玖
ドン!と一際大きな音を立てて壁を殴ったクラウディはその壁が何の反応も示さないことに舌打ちをした。睨め付けるように自分が殴ったその壁をじっと見つめていたがやがて諦めたように壁に背を向け、同じく壁に手を這わせて何かを探るライに視線を向けた。
視線に気づいたライが一瞬だけこちらを見たがすぐに壁に目を向けて力なく首を振った。
「こっちはダメだね。お手上げだよ」
「……こっちもだ」
二人同時に嘆息して座り込む。
今ライとクラウディがいるこの部屋は四畳半ほどの広さでしかもその三分の二は様々な本で埋め尽くされているという状態である。恐らく物置として用意されていた部屋なのだろうがそれにしても本の量が多すぎて先程までいた部屋の状況と大差ない。むしろこちらよりあちらの部屋の方が物置のようになっていたと感じるのは気のせいではないだろう。
何故二人がそんな物置の部屋にいるかと言うと話は少し前に遡る。
楓が突然立ち上がり積み上げられていた高い本の塔が決壊し咄嗟に雪姫が顔を覆った瞬間。驚異的な早さでクラウディの前に立った楓は反応が遅れたクラウディを薄ら笑いで見ながら素早く左腕を掴もうとした。それでも今までの経験と身体に染み付いた本能ともいえる反射神経でクラウディはその手をいなし逆に掴もうとしたがそれは楓の計算の内だったらしい。その動きを利用され足を払いのけられた。避けようとしたクラウディは足場の悪い本の上で思うような動きが出来ず結局避けきれず無様に地面に膝を突く形になった。
それに反射的に反応して止めようと動いたライに待っていましたと言わんばかりに本を投げつけ顔面に見事当てライが狼狽しているうちにクラウディは楓が座っている間その背に隠れていたこの部屋に繋がる隠し扉に抵抗も虚しく有無を言わさず押し込められた。僅かな間に消えたクラウディに一瞬気を取られたライも反撃する暇すら与えられず同じように部屋に押し込められたのだ。この間およそ五秒程度である。
あまりの出来ごとに部屋に入った二人は暫く放心していたほどだ。
その後すぐに正気に戻り何とかこの部屋を出れないものかと思考錯誤したのだが今のところ出れる手立ては見つかっていない。
入る瞬間この壁が回転するように開いたのだがどうにもコツか何かがいるらしくそれが掴めない二人は出れぬまま手を拱いている状態だ。
その時のことを思い出したのかライが苛立ちを隠しもせず頭をバリバリと掻き毟る。そのせいで絹のような金髪が鳥の巣のようだが本人はお構いなしだ。
「うぅー……情けない、あんな子どもにしてやられる何て……」
「しかもあれ絶対全部計算尽くだった」と愚痴るライにそうだろうなと胸の内で返す。
あの本の塔は目くらましに使われたのだろうとこの現状を目の前にすれば容易に想像がつく。あれだけ簡単にやられたのも突然の出来事に気を取られたというのもあるだろう。
そして雪姫はあの時本の落ちる音に気がいってライとクラウディの一悶着に気が付いていないはずだ。雪姫からしたら二人が突然いなくなったように感じるだろう。
何よりクラウディが一番腹立たしいのはそれすら全て楓の計算の内だと判ってしまうことなのだが。
「……鈍ったな。俺もお前も」
「ほんとだよ。それより何なのあの子!『鬼』って皆あんな規格外なわけ!?僕らがあんな呆気なくやられたの初めてじゃない?」
「子どもだからと油断は出来ないようだな」
取り敢えず『鬼』についての認識を改める必要があるようだ。『鬼』についてあまり信じていなかった二人だが今回の件で信じざるを得ないなった。
別に自分たちがあっさりしてやられたからだとかそんな理由ではないが単純に雪姫にしても楓にしてもあの動きは異常なのだ。楓のあの動きは素人でこそあるもののそれすら些細なことだと納得せざる得ない速さと力を持っていた。いくら頭が良かろうとそれを実行するには普通子どもの力では限界があるのだ。しかしその子どもと言う不利な点をものともしないあの動き。そして成人男性のクラウディを軽々と引っ張り投げるあの力は子どもでは有り得ないことだ。不意を突かれようが何をされようがたかが子どもの力なら難なく抵抗できたのだ。少なくとも素人でないクラウディは。しかしクラウディはそれが出来ず結果楓の手を振り解くことすら出来なかった。
たとえライやクラウディが楓の頃に同じことが出来たとしてもそれは二人にそれが出来る技量と相手に油断と言う隙があったからだ。いくら二人でも楓と同じ頃に玄人二人を相手にすることは出来ない。その出来ないことを楓は平然とやってのけた。
別に全てを『鬼』だったからと片付ける訳ではないが例え『鬼』でないにしろ楓を警戒しなければならないのは事実なのだ。ならその言を信じてみるのもまた一興ではあるだろう。
雪姫のことにしてもそうだ。
彼女は何年もの間檻の中で生活していたため歩くことなどそれこそ数えるほどしかなかっただろう。そうすると普通は歩くために必要な体力筋力が落ち容易に歩くことすら出来なくなるはずなのだ。だが彼女は歩くことは勿論走ることも出来る。体力こそ人並み以下だがそれだけだ。何年もの間歩くことの出来ない生活をしていれば私生活に支障をきたすこともあるはずなのに今のところ雪姫にそれはない。
そしてあの容姿もアルビノだと言えば説明はつくのだがライとクラウディは無意識のうちにその考えを否定していた。
アルビノの最も不利な点と言えば日の光に弱いことだ。アルビノの人々にとって外出するということはとてもじゃないが簡単なことではない。
だが案の定雪姫は日の光を浴びて何の変化も見られなかった。むしろ寒さを紛らわすためか進んで日の元に出るほどなのだ。
楓の話を悔しいことに否定することが出来ない。まさにその通りなのだから。『鬼』であるないなしに関係なく雪姫も楓も普通ではないということはライとクラウディ自身身を持って知ったのだから。
「ううぅ……っ、現役時代ならこんなことありえなかったのに」
鳥の巣になった自分の髪を整えながらライが悔しそうに呻く。確かにフェンリルにいた頃の二人なら何とかなったのかもしれないがどの道後の祭りだ。実際ライとクラウディが平和ボケしているのは事実だがそれを嘆いて現状が変わるわけではない。
唸るライを横目にクラウディは立ち上がって本の近くに座り込む。そのまま数冊の本を手に取りパラパラと捲っていく。
「…………何してるのさ」
「情報収集だ」
暫く本を捲る音だけが響いていたがライが口をとがらせながらクラウディに不満気な声をぶつける。それに端的かつ的確に答えたクラウディの涼しげな顔をライはやはり不満そうに見ながら立ちあがってクウラウディの横に腰を下ろした。
クラウディと同じように何冊かの本を取って捲っていく。
「冷静なフリして内心めちゃくちゃ心配してるくせに」
誰を、とはライは口にしなかった。
チラリと横にいるクラウディを窺うように見たが彼は本に視線を向けたままの無表情。そんな他人から見たら何を考えているのか判らないクラウディだが長年共にいるライは彼が否定しなかったことに少し驚き目を瞬かせた。
「……そっか、そっかぁ……」
一人納得したように頷いて笑うライをクラウディが怪訝そうに見たが何故か非常に嬉しそうなライの顔を見て言葉に詰まり結局何かを言うことは無かった。
ライも特にクラウディに何か言うことはなく鼻歌を歌いながら本を捲っている。こういうときのライは一見適当で不真面目そうに見えるが一番集中している時だと知っているクラウディは一息ついて再び本を捲った。
楓が何を考えているかは判らないが雪姫に危害を加えることは無いだろうと考えながら。
◆
「だんまりだねぇ……それとも吾輩と口を利きたくないのかい?まぁ吾輩はどちらでもいいヨ?時間はそれこそ腐るほどあるんだからネ」
軽薄な口調で口の端を吊り上げながら哂う楓を雪姫が睨むがそれすら愉しいのか楓はニィ、更に口角を上げる。
「別に簡単なことだろう?君の中にある〝もしも〟を吾輩に話してくれればいいだけさ。それだけで君は望む答えを得られるのだヨ?安いもんじゃないか」
「……」
「それともそれを言うのは憚られるのカナ?大丈夫だヨ。それこそ教会に懺悔するようなものさ!よくやるだろう?吾輩はキリシタンじゃないからしないけどネ!!教会の神様は寛大でどんな罪すら許してくれるのだと言うヨ?ほら、それだと思えばいいのさ!!」
「…………い」
「吾輩は神様や仏様ほど心が広い訳ではないけど大抵のことなら許せるさ。というか吾輩〝怒り〟という感情がどうにも理解できなくてねぇ。短気な人なんかを見ると何をそんなに腹を立てることがあるのだろうかと不思議に思うほどなんだヨ。君も思ったことないかい?他人が何かに当たり散らしている時とか怒鳴り声を上げてることとかを見てネ。まぁそんなことはどうでもいいか。それより今は君の話だもんネ」
「…………さい」
「別に恥ずべきことではないんだヨ?後悔のない人間、願望のない人間なんてこの世に存在しないんだから。いるとしたらそれは『人』とは呼べないかもしれないネ。『人』の形をした人形と言った方が近いのかもしれない。吾輩達は『鬼』だけど感情の在り方は『人』と同じだからネ。ん?ああ、君は混血だから『鬼』と扱うべきなのか『人』と扱うべきなのかいまいち測りかねるけどどうやら『鬼』としての血を色濃く受け継いでるみたいだし『鬼』として扱った方がいいよネ」
「…………うるさい」
「ああどうして吾輩はこうも話が脱線するのだろうネ。ごめんヨ。吾輩が悪かった。だからつまり吾輩はね君が何を思ってもそれは他人がどうこう言えるものじゃなくて恥ずべきことでも何でもないからむしろ胸を張っていいことなんだヨ。たとえそれが――――……」
「――――生まれて来なければ良かった何て言う親そのものを否定する自己満足かつ自己中心的な気持ちであってもネ」
「うるさいっ!!」
衝動のままに雪姫は楓の胸ぐらを掴んで押し倒していた。耐えるように肩で息をして怒りなのか羞恥なのかは定かではないが顔を赤く染めながら。
押し倒された楓は抵抗もすることなく口元を歪めている。倒れた拍子に被っていた学帽が脱げて片目だけだが前髪に隠されていた瞳が露わになる。その目は想像通り愉しそうに細められてそれでいてつまらなそうな色を湛えていた。
「図星カナ?ならこうして怒りを露わにするのは仕方の無いことだねぇ。言い当てられたくないことを言い当てられたら大抵はこうして何らかの行動を起こすからネ。どうやら君は普通で正常だ。良かったネ。見た目以外なら君は望んだ平凡だ」
「うるさいって言ってるの!黙らないなら……」
「どうするんだい?」
ぐっと言葉に詰まった雪姫に畳みかけるように楓は言葉を投げる。
「吾輩が黙らないなら?口を塞ぐ?殴って止める?それともこの手で吾輩の首を絞めてみるかい?」
面白そうに哂いながら楓は雪姫の手を取って自分の首に持っていく。ぎょっとした雪姫にお構いなしに更に雪姫の手の甲を押さえるようにして自分の首を圧迫する。
「や、やめ……っ」
「止めるのかい?ふぅん、そうか…………つまらないな」
自分で首を絞めさすという異常な行動をする楓に雪姫はぞっとした。しかも止めた雪姫に対して至極つまらなそうに呟いたのだ。この男児は。
絶句する雪姫を見て何故か楓は一層愉しそうに笑い、その笑みに肌が粟立った瞬間雪姫の視界が反転した。天井の木目が見えたと思ったら楓の顔が鼻スレスレまで近づいて焦点が合わないほどの近くにある。ぎょっとして押し返そうと肩を押しても自分よりも細くて薄いはずのその肩はびくともしなかった。
「吾輩はね興味があるんだよ。いや、吾輩だけじゃなくて飽くなき探究心を持つのは赤き鬼の一族の性質ともいえるんだけどネ」
楓の長い赤髪が雪姫の頬をくすぐる。
子ども特有の小さくて高い温度の手が雪姫の頬に当てられて雪姫は咄嗟に顔を背けた。
「我々『鬼』は本来争いを是としなくてネ。だから基本的に何かと争う人を皆嫌っていたんだ。しかも彼奴らは争う気は無いとこちらが何と言っても信じようとしなくてねぇ、それはそれは我らの先祖は困ったことさ。攻めて来たから撃退するのにそれをすればやはり『鬼』は野蛮で獰猛な化け物だなんて罵られてネ。まぁ人は自分たちより優れている者や得体のしれない者に対しては管理下に置くか徹底的に排除しないと気が済まないようだから仕方がないのかもしれないけどねぇ。だから大昔人との戦に何の興味もなかったのだけれど今後一切我々に干渉しないと言ったことを条件に少しだけ手を貸したのさ。それ以降何とか我々は平穏を保っているけれど彼奴らは何時掌を返すか判らないからやはり『鬼』は総じて人を嫌うんだヨ」
顔を背けた雪姫を無理やり正面に向かせ楓は更に顔を近づけた。雪姫の赫い瞳を覗きこむようにして哂う。長い前髪から覗くその両目はくすんだ色をしていた。
「だから君を見つけた時は驚いたのさ。『鬼』と『人』の混血。しかも君の父親はあの銀の鬼だ!極度の潔癖症とも呼べる銀の鬼とただの人である母親を持った君はまさに奇跡と言ってもいい。吾輩はそんな君にとても興味があるんだヨ。とても、ネ」
「…………っ」
「それに最初に言ったけれど君が思ったことはある意味で正常なんだヨ?だって君の御両親は勝手な都合で君を生んで勝手な都合で君をこんな目に合わせているのだから。君の容姿と出生を考えればここでの暮らしが君にとってどれほどのものになるか容易に想像がつくはずなのだからネ。特に君と同じ見目の父君なら。本来君を守ると言う役目を彼奴らは〝死〟と言う形で放棄したんだ。結果それは君にとって最も残酷な結果を与えることになった。そんな御両親を怨んで何が悪いんだい?」
思考をドロドロに溶かすほどに甘く、恋人に囁くように優しい口調で音を紡ぐ楓は酷く愉しそうだった。肯定するような物言いはまるでこちらが間違っているかのように思えて判断が曖昧になっていく。
「〝死〟というのは実に耽美で禁断の果実のように甘いんだろうネ。それこそ禁忌の君のはお似合いなものじゃないか。大丈夫君は何も間違ってなんていないのさ。だからほら、言って御覧?君はどんな〝もしも〟を一番願っているのか」
慈愛に満ちた女神のように。心を惑わす悪鬼のように。蜜月を過ごす恋人の如く甘く優しく耳元で楓は囁く。
どんな後悔を願望を抱えているのか?そんなもの決まっている。
わたしは思ってしまったのだ。考えてしまったのだ。いっそのことわたしなんて――――。
操られる人形のように思うままに口を開こうとして雪姫は止めた。
……本当に?それがわたしが一番に願ったこと?後悔していること?
否、違う。そうじゃない。わたしが一番願っていたことも後悔していることもわたしはそんなことじゃない。
「あの人に似たのね」と嬉しそうに母は微笑んだ。
「すまない」と言うように申し訳なさそうに父は苦笑した。
名前すら聞けなかったあの子は笑っていた。わたしの名前を聞いただけなのに宝物を見つけたかのように嬉しそうに笑っていたのだ。
嗚呼、何だ簡単なことじゃないか。そうだわたしが一番願って後悔したことは――――。
「何も出来ない、臆病なわたしのこと」
「……?」
「何も出来ない臆病で弱いわたしのこと」
虚を突かれたような顔をする楓に構わず雪姫は口を開く。
「わたしは弱くて臆病なの。あなたの甘言に流されそうになるほど弱くて『鬼』としての力だってきっと中途半端。自分が傷つくことが怖くて目も耳もふさいでずっと逃げて来た。これ以上傷つかないように自分の中に閉じこもって小さくなって震えてた」
楓の襟元を掴んで楓と目を合わせる。強い意志を孕んだその赫に怯えて震えていた少女の影は無い。
「弱くて臆病なわたしはそうすることでずっと自分を慰めて来た。わたしは弱いから仕方がないって。何の力も持ってないちっぽけな女の子だから仕方がないって。認めることが怖くて自分の不幸を両親のせいにして生まれてこなければよかったなんて酷いことも考えた。でも違う。二人は何も悪くない。だってお母さんはわたしが父に似て嬉しいって笑ってた。お父さんはわたしが自分に似たことにずっと負い目を感じてた。わたしは自分が異常だなんて知ることがないくらいに二人にずっと守られてきた。わたしが傷つかないようにずっとずっと守ってくれていた」
「でも君の御両親は最後まで君を守ってくれたわけではないじゃないか。中途半端に投げ出したんだヨ?」
「そうかもしれない。でもそれでもわたしは幸せだった。お母さんとお父さんに守られて愛されて幸せだった。それに二人はわたしを捨てたわけじゃない。きっとあんなことがなければわたしは今もずっと二人に守られてきたって断言できるくらいわたしはお母さんとお父さんに守られてきたの」
「……」
「あの子のことだってそう。わたしはあの子の名前なんて聞く機会はいくらでもあったのに聞かなかった。あの子の名前を聞いて、あの子のことを知って、あの子がわたしの〝特別〟になるのが怖かった。〝大切〟になるのが怖かった。だからずっと無関心なふりをしてそれでもあの子がわたしの傍にいてくれることにほっとしてたの。〝特別〟に何て遠の昔になってるのにそれを認めることが怖かった。一人になりたいのに独りは嫌でそれでも何も出来なくてそれを仕方がないって慰めて悲観して、ほっておいてと思うのにいつも心の中で叫んでた。『助けて、独りにしないで』って。そんなわたしをあの子はきっと気づいてた。だからわたしよりもずっと強いあの子はわたしを何度何度も助けてくれた。なのにわたしは結局あの子に何もしてあげられなかった……」
渾身の力で楓を突き飛ばして驚いている楓の胸ぐらを掴む。向かい合うような態勢で雪姫は言葉をぶつける。
腕は情けなく震えていて、声だって震えて時々掠れる。それでも強い意志はそのままに。
「わたしは何時も後悔ばかりしてる。願ってばかりいる。誰かに助けてもらいたくて縋ってばかりの弱虫で足手纏い。もしわたしがライやクラウディみたいに力があったら、あの子みたいに行動力があったら、あなたみたいに頭が良かったら、母に似ていたら、父のような強さがあれば……何度も何度もそう思ってきた。思うだけで何もしなくて羨んで嫉んでそうして可哀想って自分を馬鹿みたいに慰めてた。きっとわたしはこの先ずっとそうやって生きて行く。地を這って泥水を啜って生きて行く。でも、少しでいい。ほんの少しでもそうじゃないわたしになりたい。羨むだけじゃなくて思われるわたしになりたい……っ!……ねぇ、あなたわたしに興味があるって言ってたよね?」
急に話題を変えた雪姫に楓が三日月のように口元を歪めた。
「そうだネ。吾輩は君に興味があるヨ」
「なら、わたしを観察でも何でもし続けたらいい。わたしはきっとこれからもあなたが暇を潰すには丁度いい無様を晒すはずだから。それを見て愉しむなり嘲るなりしたらいい。でもその代わり必要最低限の情報をわたしたちに与えて」
「へぇ、でも吾輩が君を見続けて愉しめなかったらどうするんだい?」
「そんなことはない。だってあなたは混血のわたしそのものに愉しさを見出してるんだから。でも、もし本当にそうなったらその時はあなたの好きにしたらいい。あなたのことだから自分が思う愉しさに誘導することなんて訳ないでしょ」
「成る程ねぇ……。でも君はそう言いながら心の何処かであの二人を頼りにしているのではないかい?あの二人ならきっと吾輩をどうにかするだろうってネ」
「そうだけど?」
意地悪く哂う楓に対して雪姫は事も無げに答えた。そしてふてぶてしく微笑む。
「言ったでしょう。わたしは弱くて臆病な卑怯者。だから使えるものなら何だって利用してやる」
「……清廉潔白を信条とする銀の鬼とは思えない発言だねぇ」
「私は混血。半分はあなたたちにとって汚らわしくてしかたない人の血が混じった異端者だもの。そんなことどうだっていい。わたしは『幸せ』にならなきゃいけない。みっともなく藻掻いて足掻いてそして言ってやる。あの子の前で笑って言うの。『わたしは今幸せです』って」
「…………」
「でもそうね、半分は清廉潔白で潔癖症の鬼の血が流れてる。だから……」
雪姫は不敵な笑みを深めた。
「正々堂々あなたを利用して使い捨ててあげる」
沈黙。
静寂。
笑みを崩さない雪姫と表情が抜け落ちたような楓の視線が絡み合う。
「……………………ふっ」
「え?」
「ふ、ふふっ、ふはははははははははははははははっ!はは、ははははははっ!!」
急に腹を抱えて爆笑しだした楓はのたうち回り仕舞いには過呼吸になった。
そんな楓を茫然と見ていた雪姫だったが楓が過呼吸になった辺りからもの凄く冷たい視線を送っていた。塵を見る目だ。
過呼吸気味の楓は肩を震わせながらゆっくりと起き上がり学帽を被り直して嗤った。
「嗚呼、いい、実に素晴らしいヨ、君は!!何て醜く浅ましく傲慢で強欲なことだろうかっ!自らの慾に忠実でその為ならば何ものも利用すると言いながらもきっと君はそうはなれないっ!甘さを捨てきれない君はこの先いったいどんな惨めさを味わうのだろうネ!!考えただけで最高に身震いしてしまうヨ!!」
楓は雪姫の頬を両手に挟んで瞳を覗きこむ。
学帽のつばがギリギリで雪姫の額に当たるか当たらないかの距離。けれど二人には甘ったるい雰囲気など欠片も存在せず、あるのは嫌悪に似た殺気と、歓喜に似た狂気だけ。
「蟲のように地を這いずって犬のように苦汁を舐めて絶望しきった君はその先に何を見て、何を願うことになるんだろうねぇ……。怒り?悲しみ?憎しみ?恋慕?生きることを選ぶのカナ?死を選ぶのカナ?」
「…………」
「やっぱり君は魅力的だヨ。その美しい顔が、心がこの先どんな風に染まるのか吾輩は見さしてもらうことにするヨ。いいだろう、これは君と吾輩の正当な取引だ。吾輩は契約を違えないことを誓おう」
「……取引は成立したってことでいいの?」
「勿論」
「……あなたって、本当に気持ちが悪い」
「褒め言葉さ」
雪姫は苦虫を噛み潰したような顔をした。
◆
「……ん?」
「どうかしたのクラウディ?」
開き直って情報収集をしていたクラウディとライは取り敢えずこの部屋にある文献を片っ端から読み漁っていた。
どの国よりも難関と名高い和の国の書物を解読することは異国の者なら多少の時間を要するのだが、世界各国の言葉やマナーを幼少期から叩きこまれてきた二人にとってはむしろ楽な分類に入るものだった。
黙々と読み、記憶に情報を刻んでいく中で不意にクラウディが声を上げライはそれに反応した。耳に入るか入らないかの小さな声だったがライは耳聡く反応する。
クラウディが本を読んでいる時に声を出すのは随分と珍しいことだった。
口元に手を遣り考えるクラウディの手元の本をライは覗きこんだ。
「〝一族の特徴〟」
声に出して呼んだライにクラウディは頷いてその本を見やすいようにと床に広げた。
書いてあったのは一族による特徴、性格などを簡単にまとめているものだった。
――――赤の鬼の一族〝朱雀門〟が統治する一族。特徴は赤毛を持って生まれること。その髪の色がいかに〝紅〟に近いかでその者の血の濃さが判る。どの一族をも上回るその知識の深さと貪欲なまでの探求心は他の一族から一目置かれるとともに警戒される一因にもなっている。その為赤の一族はどの一族の肩を持つことはなく常に中立という立場を守ってきた。性格は破綻している者と生真面目すぎる者の差が顕著なことも有名である。余談だが朱雀門家の者は皆何処か危うい雰囲気を持つ。稀にだがそれに魅了される者がいる。
「……」
「……」
二人は無言で次を捲る。
――――銀の鬼の一族〝白銀〟が治定する一族。特徴は透き通るような白い肌を持って生まれること。肌の白さで何か優劣が決まることは無いが白銀家の者は群を抜いて美しい肌と美貌を兼ね備えている。その治癒力は急所を突かれでもしない限りは全て一瞬で治り滅多なことで死ぬことはない。そのため最も長寿な一族としても有名である。しかし病源体に対する抗体が著しく低い。その為か隋を抜いて潔癖症の者が多く、閉鎖的な村でもある。性格も清廉潔白を求め白銀家はまさにその筆頭である。だが白銀家は同じ一族の中でも抜きん出て治癒力が高い代わりにそれに比例するかの如く病に対する抵抗が低いため仕方がないことと言えるだろう。
「雪姫ちゃんも病気なんかに弱いのかな?」
「……判らないが、何年も檻の中にいて何ともないのだから鬼の普通とは違うんじゃないのか?」
「あー、確かにそうかもね」
二人は次の項目に目を通す。
――――青の鬼の一族〝蒼生〟が先導する一族。特徴は蒼い瞳を持って生まれること。この一族は他の鬼たちとは少し異なる一族である。代々の頭首が決まっておらず、常に当主がこの一族を支えているのである。そしてこの一族の更なる特徴は歴代当主が皆〝女〟であることだろう。何故なら普通男の方が高く受け継ぐはずの血をこの一族は女が濃く受け継ぐのである。先視の能力を持つ彼女たちは当主を〝姫様〟と呼び〝巫女〟を傍に置く。しかしその姫様が子を産んでもその子よりも強い力を持った者が生まれればその者が次代の〝蒼生〟を襲名するのだ。極稀に男が高い能力を持って生まれることがあるがその者は必ず短命らしく、その為当主となった例はないようだ。
「女の子が統べるって随分と珍しい一族だね」
「男が躍起になって一騒動でも起こしそうだが先視を持つなら無理な話だな」
「あはっ、そうだね」
鬼が争いを嫌う生き物ということもあるのだがそのことを知らない二人は適当に持論を並べてまた捲る。
次で最後のはずだ。
――――黒の鬼の一族〝黒葛〟が支配する一族。特徴は爪がまるで何かを塗ったかのように黒いこと。一言で言うなら弱肉強食の一族であろう。本来鬼は争いを好まず平和を理とするのだがこの一族は常に好戦的である。強い者には全てを。弱い者には死をという極端な危険思考を持つこの一族は特に青の一族と折り合いが悪い。犬猿の仲と言っても過言ではない。この一族は強さが全ての為現頭首の首を取り下剋上をしようとする者たちも少なくはない。しかしそれらを全て力で抑え込み未だ頂点に君臨する黒葛の一族。その事実は彼らが圧倒的な力を持つことを物語っている。そして彼らの人間嫌いはまさに異常と言ってもいいほどである。恐らくだが自分たちよりも格下の者がこの国にいることが彼らに取って何より唾棄すべき行為なのだろう。
「……」
「……まるでフェンリルみたいだね」
苦笑いするライにクラウディは何も答えなかった。
本に目を通して数行開けたところに続きのようなものが書いてあることに気付きそこ読む。ライもすぐ目を遣った。
――――しかし、鬼にも例外というものがあり一番の例外は黒の鬼の頭首の息子が――――。
「はい、ここまでだヨ」
二人の後ろから聞こえた存外低いその声に反応した二人は咄嗟にその声の主楓から飛び退いて距離を取った。
気配が全くなかったことと声を掛けられるまで気づかなかった己の不甲斐なさを腹立たしく思いながら警戒心を深めた二人は楓を見る。
そんな二人の敵意を平然と笑って受ける楓は本を拾って袂へと仕舞う。
「残念だけどここからは流石の君たちでも別料金さ。それより、もう吾輩とあのお嬢さんの話は終わったから出て来ても構わないヨ」
クツクツと笑いながら楓は二人がどんなに押しても叩いても開かなかった戸を簡単に開けて顎をしゃくって出ろと促した。
それがまた実に腹立たしいのだが取り敢えず大人しくその戸を潜るライとクラウディ。
潜ると相変わらずの本の海とそこにいた白い少女。
瞳を零れそうなほど見開いてつんのめりながら二人の許まで駆けてくる。
「ライ、クラウディ!」
「ごめんね、大丈夫だった?」
「……すまん」
雪姫は小さく笑って自分は大丈夫だと首を振った。
そんな雪姫に安心した二人の後ろから楓が出てきて肩を竦めた。
「吾輩、随分信用ないんだねぇ……。悲しいヨ」
「……自業自得」
睨みつけて言う雪姫にこの短時間で随分と嫌ったものだと内心二人は驚いた。そして一体何をしたんだと考えたが雪姫が何も言わないので聞かないことにした。
「話は纏まったのか?」
クラウディが尋ねると雪姫は頷いた。
「ゆかりって言うんだって」
「ユカリ?」
「あの子の名前。縁って書いてゆかりって読むんだって」
泣きそうな顔で笑いながら雪姫は言った。
漸く雪姫はずっと求めていた少女の名を知ることが出来たらしい。
嬉しそうで複雑そうな顔で笑う雪姫はきっと後悔や罪悪感で揺れているのだろ。本当なら本人から直接聞きたかった、と。
だが、これで一つだけだが雪姫の枷が外れただろうとライは微笑んだ。
そして同時に益々楓の警戒心を深めたがそれはクラウディも同じだろう。
きっと楓は雪姫が尋ねてすぐにその名を口にしたのだろう。もしかしたら口から出まかせで言ったのかもしれない。しかしそれは無いとこの短い中で確信できるくらいに彼の優秀さはもう理解出来ている。
あまりにも優秀すぎるということも。
楓はニヤニヤと笑いながらこちらを見ている。
読めない奴だと内心で二人は吐き捨てた。
「さて、吾輩が依頼されたのは彼女の御両親、白銀白野と玉縁百々の死の真相なんだけど、これは存外難しくってネ。何せ随分と昔のことだ。調べるのは時間が掛かるし吾輩と彼女はとある誓約をしたから君たちには少し吾輩のことを手伝ってもらうヨ」
誓約、という言葉に反応した二人に雪姫が大部分を省略して二人に説明した。
説明するにつれてみるみるうちに二人の顔つきが険しくなっていくので雪姫はどんどん尻すぼみになっていった。
「……俺たちが言えることじゃないが大丈夫なんだろうな、それ」
「そうだよ無理難題ふっかけられたらどうするのさ」
「随分と嫌われたものだねぇ……」
さして悲観そうにすることもなく楓は呟いた。
「何、簡単なことさ。それに君たちにとって今最も近道な仕事だヨ」
疑わしげに見るライとクラウディに楓は更に笑みを深める。
すると玄関が開く音がした。
何食わぬ顔で突如入って来たその人物に雪姫は目を瞬かせた。
少し変わった巫女服の神秘的な蒼い目を持つ女性。
彼女も雪姫をちらりと見て楓を見る。
「……相も変わらず下衆な性格をしていらっしゃる」
「その下衆な性格に今回は助けられるのだから仕方がないねぇ」
「ええ、腹立たしいことこの上ないですよ」
凛とした声のその女性は淡々と楓に毒を吐く。
呆気に取られる雪姫と彼女の目が再び合った。
「彼女は玉虫。青の一族に連なる者だヨ。君たちには彼女たち青の鬼の一族を銀の鬼の一族の許まで連れて行ってあげてほしいのさ」
自分とは反対の黄昏時のその空に雪姫は静かに魅入っていた。
カチリと何処かで止まった時計が進み出す音が聞こえた気がした。
ここまでお読みいただきありがとうございました。