第二十六章:輪の象徴
途中、飛行を終えて基地に戻ってきたらしいパイロットや私服に着替えて帰宅する顔見知りのパイロットと何度か出くわし、その都度挨拶を交わした。時刻は午後七時を迎えようとしていたが、すぐに帰宅する者もいれば仲間とたむろして、しばらく施設内に止どまっている連中もいる。モーゼズは後者のような気がしたので、何ヵ所か覗いてみることにした。
あいつが行きそうな場所は……
まずはトレーニングルームを訪れた。あの筋肉はこういう場所で鍛えたに違いない――という単純発想で。中にはやはり筋肉隆々の厳つい男が集まっていた。仰向けで鉄アレイを持ち上げようとしている者、ショルダープレスやチェストプレスで上半身を鍛えている者、ボクシンググローブを填めてサンドバッグを叩く者、鏡に自分の肉体を写して眺めている者。そんなむさくるしい室内を隅々まで見渡したが、モーゼズの姿は見付からなかった。仕方なく他を探すことにする。
続いて休憩所へも行ってみたがそこにもおらず、時間的に食堂あたりが怪しいなと睨み、そちらにも足を運んだ。
午後7時を回った食堂には、やはりたむろしている連中が大勢いた。天井に設置された煙を吸い上げる装置がフル稼働している。それだけ室内はタバコをふかす連中で溢れかえっていた。オレはそんなヤニ臭い中へ入りたくはなかったが、我慢して堪えながら足を踏み入れた。さほど広くないと思っていたが、人が密集していると全体を見渡すことができず、探すのが困難そうだった。歩いて、人の影になった人も探さねばならない。
が、案外すぐに見付かった。入口からそう遠くないテーブルにモーゼズの姿があったのだ。仲間と一緒にタバコをふかしながら寛いでいる。さっそくオレはその側へと歩み寄った。
「モーゼズ」
その声に反応してモーゼズはこちらに顔を向けた。だが、妙によそよそしい素振りでオレの顔を見詰めていた。
「何だ、デートの誘いか?」
向かいの席の日焼けした白人男性が、英語でそうおちょくった。オレは構わずモーゼズに日本語で話しかける。
「聞きたいことがある。後で寮の部屋に来てくれ」
それに対してモーゼズは何も答えず、少しだけ口角を上げた。
「なるべく早く来てくれ」
オレは一応そう言って念を押し、踵を返して出口に向かった。
「Let’s go together!」
すぐに追いかけてきたモーゼズが、オレの肩に手を回した。
「ガキをぶっ壊すなよ〜!」
背後から聞くに耐えない下品な英語の野次を飛ばされ、オレは思わず赤面しそうになった。そこにいる客の誰もが英語を理解することを呪う。その憤りを宿した双眸で、肩に置かれた奴のその腕を睨み
「Ouch!」
握りつぶそうとした。大袈裟に声をあげて痛がるモーゼズに
本当は痛くないくせに――と更に力を加える。
「……たっ!」
すると逆にさっとオレの手から抜けたモーゼズの手に、倍以上はあるかというほどの怪力で握り返された。本気で痛がるオレにモーゼズは、したり顔で手を緩める。
「こ……の化け物……っ!」
オレはさっと手を引き抜いて、労るように反対の手で包み込む。憎しみを込めた眼でモーゼズを睨んだ。
「くく……今夜はゆっくり楽しもうぜ。二人だけの親密な時間をな」
「……っっ」
流暢な日本語で俗悪な台詞をしゃべるモーゼズに、オレは顔をしかめた。
さらに奴の舌が動く。
「安心しろ。オレは“どちら”もイケる」
「!?」
この変態――!
声に出さずに毒づくオレをモーゼズはペットのように扱い、頭を抱き寄せる。
――何かしようとしたらお前の××を蹴ってやるからな!
オレはまるで処女みたいに警戒していた。
火星内の交通規制は厳しく、乗り物の使用法も極端に制限されている。そのため道を走っているのはほとんどが公共機関の乗り物だ。その中でオレ達は、基地から寮を経由する電動車両に乗って寮に帰途した。
道中のモーゼズはどこにでもいそうな社会人になっていた。羽目をはずして騒ぎ立てることもなく、毅然とした無口な大人そのものだった。
黙っていれば女性にもてそうな容姿をしている。長身で球技のアスリートさながらの体型は、白人女性に好まれそうだし、欧州系で端正な顔立ちは、日本人の女性にもうけそうな感じだ。
黙っていれば……の話だが。
そんなことを考えながら帰路を行く。
寮に帰り着くと地下に降り、食堂で先に夕飯を済ませることにした。モーゼズは食後の一服はかかさなかったので、待ってる間オレは椅子に座ってメロンソーダを飲んでいた。面白いテレビ番組がやっていないと分かるとカウンターへ行き、暇潰しにスポーツ新聞などと一緒に売られている雑誌を購入した。マンガやその他もろもろの情報が載っているティーン雑誌だ。めったにオレはこういうものを買わないが、興味がないわけではない。マンガも結構好きだし、……グラビアなんかを見ることもある。年がら年中零号士や、それに関することばかりを考えているわけではないのだ。
他人がどう思っているのかは知らないが、ごくごく普通の少年と変わらないはずだ。普通の十五歳の少年が持っているような感覚を持っている。
「……」
ふとページをめくる手が止まった。表紙を広げてすぐのページには女の子の写真が掲載されていた。新人なのか、初めて見る顔だった。
空野 奏多〈そらの かなた〉
16歳
B 90
W 57
H 85
どう見たってサイズよりぽっちゃりしていたが――
かわいかった。
白地に青襟、青いスカートのセーラー服姿で、はじけるような笑顔を振りまきながら、何故かこっちに向けてゴムホースで水をまいている。
ページをめくると次はフルートを吹く姿だった。一緒にコメントも載っている。
『奏ってぃーの奏で〜るフルートは壊れちゃったフルート。
でも、はるか遠い空をこえて・・・届くかな?』
ページをめくった。
『空色の私の気持ち・・・』
って――?
唖然、そのページでは青いビキニ姿に変身していた。悩ましげな表情で空を見上げ、濡れた髪で燦々と降り注ぐ陽光を浴びている。
さらにはその下に別のショットが
『聞こえない?
こんなに胸は高鳴ってるのに・・・』
斜め後ろから舐めるようにうつ伏せの身体を写したものだった。顔だけカメラ目線になっている。それを角度を変えて正面から撮ったショットが脇にあった。体重に豊かな胸が押し潰されている。そこにあるコメントに少し焦った。
『苦しいよ・・・』
――女って怖い。この変貌振りをたったの三枚ショットで成し遂げてしまうとは……
恐れを成しつつも次のページへ進もうと手を伸ばした――その時。
「Nice view〜」(いい眺めだなぁ)
「わっ!?……」
背中越しに声がして振り向くと、後ろからモーゼズが雑誌を覗き見していた。慌ててオレは雑誌を閉じる。
「なっ……何だよ。びっくりしたぁ」
すっかり罰が悪くなったオレは奴を睨んで威嚇した。
モーゼズはいつもの
「……くくく」という嫌味な忍び笑いを漏らす。
「If you expect it,I introduce a good girl?」
(良かったら、オレがイイのを紹介するぜ?)とからかってきたので、オレは
「Shut up!」(うるさい!)と突き返す。
それから終始にやついていたモーゼズに嫌悪しながらも、自室まで同行した。
昇りのエレベーターに乗り、観音開きの鉄扉が閉まる。途端、仕切られた空間がオレに警戒網を張らせた。他人の目がない時のモーゼズ(こいつ)にはそうする必要があった。オレは絶対に背後を取らせまいとして、立ち位置に注意する。
作動音を鳴らしてエレベーターが上昇を始めた。
「そんなにオレが怖いか?」
ふとモーゼズが話しかけてきた。オレは短く
「別に」とだけ返す。するとモーゼズは頭を壁にもたげて面白そうに笑った。オレはむかつきながら黙り込み、やがて自室の階に到着したエレベーターから降りた。
「Hum〜〜♪」
陽気に鼻歌を歌い出すモーゼズが無性に腹立たしかった。自室のロックを解除して部屋に入る時も、まだそれは続いていた。
「ああ、そうそう。お前のシーツをクリーニングに出しといたからな」
モーゼズがそう言い、オレは二段ベッドの下段に目をやった。掛け布団をめくると新品のシーツがぴんと張った状態でマットにかけてあった。
「気が利くだろ? お前が嫌がると思って機転を利かせたんだ」
したり顔でモーゼズは言った。だがオレは喜べなかった。ここで喜ぶのもどうかと思う。あんな物を見せられた後で……
「心配するな。もうあんなことはしない。
今度はちゃんとお前も仲間に入れてやるからな」
「……!?」
オレが鋭く睨んでやるとモーゼズは肩をすくめた。
「ここに女を連れて来るな! 寮の禁止事項に書いてあっただろ!?」
今にも飛び掛かりそうなほど憤慨するオレから、怯えるようにモーゼズは後退した。
「そんなに怒らないでくれハニー、オレが悪かった。もうしないと誓うよ、絶対に……」
「絶対だな?」
しらじらしいとは思いながらも、オレは念を押した。
モーゼズは頷く。
「ああ、もう絶対――“浮気”はしない」
「なっ……!」
オレはまた憤慨した。
「ふざけるな! こっちが真面目に話してるのに……今度規則を破ったら出て行ってもらうからな」
「Oh Got……I am an acquittal.However,am I judged? Is it hung on the cross――!?」
(ああ、そんなぁ……オレは冤罪だ。それなのに裁かれるというのか? 十字架に掛けられてしまうというのかぁぁ――っっ!?)と大袈裟に嘆く芝居をするモーゼズをオレは冷ややかな眼差しで一瞥した。
「そういう所に行ってやればいいだろ……」
「What is『そういう所』? Where is 『そういう所』?」
モーゼズはまるで汚れのない純粋無垢な子犬のように、目を丸めてきょとんとした。だがオレはそんな表情には騙されまいとして
「自分で探せ」と言下に言ってのけた。
するとモーゼズはハの字に眉を下げて困惑し、掌を天井に向けて頭を降った。
「Um……But it cost money」
(う〜ん、でも、金が……)
知るかよ!
オレは怒るのがだんだんバカバカしくなってきた。
「!?」
それからはっとして目を見開いた。聞きたかったのはそんなことではなかった。つい無駄な会話に時間を費やしてしまった。
「それより、聞きたいことがある」
オレはしらけた表情から真剣な表情に変えて、そう切り出した。
「何だ、言ってみろ」
モーゼズは弟の悩み相談か何かをおおらかに受け止める兄貴のような感じで言った。そして床に放ってあったクッションの上にどさっと腰を下ろし、その傍らに別のクッションを置いてオレも座った。厚みの足りないそのクッションは、体重に押されてどんどん沈んでいった。機能性を考慮しないで買ってしまった低反発でムートン生地の物だった。平らなそれは小さすぎて、モーゼズが座るとその体躯に隠れて見えなくなっていた。
緊張に満ちた内容の話を持ち掛けるに相応しい体勢とはほど遠い気がしたが、このぐらい砕けていたほうが腹を割って話せるかもしれない。
オレはその質問を始めた。
「昨日言ってたことは本当か? お前やあのアクロバットチームのメンバーがNO ID’sだというのは」
「ああ、そのことか……お前の好きなように解釈しろ」
まるで相手にすらしていないような言い方だった。その双眸は見えない何かを真っ直ぐに見据えている。
「どういう意味だ? それじゃ本当なのか冗談なのか分からない……!」
「ふふ……」
その笑いは嘲笑などではなく、聖戦の前の武者震いを思わせた。
「そんなことを言って、オレが密告するとは考えなかったのか?」
オレとモーゼズは知り合って一月も経過しておらず、信頼関係も絆も何も築いていない。彼が崇拝している男の息子がオレだというだけのことだ。たったそれだけの薄っぺらい関係の人間に、あんな話をできるだろうか。
これで明らかになる……
モーゼズの口が動き、その答えが紡がれた。
「言っても無駄だ。オレ達は皆――IDを“持っている”んだからなぁ」
そう言ってモーゼズは左手首に填めた腕輪をこちらに晒した。




