伍
たっぷりとした癖のない艶やかな黒髪。
少し日に焼けて水仕事で荒れている細くて小さな手。
長い睫毛に縁取られた大きな瞳。
血色の好い桜色の唇。
あまり肉付きのよくないけれど長い足。
私の名を呼ぶ澄んだ声。
その美しい髪を触るのが好きでした。
その手に撫でられるのが好きでした。
その瞳に見つめられるのが好きでした。
その唇に紡がれる歌が好きでした。
その足で膝枕してもらうことが好きでした。
その声で呼ばれることが好きでした。
でも一番好きだったのは――――――――――――。
◆
日が沈み、辺りはもうすっかり暗くなっていた。
西洋から輸入したランプや電球なるもので昼間にも引けを取らぬ明るさの下で夜を過ごすものや、蝋燭だけで過ごし早々に寝てしまう者などこの国では大体の二択に分かれる。
しかし最近では前者を取る者が多いため夜が更けても多くの家から灯りと笑い声などが漏れている。
新しいモノに興味を示し、取り入れ、更にそれに新しい技術を加え新しいモノを生み出す。
そうしてこの小さな国は大国に負けない独自の文化や技術を持つ国へと発展していったのである。
そんな小さな国アパタイトへ観光という名目でやって来たとある二人組。
大国ベリルにある傭兵集団組織フェンリル。
凄腕の暗殺集団と呼ばれていたフェンリルにかつて身を置いていた『クラウディ・イェーガン』と『ライナス・エヴァンズ』は今、かつてない危機に直面していた。
色とりどりの可愛らしい柄の着物や布が畳の上に並べられている。
他にも巾着や簪、下駄に草履にはたまたブーツなども置かれている。
そんな可愛らしいものに囲まれ神父服に身を包んだ美丈夫クラウディと美少年のライは今、非常に困っていた。
二人の顔はどちらも険しく辺りには妙な緊張感まで張り詰めている始末だ。
そんな妙に重苦しい気配の部屋の着物や小物を挟んだ向かいに座る柔和な笑顔の老人。
今にも死闘を始めるんじゃないかというような険しい形相の二人と微笑ましいものを見守るような穏やかな雰囲気の老人。
間に挟まれた着物がまるで境界線のようである。
「………………クラウディ」
「………………何だ」
ふっとライが今までの形相が嘘のような穏やかな笑みをクラウディに向ける。
クラウディもその穏やかな笑みに答えるように口角を上げた。
暫しの沈黙。
「後は任せた!!」
「待て」
素早い身のこなしで即座にその場を離れようとしたライの腕をそれよりもなお早くクラウディが掴む。中途半端な姿勢でそれでもクラウディの腕から逃れようともがくライの腕は強く握られ過ぎて小刻みに震えている。
「一生のお願いだよクラウディ……っ僕はもう耐えられない!」
「お前の一生の願いを少なくとも俺は6回は聞いている!それよりこんなことで鍛え上げた瞬発力を使う奴があるか」
「だって判んないよ!僕もう無理だから君が選んでよ!!」
「お前の方がこれは得意な分野だろうが!見た目も近い!」
「人が気にしてることを!!というか君のその認識は何!?」
どちらも必死で至って真剣らしい。
醜い争いを繰り広げる二人を見てさすがにまずいと思ったのか老人が苦笑いをして白髪混じりの頭を掻いた。
「着物を選ぶだけなんだけどねえ……」
こんなことなら最近の若い娘の流行りを教えておけばよかったと呉服屋の店主、南雲津軽は溜息を吐いた。
ことの始まりは数時間前に遡る。
『鬼の少女』をおかっぱ頭の捻くれた少女から好きにしていいという名目で託された二人は一先ず安静にしておける場を目指そうとしたのだが残念なことに三人の容姿はこの国ではひどく目立つ。
特に『鬼の少女』はつい先程まで見世物小屋にいたのだから何十人と見られているか判らない。
下手に人に見られれば二人とも誘拐犯として完璧にお縄につくことになってしまう。
それだけは避けたいし、そんなことになれば自分たちを匿ってくれた神父と孫娘に面目が立たない。
ただでさえ彼らは絡まれるとついつい過剰防衛に走ってしまう何とも物騒な癖がある。
道徳に反することとは頭では理解しているのだが如何せん幼い頃からしてきた習性は中々直ってはくれない。
そのためそれ以外の面では出来る限り誠実でありたいと二人は考えている。
なのでお縄につくようなことだけは断じて避けたいのである。
幸い辺りは夕焼けが沈み薄暗くなっているためぱっと見ただけでは判らないだろう。
しかし宿に行くにしてもこのままでは『鬼の少女』はやはり目立ちすぎる。
かと言って店はもう宿以外はまともに開いていないだろう。
野宿をするにもこの『鬼の少女』は随分弱っているし、見世物小屋の連中に見つかってしまうかもしれない。
まだ観光に来たばかりで頼れる相手も居らず八方塞だと弱っていると「あっ」とライが小さく声を上げ巾着を取り出した。
クラウディもそういえばと思い出す。
「ナグモさんのところにお世話になればいいんだよ!」
ライは得意げに巾着に入っていた名刺を取り出してクラウディに見せつける。
「そしたらついでにその子の服も買えて宿代もタダで一石二鳥だしさ!」
ちゃっかりタダで泊めてもらう気である。
ふむ、とクラウディも同意する。
確かにあの老人の呉服屋はここからそう遠い距離でない。
幾ら不躾な頼みでも恩人に対してそう無碍な態度は取れないだろうし、服を揃える手間も省ける。
それに何よりいくら相手から仕掛けてきたにせよごろつき全員の息の根を止めた自分たちを恩人とのたまった老人だ。
普通の神経を持った老人でないことは確かなのだからこちらを下手に詮索することもあるまい。
そしてその考え通り老人は多少驚いてはいたがあっさりと三人を泊めてくれることを承諾し詮索することもなく、医者まで呼んでくれたのである。
医者はどうしようかと考えていた二人の考えを判っていたかのように「口が堅い医者」だという言葉を付けて。
喉が少し赤くなっているだけで他は特に外傷も無く、しいて言えば栄養不足が問題くらいだと医者に言われ、なら寝ている間に彼女の着物を選んだらどうだと提案され今に至るのである。
「まあまあそう喧嘩せずに。何だったら今若い娘に流行りの着物を教えようか?」
「本当ですか!よろしくお願いします」
「助かります」
ああ、神は我らを見捨てていなかったと大袈裟なことを言いながら上げかけていた腰を下ろすライとほっと息を吐くクラウディ。
女性の衣類を選ぶことで何かトラウマでもあるのかと疑問を持ちつつ津軽も居住まいを正す。
それじゃあまずはと近くにあった着物を手に取り軽い説明を始める。
やんちゃな二人がこれまた厄介そうな少女を連れて来たものだと胸の内で毒突きながら。
◆
……かごめかごめ籠の中の鳥が
歌が聴こえる。
……いついつ出やる夜明けの晩に
懐かしいような知らないような不思議な声。
……鶴と亀が滑った後ろの正面
「だーあれ……?」
泥のような眠りからゆっくりと意識が覚醒する。
視界が徐々に定まって行く中一番最初に目に入ったのは高い位置にある天井だった。
身に覚えのない天井を暫く見つめて身体を起こす。
いつも少し身をよじるだけで鳴る耳障りな鉄と鉄が擦れ合う音がしない。
そこでようやく自分が布団の上に寝かされていることに少女は気付いた。
やわらかい清潔感のある白い布団。
布団の上で目が覚めるなんていつぶりだろうかとぼんやりと考えて、思い出す。
火事が起きて火がそこまで来ているという時に自分は気を失ったのだと。
思い出すと喉が痛む気がして手をやると包帯が巻かれていることにもまた気付く。
自分の状況が掴めず首を傾げて思い出そうとするがやはりそれ以上は思い出せない。
あの時自分よりもずっと小さな手が自分に触れた気がしたのだがあれも夢だったのだろうかと少女は手の平を見つめ目を閉じる。
目を開いて辺りを見渡すと広い部屋だった。
高そうな掛け軸や、活けられた花を見る限り恐らく裕福な家の一室なのだろう。
そこでふと思いつく。
……もしかしてわたしは売られたのだろうか。
あそこに連れて行かれたときから自分の見目がお金になるモノだということを少女は十分理解していた。
売られたのなら今の自分の状況にも合点がいく。
あそこの連中が火事の損害をどうにかしようと考え客だった金持ちに売り付けたか、金持ちの道楽として買われたか。
どちらであろうと少女には関係ないことだった。
怒りも悲しみも憎しみも、何の感情も湧いてこない。
感情などとうに擦り切れてしまったのだから。
不特定多数の人間から特定の人間が相手になる。
少女にとってはただそれだけだった。
あの小屋のように枷を付けられていない今なら逃げることも出来るかもしれない。
しかし少女はそれをしようとは思わない。
無駄だと判っているからだ。
逃げたところで周りから奇異の眼で見られ受け入れてはもらえないだろうし、行く当てもない。
何もない。
何もないのだ。
あるはずもない。
――――――全て零れ落ちてしまったのだから。
◆
最終的に全面的に津軽に選んでもらうことでライとクラウディは『異性の服選び』というか過去最難関の任務を終えることが出来た。
長い廊下を一歩一歩進むたびにギシッ、ギシッと木の軋む音がする。
「にしてもこっちの服って本当に変わってるよね。何枚着るのこれ?」
クラウディの手に抱えられている風呂敷を興味深そうにライは繁々と眺める。
「確かに女の服は元々詳しくないが……。何枚重ねるんだろうな」
「寒かったら重ね着するけどこの国大体こんな感じだよね?夏とか熱くないのかな?」
「さあな。だがベリルの女もこんなに着ていたかもな」
「え、そうなの?」
「適当に言っただけだ。俺が知るわけないだろう」
「それもそうだね」
ケラケラとライは軽く笑う。
組織にいたころ任務として女性に近付くことは少なくはなかった。
近付いた女性が対象だったり、対象に近付くために接したりと二人とも場数は多く踏んでいる。
しかし結局はそれだけで、女性の扱いに多少の心得はあってもこんな風に異性の何かを選ぶという行為は二人ともしたことがない。
せめて何か参考になるモノはと記憶をたどるも残念ながらなりそうなものはなかった。
ならば自分たちの周りにいた人物たちはどうかとも考えたのだが結果は皮肉なことに同じだった。
二人が唯一懇意にしていた異性といえば、世話になっていた神父の孫娘くらいで、その孫娘もあまり服装に関して興味がなかったのか常に簡易なワンピースかシスターの格好をしていた。
組織にも確かに女性はいたが皆常に同じような格好をしていたので丸っきり参考にならない。
……まあどのみちこの国では役に立たなかっただろうが。
そうこうしていると二人は目的の部屋の前まで来ていた。
部屋に前に立つと微かだが襖越しに人が身動ぎした気配を感じる。
「入るよー」とライが一声かけるが返事がないため数秒待ってクラウディが無遠慮に襖を開けた。
広い部屋に一つぽつんと敷かれていた布団の上に身を起こした『鬼の少女』がゆっくりと赫い瞳をこちらに向けた。
◆
部屋に入って来たのは二人の神父だった。
幼い頃母親が寝かしつけるために読んでくれた異国の童話に出てくる王子様はこんなふうなのかと少女は思った。
漆黒の髪に紫の瞳を持つどこか冷たい雰囲気の美丈夫と稲穂のような金髪に碧の瞳の少女のような可愛らしい美少年。
少年が笑いかけながら少女の傍に座る。
「起きてたんだね。喉は大丈夫?」
優しく相手を気遣うように接してくる少年を少女は見つめる。
何の反応も示さない少女に少年は気を悪くすることはなく矢継ぎ早に言葉をかける。
「もしかして声出ないとか?何なら水持ってくるよ。あ、それよりお腹空いてない?空いてたら頼んで持ってきてもらえるよ?何だったら……」
「ライ」
どこか窘めるような少年よりも低い声が気付けば近くにいた。
いつの間に襖を閉めて入ってきたのだろうかと少女は自分を見下ろす青年の紫の瞳をじっと見つめた。
すると青年は手に持っていた風呂敷を広げて着物を一枚取り出し少女の背後に回るとそれを少女の肩に掛ける。
薄桃色に小花が散りばめられている可愛らしい着物だった。
肩に掛けられたそれを確認して少女が後ろを振り返ると紫の瞳と再び目があった。
「おおー、可愛い可愛い!やっぱりプロは見る目があるね。すごく似合ってるよ!」
手を叩いて褒められ少女はここに来て初めて内心動揺する。
二人の意図がまるで読めない。
そもそも少女の知っている知識では神父とは神に仕える巫女のようなものであるはずだ。
そんな彼らが自分を買うという非人道的なことをしたのかと考え益々困惑する。
……異国では範囲内、とか……?
少女が手を口元に当てて考える仕草をしたのを見て体調が良くないと勘違いしたのか少年が慌てだす。
「あ、ごめんね。騒ぎ過ぎちゃったね。えっと一応自己紹介。僕はライナス・エヴァンズ。ライって呼んでくれて構わないから。ベリルっていう西の国から来たんだ。それでこっちの無愛想なのが……」
「クラウディ・イェーガンだ」
「起きたばっかりだし無理させちゃ悪いから僕らはご飯とお水持って来るね。詳しい話は食べながら説明するよ」
言いながら立ち上がって二人は襖に向かう。
襖を後ろ手に締めながらライと名乗った少年がヒラヒラと手を振った。
二人がいなくなると辺りが静けさを取り戻す。
肩に掛けられた着者にそっと触れるとあまり詳しくない自分でも良いモノだと言うことが何となく判る。
白以外の着物を与えられたのは久しぶりだった。
……綺麗な色。
ギシッと二人が先程出た廊下から床が軋む音がした。
着者から目を離し襖を見ると影が映っている。
一人分しかない影にどちらかが忘れ物でもしたのだろうかと思い辺りを見るが(着者一式が入っているであろう)風呂敷以外は何もない。
小首を傾げていると何の前触れもなく襖が開いた。
「後ろの正面だーあれ?」
◆
『鬼の少女』が盛大な勘違いをしているとは露知らず来た廊下を戻るライとクラウディは近くを通った使用人に病人でも食べやすいものを作ってくれと頼みそれが出来上がるのを津軽が用意してくれた部屋で待っていた。
畳の上に寝ころびダラダラとするライを視線だけでクラウディが咎めた。
その視線にムッとしたライが不貞腐れて反論する。
「だってやっぱり珍しいじゃん。それに気持ちいいからクラウディもやってみたら?」
「遠慮しておく」
取り付く島もない。
素気無く拒否されて益々不貞腐れたライはうつ伏せの状態のまま顔だけクラウディに向ける。
胡坐をかいて片膝を立てたクラウディと一瞬だけ目が合ったがすぐに逸らされその視線を辿るとクラウディは胸に提げている十字架を見ていた。
手にとって眺めているだけのはずなのにその姿はさながら一枚の絵画のようだ。
そしてその仕草は何か考え事をするときの彼の癖だとライは最近気付いた。
ライがどんなに尋ねても決して口を割らないと言うことも。
クラウディから目を逸らしライも自分の胸に提げている十字架をじっと眺める。
これを見て一番に思い出すのはやはり自分たちを匿ってくれたギル神父のことだ。
笑うと目が糸のように細くなる優しい神父だった。
転がり込むように教会に入った二人に嫌な顔一つせず居場所をくれた人だった。
孫だと紹介されたアリアという少女は最初こそ怪訝な顔をしていたがすぐに二人に良くしてくれるようになった。
揃ってお人好しな人たちだったと思う。
礼など言いつくしても足りないほどだ。
もう一度会いたいと思い目を伏せそんなことを考えている自分を嗤う。
……もう会うことなんてないって判ってるくせに。
「ライ」とクラウディに唐突に声をかけられ慌てて返事をする。
長い付き合いでも感情が中々読めない紫の目がこちらを向いていた。
「何?どうかした?」
「たいしたことじゃないんだが……」
珍しく口ごもるクラウディがぽつりと呟く。
「あの見世物小屋にいた子供の名前……お前は聞いたか?」
「……あ」
静寂が耳に痛かった。
◆
「かーごめかーごーめー……」
二人の神父が出て行った後入ってきたのは少女よりかは幾つか年上であろう見知らぬ娘だった。
腰まである長い栗色の髪を背中に流し前髪だけ簪で留めている。
長い栗色の睫毛が、その目元に幽かな影を落としていた。
辻が花が描かれている華やかな着物の袖から覗く日に焼けていない白い手足が妙に艶めかしかった。
「かーごのなーかのとーりがー……」
紅を塗ったような赤い唇は部屋に入って少女の傍に座ってからもずっと同じ歌を口ずさんでいる。
ここの家の娘なのだろうかと考えて、ならば彼らは何だったのかと内心で首を傾げる。
……てっきりあの二人に買われたと思っていたけど違うのかな。
肩に掛けられた着物を知らず知らずのうちにぎゅっと掴んだ。
視線を感じて横を向くといつの間にか歌うことをやめた彼女が感情が全て抜け落ちた能面のような顔でこちらを見ていた。
深い深い光のない黒曜石のような無機質な瞳。
少女の頭の中で警鐘が鳴る。
無表情のまま娘は少女に手を伸ばし硝子細工を扱うかのようにそっと頬に触れる。
ヒヤリとしたその手が少女の体温を奪っていく。
少女の身体はまるで縫いつけられたかのように指先一つでさえ動かせない。
娘がゆっくりと少女に顔を近づける。
お互いの吐息が感じられほど近く、少しでも身動きすれば唇が触れ合うほどの距離。
黒曜石の目が食い入るように赫い目を覗きこむ。
瞬きもせずに少女の瞳を見ていた娘の瞳が閉じられる。
少女の顔を挟むようにして包みこんでいた娘の掌は少女の体温で少しだけ温もっていた。
静かに目を開けた娘の唇が緩やかな弧を描いた。
まるで愛しい恋人を見つめるようなその微笑にぞっと肌が粟立った。
毛穴と言う毛穴から汗が噴き出すような錯覚を覚える。
娘の手を振り払いたいのに身体は自分のものではないように未だ動かない。
頭の中で鳴り響く警鐘はどんどん大きくなり耳鳴りがする。
心臓が狂ったかのように激しく脈打った。
動けない少女の耳元に娘が顔を近づけ、抱きしめるように背に腕を回す。
「その着物、神父様に貰ったの?」
蜜のような甘い声で少女の耳に囁き掛ける。
「可愛い着物……。あなたに良く似合ってる」
背に回っている腕が少女の髪を優しく撫でる。
「それにしてもあなたの髪と目……とても変わってるのね。ねえ、どちらに似たの?」
ひゅっと息が詰まった。
「お母様に似たの?それともお父様?」
優しく尋ねてくる娘が耳から顔を離し再び顔を覗きこんでくる。
身体が震える。
「どうして答えないの?しゃべれないの?」
耳を塞ぎたいのに腕が動かない。
やめてと叫びたいのに声が出ない。
「それとも……」
近すぎて焦点が合わないはずなのに娘が微笑んだのが判る。
子供のような無邪気な笑み。
赤い唇が一言一言区切るようにして歌うように言葉を紡いだ。
「お母様のこともお父様のことも、もう忘れてしまったの?」
力任せに娘の身体を少女は押した。
尻もちをついた娘が不思議そうな顔で少女を見ようとしたがその前に少女が部屋を飛び出した。
少女が飛び出した方をぼうっと見つめ娘も廊下へ出るが既に少女の姿はない。
「逃げられちゃった……」
寂しそうにぽつりと呟いた。
たっぷりとした癖のない艶やかな黒髪。
少し日に焼けて水仕事で荒れている細くて小さな手。
長い睫毛に縁取られた大きな瞳。
血色の好い桜色の唇。
あまり肉付きのよくないけれど長い足。
私の名を呼ぶ澄んだ声。
その美しい髪を触るのが好きでした。
その手に撫でられるのが好きでした。
その瞳に見つめられるのが好きでした。
その唇に紡がれる歌が好きでした。
その足で膝枕してもらうことが好きでした。
その声で呼ばれることが好きでした。
でも一番好きだったのは父と一緒にいる母の姿。
嬉しそうに恥ずかしそうに頬を染めて微笑む母の姿。
驚かそうとしてそっと近づけばすぐに父が気付いてわたしを抱き上げます。
その時の母の優しい眼差し。
抱き上げてくれた父の腕の力強さ。
――――優しくて穏やかだった幸せな日常。
覚えています。
忘れるはずなんかありません。
忘れられるはずがありません。
目を瞑れば鮮明に。
それこそ温もりや感触すらも思い出せそうなほど鮮明に。
でもわたしはそれをしませんでした。
いいえ、正しくは出来ませんでした。
……寂しくなるから?――――いいえ。
……恋しくなるから?――――いいえ。
……本当は忘れてしまったから?――――いいえ。
嫌だったのです。
怖かったのです。
だって思い出すのは最後に見た――――
――――折り重なるようにして倒れ、冷たくなっていた父と母の姿なのだから
◆
使用人からお粥と水を載せた御盆を貰ったライはクラウディと『鬼の少女』の部屋に向かう最中に異変に気付いた。
まだ距離はあるが『鬼の少女』の部屋の襖が開いて光が廊下に漏れているのが判る。
嫌な予感がし、まさかと思いつつ御盆の中のものが零れない程度に急ぎ部屋に入るとその予感は的中した。
部屋の中には居るはずの者の姿は無く、布団と二人が置いて行った着物が入った風呂敷だけだった。
あちゃー、と御盆を片手に顔を覆ったライだがすぐさま御盆を置き布団に触れる。
ほんのりとだが暖かい布団はまだそこまで時間が経っていないことを知らせてくれる。
部屋をざっと見渡しても荒らされた形跡も特には見当たらなかった。
廊下に出ていたクラウディが部屋に入ってくる。
「ここから出てすぐ廊下を曲がった先の庭に面した戸が開いていた。そこから出たんだろうな」
「この部屋特に荒らされた感じも無いし多分、自発的に出たんだろうね。もしかしたら見世物小屋の連中に連れ戻されたかもしれないけど……流石にそれは無理っぽいしねえ……」
布団がまだちょっとだけ温いからそんな時間経ってないと思うとライは苦笑いしてぐっと伸びをする。
「逃げられちゃったのかな?怖がらせたりはしてないはずなのになあ」
「それで、どうする?」
「んー、嫌がる女の子を無理強いする趣味はないんだけど……」
風呂敷を結び直して腕に抱える。
「取り敢えずお姫様を迎えに行こっか」
後はそれから考えようと悪戯を思いついた子供のように笑うライにクラウディは軽く頷くだけだった。
◆
少女は行く当てもなしに只ひたすら走っていた。
春先とは言え夜風はまだ冷たく、少女の体温を奪っていく。
汗をかく先から冷やされて身体がどんどん冷たくなっていくのが判る。
背中に張り付く着物が気持ち悪い。
肩に掛かっていた薄桃色の着物はどこかにいってしまった。
息はとっくにあがっていて心臓が破裂しそうなほど脈打っているし肺が焼けるように熱い。
何も履いていない足は寒さのせいか感覚がない。
体力はもうとうに尽き何度も蹴躓いて倒れそうになる。
その度に少女は歯を食いしばって耐えて走る。
そんなことをもう、何回繰り返したのだろう。
幸いにも今宵は満月で夜道が良く見える。
物にぶつかりそうになるということはなかった。
……どうしてわたしは走っているのだろう?
走りながらぼんやりと少女は思う。
夜空を見上げて止まりそうになる足を懸命に動かした。
止まってしまえば捕まると思った。
呑まれると思った。
だから少女は逃げたのだ。
鼠が猫を見て尻尾を巻いて逃げるように。
ただ、無様に逃げたのだ。
――――あの黒曜石の瞳に呑まれる前に
ふいに家の陰から何かが飛び出した。
もう気力だけで走っている少女がそれを避けきれる筈もなく、ぶつかった。
思ったよりも勢いよくぶつかった少女とそれは尻もちをついて倒れる。
倒れたことで麻痺していた身体の節々が悲鳴を上げた。
とくに足が熱を持って痛む。
よく見ればあちこち擦り傷だらけでで石も踏んでいたのだろう。
足の裏が切れて血が出ている。
しかしその傷はみるみるうちに治っていった。
完璧に回復した足を見て我ながら便利な身体だとぼんやり思う。
ぶつかった影が立ちあがる気配がした。
立ち上がった影は背丈からして子供だと判った。
「いったいわね!!どこ見て歩いてんのよあんた!」
聞き覚えのある声に目を丸くする。
「こんな夜に歩いてんじゃ……え?」
少女に気付いた影が同じように目を丸くする。
それもそうだろう。
少女が本来影と会うことはなかったはずなのだから。
影自身二度と会うことはないと思っていた。
「なんであんたがここにいるの……?」
影の正体は外に出るまで世話をしてくれていた見世物小屋で働くあの幼い少女だった。