◆番外編◆ 【展望空間】〜恋人達の時間〜
これは霧島汐名と相楽臣の物語です……
★完結してる話なので、短編と思ってどうぞご覧くださいませ〜(*^_^*)
※注意!→今回は少し大人な場面があるので、先にお知らせしておきます。
私の名前は霧島汐名。職業は火星コロニー防衛パイロット養成施設の管制官。その給料の中から毎月、実家に三万円の仕送りをしている。残りは全部自分のため。化粧品代、アパートの家賃、生活費に消えていく。
趣味はとくにないのにキャッシュカードの残高はどんどん減っていく。
そして持て余すはずの休日は、何もしていなくても急速に流れていく。
置いてけぼりにされてるみたい。
ああ、せっかくの休日なのに何もできないうちに終わっちゃった。
いつもそんな感じだ。
職場では異性にも興味がないお堅い女だと言われている。合コンに誘われても行かないし、職場恋愛も経験したことがない。
自分自身にも興味がないのかもしれない。
だけど、隙は絶対見せたくない。
寂しそうに見られたくない。
だから、そういう表情なんて絶対に他人には見せないように
女を捨てたなんて思われないように
興味がない自分の身だしなみを神経質なぐらい完璧に整えている。
髪はカラーリングしていない自然な黒髪で、前下がりのストレートボブ。メイクは基本のきちんと系。制服もいっさい着崩さない。
その他人を寄せ付けない頑丈なテリトリーの中に本当の私がいる。
置いてけぼりにされた私が……
「ミッション終了。基地に戻って」
システム管理室のモニターをチェックしながら、私は担当パイロットにそう告げた。
仕事を終え、ヘッドセットを外す。その時間、そこにナビゲーターの数は数名しかいなくなっていた。
「お疲れ〜」
そんな声があちこちで交わされていた。私も誰となくそこにいる社員達に向けて挨拶をして、退席する。通路を抜けロッカールームに入ると、すでに着替え終えた女子社員がいた。顔全体が見えるほど大振りな四角いハンドミラーで、顔や身だしなみをチェックしている。ブランドもののバッグを肩に掛け、流行の服装で身を固め、胸元や指にはダイヤなどの宝石や金属を身に着けている。表情や仕草がやけに女らしくて、そこに男性の影をちらつかせていた。私はさっさと着替えを済ませると、適当に彼女と挨拶を交わしてそこから退室した。
「汐名っ!?」
システム管理室を抜ける個人認証センサーを通過すると、ちょうど反対方向から従兄弟で幼馴染の相楽臣が歩いてきた。青いパイロットスーツの開いたファスナーから真っ白なTシャツを除かせている。水色の髪が汗に濡れていて、飛行後だということが窺える。
「仕事終わったんだ? お疲れっ」
人懐こい笑顔で彼は言った。
「お疲れさま」
私は笑顔ととれないほど小さく微笑して彼と擦れ違う。彼はタイムカードを押しに、システム管理室の奥に消えた。私は無関心を装い、さっそうとした足取りで進む。私服に着替えても家に着くまでは隙を見せない。背筋はぴんと伸ばしたままだ。そして角に差し掛かかる。
「汐名!」
えっ……?
急なその呼び止めに、私の動きは停止した。背中を向けたままの私に、彼の接近を知らせる気配が伝わってくる。
「オレも今終わったとこなんだ」
「そう……」
何でもないように私は相槌した。
「これから予定ある? なかったら一緒に、どっか寄り道してかない?」
「……」
私はどういう意味? と彼を見て、表情だけで問い掛けた。
「クスッ……じゃあ待ってて、速攻シャワー浴びてくるから」
「?」
「そこの自販機の前で待ってて!」
彼は私の返事も聞かずに勝手に話を進め、シャワールームへと駆け出した。
「何それ」
怪しすぎる……
私はちらっと横目で、その指定されたジュースの自販機を見て困惑した。私服でこんな所に突っ立ていたら不自然で仕方ない。立ち飲みしている姿も見られたくなかったので、不自然だが傍にある窓から景色を眺めることにした。時々、腕時計を見て時間を確認する。腕組みする。携帯端末を操作するふり。コンパクトミラーを見ながら前髪をチェック……
何をやっても時間をかせげなかった。
「早くぅ〜……」
ついにモノローグを口にしてしまう。
それが嫌に甘えた声だったので、自己嫌悪した。私もあの女子社員と同じことをしてるみたいだと……
「ごめんごめん〜」
やっと彼が駆け付けた。私服に着替え、デニムにTシャツとスタジャン姿だった。
「この時間、シャワールーム混んでてさぁ、ごめんね」
「うん、いいけど……」
何だか私はほっとして口許を緩ませた。
「どこ行こっか?」
私は、さぁ? と首を傾げた。
「じゃあ……あそこにしよう」
そう言って彼が私の背中に触れたので、私はびっくりして体を引いてしまった。彼の動きが止まる。それから不思議そうに彼は私の顔を見た。
「……」
忘れていた。彼は昔からボディタッチが多かったのだ。親しくなると誰にでもそうしていた。それに深い意味はないのだ。
「ん〜ん、何でもない」
私は何も聞かれる前に否定した。
「……」
彼が無言で歩き出す。それからずっと沈黙で、彼はまったく触れてこなくなった。
長い通路を抜け、やっと火星コロニー防衛パイロット養成施設から出ると、屋外の景色が開けた。四角いビルが林立するビル街を数十メートル進むと、その奥にマジックミラーの円筒型ビルが見える。そこの最上階は、眺めのいい景色が展望できるスポットとして有名だった。彼はそのビルへと進んだ。そして彼と私はそのビルの入口にある回転ドアを抜け、中へと進む。するとエンジ色のベストとタイトスカートに、黒い帽子を被り白手袋を嵌めた女性店員が、上品な微笑と慇懃なお辞儀で向かえてくれた。訪れる客層も上品な男女ばかりだった。
「汐名、ここ来たことある?」
彼は落ち着かない素振りで聞いてきた。私は首を横に振る。
「んーん、始めて来たわ」
「そうなんだ……」
苦笑混じりで彼は声を吐き出した。
「最上階行ってみない?」
と彼は一瞬、私に伸ばそうとした手をそっと引っ込めた。
「……」
私は彼にそうさせてしまったことに罪悪感を覚えた。
それから二人で、入口を入ってすぐのエレベーターに乗った。室内は養成施設内にあるエレベーターのようなガラス張りでもなく、四面を高級感のあるワインレッドの壁に囲まれた奥行きのある広々とした空間だった。ところがそこに人が押し寄せるとあっという間に狭苦しい空気に包まれる。そして最上階に着くまでに室内は、上階へ向かう乗客達で缶詰状態になっていた。
到着してエレベーターから降りると、その奥にガラス張りの展望空間があった。そこに何台もの望遠鏡が設置されていて、彼が少しはしゃいでそれに駆け寄り、後から私も付いて行った。彼が電子マネーのカードをカードリーダーに通してそれを覗く。
「見て、凄いよ!」
彼が途中で顔を上げ、私と交替した。
「綺麗……」
素直にそう言葉が出た。地上から眺めていた景色と違い、全てがミニチュアみたいに見えた。子供の頃、プレゼントの箱を開けた時みたいに胸が高鳴った。
「代わって代わって」
「あ、ごめんなさい」
私はつい占領していたので退きながら横を見ると、至近距離に彼の顔があった。
「……!」
今度はそっちのことに胸が高鳴ってしまった。
時間とともに望遠鏡が見えなくなると、彼は手摺に囲まれたドームのガラス越しに景色を見下ろし始めた。私が傍へ行くと彼はぼんやりと呟いた。
「夜景の方が綺麗なんだろうけどね……」
彼は振り向いて少し名残惜しそうに笑った。
「帰ろっか?」
「え?」
「これからはカップルが来る時間だから」
「……」
時計に目をやると夜の八時をとうに過ぎていた。ガラス張りのドームの中は灯が煌々として眩しいぐらいなのに、その向こうには広大な闇が広がっている。その闇に何故気付かなかったのだろう。私はすっかり別のことに気を取られていたようだ。
翌日も昨日のことが頭から離れなかった。誘ってくれた彼のことを自分から遠ざけてしまった、そんな気がしてならなかった。あの瞬間から彼は私と距離を置くようになってしまった。もう誘ってくれないかもしれない。
昨日のことで私は自分の気持ちを再確認したのに、あんなにも簡単に彼は離れてしまった。
十年前の恋は、私の独り善がりな妄想だったのかもしれない。
もう、忘れたほうがいいのかもしれない。
私はもう十五歳の少女ではない。
彼はあれから三歳しか年を取っていないのに
私は十歳も年を取ってしまった。
諦めた方がいいのかもしれない。
私はぐっと涙を堪えた。そして制服に着替え、おいてけぼりの自分をテリトリーの中に閉じ込めた。
私にとって仕事に打ち込む時間だけが、寂しさも哀しみも全部忘れさせてくれる時間だった。制服に着替えて、ヘッドセットを頭にかけ、モニターを見ながらパイロットに指示を出すことは、もう一人の強い私になれる時間だ。
私はそうしないと
本当の私は……
臆病でとても寂しがり屋だから
壊れてしまう。
午前八時……ジャストにタイムカードを押した。気持ちを切り換える。
私は宇宙航空管制官の霧島汐名だ。
服装の乱れはなし。
髪の乱れはなし。
表情に陰りはなし。
これで完璧だ。
私は頑丈なテリトリーを張り、隙のない女の自分を始動させた。
我ながら鮮やかな切り換え術だと思った。これだけしたたかなら、きっと独りでも生きて行ける。きっと独りでも大丈夫だ。
きっと……
午後六時三十五分……ジャストにタイムカードを押した。勤務終了。今日は何故か鼻歌を口ずさんでいた。自分の出勤カードを棚にしまい、休憩室に向かう。なんだかコーヒーを飲んで寛ぎたくなった。そのために先にタイムカードを押してきた。正規の勤務時間を回ってから、制服で休憩室に入ることは禁止なのだ。そうやって不正に残業代を稼ぐのを防ぐためだった。
ここに皆、自分専用のコップを置いていた。私は棚からマイカップを取り出してコーヒーを注いだ。とても良い薫りがした。私はそれをくんくんと嗅いで堪能する。何故だろう。愉快で仕方がなかった。ランナーズハイ? 私、壊れちゃったの? 寂しがり屋の汐名が、隙のない女の汐名を通り越して、楽天家の汐名にでもなっちゃったの?
「ふふ……」
カフェインがアルコールみたいに作用した。二杯目、三杯目、飲むほど解放感が生まれた。意味もなくマイカップに描かれたネコのイラストを眺めてみる。そのネコは無表情でこっちを向いていた。 なんだか寂しそうだった。背景には簡素な雲しかなくて、独りぼっちで……
自分を見ているみたいだった。
「うっ……」
私は嗚咽を漏らした。その途端、止まらなくなった。
涙が滝のように込み上げて来て
止め方がわからなくなった。
私が座っていた白いテーブルは大洪水だ。ハンカチでは間に合わない。顔なんてメイクが崩れて、パンダおばけだ。そんな所を見たら誰もお嫁にもらってくれなくなる。
私は少女に戻ったみたいに、泣きじゃくった。その時幸いにも誰も部屋には来なかった。私はしゃくりあげながらコンパクトミラーで自分の顔を見る。
と、ガチャッという音をたててドアが開いた。
「!?」
私は焦って、見られたくないのにそちらに顔を向けてしまった。
「汐名」
「臣……?」
この姿を一番見られたくない人に見られてしまった。彼は驚きとかではなく、戒めるような表情で私の顔を見詰めた。怒られるのかと思った。そして……
彼は私の傍に歩み寄り、抱き締めた。
「何で泣いてるの?」
優しくそう問い掛ける。私は声が出せなかった。声を出したら、途端にまた泣き出してしまうから。堪えて、言いたくないと頭を左右に振った。
その頭を彼は優しく撫でてくれた。
「泣かないで。オレで良ければ、相談でも気晴らしでも、付き合うからさ」
彼はそっと私の体を放し、顔を見た。
「さぁ、メイク直して。出かけるよ?」
「臣……」
また涙が込み上げてきた。
「どうした〜」
彼はまた泣き出した私の頭の後ろに手を回して、愛犬と戯れる飼い主みたいに自分の頭を擦り寄せて言った。
「今日は夜景を見に行こうか?」
またあのビルへとやって来た。今はその中にあるカフェにいた。しっとりとした有線のBGMがほどよい音量で流れ、耳に心地よい。そこに並ぶ数十席の木製テーブルは、恋人風の男女が多く座り、ほぼ満席だった。その一席に私はいた。
これは何なんだろう? デート?
二人がけのテーブル。向かい側には彼がいて、今アイスカフェオレを口にした。そのコップを握る指が長くて綺麗で、私はそれに見惚れてしまった。今日の彼は黒いシャツとズボン姿で、昨日より大人っぽかった。私はシンプルな服装が好きなので、彼がそういう格好をしているのがちょっと嬉しかった。私のほうは、胸元をリボン結びにしたブラウスにタイトスカートを合わせたおとなしめの格好。珍しく少しメイクを変えて見た。普段は控え目な唇の上にパール入りのグロスを塗って艶感を出し、マスカラも丁寧に塗ってみた。気付いてくれるかな……
彼は沈黙を気にせず頬杖を突きながら、テーブルの上のメニュースタンドを傾けて新メニューの広告を眺めている。それからふと視線をこちらに向けた。
「汐名」
「何?」
「デザート食べない?」
「デザート……?」
私が地味な反応を示すと彼は甘えるペットみたいな目をした。
「……」
か、かわいい……
年下の彼は、大人びた面とまだ少年ぽい面とを合わせ持っていて、そのギャップが魅力的だった。彼は黙っていてもそこにいるだけで人目を魅くような美少年だが、中身のそういうアンバランスな所がたまらなく愛らしい。
「このパフェ半分こしない?」
彼はメニュースタンドの中の広告を指差して、私にそれを勧める。それは少し大きめサイズのチョコレートパフェだった。
「うん」
「やった」
嬉しそうに彼は微笑し、ウェイトレスにオーダーした。間もなくそのパフェが運ばれてくる。
「汐名、先に食べていいよ。オレ、下のスポンジが好きだから」
「ええ……」
彼は頬杖を突きながら、グラスの中のクリームやアイスやフルーツを眺め、私はそれをスプーンで頬張るのが恥ずかしかった。
「おいしい?」
「ええ……」
何だか観察されてるみたいで、冷たいアイスクリームを食べているのに頬が熱を帯びてきた。胸が高鳴る。その鼓動を紛らわそうとしたのか無意識にスプーンが進み、気が付くとほとんど食べ尽くしてしまっていた。
「クスッ……食べ過ぎ」
それを見て彼は笑った。
「スポンジちょうだい」
私は「ごめんなさい」とスプーンをグラスの中に寝かせ、彼がそのグラスを自分のほうに引き寄せる。
彼はがっつかず、上品にそれをスプーンに乗せて、口に運ぶ。そんな姿を見ていたら、自分の食べ方に自己嫌悪した。恥ずかしい……
完食した彼は口許を紙ナプキンで拭った。
「そろそろ……」
そう言いかけて彼の表情は凍結した。その視線は私ではなく、その背後に向けられていた。
「どうしたの?」
その問い掛けにも答えず、彼は席から立ち上がった。
「ごめん、これ会計してきて。後でオレの分払うから……」
「え、ちょっと!」
彼はそのまま私を置き去りにして店を出て行ってしまった。
私は訳も分からぬまま、伝票を持って席を立つ。そして会計に向かった。
あっ……?
そこにちょうど来店してきた男女を見て唖然とした。
叔父さん?
潤間四季?
何故二人が……
男性のほうは臣の父親で私の母の弟にあたる。女性のほうは養成施設の科学班の地質調査員だった。彼女と直接面識はなかったが、職場でその名は有名だった。不倫の女王と呼ばれている。
その彼女と何故叔父さんが……
私のその驚愕する視線に気付いた叔父は、そ知らぬ素振りに徹していた。女性のほうは顔を斜めに傾け、ちらりと私の顔を見た。それから彼にこそっと何かを囁いた。その距離はお互いの手と手が触れ合いそうなほど近くて、そこに二人の関係の深さが窺えた。
――臣!?
私は会計を済ませると真っ先に臣の携帯端末に電話した。しかし繋がるものの、応答はなかった。私は端末を耳に当てて歩きながら彼を探した。数軒の飲食店がテナントを構えるその階の広間は、大人の男女で溢れかえっていた。
私は途方に暮れ、彼にメールを送った。
“どこにいるの?”
やがて着信を知らせるランプが点滅した。
“配信確認――20:34”
「……」
私はそれを見て落胆した。そして発信履歴から電話を掛け直した。ディスプレイが彼の名前と番号を表示させ、“受信中”の文字を点滅させる。いつまでたっても全く出てくれる気配がなかった。
《はい……》
やがて繋がった。しかし、その声はさっきとは別人みたいに沈んでいた。その後の言葉が続かない。
「今、どこにいるの?」
慌てて私から切り出す。
《展望台があるとこ……》
「展望台?」
《うん……》
すっかり意気消沈したその声に苛立つように私は声を荒げた。
「分かったわ。今からそっちに行くから待ってて!」
私は早足でエレベーター乗り場へと向かう。最上階までの到達時間は忍耐との闘いだった。乗り降りでエレベーターの動きが止まる度、苛立ちが込み上げる。やがて最上階に到着するなり、私は展望室へと駆け込んだ。夜の八時を過ぎたその空間には、寄り添う男女の安息の園が生まれていた。何組もの男女が、静かに二人だけの世界に浸っている。その甘く幻想的な空間に、私はとても不似合いだった。眉間に皺を寄せて、息子を探す母親みたいな私には。ガラスの向こうに映る夜の闇はその時、最高に深く壮麗で、嫌になるほど恋人達にぴったりだった。私はその幻想に浸れず、煌煌と照らされた屋内を彷徨する。携帯電話のディスプレイを見ると、もう九時を回っていた。平日の今日はあと一時間で閉館だ。私には、恋人達の夜景を展望する時間もないの?
どこにいるの。臣……
どのくらい歩いただろう。もう何十時間も歩いている気がした。
足が痛い。
喉はカラカラ。
だけど、放って置けなかった。また電話に出なくなり、私を困らせる彼を見付けたら……
「臣」
片隅に彼の後ろ姿があった。ガラス張りのドームの手摺に両腕を預け、彼は闇に溶け込んでいた。一人ガラスの向こうを見詰めている。照明に照らされながら甘い空気や、熱い情熱を散らす恋人達が背景に見える。
光の奥にいて闇と同化した彼は、誰よりも幻想的だった。水色の髪に影が落ち、そこに深海が広がっている。背中はいつの間にか男性的で大きくなっていたけど、まだ細くて少年の背中だった。
その背中を抱き締めたかった。
二人でその闇に溶けたかった。
でも、その幻想をまだ眺めていたいと思った。
触れてしまったら、声をかけたら消えてしまう気がして、躊躇ってしまう。
ふと、彼が振り向いた。そして
「……」
私の存在に気付くと彼はこちらに歩み寄り
「帰ろう」
そう言って、私の横を通過した。
帰り道、彼は分岐点に来ると私に先程の食事代を支払った。
それだけだった。
「おやすみ」も「ごめん」もなくて、
「じゃあ」
それだけだった。それは
「もうあの場所へは行かない」と言ってるみたいで、すごく哀しくなった。
彼がそんな素っ気ない態度をとったのは、“あの二人”を見たせいだろう。
彼はもう、あのビルへは行きたくなくなり、私をもうあの場所へ連れて行ってくれないかもしれない。
あの展望室へ二人でまた行きたかったのに。
“恋人達の時間”になったあの展望室へ……
一週間の時が流れた。
あれから勤務後に鉢合わせても、彼は私を誘って来なくなった。そして私からは誘うこともできなかった。世間の見方として、私と彼の恋愛関係は有り得なかったのだ。
彼は十七歳、私は二十五歳。彼は大人びているが世間の目は厳しく、十代の彼はまだ子供の部類に入っていた。その彼と私が恋愛することは嘲笑の的になってしまう。度々その兆しがちらついていた。彼が私に親しげに接する度に同僚達の目が光る。彼はそういうことを楽観的に受け流してしまうが、それがあくまでも同僚達の妄想だから済んでいることで、もし事実になれば二人は共倒れになるかもしれない。私は彼を傷付けたくない。だから、この気持ちは心の奥に沈めている。
この感情が芽生えたのはいつからだろう。
知り合ったのはずいぶん昔のことのような気がした……
私の両親は私が物心ついた時、既に離婚していた。夏休みになると毎年のように私は親戚が集まる母方の祖父母の家に連れて行かれた。子供の頃からどこか冷めた所があった私は、その談笑が嫌いだった。はっきり言ってそんな集まりなどうっとおしいだけで、なくなればいいとさえ思っていた。
そんな私に彼はさりげなく接触してくれた。親戚で和気あいあいとしたその空気に馴染めず、冷めた目でただそこにある置物みたいな私に、彼はいつもそっと手を引いて、その退屈な場から連れ出してくれた。
二人で手を繋ぎ、公園やショッピングモール、だいたいそんな所に繰り出した。私はただ連れられているだけでちっとも楽しそうにしていなかったのに、何故か彼はいつもそうしていた。本当は嬉しかった私の気持ちを分かっていたのだろうか。
そんな時、彼はとても物静かで落ち着いた子供になっていた。それがとても自然に見え、そっちが本当で普段は無邪気な子供を演じているんじゃないか、そんな気がした。
それがいつ恋心に変わったのかずっと分からなかった。気付いたのは中学生になってから。私が十五歳、彼はまだ十四歳の時だった。受験勉強で前の年とその年の夏休みに親戚と顔を合わせていなかった私は、一人黙々と机に向かっていた。塾講師は電子画面の中。質問はキーボード、声、両方に対応。時間を拘束されず自由で無制限に学習できるため、それは当時の効率的な学習スタイルの一貫となっていた。
ふと、その学習中に来客を知らせる玄関のインターホンが鳴った。私は面倒ながらも回転イスから立ち上がると、玄関の防犯カメラに映る訪問者を確認した。
臣……?
彼だった。学生服姿で、よほど急いで来たのか息を切らしていた。いや、それだけではなく、とても深刻な表情をしていた。私はすぐにドアロックを解除して玄関のドアを開けた。
「どうしたの?」
彼は全力疾走した後みたいにぐったりとしていた。額から汗が流れ、乱れた前髪から額を覗かせていた。
「……水、もらえる?」
息切れしながら彼が言い、呆然と突っ立っていた私はようやく動き、コップに水を入れてきた。それを受け取ると彼は一気に飲み干し、一息着くと堰を切ったようにに言葉を吐き出した。
「汐名、オレ眠らされちゃうんだ! 病気を直す薬ができるまで、冷凍保存装置に入れられて……」
「……」
それはあまりに唐突で現実離れしていて、私はすぐに受け止められなかった。
彼の父親は私の母の弟で、私の叔父にあたる。その叔父は、人体を研究する学者だった。近年、火星コロニー防衛パイロット養成施設内化学班が開発した人口蓄積知能の開発にも携わっている。そして叔父は個人研究室を持っていて、そこでさまざまな人体における研究を重ねていると臣から聞かされていた。でも、まさか息子を冷凍保存するなんて信じられなかった。それはこの時まだ認可されていない技術で、それを行うことは人体実験するということを意味するから……
臣は言葉を継いだ。
「その薬の材料はこの星にはなくて、地球にあるらしいんだ。それで零号士に地球まで採りに行ってもらうことになったんだ。でも、それが見付かるまでどれぐらいかかるか分からない。だから、眠らされる前に汐名に会いに来た。会っておきたかったんだ……」
これは愛の告白? 決別の告白?
喜んだらいいの? 悲しんだらいいの?
それはあまりに唐突で残酷な告白だった。まさか同時に二つも、こんな大事なことを告げられるなんて思ってもみなかった。
悲劇の物語なんて客観的に見ているから面白いんだ。自分がその主人公になんかなりたくなかった。
何なのよ、これ? 何なの……
そしてこの時やっと私は気付いてしまった。自分が彼に恋していたということに。そのことを強く深く実感して、涙が溢れ出した。
「やだよ……」
私は泣きながら彼を見詰め、彼は私の両腕を掴み、そのまま滑るように床に泣き崩れた。その姿が哀れで堪らなくて、愛しくて、私は足元に沈んだ彼の頭に手を回し、母性本能を降り注ぐかのように腕の中に包み込んだ。腹部に彼の息衝く鼓動が伝わる。
と、その瞬間を遮断するかのようにインターホンが鳴った。直感的にそれが“あの人物”だと思い、彼も私も身を竦めた。やがて沈黙の後、彼の携帯端末の着信メロディが鳴った。
「……」
彼は首から吊していたそれを手に取り、そのディスプレイを見た。その表情が硬直する。
「誰……?」
か細い声で問い掛ける私に彼は答えず、手から落としそうなほど緩く端末を握っていた。
そこから声が漏れ出す。
《……臣、迎えにきたよ》
その声は彼の父、相楽俊希のものだった。するとドアロックが解除され、ガチャッというその音が私と彼の神経を尖らせる。彼は立ち上がり、背後に視線を巡らせた。そしてドアが開き、その向こうから姿を現したのは
「ただいまぁ」
外出先から帰宅した母だった。片手には車の鍵を入れたブランド物のキーホルダーを持っている。それはいつもと変わらない様子だったが、私の緊張は解かれなかった。私の目は彼と同じく、開いたドアの向こうに向けられていた。
「あら、臣くんね?」
母の手がドアに触れる。その手がドアを押し開け――その奥からV襟のニットにシャツとグレーのズボンを合わせた服装の男性が姿を現した。彼の父、その人だった。黒褐色の髪を後ろに流し、それらの風貌から一見怜悧な紳士に見えるが、縁なし眼鏡の奥の眼差しは冷え切っていて、光りが差し込まない茶褐色の沼のようだった。
「あなたのお父さんが迎えに来たわよ」
そう伝えた母の声にかげりはなく、この時母は、彼が……臣がどうなってしまうのかなど知らなかったのだろう。
「臣、さぁ家に帰ろう」
叔父がドアから玄関に足を踏み入れ、その片隅にいた彼に近付く。彼が警戒して後退すると叔父は玄関の向こうに顎を使って合図した。すると黒いスーツを着てサングラスをかけた二人組みの男性が玄関に侵入してきた。その二人組みが敏速に無言で動き、彼の両腕を掴んで玄関の外へと連れ出す。その後彼に叫ぶ間も与えず、瞬時に何かで口を塞いだのが見えた。
「驚かせて申し訳ない。あの子は時々私の手には負えなくてね。そんな時にはああやって助手に手を貸してもらうんだ。今日は病気の治療を嫌がって逃げ出してね」
含み笑いを漏らす叔父のその言葉に母は
「男の子は大変ねぇ」と呑気なことをぼやいた。
私にはそれが理解できなかった。どうしてこの異常な行動を二人は平然として見ていられるのか。
すると叔父が私をそっと玄関の外に手で招いた。そして玄関のドアを閉めてから、言葉を発した。
「臣から病気のことは聞いているね?」
その問いかけに私は頷いた。叔父が話を続ける。
「口封じをするつもりはないよ。だが冷凍保存できなければ、あの子は薬の完成を待たずに病で死ぬ。死んでほしくなければ黙っていたほうがいい」
叔父は静かな口調で圧力をかけてきた。私はそれに押されながらも切り返す。
「臣は何の病気なの?」
その私の顔を叔父の威圧的な茶褐色の眼が見据えた。そして彼は言葉を紡いだ。
「新種のウイルスによるものだ。それ以上は言えない。それを話せば、君を拘束しなければならないからね」
「何で……?」
恐れながらもそのことに納得がいかず、さらに私は追及した。すると叔父は眼鏡の位置を直し、伏し目がちにこう告げた。
「それは“組織内機密”だからだ」
「組織内……機密?」
呆然と私はその言葉を復唱する。叔父は「そう」と体の向きを変え、後ろで手を組みながらその後を続けた。
「そのウイルスの元がコロニー政府の一部機関の開発に関わることであり、その事実が世間に露見すれば……」
「?」
間を空けてから、叔父の唇が動く。
「その機関の開発は中断せざるを得なくなり、結果――政府を敵に回すことになる」
「……」
私はあまりに話の内容が肥大しすぎたことに放心状態に陥ってしまった。
「このことは忘れたほうがいい。それが君のため……いや、君だけではなく親戚、家族も含めてのためでもあるな。ふふ……」
叔父は不気味な含み笑いを漏らし、実験動物を観察するような眼で私の姿を眺めた。
「もし、忘れたければ私の研究室に来なさい。その記憶を簡単に消去する手助けをしてあげるよ」
そう言い残すと身を翻し、彼は通路脇のエレベーターへと歩いて行った。そして、開いたそのドアの中に消えていった。
やがて下のほうから車のエンジン音が轟き、間もなくしてそれは去っていった……
臣が叔父の研究室で眠りに着いてから、私は毎年、彼の様子を見に行った。本当はもっと頻繁に訪れたかったが、叔父が自分の研究室に部外者を入れることを嫌い、そうなってしまったのだ。
それが二年経ち、三年経ち、ついには五年が経過するが、冷凍保存装置の中の彼の姿は全く変わらなかった。肌の老化も止まり、眠りにつく前の十四歳の姿のままだった。それはまるで永遠の命と若さを手に入れたみたいにいつまでも綺麗な状態を保っていたが、もしかしてこのまま目覚めないんじゃないか? そんな気がしてしまうほど安らかに眠っていた。そのせいか、私はその姿を長く見詰めていると怖くて、とても不安で堪らなくなった。
ある休日の午後、私は叔父の研究室へと赴いた。臣が冷凍保存装置で眠りについてから七年目に入った頃で、私は火星コロニー防衛パイロット養成施設の管制官として働き、二十二歳になっていた。
叔父の研究室はその養成施設の一角にあった。彼はそこの科学班の一員ではなかったが、その開発部に技術などを提供する代わりとしてその部屋を借りていたのだ。
私は入口の受付で社員証を見せて養成施設の門を通過するとエレベーターで地下に下りた。
通路を照らす蛍光灯は時々チカチカと点滅して切れかかっていた。そのため辺りは薄暗く、さらに灰色でコンクリートがむき出しの壁からは、湿気と黴臭さが漂っている。その人が立ち入らないような空間に叔父の研究室はあった。私は足早に通路を渡り、その部屋の前に来た。訪問する時は事前に確認を取っているので、ドアをノックするとすぐに返事が返って来た。
「はい」
「汐名です」
ドアロックが外れるガチャッという音がして、開いたドアから叔父が姿を現した。
「どうぞ」
そう促され私はまず入口のマットに靴をこすり付け、消毒してから奥に進む。そして滅菌した服とマスクと帽子を被り準備を整えると、叔父がリモコンを取り出す。彼は部屋半分を占拠する薬品棚に置かれているフラスコの一本を退かし、その奥にリモコンを向けた。そしてボタンを押すと薬品棚が中央で真っ二つに割れてそれらが左右に別れて移動し、その奥から二メートルを越える透明な蓋をしたケースが現れる。そこから何本もの管が差し込まれ、微かにモーター音が漏れていた。その周りを透明な幕が防護している。
これが彼が眠る冷凍保存装置だった。私はそれにそっと近付く。精密機械が並んでいるため、振動や接触を避けるためだった。
臣……
私は装置の中の彼を見詰め、その心に語りかけた。彼は瞼を閉じたまま人形のように白くなった顔で眠っている。相変わらず彼は若さを保っていたが、私は複雑な気持ちだった。その装置の中にいる以上は病気の進行を止どめておくことができるが、治療薬ができるまで彼はそこから出ることができない。ずっと眠ったままで、生きているのか死んでいるのか分からなかった。周りはどんどん変化していくのに、彼だけは変わらない。親も友達もみんな歳を取って行くのに。そして
私も……
叔父が側に来て抑揚のない口調で言った。
「この姿を見るのは今日で最後だ」
私は素早く後ろを振り向いて言い放つ。
「どういうこと!?」
「ふふ……もうすぐ分かるさ」
叔父は愉快そうに笑っていたが、私はどう捕らえれば良いのか分からなくて、不安になった。
「どういうこと? ねぇ、臣はどうなっちゃうの!?……」
叔父の両腕を掴み、私はほとんど泣きながら問い質す。
「ねぇ!」
そして思案げに笑みを浮かべ、なかなか口を割ろうとしない叔父の顔を鋭く見据え、けしかけるようにその体を揺さぶった。
「ふふ、乱暴だな……」
睨み続ける私に叔父が言葉を紡いだ。
「来週またここに来なさい。――それで分かる」
「……?」
叔父はまた愉快そうに笑い出した。彼の笑い方はいつも怪しげで、何を考えているのか分からなかった。
でも、この時私はそれを良い意味として捕らえることにした。
だって、“最後”と言ったのが“失敗”という意味だったら、あの叔父さんでも笑えないと思うから……
一週間後、私はまた叔父の研究室を訪ねた。
「どうぞ」
ドアが開き、叔父が顔を出す。私は部屋に入ろうとするが
「?」
あの消毒用のマットが置かれていなかった。
「叔父さん、あのマットは?」
そう訪ねると叔父は黙って微笑した。私は困惑して首を傾げる。とくにそのことは気にかけず叔父はいつものように薬品棚に置かれてあるフラスコを退かして、その奥に向けてリモコンのボタンを押した。薬品棚が中央で真っ二つになり、左右に別れて移動する。
「あっ……!?」
その奥からあの冷凍保存装置が姿を消していた。
私の頭の中で二つの正反対の思考がぶつかりあう。結論を出すのが怖かった。
放心したのは頭の中だけではなく、すぐには動くことができなかった。目は瞬きもせずに見開かれ、唇が言葉を紡げずに空を食む。と、ふわっと肩に手が降りてきて、私はびくっと軽く飛び上がった。叔父の手だった。彼はその手を退かすと“それ”に歩み寄った。私はその一挙一動を凝視する。叔父の手が“それ”の蓋に触れた。
「……!」
私は怖くなり、今にも泣き叫びそうな口許を両手で覆った。“それ”とは、棺桶だった。叔父は重たそうに両手を使ってその蓋を開けた。
「臣……!?」
掠れた悲鳴のような声をあげ、私は床に頽れた。叔父が振り向いて私に促す。
「さぁ、よく見るんだ」
「?」
私は目に涙を浮かべ、怯えながらもそれに近付いた。徐々にその中が見えてくる。
「……」
「もっと側で」
私は棺桶の前まで行き、その中を上から覗き見た。
「臣?」
へなへなと内股で膝を着いてしゃがみ込み、棺桶の縁に手をかけてその姿を見詰めた。そこに先週見た時と変わらない彼の白い顔があり、身体はきちんと洋服を着ていた。表情は安らかで、死んでいるのか生きているのか分からなかった。耳を澄ませば吐息が聞こえてきそうなのと、もう永眠してしまっているのと、どちらか区別が付かなかった。どちらにも見えてしまった。
「臣?」
今度は問い掛けてみる。
「……」
沈黙が間を支配する。
「いやぁあああ――――っっ!」
「落ち着け!」
半狂乱の私を叔父が鋭く制した。
「だって臣が、臣が!……あぁ」
「よく見てみなさい」
泣きじゃくる私を力づくで叔父が押さえ付け
「いいか、もう一度よく確認してみるんだ」と棺桶を見て言った。私は訳が分からなかった。怪訝そうに眉を潜めて叔父を睨む。
「何を確認するのよ!?」
「はぁ……もう限界だな」と叔父は溜め息を着き
「やっ……!」
私の手を掴んだ。
「触ってごらん」
「え?」
「どこでもいいから、触って確かめてみなさい」
叔父が握っていた私の手を離して勧めるが、私は彼に疑いの眼差しを向けた。
「?」
「さぁ」
と私の視線には全く動じずに、叔父はいつもの考えの読めない微笑を浮かべる。そして私は恐る恐る棺桶の中に手を伸ばし、指先を臣の頬に当てた。
「どうだった?」
「ひゃっ!」
私は思わず飛び上がった。叔父の声に驚き……
「冷たかった」と感想を言うと叔父は
「……そうか、」
片方の掌を口許に持っていき、棺桶の中に向かって囁いた。
「冷たかったそうだ」
「?」
何言ってるんだこの人? 私が首を傾げていると
「病み上がりだからかなぁ?」
「キャッ!?」
臣が棺桶の中からむくっと起き上がり、私はまた飛び上がりそうになった。
「嘘……」
おろおろする私に上半身を起こした臣が笑いかけた。
「おはよう、汐名」
「あぁ……」
目覚めた彼への第一声は言葉にならなくて、私は大泣きしてしまった。彼に頭を撫でられ、ようやく思っていたことを口にする。
「何で……こんなことしたのっ!……本当に死んじゃったの……っく、かと思ったんだからっっ!」
「オレが考えたんじゃないし……」
「えっ?」
私が叔父を見ると笑っていた。でもやっぱりそれは解読不能な笑みで、この時はとくにそれが悪質な物に映った。
大っ嫌い――!
思いっきりそう心の中で叫んで、ついでにイーっと歯をむき出しにしてやった。
それらの七年間は思い出すと本当に辛かった。彼は頼んだ材料を零号士に採ってきてもらったおかげで薬が完成し、無事病を克服できたが、はたしてこれが二人にとってハッピーエンドをもたらすかは分からなかった。
だって私は彼が眠っていた間、一歳しかなかった年の差を八歳にまで広げてしまったのだから……
彼はどんな気持ちなんだろう。私がどんな風に見えるんだろう。怖くて聞けない。きっと冗談でも“おばさん”なんて言われたら泣いてしまう。
分かっている。自分があの年の頃、二十五歳といえばぐんと大人だった。その年齢の人と付き合うなんて考えられなかった。分かってるけど……
分かりたくない。
今でも、彼への気持ちに気付いた時と変わらない。
彼のことが、好きで好きで堪らない。
午後六時三十一分……タイムカードを押した。今日はぴったりにしなかった。そんなことはどうでもよくなっていた。出勤カードを棚に戻し、ロッカールームへ向かう。そして私服に着替えると、コーヒーを飲みに休憩室に入った。テーブルに着くなりうなだれる。ぐったりと伸ばした片腕を枕に、頭をもたげて虚空を見た。溜め息が零れる。
本当はコーヒーなんて飲みたくなかった。
憂鬱で何もする気になれなかった。
今の自分は風が吹いたら飛んでいってしまいそうなほど、ふわふわと心が宙に浮いていた。手の届かぬ場所へと飛んでいってしまった風船なのかもしれない。自分でも掴めなくなっていた。掴もうとしてもちょっとの風で逃げてしまう。 私の心は本心を明かさないように逃げ惑っている――掴めない風船だ。
休憩室にはまた誰も来なかった。社員の皆様方は、仕事の後もお忙しいようだ。私は鼻歌を歌いながら、バッグから携帯端末を取り出した。何気なくそのディスプレイを眺める。
「……」
彼への発信履歴が残っていた。前にあのビルの展望室へ行った時の記録だった。
ちょっとだけ懐かしくて、甘くて、嬉しくて、切なくて、最後は寂しくなった思い出……
だけど大切な思い出。その文字を見ただけで浮かんでくる、記憶の断片。
――ああ、もう泣きそうだ。しまわなくちゃ!
私は気持ちを振り払うように端末をバッグにしまった。そして椅子からすっと立ち上がり、ドアに直進する。システム管理室の個人認証センサーを通過し、通路に出た。肩にバッグを掛け、そこをさっそうと歩いていく。そして角まで目前となった。
――偶然て、そう訪れないものなのね……
何を期待していたのか、心の中で苦笑した。そのまま角を曲がり、あの自販機の側を通過する。そして長い通路を抜け、養成施設からビル街に出た。さらに進むとあのマジックミラーのビルが見えた。やがてそのビルの前に辿り着き、その入口の回転ドアを通り抜ける。その奥のエレベーターを上がり――
気が付くと最上階のあの展望室の前まで来ていた。
――何やってるんだろう私
おかしかった。おかしかったけどすぐに
哀しくなった。
ガラスの向こうを見ると、まだ薄暗い闇は景色がぼやけて見えた。
それがどんどん滲んでいった。
そしてなんだか分からなくなった。
「ううっ……」
最低っ!――私
大人のくせに最低
何泣いてるの、人前で? 馬鹿みたい。
馬鹿みたい……
「大丈夫ですか?」
肩に誰かの手が触れた。どうやら私は手摺に凭れたまま、いつの間にか疲れでうたた寝していたらしい。その姿が勘違いさせてしまったようだ。
「あ、大丈夫です……」
メイクが崩れて大変なことになっていそうなので、私は目を擦っている仕草をして誤魔化した。
「そうですか」
相手がいなくなると慌ててハンドミラーをバッグから取り出して顔を映す。
そんなに驚くほどではなかったが、見栄えがいいものではなかったので化粧室に逃げ込んだ。
口紅の上にパール入りのグロスを塗ってみた。
上下の睫毛にマスカラを塗る。
丁寧に。
化粧室を出るとまた展望室へと来ていた。ガラス張りのドームの手摺に肘を乗せて景色を眺める。さっきより暗くなった景色はちっともロマンチックじゃなかった。
退屈で、とても窮屈に感じた。
なのに根が生えたみたいにそこから立ち去ることができない。
そして時間は秒針に錘を乗せたみたいに、ゆっくりゆっくりとしか動かない。
こんなに時間が長く感じたことなんてなかった。
私、何を期待してるんだろう……
ふと腕時計を見てみるとまだ着いてから一時間も経っていなかった。
私は所在なしに歩き出す。なんとなく、あの日彼がいた場所へと足が進んでいた。
『これからは、カップルが来る時間だから』
『今日は夜景を見に行こうか?』
彼の言った言葉――その記憶の断片が蘇る。
――会いたいよ……臣。
「……」
私が見た恋人達の夜景より、もっと幻想的な姿がそこにあった。
「臣……」
物憂げに、一人ガラス張りのドームの手摺に凭れ、景色を眺めるその後ろ姿が。
もうあと数メートル近付けば届くのに、ひとたび触れると消えてしまいそうだった。
背中を見せないで
抱き締めてしまうから……
あなたがあの装置の中で眠っている間
私は七年も歳を重ねてしまった
だけど私の気持ちは
あの時に置いてきぼりにされたまま
今も あなたに恋してる。
「汐名……?」
私は幻想を抱き締めていた。目の前に水色の海が見える。微かにシャンプーが香る……
「臣」
私は彼の背中に凭れていた。その物憂げな背中が私の心の呪縛をあっさりとほどいてしまったのだ。一瞬驚いた後、ゆっくりと彼が振り向き、私は手を離す。ヒールの高いパンプスを履いても、その視線は私より上にあった。水色の瞳がこっちを見詰める。
「びっくりしたぁ。汐名も来てたんだ?」
「……ええ」
「どうした?」
うつむき加減な私を彼の水色の瞳が伺うように見詰める。 その水色の瞳が細くなった。
「汐名も、ここの夜景を見に来たの?」
「……」
私は頷いた。なんだか恥ずかしかった。この時の彼は――“大人っぽい彼”になってたから……
「誰かと一緒?」
「ん〜ん」
私は首を降る。
「じゃあ、一緒に見ない?」
彼は人懐こい笑顔で言った。
私は恥ずかしがり、小さな声で呟く。
「でも」
「でも?」
「まだ、早い……」
「……?」
彼の水色の瞳が驚きで丸くなる。
「まだ、夜景を見る時間じゃないでしょ?」
「……?」
「……?」
――ちょ、ちょっと何なのよこれ〜〜っ!?
思っていた以上に鈍感な彼に、地団太を踏む私。
言わなくちゃいけないわけ?
言わせるの? 私にそれを〜〜
仕方なく私は覚悟を決めて、その回答を発表することにした。まずは咳払いをする。
その私を彼はやけに涼しげな顔で見ていた。
「だから……まだ“恋人達の時間”じゃないから……」
もう、やだ! と言った後、私はふてくされてそっぽを向く。
「じゃあ、一緒に見よっか? その時間に」
「え?……」
さっと振り返ると彼は微笑していた。
そしていつの間にか私達は横に並んでいた。
「もうそろそろ、その時間じゃない?」
「まだ……」
「そう? もう充分暗くなったと思うけど」
「駄目、八時を過ぎてからなんでしょ? “恋人達の時間”は」
「え?……あっははは」
「何で笑うのっ!?」
真面目に言ったのに笑われたので、私はムッとした顔で彼を睨んだ。
「臣が言ったのよ。忘れたの?」
「ごめんごめん。でも、そんなこと言ったっけ?」
「……」
「嘘嘘、ごめんなさい。覚えてるから」
そう言って彼は私の肩に手を回した。
「ほら、もう真っ暗だよ」
「そうね……」
彼はどこまで私を受け入れたんだろう。彼がこうするのは友達でもあることだし、判断しずらかった。
言ってくれなきゃ分かんない……
私はその景色よりも、目の前の彼の横顔ばかり見詰めていた。そして
「……」
「……」
――この時知った。
彼が無言で首を傾け、静かに瞼を閉じ、その唇がそっと私の唇に触れた瞬間――
それが伝わってきた。
分厚い壁となっていた長い時間の隔たりが取り払われ
彼をもっと近くに感じ……
「汐名」
「何?」
穏やかだけど、どこか寂しげな表情で彼が私を見詰めた。唇が言葉を紡ぐ。
「キスしたことあった?……誰かと」
「え?」
私は唖然とした。そんなこと……
「さぁね〜」
ちょっと意地悪してみたくなった。彼がかわいいから、ちょっとだけ。
「何それ」
彼はすねたみたいに口を曲げた。しかしすぐに表情を真顔に戻し、静かに呟いた。
「……オレは、汐名が初めてだけどね」
そう言った彼は明るく笑った。それが嘘か本当か分からなかったけど、なんだかとても恥ずかしくなった。
「やだ」と照れ隠しに、彼のお腹をつつく。
すると彼はくるっと後ろに向き直り、手摺に肘を乗せると軽い口調でぼやいた。
「まぁ、汐名は大人だから、あるか……」
その背中が寂しそうに見え、私は思わず言い放った。
「私も臣が初めてよ」
「?」
彼の頭が僅かに後ろに傾き
「そうなんだ」
とそのまま身体ごと振り向いた。引っ掛かったぁ〜! とでも言うように勝ち誇った笑みを浮かべ。
「言わせたわね?」
「クスッ」
不機嫌な表情をした私に彼は悪戯な笑みを見せる。
そして、またキスをした。
私と彼は帳の中にいた。八時を過ぎた夜景を見渡せる帳の中。
カーテンを閉め、外の闇とは別の、もう一つの薄い闇に身を沈め。
お互いの体温と鼓動、吐息を感じながら、愛を高め合っていた。
初めてキスしたあの瞬間から二人の心は解き放たれ、止めどなく溢れ出した愛を確かめ合い。
彼は一生懸命に尽くしてくれた。
私はその姿が愛しくて堪らなかった。
そのたっぷりな愛情を私は全身で感じた。
そして一つの幕を終え、ベッドに横たわる彼の隣りに私も寄り添う。
幸せだった。彼は腕枕をしてくれて、私の顔には自然と穏やかな笑みが浮かんだ。
「汐名……」
「ん?」
私はそう返し、仰向けに寝転んだまま呟いた彼の上下する胸に手を当てる。
「歳のこと気にしてた?」
「え……」
何故そんなことを言うの?
私はすっかり現実に引き戻されてしまい、身体を起こして彼を見た。
彼も起き上がり、上半身の素肌が露になる。
「……っ!」
私は表情を曇らせ、すかさず毛布で自分の身を隠した。
二十五歳はまだおばさんとは言われたくない歳だけど、こうして十七歳の少年と並ぶとその差を実感する。
「そんな顔しないで……」
彼のその声が哀れみに聞こえた。
私の目から涙が溢れ出る。気にしていたことを彼に言われるなんて最悪だった。
「やっぱり臣は、私のことおばさんだと思ってるの……?」
「思ってないよ。汐名はおばさんなんかじゃない」
「嘘……」
私の声が掠れる。
「でも、あと十年したら本当のおばさんよ!?」
私は「本当」の部分を強調して言った。すると彼は困ったように笑った。
「クスッ……大丈夫。オレ達、十年も長く続かないから」
そう言ったあと彼は
「嘘だよ」と悪戯っぽく笑ったが、私はすっかりご機嫌斜めで彼を睨み返した。
「汐名……」
今度は涼しげな美少年の表情に戻った彼が私を見詰めた。
「七年間ずっとオレのこと待っててくれたんだよね?」
「……」
面と向かってそう言われると我慢してきた物が胸に込み上げてきた。それが言葉を詰まらせる。
「……」
涙が下瞼に堪っていく。彼は穏やかに私に笑いかけた。
「待っててくれてありがとう」
それから私達は再びベッドに身を沈め、愛を確かめ合った……
8・7
こちらの番外編を最後まで読んでくださった方、お疲れ様でした。長かったですね〜(^_^;)
できあがってみると予想をはるかに上回る長さになっていて自分でも、あれあれあれ??? みたいな……(苦笑
夏休みの宿題をやり終えたような感じでもあります。でもでも、よかった。日アクが自己ベストの289が出て、パワーを注入できました。めでたしめでたし…




