微笑んだ。
少し修正しました。