陸
残酷描写があります。
茫然とこちらを見る少女は間違いなくあの見世物小屋でわたしの世話を何かと焼いてくれた少女だった。
こんな風に驚いた顔を見るのは二回目だ。
目を見開いてわたしを暫く見ていた彼女ははっとしてわたしを引っ張り起こす。
「なんでよりにもよって今……っ、走ってっ!!」
わたしの手を引っ張って彼女は何かから逃げるように駆けだす。
来た道を引き返すようになってしまったわたしはこの子も逃げていたのかと頭の片隅に思った。
同じ逃げるでもわたしとは違って彼女は明確な何かに追われているようだけど。
彼女が飛び出してきた方の道から何人かの足音と声が聞こえる。
何かを叫んでいるようなその声は捕まったらただではすまされそうもない。
前を走る彼女は良く見ると赤い着物は所々汚れているし足はさっきまでのわたしのように擦り傷だらけでわたしを引いている腕には強く打ったような痣まである。
こんな焦った彼女も、傷だらけな彼女も初めてだ。
あそこにいた彼女はどこか冷めた子供らしくない子供で、こんな風に追われるような失敗を犯すような子ではなかったはずなのに。
……一体何をしたんだろう?
わたしの疑問はそのまま口に出ていた。
「どうして追われてるの?」
彼女に話しかけるのもこれで二回目。
わたしの疑問に彼女は少し黙って確認するような声色で前を向いたまま答えた。
「……あんたもしかして何も聞いてないの」
「……」
聞く?聞くとはどういうことだろう。
わたしは売られてあの部屋にいたのではないのだろうか。
答えないわたしに彼女が焦れたのか叫ぶのをぎりぎり我慢したような声量で言う。
「だから、あの神父の二人からよ!!」
言いながら彼女は家と家の隙間の細い道に曲がった。
躓きそうになるわたしを無視して彼女は器用に進んで行く。
腕を曲げれば何とか通れるわたしは彼女の速さについて行くのがやっとで何度も転げそうになる。
漸く細道を抜けた先は数件家が建っているだけで閑散としていた。
その中の誰も使っていないような小屋に彼女はわたしを引っ張って行く。
しかし残念ながら戸は板が張られていて入ることが出来そうにない。
どうしようと考えるわたしを余所に彼女は小屋の裏側に一人でさっさと回り込む。
取り残されたわたしは手持無沙汰に戸に触れてみるがやはり入るのは難しいだろう。
すると裏に回った彼女が戻って来てわたしの手をまたぐいぐいと引っ張る。
引かれるがままについて行くと小屋の裏に人一人入れそうな穴が開いていた。
その穴に彼女は潜り込んでひょこっと顔を出して手招きする。
周りを見渡すが足音は追って来ていない。
どうやら撒くことが出来たらしい。
わたしも同じように潜り込んだ。
中に入ると長い間使われてなかったのか埃っぽくて思わず咳き込んでしまう。
彼女もくしゃみをしながら近くにあった木の板を立てて穴を塞いだ。
中には使われなくなった椅子や机のような家具から何に使うのか判らないような物でごった返しだった。
板を立てた彼女はそのすぐ横の隅の方に腰を下ろしたのでわたしもその隣に腰を下ろす。
彼女はチラリとわたしを見て膝に顔を埋めた。
落ち込んでいるように見えるその姿にそっとわたしは頭を撫でた。
ついでに砂埃も軽く払う。
黙ってわたしの行為を受け入れていた彼女は顔を上げてわたしの方を見た。
責めるような嬉しいような困ったような色々な感情がこもった瞳がわたしを射抜く。
「……聞いてないのあの二人から?」
そういえばそんな話をしていた。
それにしても彼女はどうしてあの二人のことを知っているのだろうか。
「二人と知り合い?」
「……よくわかった。何にもきいてないのね」
大きなため息を吐いて項垂れる彼女の頭を軽く撫でると睨まれた。残念。
「売られたのかと思ってた」
わたしの言葉に間髪入れずに彼女が答えた。
「ばかじゃないの?」
真顔で言われるとさすがに少し堪える気がする。
どうやらわたしの考えは違ったらしい。
「そんなことより何であんなとこにいたの。しかもはだしじゃない」
「……逃げて来たの」
「何それ、何かされたの?」
眉を顰めた彼女の言葉を首を振ることで否定する。
「じゃあ、何で?」
答えない私を見て何を思ったのかは判らないけれど彼女は「そう」と素気なく言って視線を逸らした。
そこで会話が途切れた。
沈黙が埃と一緒に落ちてくるような錯覚をわたしは覚えた。
冷たくなった足を摺り合せる。
結局彼女はどうして追われているのだろう。
少ない情報から答えを導き出そうとわたしは考える。
話の流れからしてわたしが関わっているということは追っているのは見世物小屋の連中だろう。
あの二人の神父のことも知っているようだから三人で何かしたのかもしれない。
そこにわたしが深く関わっている。
……あの時の小さな手は夢じゃなくてやっぱりこの子だったんじゃ……
「ねえ」
急にわたしは思考の海から現実に引き戻された。
彼女が膝から少しだけ顔を離した状態で上目遣い気味にわたしを見ていた。
首を傾げることで続きを促す。
「なまえ……」
よく聞こえなくて更に首を傾げるわたしを恨みがましげに見た彼女が声を少し大きくする。
心なしか顔が赤い。
「なまえ、おしえてよ……」
顔を隠すように膝に顔を埋める彼女の耳はやはり赤い。林檎みたいだ。
「雪姫」
久しぶりに口にした名前は何だか他人のもののようだ。
「ゆき?」と聞き返す彼女に頷いて埃が積もった床に指を這わせる。
「こう書くの」
木の床の上に砂のように文字を書く。
彼女はじっとわたしが書いた文字を見つめていた。
「……あなたは?」
「……あたし?」
目を瞬かせる彼女に頷いてみせる。
「あたしは――――」
刹那。
戸がけたたましい音を立てて壊れた。
埃が一気に舞う中でわたしよりも早く反応した彼女が急いでわたしを立たせようとする。
穴から外に出ようとしたがそれは叶わなかった。
わたしたちが出ようとするより先に彼らは入って来た。
体格の良い男が三人と女が一人。どの顔も見世物小屋で見た顔だった。
女が前に進み出てわたしと彼女を交互に見て愉快そうに笑った。
「へぇ……こりゃたまげたね。あんたを捕まえて吐かそうとしてたけどその手間が省けた」
彼女は女を見ながらも周囲に目を走らせている。
そんな彼女の行動を嘲笑うように女が片手を上げる。
それが合図だったのか男が一気に距離を縮めて来た。
それを見たわたしは咄嗟に近くにあった物を掴んで投げる。
投げた物はどうやら割れ物だったらしく男の一人に当たって割れた。
一瞬怯んだ男たちにおまけとばかり幾つか投げて木の板を払いのけ彼女を穴に押し込んでわたしも続く。
出る寸前に足を掴まれたが空いている足で思いっきり蹴ってその反動で外に出る。
思いがけないわたしの行動に驚いたのかポカンと間抜けな顔で口を開けている彼女の手を取って今度はわたしが手を引いて走り出した。
◆
同じ頃ライとクラウディは『鬼の少女』捜している真最中だった。
あの子供が言っていた話では長い間あの檻の中で生活していたらしいのだから体力はそうないだろうと予測し近辺を捜しているのだがここに来てまだ日が浅い二人にはいささか分が悪かった。
地理にまだ詳しくないのもあるがこの国異様に脇道や細道が多いのだ。
いくら『鬼の少女』の体力が無くても入り組んだ脇道や細道に入られたら捜すのは難しい。
はっきり言ってしまえば二人にはお手上げ状態だった。
「まいったなあ……どうしよっかクラウディ」
「合流が難しい以上ばらけるのも避けたいしな。地道に捜すしかないっと言いたいが見世物小屋に先に見つかる可能性もある。あの子供は今日中に発つと言っていたが遅れてるかもしれないし、何よりあの女の情報が俺たちには少なすぎる」
溜息を吐いて簡潔に答えるクラウディにライも腕を組んで考える。
聞き込みをするにしても春先とは言えまだ冷える夜に外出する者はいないだろう。
「見世物小屋に戻ったりしないかな?」
「それをしたらあの子供の計画は全て駄目になるが……説明する前に出て行ったならその可能性はあるかもな」
実際の所それをされたらこちらとしてはもう成す術はない。
しかしそれが絶対とは言えない以上捜すしかない。
溜息を呑みこんで二人は捜索を再開した。
民家から漏れる笑い声が今は恨めしい。
「そもそも何で逃げられちゃったんだろ?僕ら別に変なことしてないよね?」
この格好のおかげで大体警戒心は薄れるんだけどなあ、とぼやくライの目の前に人影が見えた。
人影は家と家の隙間の細い道に入る。
入る間際に薄桃色の着物が二人の目に入った。
それを追うようにして二人も細道に飛び込む。
思った以上に狭いその道を腕を折って進む二人が抜けると数件家が建つ閑散とした場所だった。
見渡すが二人が追って来た人影の姿は無い。
見間違いだったのかと気落ちしかけた二人は使われていないであろう小屋の前に着物が落ちていることに気が付いた。
確認するためにその小屋の前に急ぐと『鬼の少女』の肩に掛けたあの薄桃色の着物だった。
手にとってもう一度確認するが間違いないようだ。
小屋を見ると戸は無残に壊されており、中も争ったように皿や壺が割れていたり使わなくなった家具が散らかっている。
埃まみれの床に最近できたであろう数人の足跡と裸足の跡が混ざっていた。子供のものであろう小さな足跡も。
それを確認して二人は顔を合わせる。
「当たりっぽいね」
「そのようだ」
人影の正体が気掛かりだがこの様子だとそう悠長なことは言ってられそうもない。
小屋を後にして地面を見ると薄っすらとだが足跡が残っている。
その足跡の行く先を確認して二人はほぼ同時に駆けだした。
◆
油断していた相手の隙を突いて何とか逃げだした雪姫たちは雑木林へと足を踏み入れていた。
様々な種類の木が生い茂る林はあまり整備されておらず裸足で走る雪姫の足は傷ついては癒えることを繰り返していた。
追ってくる方も足場が安定していないことなどが原因で悪戦苦闘しているが元々の体力の違いや歩幅の違いのせいか距離はだんだんと縮まっていく。
何より長い間檻の中で暮らしていた雪姫の体力は一般人に遥か劣る。少し休んでいたとはいえ雪姫のなけなしの体力はもう限界だった。
「ちょっと、はなしてよ!あたしがまきこんだんだからあたしが何とかするから!」
少女が後ろで叫ぶがそれに言葉を返す余裕すらもう残っていない。
足音はもうすぐ傍まで来ていて逃げ切るのは難しいだろう。
頭ではそう理解しているのに雪姫が足を止めることは無かった。
ただただ懸命に縺れそうになる足を前へ前へと進めていく。
「はなしてったらっ!……これじゃ、意味ないじゃない……っ」
不意に少女が泣きそうな声をあげた。
……困ったなそんなつもりじゃないのに
泣きそうなこの少女をどうしたらいいのか雪姫は判らない。
足を止めれば泣かないのだろうか。どうすれば安心させることが出来るのだろうか。考えて、考えて、思い出したのは幼い頃。
昔、母に何かで叱られて泣いていた時。慰めてくれたのは父だった。
母に嫌われたと泣く雪姫の頭を撫でて笑いかけ手を引いてくれた。
ただそれだけなのに大丈夫だと安心することが出来た。そんな幼い頃のことを。
「……大丈夫」
振り返って笑う。
潤んだ目が不安げに揺れて雪姫を見上げていた。幼い頃の雪姫も父の目にはこんな風に映っていたのだろうか。
父のように上手く笑えているだろうか。大丈夫だと伝わるだろうか。
ずっと使うことのなかった表情筋のせいで引きつっているかもしれない雪姫にとっての精一杯の微笑を少女に向ける。
それで十分だったらしい。
強く、離さないようにと握った手を少女が握り返した。
まだ潤んではいるが不安そうに揺れる瞳はもう無かった。
ほっとして雪姫も前を向く。
その一瞬の気の緩みがいけなかったらしい。
少女の小さな悲鳴が聞こえたと同時に雪姫も崩れ落ちるようにして膝を突く。
振り返ると太い幹の根に躓いた少女が同じようにして倒れていた。急いで助け起こそうとするがそれより先に彼らに追いつかれてしまった。
ぎゅっと少女の身体を強く抱きしめる。
「手間かけさせやがって、来い!!」
追いついて来た三人の男の一人が雪姫の腕を掴んで引きずるように強く引っ張る。
痛みに顔を歪める雪姫を見て少女が咄嗟に男の腕にしがみ付く。
それを鬱陶しそうに見た男はもう片方の手で少女の首を掴んで地面に叩きつけた。
あまりの衝撃と痛みに咳き込む少女に駆け寄ろうとした雪姫は男の腕を振り払う前に残りの二人に腕を掴まれて身動きが取れなくなる。
「困るんだよね。稼ぎ頭に逃げだされると。あたしらが食いっぱぐれになっちまう」
面倒臭そうに女が髪を掻き上げながら雪姫に近付く。
「大人しくしてればいいのに。どうせあんたに居場所なんてありゃしないんだから」
紅を塗った唇から同じように紅い舌が覗いた。
「化け物のあんたに誰が居場所をくれるのさ?くれるわけないだろう?どこに行ったってあんたは結局その見た目で気味悪がられるんだから。それに……」
女の長い爪が雪姫の柔らかい頬に喰い込み赤い線を作る。
ピリッとした痛みは一瞬で赤い線はみるみるうちに消えてしまう。
「受け入れてもらったってこんな異常な治りの速いがばれたら皆すぐに目の色変えてあんたに言うだろうね。化け物って」
愉しそうに嗤う女を雪姫はただ無言で見つめ返す。
無反応の雪姫が気に入らなかったのか女は眉を顰めて雪姫から顔を離して少女を押さえつける男に近付いた。
男の手から逃れようと藻掻く少女を女は嘲る。
「お前も馬鹿だねぇ、こんな化け物を逃がそうだなんて」
言葉の意味が雪姫には判らなかった。
――――逃がす?誰を?…………化け物を?
女は雪姫の様子に気付かず朗々とした口調で語って聞かせるように話を続ける。
その顔に小馬鹿にしたような笑みを浮かべて。
「しかもこれを逃がそうとした理由が『頭を撫でてもらった』から?何だいそれ?そんな理由であたしら全員を敵に回す覚悟でこの化け物を逃がしたのかい?傑作じゃないか!お前たちもそう思うだろう?」
大口を開けて笑う女と一緒に男たちも笑う。
少女の目元が怒りで赤く染まるのを見て女は益々笑みを深めた。
「その反応を見る限り本当のようだねぇ……こっちもあんな得体の知れない餓鬼共の言葉あんまり信じていなかったから驚いたよ」
「――――っ!」
「んん?何だい何か言いたいことがあるのかい?いいよ、言ってごらん」
女が男に目配せすると男は少女の掴んでいる手を少しだけ緩めた。
一気に酸素を吸い込んだ少女が噎せて咳き込む。
「ほらほらどうした?言ってごらん聞いてあげるから」
子供を諭すような優しい笑顔で女が少女を急かす。
それに応えるように少女は不敵な笑みを浮かべた。
「……だれに聞いたか知らないけど、お山の大将がわかったような口聞いてんじゃないわよ」
女の口角が引き攣った。
「べつにいいわよあんたらにわかってもらえなくたって。わかってほしいなんて思ったことないから。そりゃ他からくらべたらちっぽけな理由よ。でもあたしには〝特別〟だった。あたしがあいつを外に出すのには十分な理由だった」
「……どこにいようがこいつは化け物だよ。そんなのを逃がして何になる」
「そうね。あんたの言うとおりよ。きっとあいつは苦労するわ。かんたんにふつうの人生なんか送れない。でもだから何なの?やってみなきゃわかんないわよ。やる前からあきらめてあんなオリの中で生きてるのか死んでるのかわからないような暮らしをするよりはずっといい!」
女が男を退かし少女の腹を踏み付けた。
芋虫のように丸まって吐き気を耐える少女を冷たく見下ろし髪を掴んで無理やり上を向かせる。
「随分と綺麗事言うじゃないか。あんたみたいな奴以外誰がこんな化け物を人として扱うのさ?そんなもの精々趣味の悪い金持ちが玩具としてくらいだろう?」
痛みに耐えながら少女は笑う。
「はっ……、少なくとも、もう二人はいるのよあんたが言うかねもちのヘンタイいがいでね」
掴んでいた少女の頭を女は地面に叩きつける。
土が混じった赤黒い液体が地面を濡らした。
「やめて!!お願いやめて……っ、戻るから、わたしは戻るから!!」
掴まれた腕を振りほどこうと身を捩りながら叫んだ雪姫を女はまじまじと眺めた。
「へぇ、あんた口利けたんだねぇ……あいつはああ言ってるけど、どうなんだいあんたは?」
冷たい微笑を顔に張り付けた女は少女の頭を踏みつける。
「拾ってやった恩をこんな形で返されて悲しいよ……でもあたしは心が広いからね。謝ったら許してあげるよ。『生意気言ってすみません許してください』ほら言ってごらん」
「…………ん」
「んん?」
「その厚化粧とったらかんがえてあげるわ、おばさん」
ぶちっと血管が切れる音が聞こえた気がした。
目を吊り上げた女が少女の小さな身体を何度も踏みつける。
「この糞餓鬼があああああっ!!」
己の身を守るために反射的に小さく丸まった少女の腹に蹴りを入れて転がしてまた踏みつける。
「てめぇみたいな屑を誰が世話してやったと思ってんだよ!言えよその生意気な口で言ってみろよおい!!あ゛ぁっ!?」
怒りで激越な口調になっていることに我を失った女は気付いていないのか踏むだけでなく横にいる男の脇差で殴り出す。
枝を折ったような嫌な音とくぐもった呻き声が微かに聞こえる。
「やめて、やめて、お願い!それ以上やったら……っ」
雪姫の金切声も激昂した女には届かない。
殴り続け動かなくなった少女に蹴りを入れ、気が済んだのか女は幽鬼のごとき雰囲気のままゆらりと雪姫に近付き、持っていた脇差で雪姫の顔を打った。
口の中に鉄錆の味が広がり、打たれた頬は赤く腫れる。
歯を食いしばって痛みに耐え雪姫は女を睨みつける。その目にははっきりとした怒りの感情が見て取れた。
それを見て女は鼻で笑う。
「何だいその目は?まるであたしが悪者みたいじゃないか。……化け物風情が生意気なんだよぉ!!」
そう言って女は狂ったようにひたすら雪姫を脇差で殴りつける。
両腕を拘束されたままの雪姫は抵抗すら満足に出来ず女の暴力にただ耐え続ける。
回復が追いつかないせいで雪姫の口の端から血が流れ両頬がじんじんと熱を持つ。衝撃に目の前がチカチカと光り、鼻が熱を持つ。
ふっと女が見下すような冷笑を雪姫に向けた。
脇差を少女のすぐ横に控えていた男に投げ渡し今までと何ら変わらない声色で命令する。
「殺せ」
「――――え?」
雪姫がその言葉を理解するより早く男が受け取った脇差を鞘から抜いた。
鈍色に光る刃を見てさっと血の気が引く。
「一応聞きますがどっちですか」
「阿呆。そこの転がってる薄汚い餓鬼にきまってるだろう?どうせ虫の息なんだから楽にしてやろうじゃない」
男は迷う素振りも見せず少女に近付く。
女の言葉通り少女はか細い呼吸をしているだけで動く気配がない。正確には動くことすら出来ないのだろうが。
「や――――っ」
雪姫が言葉を言い終える前に女が雪姫の頬を打つ。
髪を乱暴に掴んで前を無理やり向かす。
「ほら良く見ておきな?お前が逃げようなんて考えるからこうなるんだ」
「わたしは……っ」
「そうだねぇ、お前は逃げる気なんてなかったかもねぇ……でもそんなの関係ないんだよ。結果としてお前は逃げたんだから。そのせいでこうなったんだ。ほら良く見ておきなよ?お前を逃がそうとしたもんだからあの餓鬼は死ぬんだ。お前に関わったからあの餓鬼は今から死ぬんだ。可哀想にねぇ、健気にお前に尽くそうとしてこのザマだ。でも仕方がないさ。化け物に魅了された人間の末路なんてみーんなこんなもんなんだから」
そうだろう?と嗤う女の言葉が雪姫の中にじわじわと広がり大きな染みを作る。
違うと否定したいのに言葉が喉に張り付いて音にならない。
――――どうして?
どうして人はわたしから何もかも奪うの?わたしがあなたたちに何をしたの?わたしがあなたたち迷惑をかけたの?わたしは静かに暮らしていたかった。他には何も望んでいなかった。なのにそれすらわたしはいけないの?あなたたちがそうしているようにただ普通の日常を送りたかった。それだけで良かった。それすら駄目だと言うのなら――――
――――わたしはどうやって生きればよかったの?
僅かに唇が震えていることに雪姫はやっと気付いた。いや、唇だけでなく身体も震えている。
その震えは怒りからか、悲しみからか、それとも他の感情からか雪姫には判らない。
「どうして、こんなことを……?」
囁くような掠れた声に女は微笑む。
「化け物に理由なんて必要なのかい?」
仄暗いその瞳はそれこそまるで――――……
男が少女に向けて振り上げたその刃がまるで時間の流れが遅くなったかのようにゆっくりと少女の身体に落ちていく。
不意に動かない少女が雪姫を見て小さく笑った気がした。
「やめてぇええええええええええええええっ!」
キンッ! と派手な音がして脇差が何かに弾かれた。
「悪いけどちょっと眠ってね、とぉ!!」
何が起きたか判らない男が飛んできた折り畳み式のナイフに持っていた脇差を弾かれたのだと理解するよりも早く渾身の蹴りが頬にめり込む。
衝撃に吹っ飛ばされた男が近くの木に背中から衝突する。
木に背を預けるような状態で気絶したのか男は動かなくなった。
その一連の流れを成す術もなく見ていることしかできなかった雪姫を含めたその場の全員の硬直を解いたのは突如乱入してきた少年だった。
「ごめんね、遅くなって」
雪姫と目を合わせ心底申し訳なさそうに謝った少年は動かない少女をそっと抱き上げる。
突然のことに混乱していた雪姫よりも先に女が正気を取り戻す。
「な、何ぼさっとしてしてんだい!あの餓鬼をどうにかしな!」
女の言葉にはっとした男二人が雪姫を掴んでいた手を離しライに殴りかかろうとする。
少女を抱えたままのライは慌てる素振りも見せずむしろ蠱惑的に微笑んだ。
「あなたに神の御導きを」
男の拳がライの鼻スレスレでピタリと止まる。
見ると横から伸びた腕が男の腕を掴んでいた。その腕の持ち主は酷く冷めた目で男を見ていた。
ぎょっとした男がもう一人の仲間の方を見ると視界に入ったのはうつ伏せに倒れている男の姿。それを確認した瞬間男の喉に鋭い手刀が入り、息が詰り仰け反った男に更に追い打ちと言わんばかりの拳が男の顔面に突き刺さった。
白目を剥いた男を一瞥しライが抱えている少女を見た青年はそのまま雪姫と女へと視線を投げる。
冷たい紫の瞳に背筋を震わせた女は雪姫の首に腕を回し隠し持っていた短刀を二人に向けた。
全身を小刻みに震わせながら悲鳴のような声を上げる。
「何なんだいあんたたち!いきなり出てきて何がしたいんだ!!」
先程までの余裕は見る影もなく声は情けなく震えている。
苛立ちと怯えが混ざった声色で叫ぶ女はそうすることで懸命に自分を奮い立たせていた。
この状況を打破できる術を必死に考え模索するが焦れば焦るほど思考が纏まらず意味のないことばかりが頭を巡る。
「し、神父様が何、人に暴力振るってるんだい!あたしら善良な市民にそんなことしていいのかい!?」
「え、善良な市民はこんなことしないと思うけど」
正論を言うライの声は女には届いてないらしく二人が近付けば女は後退していく。
「畜生がふざけんな!!どいつもこいつもあたしを馬鹿にしやがって!!あんたらこんな化け物の味方するわけ!?違うだろ!あたしたちの味方するべきだろ!?」
喚き散らす女の腕が雪姫の首をぐっと腕で圧迫する。
苦しげに息を吐く雪姫を見て二人が少しだけ歩を速める。
「お前一人では何も出来ないだろう。大人しくそいつを離せ」
「うるさいうるさいうるさいうるさい!!ふざけんな!こいつはあたしらが使ってやってるんだよ!化け物のこいつをあたしらが使ってやってんだっ!こいつはむしろあたしらに感謝すべきなんだよ!」
訳の分からないことを言いだした女にライが溜息を吐いて腕の中の少女を見る。
肌の色は泥や殴られた痕で元の肌色を見つけるのが難しいほど変色していた。骨もいくつか折れているだろう。この小さな身体が息をしているのが不思議なほどだった。
「この子をやったのも君たちだよね?」
「その餓鬼はあたしらを裏切った!裏切ってこんな化け物を逃がそうとしたんだ!」
言外に自分は悪くないと叫ぶ女にクラウディだけでなくライも冷たい視線を向ける。
二人からの視線に女は身を竦ませる。
「ヒッ!……な、何で、あたしが……っ、あんたたちに別に関係ないだろ!そんな餓鬼一人死んじまったって誰も困りやしないだろ!!」
その言葉に雪姫が小さく反応したことに女もライもクラウディも気付かなかった。
「そいつはあたしが拾ってやらなきゃ物盗りで生活してた奴なんだ!!死のうが生きようが誰も構いやしないんだっ!いっそのこと――――」
「――――生まれてこなけりゃよかったような奴なんだよ!!」
ボキッ、と何かが折れた音がした。
響いたその音が何の音なのか判らなかった女は自分の手首に違和感を覚えのろのろと目線を持っていく。
最初に目に入ったのは白い髪。
次に目に入ったのは――――ぶらぶらと揺れる自分の手首だった。
「あ、ぁああああああぁぁぁあぁあああああああああっ!!」
手首が折れた痛みに絶叫する女がその手を庇おうとする前に雪姫は女の短刀を奪い首を掴んで押し倒した。
馬乗りの状態で女の首をぎりぎりと締め付け、短刀を振りかぶり女の顔のすぐ横に刃を振り下ろす。
「ひぐっ!」と潰れた蛙のような声を出し震える女。
少しでもずれていれば確実に女の頬を貫通していたそれを離し今度は両手で女の首を絞める。
その細腕のどこにそんな力があったのか、藻掻く女が片手で何とか外そうと雪姫の手に爪を立て、引っ掻く。しかしそれはすぐに跡形もなく癒えていく。
顔を色々な液でぐちゃぐちゃにした女が少しでも酸素を取り込もうと口を魚のようにパクパクとさせる。
「……っあ、ぐ……あっ……」
女の目に映ったのは青白い光を放つ大きな満月と――――〝鬼〟だった。
月の光に照らされた白銀の髪に血のような赫い瞳を持つ〝鬼〟の姿がそこにはあった。
何の感情も映っていない硝子玉のようなその赫い目が女を見つめている。
「お、ねが……ゆる……してっ……っ」
「……許す?どうして許しを請うの?あなたは何も悪いことをしてないんでしょ?当然のことをしただけなんでしょ?なのにどうして許しを請うの?」
嫌みでも当てつけでもなく、心の底から不思議そうな声で〝鬼〟は言う。
小首を傾げて不思議がるその仕草は子供が親に何かを尋ねるようで、明らかに異常なものだった。
「謝ることなんてないの。だってあなたは自分が正しいと思ってしただけで、間違ったことをしたなんて少しも思っていないんでしょ?」
「……あ、ぐぅっ……」
「『ならどうして?』って顔。変なの、あなたが言ったのに」
貌に微笑を浮かべた〝鬼〟は背筋が凍るほどに美しかった。
「わたしに理由なんていらないんでしょ?」
焦点が合わなくなった女が口から泡を吹いた。それを見て更に力を込めようとした〝鬼〟の耳にか細い声が届く。
はっとして勢いよく振り向くとライの腕にいる少女が痛みに顔を歪めながらこちらを見ていた。
「……あっ」
「なにしてんのよ……ば、かじゃないの……?」
無機質だったその赫い瞳が色を取り戻す。
慌てて少女の許に駆け寄った〝雪姫〟をライとクラウディが目を見張っていたが、そのことに気付く余裕はなかった。
「おろして」と少女がせがむのでライはしゃがみ込んで少女を降ろし、その背を支えてやる。
「まだ寝てた方が……」
「あたしがいいって言ってんだからいいの……っ」
言うや否や痛みに顔を顰める少女にライは苦笑する。
雪姫はおろおろと少女を見る。
「君、多分骨折れてるからあんまり大丈夫じゃないと思うよ?」
「うっさいわね、わかってるわよ」
「お、お医者さまに診せなくちゃ!」
「あんたはあんたであわてすぎなのよ!……っう」
大声が身体に響いたのか少女がまた呻く。
それを見て更におろおろと慌てる雪姫にライがこれだけしゃべれるなまだ大丈夫だと安心させるように笑う。
「さっさと帰ってまた医者を呼んでもらえばいい」
「うわー、ナグモさんの笑顔が引き攣るのが目に浮かぶよ……」
立ち上がって帰り支度を始めるクラウディに対し、遠い目で渇いた笑い声を漏らす。
ライが雪姫に支えてあげてと少女の背から手を離しクラウディの許に行き、小声で囁く。
「こいつらまだ息してるけど、どうする?」
「これだけの目にあってまだやろうとするならこいつらは相当なバカだろうな」
つまり放っておけという意味だろうとライは頷き笑った。
何やら小声で話している二人をぼうっと見つめていた雪姫に少女が声を掛けた。
「……あいつらがあたしのきょうりょくしゃよ」
「……え?」
「……あんたが売られたってかんちがいしてるみたいだから一応おしえてあげただけよ」
拗ねたように顔を背ける少女を見て雪姫は思わず噴き出した。
それを聞き、驚いたように雪姫を見た少女が更に目が零れそうなほど大きく開いた。
「雪姫!!」
切羽詰まった声で名を呼ばれた瞬間突き飛ばされ、地面と接触する。
何事かと身体を起こして少女を見れば、赤。
赤い着物よりも赤い液が少女の身体から溢れる。
深々と刺さった短刀を女が引き抜いて叫びながら少女を滅多刺しにする。
「鬼が鬼が鬼が鬼が鬼がおにがおにがおにおにおにがぁああぁあぁっっ!!」
呪詛のように言葉を吐き続ける正気を失った女をクラウディが素早く短刀を弾いて押さえつける。弾かれた短刀がうつ伏せに押さえつけられた女の顔の前に落ちた。
ライが少女を抱き起こし止血しようと試みるが溢れ出る血が止まることはなかった。
茫然とそれを見ていた雪姫の目が少女とあった瞬間弾けるように雪姫は少女に駆け寄った。
「あ、ち、血が、止めなきゃ」
ライと同じように血が流れるそこに手を押さえ止めようとするが雪姫の白い手が赤く染まるだけで止まる気配はやはりなかった。
それだけでなく滅多刺しにされたせいであちこちから血が溢れ、押さえようとしても間に合わない。
少女の顔は今や紙のように真っ白だ。
「……」
音にならない言葉を少女が紡ごうとする。
雪姫が急いで口元に耳を寄せるとか細い呼吸と一緒に掠れた小さな声。
「……だい、じょう、だ……た」
「大丈夫、わたしは何ともないから……っ」
雪姫の言葉に少女は微かに笑う。安心したような笑みだった。
「……なら、いい……の」
「良くない!もうしゃべらないで!!」
その笑みが雪姫の心を酷く掻き乱した。
どうにかならないのかと縋るような目でライを見るが彼は静かに首を振る。俯いている顔は前髪で目元が隠れ見えなかった。
血が滲むほど強く唇を噛む雪姫に少女が囁くように言う。
「……な、んで……」
「え?」
「……そんな……かお」
少し驚いたような少女の声。
段々と焦点が合わなくなる少女の手を咄嗟に雪姫は握りしめる。
「あなただけだった……」
震える声の雪姫の手はお世辞にも暖かいとは言えなかったが少女にとっては心地よかった。
「わたしに普通に接してくれたのは、あなただけだったのに」
置いていかないでと手を握り締める雪姫。
泣きそうな顔のその瞳がゆらゆらと揺れていた。
……なんだ、そっか
暗くなる視界の中でぼんやりと少女は思考する。
……あたしだけじゃなかったんだ
少女にとって雪姫は『特別』な存在だった。
初めて暖かい感情を与えてくれた少女の中で何よりも優先すべき存在。
しかしそれは全て〝少女にとって〟であり、雪姫には何でもないことだと彼女は判っていた。
――――だからこそ。
雪姫にとって何でもない自分を少しでも覚えておいてもらえるように。
記憶の片隅にでも置いてもらえるように。
『借り』と称しての『恩返し』の中にあった小さな願いにも似たその思いが少女の行動を支えていた全てだった。
けれど実際には少し違ったらしい。
〝雪姫にとっても〟少女は『特別』だったのだ。
あの小屋の中で誰もが雪姫を腫れ物のように扱っていた。
同じ働く者たちにさえ奇異の目で見られていた。
そんな環境の中で唯一少女だけだったのだ。雪姫に普通に接してくれるのは。言葉を掛けてくれるのは。
そんな少女を雪姫が『特別』に思わないわけがなかった。
「……ふふ」
もう既に見えなくなった視界のせいか雪姫の掌の温度が鮮明に判る。
彼女が何か言っているが少女にはもう届かなかった。
……あーあ……せっかくわかったのになぁ
寒いはずなのに手だけが妙に暖かい。
死ぬ時はもっと絶望してこの世を恨んで死んでいくとばかり思っていたのに少女の中にあるのは充足感だけだった。
胸に奥に小さく開いていた穴はもう、ない。
もう腕どころか指の一本すら動かせない。頭に霧がかかったように何も考えられなくなる。
「――――っ!」
……きこえないよ、もっと大きな声で言ってよ
「ゆるさな、から……」
……ゆるさないから
「……しあわせに、なら……なきゃ……」
……絶対にゆるさないから
枷になればいい。この言葉が雪姫の枷になればいい。
少女は眠るようにそっと瞼を閉じた。
◆
握っている小さな手から力が抜けた。
最後に笑った少女は眠るように瞼を閉じて動かなくなった。
穏やかなその顔は本当に眠っているようで声を掛ければ起きるのではないかと勘違いしそうになるが血の気の抜けた顔色と握る手の冷たさからそれはありえないと無意識に思う。
少女を抱きかかえるように支えたライが静かに十字を切った。
「あ、はは、ははははっひゃははははははははは!!」
クラウディが押さえつけていた女が急にゲタゲタと笑いだす。
「ひゃはは、はははははっ、死んだ死んだ死んだ!ひゃははははははははっ」
完全に壊れた女は口が裂けるのではないかというほど大口を開けて嗤う。
黙らそうとしたクラウディよりも先に行動を起こしたのは雪姫だった。いや、正確には〝鬼〟だった。
音も無くクラウディの前に立った雪姫にクラウディだけでなくライも驚き目を見開いた。
「どいて」
感情のこもって無い声に対し赫い瞳だけが底冷えするような静かな怒りを湛えていた。
その瞳と目を合わせたクラウディは背筋に冷たいものを感じる。
「……何をする気だ」
「どけって言ってるの!」
激昂した雪姫がクラウディの肩を掴んで横に薙ぐように投げる。
体格の差があるにも関わらず子供のように投げられたクラウディは地面と激しく衝突する。
「クラウディ!?」
叫び声を無視して落ちている短刀を拾い上げる。
倒れたままの女が立ち上がりながら相変わらずゲタゲタと声を上げて嗤っている。
「あはははっははははっひゃは、はははっ鬼、おにだおに、はははははは」
口の端から涎を垂らして嗤う女を雪姫は静かに見つめる。
赫い瞳に静かな怒りと憎悪を浮かべて、表情はやはり一切動かさず。
「さようなら」
そう言って〝鬼〟は短刀を女の心臓を狙って突き刺した。
◆
「……え」
声を漏らしたのは誰だったのか判らない。
ライだったのかもしれないし、雪姫だったのかもしれない。
それでもライは今自分が酷く動揺していることは判っていた。
視線の先に見えるのは月に照らされた白銀色の髪、そして――――
――――短刀が刺さったクラウディの姿
左の脇腹辺りに刺さった刃から血が滴る。
黒い神父服に徐々に染みが広がっていく。
「……クラウディ?」
ライの茫然とした声に彼は視線だけを向けて、刺されているのにも関わらず平素とまるで変わらない表情をしていた。
感情の読めない瞳が雪姫を見る。
「なんで……っ」
ライと同じくらいに、それ以上に困惑した声色の雪姫はこちらから表情を見ることが出来ないがきっと同じような顔をしているのだろう。
刺さった刃をクラウディが掴む。
掴んだ指が切れてそこからまた血が伝う。
「なんで、やめて……離して!!」
「……」
「離してったら!!」
怯えたような声で叫ぶ雪姫に〝鬼〟のときの面影はなかった。
〝鬼〟ではなく、怯える少女がそこにいた。
「止めておけ」
今まで黙っていたクラウディが漸く声を出す。
表情を変えないまま淡々と雪姫を見て、依然刃を掴む手を離さないまま。
「人を殺すのが善か悪か、そんな説教を説く気はない。その資格を俺は持ち合わせていないからな」
「だったら……っ」
「だがお前は止めておけ」
後姿だけでも雪姫が動揺しているのは手に取るように判った。
そんな彼女にクラウディが僅かに目を細めた。
刃を持つ手に力を込めたクラウディに思わず手が緩んだ雪姫の手から素早く短刀を抜き取った。
刃を抜き取った脇腹から血が溢れるがクラウディはそのまま後ろに向き嗤い続けていた女の首を切り捨てた。
ごろりと地面に落ちた首が嗤ったままの表情で固まっていた。
首を失った身体が血を噴いて崩れ落ちる。
返り血を浴びたクラウディが顔だけをこちらに向けて言う。
「殺すとは、こういうことだ」
◆
噎せ返るような錆びた鉄の臭い。
地面に落ちた首が虚ろな目でこちらを見ている。
込み上げてくるものを飲み込もうと口に手を当てて耐えようとする。
我慢しようと必死になっても吐き気は波のように押し寄せてきて膝から崩れ落ち地面に手を突く。
押さえた指の隙間から胃液に混じった何かが地面に落ちる。
吐き出してしまおうとしても今日一日まともに食事をしていないことを思い出す。出てくるのは胃液のようなものと空気だけで身体が痙攣する。
胃が絞られるように痛い。口の中が酸っぱくて気持ちが悪い。ツンッとした臭いが鼻を刺す。
地面に膝を突く雪姫をクラウディは一瞥し、顔についた血を袖で拭う。
持っていた短刀を捨て雪姫に近付き目を合わすように片膝を突いた。
雪姫の口の端に垂れたそれを切れていない方の手で拭ってやり、どこか冷たい口調で言う。
「悼んでやれ」
その言葉にゆっくりと視線を後ろに向ける。
ライの腕の中で眠る、少女。
冷たくなってしまった名前すら知らない幼い少女。
「わたし……まだ、あなたの名前すら知らないのに……」
ゆらゆらと揺れるその赫い瞳から雫が伝うことは終ぞなかった。
青白い大きな満月が三人を見下ろしていた。