拾壱
残酷描写を含みます。
美しく妖艶なその女は豊満な胸の下で腕を組んだ。その仕草一つ一つが艶やかで、自分の魅せ方をよく理解している女だった。
女の真っ赤な唇から赤い舌が覗く。酷く扇情的だった。
「どうやら妾の勝ちのようじゃが、まだやるのか?」
挑発的にふてぶてしく女は笑った。
その視線を逸らすことなくまだあどけなさが残る豪華絢爛な彼女、黒葛娑羅条は手に持っていた扇を口元を隠すように広げた。
「腐っても歴代で最も力が強いと言われた蒼生家の当主ですわ。その先視の力、まだ衰えていなかったようですわね」
そっとライの背から降ろされていた雪姫の方を不意にちらりと見た娑羅条と目が合いそうになりサッと血の気が引いた雪姫は帽子を深く被って目線を下に向けた。
そんな雪姫のことを興味なさそうにしていた娑羅条は同じようにライとクラウディに目を向け玉虫を見て酷薄な笑みを浮かべた。
ころころと口元を隠して哂う彼女を玉虫はこちらが身震いするほど冷たい目で見ていた。
「うふ、うふふふ……」
「……何が可笑しいのですか」
「あら、別にあなたのことを笑ったわけではないのですわよ?ただ……」
パチン、と音を立てて扇が閉じられた。
「その巫女服を見ると思い出すんですの。少し前に遊んでさしあげた方々の下品な悲鳴を」
空気が震えて、爆ぜた。
目にも留らぬ速さで玉虫は鋭い針を娑羅条に向かって一気に投げつける。それを察していたのか特に焦ることも無く娑羅条は全て扇で捌く。(どうやら鉄扇のようだ)
しかし最後の一本を鉄扇で弾いた時にはその首筋にピタリと鎌の刃先が突き付けられていた。白い首筋からツゥ、と血が流れた。
「まあ、野蛮ですこと」
「お言葉ですが、あなた方の振る舞いの方がよほど野蛮かと」
玉虫が圧倒的に有利であるにも関わらず娑羅条は動揺した素振りは一切ない。むしろ今にも鼻歌を歌いだしそうな余裕があった。
「ああ、そういえば蛍火さん、でしたかしら?」
ぴくりと玉虫がその名に一瞬反応した。
それに気付いたのか気付かなかったのかは判らないが娑羅条はふわりとまるで世間話でもするように優しく笑った。
「あの子、可愛らしかったですわよ?あなたの名を出せばとっても大人しくなったんですの。わたくしたちは別にあなたをどうこうしたとも言ってませんのに」
「――――っ、貴様ぁっ!!」
「止めよ」
激昂した玉虫を涼やかな、威厳のある声が諌めた。
先程までの艶やかさはなりをひそめ今その女にあるのは厳格な雰囲気だけだった。
半ば茫然としたような玉虫の唇が小さく震えた。
「姫、さま……」
「そなたの気高き矜持をそのようなことで穢すでない。玉虫」
静かで、人に命令することに慣れた声色だった。
しかしその眼は穏やかなものだった。
「ですが……っ!!」
「止めよ、と言った。二度は言わぬ」
「…………はい」
唇を噛んだ玉虫がゆっくりとその手を降ろした。それを娑羅条はつまらなさそうに息を吐いて扇を開いた。
「止めるんですのね。面白味がないこと」
「そなたもだぞ。幼き黒の鬼よ。妾との賭けの約束を反故にする気か」
娑羅条は口の端を吊り上げて哂う。
「あら、そんなことしませんわよ。ただ、そちらからやってきたのなら、わたくしは身を守らねばいけませんわ」
そうでしょう?と娑羅条は首を傾げた。
はっとして玉虫が娑羅条を注視すると彼女の扇を持っている反対の手に自分が投げた針が一本握られていた。あれは針の先に麻痺をさせる毒が塗られているため、掠りでもすればたちまち身体が痺れて全身が動かなくなる。
どうやら針を全て弾くふりをして一本だけ回収していたらしい。
頭に血が昇って視野が狭くなっていた自分を玉虫は恥じるように唇を噛み締めた。
「さて、そなたらは妾と賭けたな?ここに妾を助けに来るものが来るか来ぬか。時間を定めなかったのが悪かったな。賭けは妾の勝ち。その約束に妾たちからこの場では手を引くはずだがのう」
女、蒼生家当主、蜻蛉は美しく微笑んだ。
同性も見惚れるようなその笑みに娑羅条が眉を顰めた時だった。
「確かに約束はしたなぁ」
声がした。
雪姫のすぐ近くで背筋が凍るような声がした。
全身の毛穴から一気に汗が噴き出して身体が震える。激しい運動をした後のように息が上手く吸えない。足も手も動かない。
忘れていたわけではない。むしろ警戒していたはずだった。
ただ、気付けなかったのだ。
玉虫と娑羅条の攻防に気を取られて一瞬でもそれから意識を外してしまった。
其れゆえの過ちだったのだ。
――――闇と目が合った。
暴風のようなそれはまず初めにライに襲いかかった。
声を上げることもできずライはその嵐のようなそれに成す術も無く蹴り飛ばされた。砂利の上を転がっていたライが水飛沫を上げながら川に落ちた。
クラウディは咄嗟に雪姫を己の背に庇いそれの一撃目を防ぎ、折り畳み式ナイフで首を突こうとし、失敗した。
それは何の躊躇もなくそのナイフを掌で受け止めて握った。
瞬時に危険と判断したのであろうクラウディがナイフを抜くよりも速くそれはクラウディの首を掴みライが転がった方とは反対の林の方へ片手で投げた。
衝突音と共に小さな呻き声が聞こえた。
赫い血が滴るその掌からナイフを抜けば血が更に勢いよく溢れてそれの足元を赤く染める。
べろりと赫を舌で舐めたそれは雪姫を見て嗤った。
ガッ、と頭を地面に強く叩きつけられた。
片手で頭を抑えつけられた雪姫は地面に強くぶつけた後頭部の痛みに息がつまり生理的な涙で視界が滲んだ。
雪姫の額に感じる生温かくぬるついたそれは雪姫の白髪を赫く染めてゆく。
雪姫を襲った痩躯の男、双樹王が空を仰ぐ。
「ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!!ああ、約束したなぁ!!」
大口を開けて嗤う男に狂気を感じるには充分だった。
何とか双樹王の手から逃れようと必死に身を捩り、腕を掴むがこの細腕のどこにこんな力があるのだろうか。びくともしない。
暴れる雪姫を面倒臭そうに見下すその瞳と目が合った。それを見て雪姫は凍りついたように動けなくなる。
――――いやだ、やだ、いやだ、あの眼は……っ!
助けてと縋った名前が何だったか雪姫は判らなかった。
何かのぶつかり合う鈍い音と急に解放された視界に光が一気に飛び込んでくるようで目眩がした。そんな雪姫を全身びしょ濡れのライは素早く抱き起こした。
涙で滲む視界の先には頬から血を流す双樹王と首元から同じように血を流すクラウディの姿。
雪姫の背を優しくさするライが雪姫の顔を覗き込む。
「ごめん、油断してた。大丈夫?」
小さく頷いた雪姫の額についた血を優しく拭いながらライはもう一度謝った。
雪姫などよりもよっぽど二人の方が酷い目に合ったのにこんな風に気を使われて、雪姫は自分が心底情けなくなった。
「双樹王!!妾との約束を違えるのか!?」
蜻蛉の怒声を聞いて双樹王は大口を開けてゲラゲラと嗤った。
「破るぅ?何処が破ってんだよぉ?」
「惚けるでない!何故その者たちに危害を加える!!」
「はぁ?じゃあ破ってなんかないじゃねぇかぁ」
「何じゃと?」
娑羅条はころころと哂いながら目を細めた。
「わたくしたちが約束したのはあなたたち『青の鬼』をこの場で見逃すということですわ」
双樹王が首をゴキリと鳴らし、地面を蹴った。
一気に距離を詰められたクラウディがその拳を避けると地面が抉れた。
その尋常じゃない怪力に雪姫だけでなくライとクラウディも冷や汗をかいた。
「ですからそこにいる三人は約束の内に入りませんわ」
にっこりと娑羅条は微笑んだ。
憎々しげに口の端を歪めて蜻蛉は笑みを作った。海色の瞳が何処か焦りを含んでいるようにも見える。
「可愛げのない童共じゃのう……」
「お褒めに与り光栄ですわ」
一際大きな音が響いた。
双樹王の手に鈍く光る銀色が見えた。雪姫はそれが何なのか判らず目を細める。
鋭い拳を容赦なく浴びせる彼は血に飢えた獣のようだ。それを防ぐことを余儀なくされているクラウディは先程から防戦一方だ。
そして彼が使っているナイフが折り畳み式のナイフでなくフェンリルにいたときから使っているサバイバルナイフであることにライは心中でかなり焦っていた。クラウディがあれを使うときは本気でやらなければこちらが殺られるときだったからだ。
「あら、驚いた。兄様が鉄拳を初めから使うだなんて……。中々の手練なんですのね。あの方」
娑羅条が嬉しそうな弾んだ声で言う。
玉虫が忌々しそうに娑羅条をきつく睨み、いつでも応戦できる構えをとる。
「……お前は手を出さないのですか?」
「わたくし、そこまで野暮じゃありませんわ。折角兄様が愉しんでらっしゃるのなら横槍を入れる必要なんてありませんもの……ですから」
玉虫の地を這うような声を受けても相変わらず娑羅条はころころと笑い玉虫と蜻蛉の前に立つ。
「あなた方も邪魔しないでくださいませ?まあ、既に満身創痍の主を庇いながら兄様のもとになんて従順な番犬のあなたが行けるとは思いませんけど」
ギリッ、と玉虫は掌に爪が食い込むのも構わず強く握る。
忌々しいが娑羅条の言うとおり玉虫は蜻蛉を置いていくことができない。いくら蜻蛉と彼らの中に約束があっても迂闊に玉虫が割り込めば、その約束は反故になる。
そして何より蜻蛉は青き鬼の一族の当主。次の当主も決まっていない中彼女を失えば、それこそ一族の壊滅にいよいよ片足どころか全身をどっぷり浸かることにもなる。
「この、下衆共が……っ」
娑羅条は優雅に微笑んだ。
「哀しいですわね?弱いって……」
◆
「鉄拳……?」
「メリケンサックみたいなものかな。敵を打ったり、突いたり、敵の攻撃を払ったりなんかする武器の一つだよ」
雪姫の疑問にライが丁寧に答えた。
その間も双樹王とクラウディの攻防は続いており、雪姫は何とかそれを目で追うので精一杯だった。ライも笑みさえ浮かべているが酷く焦っているような雰囲気を感じる。
それを敏感に感じ取った雪姫は不安になり縋るような目でライ見上げる。ライは雪姫のその目を隠すようにそっと落ちた帽子を被せて頭をポン、と軽く撫でた。
「大丈夫だよ。クラウディは強いから」
雪姫を安心させると同時に自分に言い聞かせているようだった。
激しくぶつかり合っていた双樹王とクラウディがほぼ同時に大きく距離をあけた。いつでも応戦できる構えを崩さないクラウディに対し、双樹王が手首をパキパキと鳴らしながら首を傾げた。
「なぁ、お前何がしたいんだぁ?」
心底不思議そうな声だった。
クラウディは表情を変えることなく口を噤む。
「俺様はなぁ、どうせヤりあうんなら強い奴とヤりてぇんだよぉ」
「……」
「……アー、もしかして気付きたくねぇのかぁ?それとも気付いてねぇのかぁ?まあ、どっちでも……」
赫。
赫い色と。
あれは……。
「構わねぇけどなぁっ!!」
一瞬だった。
雪姫もライも、玉虫も蜻蛉も、誰も反応出来なかった。
くすり、と含みのある笑い声。
「あーあ……」
誰もが愕然としている中で娑羅条のその呟きはこの場にいる全員に届くのには充分だった。
「壊れちゃった」
あの赫い色を雪姫は知っている。
あの宙に舞うものを雪姫は知っている。
冷たいけれど、いつも温かく感じられた、優しいあれは。
ドサリと地面に落ちたのは。
ナイフを握ったままのクラウディの右腕だった。
絶叫が響いた。
◆
「あ、あぁ……っ!?」
ガチガチと奥歯が噛み合わず音を立てる。
ゲラゲラと嗤う双樹王の声すら何処か遠くのもののような気がする。
ああ、いっそ夢であってくれたらいいのに。
けれど夢ではないのだ。
溢れる血を押さえているクラウディの手は真っ赤で、そこにあるはずの腕はない。
表情こそ変わらないが顔色も血の気がなく額には脂汗がいくつも浮かんでいる。
普通なら絶叫して藻掻き苦しむであろう傷なのにクラウディの表情が変わることがない。そのことが雪姫には酷く悲しいことにも思えた。
無い腕を押さえて荒い息を吐くクラウディを双樹王はつまらなそうに見つめていた。
その口元は血で真っ赤に染まっている。
言ってしまえば何てないことだった。だが、誰も予想だにしないことだった。
双樹王は噛み千切ったのだ。クラウディの右腕を。
確かに人の顎の力はとても強く、鍛えれば鍛えるほど歯に負担はかかるかもしれないが強くはなるだろう。
しかし誰が人の、ましてや成人男性の腕を噛み千切ることができるとそんな出鱈目なことを思うだろうか。
黒き鬼の怪力が成せる技なのかどうかは判らない。
ただ、一つだけ判ることは、あの男、双樹王が『化け物』だと言うことだった。
口元を拭うその男は初めの頃よりも更に昏い闇色をその瞳に宿して嘆息した。
「…………こんだけやってダメなら仕様がねぇなぁ……もういい」
「止めるぞよ!玉虫っ!!」
「判っておりますっ!!」
玉虫と蜻蛉が走り出す瞬間、娑羅条が二人の邪魔をするように立ち塞がる。
「どきなさいっ!貴様などに構っている暇はないっ!!」
「ダメですわ。兄様の邪魔をしないでくださいまし」
娑羅条が扇で一閃すれば鋭い刃が玉虫と蜻蛉に襲いかかる。
万全ならまだしも玉虫が来るまで疲弊しきった蜻蛉にそれを全て避けきることは難しくいくつかの刃が蜻蛉の柔肌に傷を作る。それに気付いた玉虫も蜻蛉を庇いながらになるため娑羅条を突破することが酷く難しくなった。
茫然としたライは自分の目が信じられなかった。
頭の整理も追いつかない。
――――嘘だ、だってクラウディは僕なんかよりもずっと強くて、僕をフェンリルから連れ出してくれた……。
ふわりと花のような香りがライの鼻先をかすめた。
「死ねよ」
振り上げられた拳をクラウディは静かな目で見続けていた。
自分の死に様の何と呆気ないことか。
嗚呼、けれどこれが自分にはお似合いの最後なのかもしれない。
思ったよりも自分の死期が早かった。ただ、それだけ。
それともあいつはこんな俺の姿を見て無様だと笑うだろうか。――――笑ってくれるだろうか。
「――――シア」
クラウディはそっと瞼を降ろした。
骨が砕ける嫌な音がした。
勢いに押されるがまま地面に仰向けに倒れるクラウディは自分に起こったことが判らなかった。
背中を打った痛みは片腕を失った痛みに全て持っていかれて感じることなど無い。
ただ、自分の上に被さるように倒れたそれから香る花に似た匂いは……。
クラウディの頭を抱え込むように抱きしめた細い腕。
華奢な肩が震えている。
鉄錆に混じった花の匂い。
「雪姫」
小さく呟いたその名前は自分でも驚くくらいに動揺で掠れて震えていた。
◆
せっかく買ってもらった帽子が何処かにいってしまったと雪姫はぼんやりと思い、引き攣った痛みに飛びかけた意識を戻した。
背中が焼けるように熱い。
骨だってきっと折れているだろう。
激しい痛みに耐えきれず涙がいくつも頬を伝う。その痛みと同時にじくじくとした鈍い痛みが再生をしていることを教えてくれた。
こんな時でさえ、自分は人ではないと再確認させられる。
自然と自嘲するように笑みが零れた。
悲鳴を上げなかったのは奇跡に近かったから、そこだけは褒めてあげたかった。
「雪姫」
茫然としたその声はいつかの雪姫のような頼りない声だった。
抱きしめる力を強くした。
気を失うような、いっそ失いたいほどの痛みだったがそれをしてはいけないと頭の片隅に思った。そうでないと今必死に護ったこの人を深く傷つけてしまうと雪姫は判っていた。
「いた、い、ね……」
クラウディの肩が震えた。
「雪姫」
涙がいくつもいくつも頬を伝う。
痛い、痛い、嗚呼、こんなにも涙が出るほど痛いのに。
「いたい、よ……」
「雪姫、離せ」
「いたい、いたい、よ……」
「離せ、雪姫っ!!」
どうしてこの人は涙の一つさえ流さないのだろう。
顔色だってこんなにも悪くて、傷だってすぐ治ってしまう雪姫とは違って、ずっとずっと痛みに耐えなければいけないのに。
どうして表情一つ、変えやしないんだろう。
雪姫が刺したときもこんな風に焼けるように痛かったはずなのに。
クラウディの瞳も、表情も全く変わりはしなかった。
こんなにも痛いのに。
彼はずっとずっとどんな大怪我をしてもこんな風に耐え続けてきたのだろうか。
「ごめん、ね」
「……なぜ、謝る?」
「いたかったよね、今だって、わたしなんはより、ずっとずっと、いたいよね」
強く強くクラウディを抱きしめた。
「痛かったよね、クラウディ」
ただただ、雪姫はクラウディを抱き締めたかった。
◆
「アー、お前があいつの言ってた人間と銀鬼の間に出来た混血の雑種かぁ」
じわじわとゆっくりにだが確実に治っていく雪姫の真っ赤な背中を眺めながら双樹王が納得したように呟いた。
「しかもゴミの血が混じってるのに鬼の血の方が強いのかよぉ、おいおい…………ふざけんな」
先程までとは比にならないほどの尋常じゃない殺気に雪姫の腕に抱えられたクラウディが雪姫をどかそうとするが雪姫の傷を気にしてかその力は弱い。
それを判っているのであろう雪姫は更に強く、まるでクラウディを護るかのように強く腕に力を込めた。
「ふざけんなよっ!?ゴミの血が半分混じってるってことすらふざけてんのに鬼の血の方が強いだぁ?あ゛ぁっ!?舐めてんのかテメェ!!あんなゴミ共と俺様たちを……っ!?」
「兄様!?」
ゴッ、と鈍い音がして双樹王が吹っ飛ばされた。
しかしすぐに態勢を立て直した双樹王が構えるよりも速くそれは彼の顔面に鋭い拳を叩き込んだ。追い打ちをかけるように地面に転がった双樹王の鳩尾に鋭い蹴りを刺す。
咄嗟に腕を大きく薙ぐように振り、距離を取り、呼吸を整えながら視界に映した相手を見て双樹王は口角を上げた。
鼻血を乱暴に拭って血を吐きだす。
「なんだぁ、やっぱりかよぉ……」
鉄拳と斧を構えた双樹王が大口を開けて嗤った。
「てっきりこのまま気付かないままかと思ってたぜぇ、なぁ?」
そっと後ろを見た雪姫は少し遠くに見えるこちらに背を向けている彼の名前を呼んだ。
片手に持っているサバイバルナイフがいつもと明らかに違うそれの異様な雰囲気に拍車を掛けていた。
「ライ……?」
返事は返ってこなかった。
「それ、クラウディ、の……?」
クラウディが持っていたサバイバルナイフを持って、どうするのかと聞きたかった。
けれどそれを言う前にライが振り返って穏やかな、安心させるような笑みを浮かべた。そう、いつもの笑顔のはずなのに雪姫のこめかみから脂汗とは違う冷や汗が流れた。
それが合図になったのかもしれない。
飛んで来た握り拳ぐらいの石をライは紙一重で避け刺すような拳をナイフで弾く。そのまま空いた鳩尾に拳を叩き込もうとしたが双樹王にその手を掴まれ頬を思い切り殴られた。
口の中が切れて血が滲むことも気にせずライもお返しとばかりに横腹に蹴りを入れる。
そのまま後ろに飛んでライは距離をあけた。
肌に刺すような、触れれば爆発するような殺気を湛えたまま。
「ゲラゲラゲラゲラ!アー、やっぱりなぁ、やっぱりなぁ、本当に反吐が出るぜぇ」
ぎょろりと双樹王の目玉が動いてライを見る。
歓喜、狂気、憎悪、侮蔑、憤怒、全ての感情がぐちゃぐちゃに混ざり合ったようなその瞳をライは真っ向から受けて逸らさない。
ライの瞳に映るのは底冷えするような怒りと憎しみ。
しかしその奥にある色に双樹王は仰け反るようにして大口を開けて嗤った。
「ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!!」
「……そのまま笑い死になよ」
ぺっ、と口の中の血を吐いてライは口元を拭う。
――――殺気が消えた。
今回先に動いたのはライだった。
何の迷いも無く首筋を狙った刃は双樹王の首の皮を傷つけただけだった。その間合いに入るまでに消えていた殺気に双樹王は口笛を吹いた。
「何でずっとあいつが俺様とヤりあってんのかと思ったら、お前自分で気づいてなかったんだなぁ、俺様の方が驚きだぜぇ?」
双樹王の踵落としを避けると地面が抉れた。
それをスレスレに避けたライが頭に飛んだ要領で回し蹴りを決めようとしたが双樹王が屈んで避ける。
顎を割る勢いで振り上げられた拳をライは空中で身を捩って避け、飛び退いた。
「もしかして今も気づいてねぇのかぁ、なぁ?」
「……さっきから君、随分とうるさいね」
「そりゃぁ、俺様だってゴミとなんかしゃべりたくないけどよぉ、あんまりにも自分のことが判って無いお前が可哀想でなぁ、同情してやってんだよぉ」
「それこそ余計なお世話だよ。君に僕の何が判るっていうのさ」
「あ゛ぁ?ゴミのことなんか判りたくもねぇよ。でもまあ、判って無いみてぇだから教えてやるよぉ?お前はあのゴミが俺様にヤられた敵討とか小奇麗な御託並べてんのかもしれねぇがなぁ、違うぜぇ?」
双樹王は不快そうに、愉しそうに、目を細めた。
「お前はただ俺様と殺し合いたいだけの畜生以下の血に飢えた獣だよぉ」
ギンッ、と硬いモノ同士がぶつかる音。
ギリギリと双樹王の鉄拳とライのナイフが音を立てる。
「ふざけるなっ!!僕をお前何かと一緒にするなっ!!」
「アー?誰が一緒だなんて言ったんだよぉ?お前こそ俺様とゴミのお前を一緒にしてんじゃねぇよっ!!」
激昂した双樹王に押し負けしたライはよろけかけたが足腰に力を入れてその場に踏みとどまる。その隙を逃さなかった双樹王がライの鳩尾を殴り、ライは転がりはしなかったものの数メートル後ろに下がった。
口から血が溢れ、咳き込む。骨が確実に何本か折れた。
「俺様はなぁ、親切にも教えてやってんだよぉ。お前が良い子の皮被った下に隠してる本能をなぁ」
「僕は……っ!」
「違うって言うならそれでもいいぜぇ?ならよう、お前……」
「何で笑ってんだぁ?」
◆
「…………え?」
ライはそっと震える手を頬に添えた。
引き攣っているようなこの頬の感覚は確かに笑っていることを示していた。
――――僕は、笑って、る……?
ライは喉がカラカラに渇いていくような錯覚を覚えて生唾を飲み込んだ。耳元でごくりと飲んだ音が嫌に響いた。
笑っていた。ライは確かに双樹王の言うとおり笑っていた。
いつから笑っていたのか判らない。
――――僕はいつから笑っていた?
――――こいつに指摘される少し前から?
――――それともこいつと殴り合い出してから?
――――それとも……。
「初めからだぜぇ?」
双樹王は闇色の目を昏く輝かせながらライが最もあってほしくないことを事も無げに言った。
「お前があの雑種のメスを庇った瞬間からずっとだよぉ」
その言葉はライの背骨からスゥ、と染み渡るように感じた。
否定しようとした言葉は、音にならなかった。
「まあ気付かなかったのも無理はないかもなぁ。あのゴミがずっとそのことをお前に気付かせないようにしてきてたみてぇだしなぁ」
それはクラウディのことを言っているのだろう。
でも、そう考えると今までのクラウディの行動が全てライの考えを変えていく。
争いごとになったとき、真っ先に先陣を切るのは必ずクラウディだった。
今までそれはライは自分を護るための行動だと信じて疑わなかった。クラウディは経験も、技も、力も全てライに勝っていたからだ。
けれど、実際はそうではなく。
ライの中にある獣のような本能を起こさせないための行動だったら?
違うと否定したかった。
しかしライには出来なかった。
双樹王に言われた瞬間、ライは確かに理解した。
そう、ライは確かに感じていたのだ。
激しい怒りと狂おしいまでの憎悪の中にある――――それを上回る歓喜に。
知らず知らずのうちに渇いた笑みが漏れる。
何て言う皮肉だろうか。
クラウディがずっと留めていた獣は結果クラウディによって放たれることになるなんて。
――――あの時。
――――あの時も僕は笑っていたんだろうか?
――――もしそうなら、僕の正体は何て……。
「醜いんだろうね」
涙に濡れたようなその声を合図に二人はほぼ同時に地を蹴った。
牙を剥いたのはどちらが先か。
泣き声のような咆哮を上げて、鎖から解き放たれた獣は嗤った。
◆
嗤っていた双樹王が急に無表情になり、後ろに飛び退いた。
それを訝しげに思いながらライも動きを止めて双樹王を見る。すると彼は酷く不機嫌そう顔をして舌打ちをして踵を返した。
娑羅条がきょとんとした顔で双樹王を見る。
「兄様?」
「……興が冷めた」
それだけ言って双樹王は林の中へと悠然と歩いていく。
娑羅条も呆気に取られたような顔をしたがすぐに顔に笑みを作り優雅に御辞儀をした。
「兄様が帰ると仰せでしたらわたくしが出る幕はもうありませんわ。皆様、ごきげんよう」
悠然と歩く兄の後ろをつき従うように娑羅条は小走りに掛けて行った。
そんな二人の背をただ見送ることしかできず、この場にいる誰もがもう、追いかける気力もなにもなかった。それを判っているからこそ彼らはああも簡単に敵に背を向けて帰れるのだろうが。
気が抜けると一気に今までの披露や、怪我の痛みに濡れた服のせいで寒さをライは思い出したが、何もする気になれずただ茫然と立ち尽くすだけだった。
それでもゆっくりと後ろを振り返ると玉虫と蜻蛉に止血をされているクラウディとそれを手伝おうとして止められる雪姫の華奢な背中が目に入った。
雪姫よりもずっと青白くなった顔のクラウディの紫の瞳がライを射抜いた。
相変わらず感情が何も乗っていないような何を考えているのか判らない探るような色。
いつもならその瞳から感情の色を探そうとするがライはそんな気にもなれず、ただ空虚な目でその視線を返すだけだった。
振り返った雪姫が驚いたようにライを見た。
その時初めてライは心の底から恐怖した。
その口から紡がれる言葉を聞くことに、雪姫の目を見ることに恐怖した。
そんなライの心境を知らず、雪姫は痛む背を我慢して少しずつライに近付いて来る。
それはライにとってはまるで首筋に添えられた刃物が段々と押し込まれていくような感覚だった。
けれどライは動けず、その拷問のような永遠にも感じられる時に終わりが来るのをじっと待った。
肩で息をしながら雪姫がライの前に立つ。
下を向いている雪姫の旋毛をじっと見ていた。
その顔が上がってくるのをとてもゆっくりに感じながらライは雪姫の赫い瞳を見て、微かに動揺した。
その瞳に恐怖の色は無かった。
あるのは安堵とほんの少しの悲しそうな色だけ。
固まるライの手を雪姫が両手で包んで、爪が食い込むほどに握りしめられた掌に己の手を重ね、握った。
「帰ろう、ライ」
花のように雪姫は笑った。
何かを言おうとしたライは結局何も言わず、口を噤んだ。
ただ、掠れて震えた声で小さく「うん」と頷いたライの手を雪姫はほんの少し力を込めて握った。
握り返されたその手はもう震えていなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。