零
「椿の花が嫌いなの?」
尋ねるというよりはどこか確信をおびている物言いだと男はぼんやり思った。
「好きだよ」
そう言って男は振り返らず町の片隅にぽつんと咲いた椿の花に手を添えた。
まだ日も出ていない早朝で人の姿は見えない。鳥の鳴き声も虫の音も聞こえない今はまるで世界に一人取り残されてしまったようだと思い、少しだけ愉快な気持ちになる。
いや、一人ではないか……。
「嘘」
よく通る澄んだ声。
再び確信をおびているそれに男は初めてその声の主に興味を持った。
「何故?」
「だってあなた、前に椿の花を握りつぶしていたもの」
……成る程、確かに道理は合う。
その姿を見られていたなら確かに男の言葉を疑うのも当然だろう。
実際男は一度だけ椿の花を握りつぶしたことがある。ただ、人に見られていたとは思わなかった。
さて、どうしたものかと男は面倒臭げに着物の袂をあさり、そういえば煙管は部屋に置いて来たのだと思いだす。
「その日はたまたま虫の居所が……」
「それだけじゃない」
悪かっただけと言いかけた男に被せるように声は言った。
「あなたの椿の花を見る眼は好きの感情じゃない」
そこで男はようやく後ろを振り返り、声の主を見る。
淡い桃色の振袖を着た少女がそこにいた。
まだあどけなさの残るその顔にどこか色香を感じる美しい少女だった。
「どうして解かる?」
知らず、男の目が楽しそうに細められる。
まるで少女の一挙一動すべてを見逃さんとばかりの男の視線を少しも逸らさず少女はその桜色の唇をゆっくり開く。
「さあ?」
「……はぁ?」
男は先程とは打って変わりきょとんと間抜けな顔になる。
そんな男の目をやはり少しも逸らさず少女はさらに淡々と続ける。
「解かるわけないじゃない。私たち初対面なのよ?親しい仲でも解からないことだらけなのにそんな私があなたのこと解かるわけないじゃない」
正論であるが何となしに解せない気持ちに苛まれる。
「解かる、というより気がするっていうだけ」
「気がする?」
「そう、気がするの。あなたのその眼。私見たことあるの」
男は少し考えて再び問う。
「どこで?」
「少し前。帰り道で」
少女の黒髪が揺れる。それを男はじっと見つめる。
「私の友達が異国に学びに行くって言ったとき、それを聞いていた知らない子があなたと同じような眼をしてた」
くつりと男の喉が鳴る。
「羨ましい、って眼だった」
男は口元に手を当て、肩を揺らして笑いだした。
可笑しくて可笑しくてたまらないっと言ったその姿に今度は少女がきょとんとした顔をした。
男はそれを見てさらに笑いだし最初は戸惑っていた少女だが次第に冷静になったのかジト目で男を見やる。
「どうして笑うの」
「くっ……ごめんごめん、睨まないで……くくっ」
「……」
ああ、笑った笑ったと男は少女を見て微笑む。それを少女は不満気に見つめた。
「いや、君はなかなか鋭い眼をお持ちのようだね」
「……馬鹿にしてる?」
「失敬な。褒めているんだよ」
「笑ったくせに」
少女は不貞腐れてしまったのかふいっと横を向いてしまった。
それを見て男は苦笑しながらも大人びているかと思ったが意外に年相応の顔を見せるのだなと秘かに思う。
「君の言うことは大体は合っているけれど、羨ましいと言うのは少し違うな」
「そうなの?」
少女と男の眼が再び交わる。
「じゃあ、何?」
少女の声と同じくらいの澄んだ眼を見つめ、男は笑う。
先程までとは違う熱が自分の中にあることに知らぬふりをして微笑う。
「私はね、椿の花が――――――」