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拾弐

 宛名も何も書いていない封筒に少女はそっと白魚のような手を添えた。

 その封筒を手に取り顔を近付けると、お香を焚いてあるのだろう。白檀の香りがして少女は微かに頬を緩めた。

 毎度毎度、この手紙の主は様々な香りと共に、必ず椿の花を添えて手紙を送ってくるのだ。

 月に一度の頻度で送ってくることもあれば、週単位で送られてくることもある不定期な手紙だったが、少女はこの手紙が一番の楽しみであった。

 傍から見ればまるで恋人との文通を楽しんでいるようにも見えるだろう。

 もしかしたら送り主はそれを意識して楽しんでいるのかもしれないが少女にとってはそんなことどうでもいいことだった。


 少女に取って一番重要なのは、そこに書いてある内容なのだから。


 慎重に封筒の中から便箋を取り出すといっそう白檀の香りが強くなる。

 万年筆で書かれたであろうその達筆な文字に視線を走らせて少女は益々笑みを深くした。

 ほぅ、と悩ましげな溜息を吐くその姿は成熟する前の少女特有の色香が匂い立つようだった。

 頬を薄く色付けて少女は目を伏せた。

 栗色の髪が肩から滑り落ちる。

 それと同じ色の睫毛がふるりと震えてそっと持ち上げられた。


 静かに立ち上がった少女はその手紙と、添えられた椿を大事そうに胸に抱きかかえて部屋の隅にある漆の箱を開けてその中に手紙と椿を入れる。

 そして胸元から掌に収まるような小さな箱を取り出してその中からマッチを取り出した。シュッと音を立てて擦れば小さな炎が揺れた。

 揺れる小さな火を眺めて少女は丁寧に手紙を箱から拾うとそのまま手紙に火を付けた。

 下の方からじわじわと昇ってくる火をうっとりとするように眺めて手を離す。燃えながら箱の中に落ちた手紙は焼ける匂いと共に椿の花にも火を移す。

 燃えるそれが燃え尽きるまで少女は瞬き一つせず、じっと食い入るようにそれを眺め続けていた。


 箱の中にあるのが燃えカスだけになると少女は満足したように微笑を浮かべて箱をそっと閉じた。よくよく見てみれば箱の中には今しがた燃えたばかりの燃えカスだけでなく、それよりも前に、何かを燃やしたことがわかる黒くなった紙や、灰が中に入っていた。

 少女はその漆の箱を両手で持ち上げて嬉しそうに微笑む。

 まるで、新しい宝物をその箱にしまったかのように嬉しそうな表情だった。


 箱を収めて、少女は部屋の襖を開けて、庭に面した廊下に出て空を見上げた。

 空が白み始めたばかりで、人の気配はまるでない。

 薄暗い辺りに怖がる素振りも見せず、少女は廊下に腰を降ろして、呟く。


 「………………もっと」


 仄暗いその瞳に映るのは夜明けの空か、それとも――――…………。


 「もっともっと、苦しんで、傷ついて、悲しんで、あたしは……」


 あなたに壊されたんだから。

 少女は祈るように目を閉じて胸元で手を握った。

 その口元に笑みを浮かべながら。



 ◆



 ぺちりぺちりと誰かが雪姫の頬を叩いている気がする。痛いということはないのだが力が弱いせいかむず痒く、くすぐったい。

 目を開けるのが億劫で、放っておけばいいかと覚醒しかけた意識を再びまどろみに意識を鎮めようとしたがどうやらこの頬を叩く人物は雪姫が起きるまで諦めない気でいるらしい。止める気配は一向になく、最早意地になってやっているのではないかというくらいにしつこい。

 仕方なく二度寝することは諦めて、雪姫はゆっくりと重い瞼を持ちあげた。


 覚醒したばかりの頭は思考に霧がかかったようにぼんやりとしていてうまく考えることができないが自分が布団で寝ていることは理解できた。(しかもかなり高級であろう布団に)

 ただ、視界に入ったのは天井などではなくぼやけて視線が定まらないほど近くにある誰かの顔だった。

 暫し無言でそれを眺めて雪姫は飛び起きた。

 突然飛び起きた雪姫の上からその子どもはきゃっきゃと笑いながら転がり落ちた。


 状況が全く判らず焦る雪姫を見て子どもはにっこりと笑った。人懐っこそうな笑顔だ。

 とてとてと音がつきそうな歩き方で再び雪姫の近くまで寄って来た子どもは紅葉のような小さな手を広げて、腕を伸ばす。どうやら〝抱っこ〟と言っているらしい。

 にこにこと笑って腕を伸ばすその子どもを呆気に取られて見ていると、いつまでも動かない雪姫に痺れを切らしたのか子どもはぐしゃりと大きな丸い瞳に涙を浮かべた。

 それに気付き大慌てでその子を抱き上げて布団の上に降ろすとその子どもは満足そうに笑った。

 布団の上に降ろされた子どもは猫のように丸くなり、やがて可愛らしい寝息を立て始め、雪姫は小さく息を吐いた。

 少し癖のある柔らかい髪を撫でてやると子どもがすり寄って来たのでそのまま撫でてやることにした雪姫は動けないので子どもを観察することにした。


 少し癖があるが柔らかくて指通りの良い黒髪に、柔らかくてふくふくとした桃色の頬。今は閉じられているがその瞳は宵の空を閉じ込めたかのような深い蒼だったことから青鬼の一族の子どもだろうことが判る。

 ただ、まだ幼いこともあって性別がはっきりしなかった。着物で見分けようかとも思ったがこの子が着ているのは子どもが着るにはいささか地味な無地の山吹色の着物だった。

 顔立ちが良いだけに、どちらとも取れるような子どもだった。


 子どもの性別を当てることを諦めた雪姫はここに来る前のことに今度は思考を巡らせた。

 今、雪姫たちが身を寄せているのは鬼の一族の中でも常に中立に身を置く赤鬼の集落の一つだった。何故そんなところに身を寄せているのかと言うと、あの時、何食わぬ顔で楓が雪姫たちの前に現れたのだ。

 相も変わらず人の神経を逆撫でするような笑みを貼り付けて蜻蛉と何かを話すと、近くに赤鬼の領地が一つあるから暫くそこで身体を休めようとうことになったのだ。

 玉虫は全身で不満を訴えていたが蜻蛉の意見に反対することは無かった。

 いや、正確には誰も反論する者など無かったのだ。あの状況でボロボロの身体を引きずりながら銀鬼のいるどれだけ遠いのかも判らない北に行くのはどう考えても自殺行為だったからだ。

 それに、一番の重傷だったクラウディの手当てが出来るところ、雪姫たちは一刻も早く安全な場所が必要だった。


 そこまで思い出して、雪姫は焦りを覚えた。

 一刻も早くクラウディの安否を確かめたいが、寝てしまったこの子どもを起こすことは忍びない。

 雪姫の怪我こそもうすっかり治っているがクラウディはそうはいかない。なにせ片腕を失ったのだ。普通では絶叫してもいい痛みにクラウディは叫び声一つ上げず、気を失うことさえ無かった。並みの精神力で成せる技じゃない。

 それに、ライの様子も気になった。

 痛みで気を失わないように耐えていた雪姫はライと双樹王の会話を聞くどころではなかったがあの後のライの様子はどう見てもおかしかった。

 彼らは大丈夫だろうか。


 「雪姫さん、目は覚めましたか?」


 襖の向こうから玉虫の声がした。

 起きていると答えると襖を開けた玉虫がほっとしたような顔をして、寝ている子どもを見て目を瞬かせた。

 それに気付いた雪姫が子どものことを尋ねようとするよりも早く、玉虫が口を開いた。


 「(ゆずりは)様。こんなところにいらしたのですね」

 

 どうやら名前からして女の子だったようだ。しかも〝様〟をつけられていることから身分のある子どものようだ。

 音を立てずに襖を閉じ、入って来た玉虫は目を細めて楪を見つめ、雪姫に視線を戻した。


 「傷はもう大丈夫ですか?あれから三日も眠っていたのですよ」


 今度は雪姫が目を瞬かせる番だった。

 すっかり傷が治っていると思ったら自分はどうやら三日も眠っていたらしい。寝坊どころの話じゃない。

 「きっとお疲れだったのですよ。あんな事になりましたから……」と玉虫は申し訳なさそうに目を伏せた。

 それではクラウディやライはどうなったのかと雪姫は焦った。


 「クラウディとライは?」

 「クラウディ殿は出血こそ酷かったのですが、今は問題ありません。元々器用な方なのでしょう。今ではすっかり片腕でも私生活に支障はありません。ただ……」


 いつも通りのように見えるが精神面は私たちからは判らないと玉虫は言った。

 雪姫は自分の手を強く握る。

 そんな雪姫を痛ましそうに見て、玉虫は気を取り直すように笑顔を向ける。


 「ライ殿も変わりありませんよ。骨はいくつか折れていましたが本人は元気そのものです」


 今朝もあなたとクラウディ殿を心配していましたと言ったところで、襖がまた開いた。

 顔を覗かせたのは蜻蛉だった。


 「おお、ここに居ったのか。楪は本当に雪姫が好きじゃのう」


 微笑んで蜻蛉は玉虫と同じような静かな動作で玉虫の隣に腰かけた。

 

 「顔色は良いな。怪我はもう良いのか?三日も眠っておったからな。皆、心配しておったぞ」

 「あ、はいお陰さまで。あの、もしかして……」

 「うん?ああ、そうか。そなたは今目が覚めたところだから知らぬか。うむ、この可愛らしい子は楪。妾の子どもじゃよ」


 言われて雪姫は納得した。

 確かに髪質など蜻蛉に似ている部分がたくさんある。

 蜻蛉は優しい手つきでそっと楪を抱き上げると雪姫に流し目を送った。その艶っぽさに鼓動が跳ねる。


 「目覚めたばかりのところを楪がすまんな。ゆっくり休め。玉虫もあまり長居はするな」

 「はい、(ひい)様こそまだ休息が必要ですよ」

 「そなたは本当に過保護じゃのう。あい、わかったわかった。ではな、雪姫」

 

 蜻蛉が部屋から出て、完全に気配が絶った瞬間を見計らい雪姫は真剣な顔つきで玉虫に尋ねた。


 「あの人、玉虫の仕えてる蜻蛉様だよね?」


 玉虫がきょとんとした顔をして、ああ、と納得したように頷いた。


 「そう言えば、雪姫さんも姫様もお互いきちんと名乗り合っていませんでしたね。はい、あの方は我らが一族の当主、蜻蛉様ですよ」


 玉虫の言葉に雪姫は小さく呟いた。


 「…………男の人じゃなかったんだ」


 青の鬼の一族当主が皆、女人だと雪姫が知るのはもう少し後のことだった。



 ◆



 ヒソヒソとこちらを見て何やら興味深そうに視線を送ってくる者たちの視線をクラウディは素知らぬ顔で歩いていた。

 そして何気なくそちらに目を遣り、同じ赤毛でも、赤が濃いもの、朱に近い色など同じ色を持った者たちがいないことに胸の内で感嘆する。

 しかし、やはり一番美しい色を持っていたのは楓だなと結論付けた。

 玉虫達も皆、それぞれ同じ青でも違う色をしていたなと思い出し、見事なものだとポツリ、呟いた。


 不意に強い風が吹く。

 突然の強い風に髪を押さえたり、物が飛ばないように慌てふためく赤の住人たちとは違い、クラウディは不自然にはためく自分の右腕を見ていた。(正確には右袖を)

 右腕が無くなってもう三日も経つがクラウディは特に生活に困ることはなかった。

 少しばかり、感覚が掴めないこともあったが元々両利きでもあったし、選別に貰ったこの服が無事であるならそれで良かったというのもある。(噛み千切られた腕を玉虫たちが回収してくれていたので、その布と、同じ色の布を繋ぎ合せたものを今クラウディは着ている)


 風が止んで、クラウディは再び歩き出す。

 この三日間で既に何の目的も無く歩くことが日課になりつつあるクラウディは行き先も無く、ふらりふらりとこの小さな集落を散歩する。

 本来鬼の一族は固まって一つの村で暮らしているらしいが、探究心が大きすぎる赤鬼たちは例外で、何時、何処で何に夢中になってもいいように、様々な場所に小さな集落を作っているらしい。まあ、本家である朱雀門はきちんと南に居を構えているらしいが。

 だが頭首である楓がフラフラしている時点で相当自由な一族ということは判る。


 「神父様」


 聞き覚えのある低い声にクラウディは柳眉を顰めた。

 顔が良いだけにその不機嫌そうな顔は迫力があるのだが、向けられた本人、楓はくつくつと喉を震わせただけだった。

 学帽に、女物の鮮やかな椿が描かれた着物を羽織るというお馴染の姿で現れた楓にクラウディは溜息を吐いた。


 「占いは信じない性質だと前も言ったが」

 「おやおやつれないなぁ。折角暇をしているのなら吾輩に付き合ってもいいじゃないか」


 不機嫌さを隠しもしないクラウディはそのまま返事もなく歩きだす。しかしそれでも先程よりも遅い歩みに楓は更に喉を鳴らした。

 神父服を着た異国の美丈夫と着物を引きずって歩く赤毛の男児を普通の人間が見たら何と思うだろうか。それぐらい奇妙な光景ではあった。


 楓は風に揺れるその右腕を何の戸惑いもなしに掴んで、面白そうに笑った。

 クラウディもその行動を特に咎めることはせず(諦めているのかもしれないが)探るような視線を楓に送るだけだった。

 その視線に勿論気が付いている楓は、にんまりと三日月のように口元を歪めた。


 「随分と派手にやられたもんだねぇ」


 袖から手を離した楓はプラプラと自分の手を振った。

 馬鹿にしているとも取れる行動だったがクラウディは腹を立てることもなく淡々と楓との会話に興じる。


 「噛み千切られるとは思わなかったからな」


 事実だった。

 あの時のクラウディは痛みよりも何より噛み千切られたという衝撃が何よりも勝っていた。

 楓が肩を震わせる。


 「それは流石の吾輩も驚いたヨ!もうアレは鬼の我々からも信じられないことだったなぁ。彼は『鬼』と言うより『獣』に近いネ。しかもとっびきり飢えた『獣』だヨ」


 興奮冷めやらぬと言った状態の楓にクラウディは冷めた視線を送った。


 「見ていたのか」


 確信を含んだ言葉だった。

 楓の見えない目が、爛々と輝いているようにクラウディには思えた。


 「吾輩を責めるかい?」


 それはもはや肯定だった。

 クラウディは楓から視線を逸らした。


 「別に、責めはしない」


 楓は決して自分たちの味方ではないことをクラウディだけではない、ライも雪姫も、皆判っていることだろう。

 彼は中立であり、愉快犯だ。

 今は雪姫と楓の中に個人的な契約があるからこうして安全な場所を提供してくれただけで、彼が決して善意などで動かないことは言わなくても判ることだった。

 それでも腹が立たないわけではないが。


 楓はにやにやと笑いながらクラウディの横に並んで歩く。

 クラウディも無言で歩きながら首に提げている十字架(ロザリオ)に触れる。

 楓はそれを横目に見て哂った。


 「君がそれに触れるのは考え事をしているからかと思ったが、そうではないよねぇ?」


 クラウディが歩みを止める。


 「吾輩も最初は無意識に触って、沈思でもしているのかと思ったんだけどねぇ?でも、君がそれに触れるのはそうではないだろう?」


 視線を横に向ければ思った通り楓は哂っていた。

 愉しそうに、つまらなそうに。


 「それに触れて君は」


 〝暴かれる〟そう思った。

 だからクラウディのその行動は無意識のものだったのだろう。


 「誰を思い出しているんだい?」


 楓が見たのは心臓まで凍りつくのではないかというほどの冷たい紫の瞳と、日に反射した鈍色の光だった。

 それでも楓は笑みを絶やさなかった。



 ◆



 雪姫は目が覚めたばかりだからという理由で今日は部屋で安静に過ごすようにと玉虫から釘を刺された。少し不満に思ったが心配を掛けたのだから仕方がないと渋々それに了承した。

 よっぽど玉虫には雪姫が不満気に見えたのか、暫くの間話し相手くらいならしようとかって出てくれたので雪姫はそれ甘えることにした。

 雪姫が色々と勘違いしていたこともありそれぞれの鬼の特徴を玉虫が簡単に説明した後は、何でもない雑談に暫し興じていたのだが、不意に雪姫は気になることを尋ねた。


 「どうして蜻蛉様の子どもがここにいるの?」


 雪姫はてっきりほぼ壊滅状態だと玉虫が言っていたのもあり、青鬼の生き残りはあの民家にいた人たちだけなのかと思っていたが、どうやらそうでもないようだ。

 不躾な質問だと少し戸惑ったが、玉虫は一度頷いて丁寧に今の状況を教えてくれた。


 今、青鬼の生き残りは皆、赤鬼の集落にそれぞれ匿ってもらっているらしくここにも何人かの生き残りが身を寄せているらしい。

 赤の鬼は皆、中立であることが鬼たちの中で暗黙の了解になっていることからいくら黒の鬼でも迂闊に手を出せない。それに下手に手を出せば青と赤だけでなく、争いを危惧した銀までもを一気に敵に回すことになる。

 だからこそ今一番安全な中立の赤の鬼に青の住人たちを避難させ、蜻蛉とその側付きの数名だけで元々友好関係にある銀の鬼に助けを求める予定でいたらしいのだが、銀の鬼は警戒心が最も高い一族で、文も無しの面会は門前払いが目に見えている。しかし文など書いている時間はない。


 「そこで、楓殿はあなたを連れて行けと申したのです」


 きっぱりと言い切る玉虫に雪姫は首を傾げた。どうしてそこで自分が出てくるのだろうか?

 判らないと首を傾げる雪姫に呆れることも無く、玉虫はまた丁寧に説明してくれた。


 雪姫の父親に当たる白銀白野(しろがねびゃくや)は現頭首の夜露(よづゆ)の双子の兄であり、大層仲の良い兄弟だったらしい。

 二人の父親であり前頭首の吉野(よしの)とその妻、白露(しらつゆ)もこの双子を目に入れても痛くないほどに可愛がり、立派に育て上げたらしい。

 どんな経緯で本来頭首になっているはずの白野が白銀の家を出たのかは判らないが、その血を継ぐものがいればたとえ訪問の予定をいれていなくとも門を開けるだろうと楓は言ったらしい。


 そこで雪姫たちを連れてすぐにでも出発できるようにとあの小さな民家で蜻蛉たちは玉虫たちを待っていたが、そこをあの双樹王と娑羅条に襲われたのだ。


 「先視の力も万能ではありません。特に姫様はお子をお産みになってから力が弱くなってしまわれた……。今回の我ら一族の襲撃もそこを突かれたものでした。それに私たちのこの力は〝鬼の未来(さき)を視てはならぬ〟と不可侵条約が結ばれてもいます。まさに完璧に不意を突かれた形なのです」


 本来、先視は人間たちが『鬼』を襲ってこないかと定期的に視るか、天候を視るだけに使われるものであることも玉虫は教えてくれた。

 だからこそこの事態は誰もが予想にもしなかったことなのだと玉虫は苦々しく唸るように言う。

 悔しそうに、悲しそうなその表情に掛ける言葉を失った雪姫はどうしていいか判らなかった。何を言っても彼女たちには慰めにならないからだ。

 顔を上げた玉虫はいつもの表情に戻っていた。


 「他に何か聞きたいことは?」


 雪姫は少し考えて、はたと気付く。

 

 「男の人たちはいないの?蜻蛉様の旦那様とか……」


 言いかけて雪姫は口を噤んだ。

 玉虫が酷く切なそうな顔をしたからだ。その瞳に涙はないが、泣いているようにも見えた。

 玉虫が静かに首を振る。


 「姫様は、いえ、姫様だけではありません。生き残ったのは皆、女だけなのです」


 ほとんどの女鬼が、片恋づまになってしまいましたと玉虫は儚く微笑んだ。

 〝もうこの世にいない配偶者を思い続ける人〟

 子どもの頃、その美しい言葉の意味を知りたくて、父親に尋ねると穏やかな、けれど少し切なそうな表情で意味を教えてくれた父の顔を雪姫は思い出した。

 今の玉虫のような儚く、消えてしまいそうな微笑だった。


 「本当なら、鬼としての力が強い我らが向かうはずでした。だって、青の鬼の男は鬼の中でも最弱なんですよ?そんな彼らが戦闘に特化した黒の鬼に敵うわけないじゃないですか。ですが皆、止められたのですよ。夫や、父親、兄弟に、想い人……。言われたことは様々でしたが最後には口を揃えて同じことを言うのです。『生きてくれ』、と。…………本当に勝手な、人……」


 最後のつぶやきは特定に誰かにつぶやかれているものだと雪姫は思う。

 膝の上で震えている玉虫のその手に雪姫はそっと手を重ねた。

 じんわりと熱が伝わる心地よい体温に玉虫は目を細め、ぽつりぽつりと呟いた。


 「私は、あの人と夫婦(めおと)になったわけではありません。ですからあの人の言葉を聞く必要は無かったのです。なのに、あの人、あんなどさくさに紛れて、言うんですもの……」


 噛み締めるようにゆっくりと、静かに微笑して玉虫は続ける。


 「『好きな女を護らせてくれ』、だなんて言われたら、聞くしか、ないじゃないですか……っ。ずるいですよ、あんまりです……っ」


 「私だって、護りたかった」、悲痛なその呟きは雪姫の胸を締め付ける。

 そっとその震える肩を抱き寄せても玉虫は何も言わなかった。

 泣いているのかともその空の瞳は揺れるだけで雫が落ちることは無かった。

 「ずるいね」雪姫もぽつりと呟いた。


 「うん、ずるいよね。そうやって格好つけて、わたしたちを置いて行って、とっても満足したような顔するの」


 独白のように呟かれるそれに玉虫が小さく「雪姫さん……?」と呟いたが雪姫は聞こえないふりをした。


 「置いて行かれた方は寂しくって、苦しくて、辛くて、惨めなのに、でも一緒に連れて行ってはくれないの」


 玉虫がぎゅっと強く雪姫の背中に腕を回した。

 雪姫も強く抱きしめ返す。


 「わたしね、ゆるさないって言われたの」


 優しい優しいあの子が、縁が雪姫にかけた呪いの言葉(ねがい)


 「幸せにならなきゃゆるさないって」


 驚いたように目を見開いた玉虫の瞳に泣きそうな顔で笑っている雪姫が映っていた。

 玉虫はじっと雪姫を見て、同じように微笑(わら)った。


 「ずるいですね」

 「うん」


 目を伏せて、二人同時に呟いた。

 「ずるい人」、と。



 ◆



 ひっと誰かが息を呑んだ。

 地面に点々と染みを作るその赫を楓はじっと見つめていた。


 「……てっきり、吾輩が刺されるかと思ったんだけどねぇ」


 そう言って不思議そうに首を傾げてクラウディの左足に深々と刺さった簡易なナイフを見つめる。染みを作るそれを眺めて近くにいた住民に止血するから清潔な布を持って来いと命じた。

 言われた男は慌てて頷くとすぐに近くから真新しい布を持って来て、楓に渡した。

 それを楓はクラウディに渡す。


 受け取ったクラウディはすぐさまナイフを抜いて、簡単な止血をしていく。

 手慣れているそれを眺めてクラウディの表情を楓は窺うが、何て事無い、いつも通りの何を考えているのか判らない無表情だった。

 楓がつまらなそうに溜息を吐いた。


 「つまらないな。折角君が感情を乱す瞬間が見れると思ったのに」


 残念そうに嘆息する楓をクラウディは横目に見ただけだった。


 「けどまあ、一瞬でも見れたから良しとしようか。ああ、本当に残念だヨ」


 大袈裟な身振り手振りで残念そうにする楓に殺意がわかないでもないがそこは理性で押し留めた。

 何を言っても楓を喜ばすだけなのが酷く不快だったからだ。

 服を洗って繕わなければいけないと考えて溜息を吐く。

 さっさと血を落とそうと考えて踵を返す。

 楓も当然のようにその後を付いて来る。(あそこは朱雀門の分家らしいから当然なのだが)

 

 一刻も早く帰って、服と手当てをクラウディは終えてしまいたかった。

 そうしないと普段通りにしようと努めているライにまた気を遣わすのも面倒だし、雪姫も心配するだろう。(まだ眠っているかもしれないが)


 ――――『いたいね』


 痛くなんて無い。

 放っておけば、傷は癒える。

 死んでしまったなら、それまでのこと。


 ――――『いたかったよね、クラウディ』


 「痛くなんて無い」


 呟けば楓が不思議そうな顔をした。


 痛くなんて無い。辛くも無い。怪我なんて日常茶飯事で、もう、慣れた。

 それなのに――――…………。

 雪姫の言葉が耳を離れなかった。



 ◆



 ライは庭に面した廊下に腰を降ろして、ぼうっと空を眺めていた。晴れた空に何の思いを馳せるでもなくただ何も考えずにぼうっと空を眺めていた。

 ぱたりと仰向けに寝転がるとずっと同じ態勢だった身体がパキパキと音を立ててほぐれていくのを感じる。

 折れた肋骨が若干痛んだが、そんなことはどうでも良かった。


 この三日間、ライは人の目から逃げるように一人でいることが多くなった。

 クラウディもそんなライに気付いているのだろう。だから彼は暇さえあればフラフラと散歩すると言って外を出歩く。

 そんな風に自分よりも大怪我をしたクラウディに気を遣わせることが酷く情けなく感じるが、心の何処かで安堵している自分がいる。それが余計に腹立たしくてやるせない。


 雪姫の目が覚めたことはもう聞いている。

 けれど雪姫の許に自分から行く勇気がライには無かった。

 いつも通りに振る舞える自信が無かった。


 思い出すのは双樹王との殺し合いだ。

 クラウディにあんな大怪我させたことが赦せなかった。

 雪姫にあんな大怪我させたことが赦せなかった。

 殺してやると本気で思った。


 あの時の自分の中にあったのは憤怒と憎悪だけだとライは思っていた。なのに――――。


 ――――〝笑って〟いた。


 知りたくなかった。知らないままでいたかった。

 こんな醜い自分の本質など知らないままでいたかった。

 楽しかったのだ。双樹王とのあの壮絶な殺し合いが。一歩間違えればどちらかが死ぬ、あの時間が。

 ライは楽しかったのだ。思わず笑ってしまうほど。


 「汚いなあ、僕……」


 心底自分が醜く浅ましい汚いものにライには思えた。

 ぐるぐると考え、自問自答して、結局最後はここに帰結するのだ。

 なら、もう考えるのを止めてしまおうかと考えて目を腕で隠した。

 憎らしいほど清々しい空なんて見たくなかった。


 「(ぼう)


 声がして腕をどかす。

 声を掛けられなければ気がつかないとは自分は相当まいっているのだとライは更に落ち込んだ。


 「これ、坊。怪我人がこんなところで昼寝などするものではないぞ。部屋で寝ぬか」


 ライを〝坊〟と呼ぶ人物は一人しかいない。

 目線を横にずらせば、そこにはやはり子どもを抱えた蜻蛉が立っていた。

 ライはすぐに視線を逸らすとぶっきらぼうに言葉を投げる。


 「……寝てないから放っておいてよ」


 今は他人の親切を素直に受けられる気分ではない。

 だから放っておいてほしいという気持を込めて、相手が癇に障るであろう言い方をわざとしたのに蜻蛉は寝転がっているライの横に腰を降ろした。

 ぎょっとしたライが胡乱げな目を向ける。


 「ちょっと……」

 「うむ、苦しゅうない。近こう寄れ」


 全く話が噛み合わなかった。

 溜息を吐いてどうでもいいやとばかりにライは蜻蛉に背を向けた。

 蜻蛉は眠っている楪の為に子守唄を歌い始める。

 もの凄く上手いということはないが子どもを思う気持ちが伝わるような優しい旋律に、ライはこっそりと聞き耳を立てる。

 とても人妻だとは思えない色香と美貌を持つ蜻蛉だがこうして子に世話を焼く姿を見れば立派な母親の顔をしていた。


 そんな彼女が傍にいるからだろう。

 自分にはいない母はどんな人物だったのだろうかとそんな考えが頭をよぎった。

 捨てられたのか、死んだのか、それすら判らない自分の両親を恋しく思ったことなど無いが、もしかしたらこんな風に自分も、母に抱かれて眠ることがあったのだろうかと。

 

 「坊、膝を貸してやろうか?」

 「……いい、いらない」


 背を向けたまま丸くなる。

 肋骨が痛んで、少し声が漏れた。

 耳聡くそれを拾った蜻蛉がくすり、と小さく笑う。

 恥ずかしくなって起き上がったライは蜻蛉の腕に抱かれて気持ち良さそうに眠る楪をじっと見つめた。

 口の端から涎が垂れている間抜けな顔だが、とても幸福そうに寝息を立てている。


 「抱いてみるか?」


 一瞬耳を疑った。


 「む、無理!!落としたらどうするのさっ!?それに……」


 汚れると言いかけて口を噤んだ。

 それを判っているだろうに蜻蛉は楪を無理やりライに押し付ける。

 

 「ちょ……っ!?」

 「ほれほれ、あまり騒ぐと起きてしまう」


 人差し指を口に当てる蜻蛉に言いたいことをぐっと我慢したライは楪を落とさないように蜻蛉の見よう見まねで真剣に抱き上げる。

 今までの中で一番の緊張にはいるかもしれないとドギマギしながら抱えたライに蜻蛉は小さく手を叩いた。


 「うまいうまい、ほれ、首を支えて……」

 「う、うん……」


 抱き上げた楪は想像していたよりもずっと軽くて、温かかった。

 ふわふわというかふにゃふにゃしていて少しでも力を入れれば壊してしまいそうなほど脆いものに思えて、ライは益々身体を固くする。

 そんなライを見て蜻蛉は微笑ましそうに笑う。

 その蜻蛉の表情が何だが面映ゆい。

 寝息を立てる楪が擦り寄って来て、笑い、ライはそれをじっと見ていた。


 「楪は、口をきかんじゃろう?」


 不意に蜻蛉が話し始めた。


 「父親を目の前で失ってな、それ以来声が出なくなったのよ」


 蜻蛉は穏やかな顔で遠くを見つめて言った。

 その深海のような蒼の瞳が何を映しているのかライには判らない。

 かつての日常を思い出しているのか、夫が亡くなる瞬間を思い出しているのか、それとも。

 幸せな記憶に想いを馳せているのだろうか。

 ただ、蜻蛉の瞳は、表情は、全てを受け入れているものだった。


 「妾の夫だけではない。男鬼は皆、妾たち女鬼を逃がすために、往ってしまったよ」


 遠くを見ていた蜻蛉がライに視線を向ける。

 吸い込まれそうな蒼の瞳は全てを見透かすようで、ライの胸をザワリと騒がす。

 その瞳に溺れてしまうような錯覚を見たせいで呼吸が苦しい。


 「…………なんで」

 「うん?」

 「なんで、僕に…………」


 その話をしたの?と言う言葉は続かなかった。

 蜻蛉は猫のように伸びをして空を見上げた。細められたその瞳には何が映ったのだろうか。


 「さてな、判らぬ。ただ、話を聞いてほしかったのかもしれんのう」


 蜻蛉がにやりと子どものように笑う。


 「妾は一族を導く者じゃからな。弱音は吐けぬ。それは妾を信じて尽くしてくれる玉虫たちに面目が立たぬからな。だから、出会ってまだ間もない坊くらいに話すのが丁度いいのさ」

 「……」

 「近すぎると、時に言えぬ事もあるからのう」

 「……それは、ちょっと判るなぁ……」

 

 蚊の鳴くような小さな声に蜻蛉は満足そうに頷いた。

 強い人だと素直にライは思う。

 玉虫たちに弱音は吐けないからと、ライに胸の内を吐露したはずなのに、弱っている素振りなど欠片も見せないのだから。

 けれどきっと、誰も見ていない場所で涙を流すこともあったのだろう。そして、一通り悲しんだ後は、いつもの毅然として、傲慢な『蜻蛉』にと戻るのだ。

 その生き様の、何と過酷で美しいことか。

 鬼の上に立つが故に、普通の〝女〟としての幸せはもう望めない。

 いや、普通の女になれた瞬間はわずかでもあったのだろう。しかし今、その機会は永遠に失われたのだ。

 伴侶と言う唯一の理解者を失いながら、こんなふうに笑うことができるなど、一体どれだけの感情を押し殺したのだろうか。

 ライにはきっと出来ないことだ。

 

 腕が疲れただろうと蜻蛉がライから楪を受け取った。

 幸せそうに眠るこの子どもも、父を失った悪夢に(うな)される日もあるのだろう。せめて今だけは幸せな夢を見ていると良い。

 軽く頭を撫でると楪が急にその大きな目をパチリと開けた。

 起こしてしまったかと焦るライを見て楪は嬉しそうに頬を緩めた。

 頭から手をどかそうとしたライの腕を小さな両手で掴んで猫のようにぐりぐりと頭を摺りつける。〝撫でろ〟と言わんばかりのその仕草が可愛くてライは小さく噴き出した。

 そんな二人を蜻蛉は静かに見つめて、微笑んだ。

 暫く撫でられて満足したのか、蜻蛉の腕から抜け出した楪は可愛らしい効果音がつきそうな足取りで、廊下の奥へと走っていく。

 良いのかと蜻蛉に顔を向ければ、蜻蛉は一つ頷く。


 「良い良い、あれは玉虫と雪姫がお気に入りじゃからのう。あの二人を探しに行ったのよ」


 カラカラと笑って蜻蛉がライの頭を乱暴に撫でる。


 「へ、ちょっと!?」

 「何、善きに計らえ」

 「いや、意味判らないしそれより馬鹿力が痛い、っていたたたたっ!?」

 「そなた異国の者のくせに女性の扱いが成って無いのう……。れでぃーふぁーすとじゃろう」

 「いやいや意味がちが……っいたたたたたたたたたたっ!?」


 面白そうに撫でる蜻蛉の手つきは乱暴だが、その表情は先程楪に向けているものと一緒で優しいものだった。

 撫でられるのは何時ぶりだろうか。

 最後に撫でられたのはギル神父の庇護下から離れる時。

 『いつでも帰って来なさい』という言葉と共に頭に置かれたその手を忘れたことなどなかったが、こうして撫でられると鮮明に思い出して、弱って感傷的になってしまう。


 ――――ああくそ、泣きそうじゃないか。


 優しさは時に残酷だ。

 こうやって崩れてしまいそうになるから。

 強く目を瞑り、溢れそうになる感情の波が過ぎるのをライはじっと待つ。

 そうでないとこの人に縋りつきたくなってしまうから。

 甘えさしてほしくなるから。


 「どうして、笑っていられるの?」

 「うん?」

 「あなたは、どうして、そんなに平気そうにできるのさ……」


 子どもの癇癪のような八つ当たり染みた酷く情けないその声は、無神経と判っていても聞かずにはいられなかった。

 何故、憎い相手を前にあんな風に冷静でいられたのか。

 何故、悲しい話を全て受け入れたような顔で話せるのか。

 何故、何故…………――――。

 そんなに迷わずにいれるのか。


 蜻蛉は眩しそうに目を細めて静かに微笑んだ。


 「無論、憎くないわけは無い。今すぐにでも黒の一族を攻めて、奴らに死んだ方がましだと思えるような地獄を見せてやりたいと、何度も何度も思い、夢に見たさ。奴らの一族を根絶やしにする夢を」

 「……」

 「それこそ数え切れないほど殺したよ。頭の中で」


 すっかりグシャグシャになったライの髪を細い指が梳くように整えていく。


 「ただそれを隠すのが妾は上手いのさ」


 年の功というやつじゃのう、と蜻蛉はおどけて言った。

 頭を撫でていた手が、スルリとライの頬へと滑った。

 涙など零れていないのにそれを拭うように蜻蛉は優しい手つきで目尻に触れる。


 「光の傍には常に闇がある。光が強くなればなるほどに闇も濃くなる。妾の深い闇を照らすのは、何時だって楪や、玉虫、妾を慕う愛しい青の民。そして……」


 ライの両頬を包むように蜻蛉の手が触れた。


 「そなたたちだ」


 その言葉を咀嚼するのに少しの時間を要した。

 目を瞬かせるライを蜻蛉は愛しそうに見つめる。

 愛しい恋人を見るような甘ったるいものではなく、母が子を見守るようなそんな温かいもの。


 「僕、ら……?」

 「何を驚く?そなたらは深い深い闇にいた我らを照らした一抹の光。蜘蛛の糸じゃ。この先視の神子と謳われた妾が言うのだ。誇れ、ライ」

 「誇れって……」

 「そなたが何を深く悩むのかは聞かぬ。ただ夢忘れるな。そなたが助けた命が確かに今ここにあるということを。あの場を治めたのは誰でも無い。そなたであったことを」


 射抜くような強い視線。

 (みどり)(あお)が静かに交わる。


 「悩んでもいい、迷い、時に踏み外しても良い。そなたが思うままに進め。だが、己を恥じることはするな。己を乏しめることはするな。それは同時にそなたに救われた者たちを侮辱することと同じと知れ」


 ライの頬から手を離した蜻蛉は立ち上がり背を向けた。

 放心しているライの方に顔だけ振り返り、微笑む。


 「己を誇り、胸を張れ。異国の神はどうかしらぬが、先視の神子が祝福しよう」


 それだけを言い残し、蜻蛉は楪が消えた廊下の奥へと姿を消した。

 一人残されたライは暫く蜻蛉が消えた廊下を眺めていたが、風の音につられるように空を見上げた。

 憎らしいほど晴れ渡った空を見て、胸元で揺れる十字架を手に取る。

 鼻がツンとして視界が揺れた。


 「はは……っ、格好よすぎでしょ」


 寝転がって空に向かって腕を伸ばした。

 空を掴むように拳を強く握って、うん、と小さく呟く。

 迷いは、まだある。割り切れない感情もある。

 けれど、グダグダと一人で悩むことは止めた。そんなこと自分にははなっから性に合っていなかったのだから。


 「それに、あそこまで言われてまだウジウジするなんて、男が廃るよね」


 取り敢えずは雪姫の許に顔を出そう。

 その後で、クラウディとも改めて話をしよう。

 そう決めてしまえば今までの悩んでいた時間が馬鹿みたいだとライは苦笑いした。

 空は澄み切って晴れやかだった。


 しかしこの後雪姫の許に行こうとしたライは再び蜻蛉に捕まり、朝まで酒に付き合わされることになった挙句酷い二日酔いに頭を痛ませることになるのだった。









ここまでお読みいただきありがとうございます。

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