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悪魔のなみだ

犬ごはん

作者: 天翔すめら

 トイランド王国の鉱山街は、深い夜闇と雨音が支配していた。

 石畳を打つ雨だれは、些細な音を飲み込む。石畳の通りを痩せこけた犬が歩いているなど、誰も気付かないだろう。あるいは、毛が伸び放題で汚れきった毛むくじゃらなど、ボロ雑巾の幽霊に見間違うかもしれない。


 犬はそれをおそらく無意識に狙って歩いていた。だってこんな時なら、口に鳥の生肉をくわえていても咎められないと学習しているからだ。

 この肉は人間から盗んできたものだ。雨が降り出し初めて閉店しかける店先から、こっそりと頂いてきた。

 路地裏のゴミ捨て場から餌を漁る事はできない。そちらは犬よりも器用で賢い浮浪児たちのなわばりになっているからだ。だから犬は危険を冒してでも人間の店から盗まなければならなかった。

 犬に餌を与える人間はいない。犬は気付けば一匹でこの街に住んでいた。


 犬は自分の住処へ向かっていた。石を削って造られた橋の下に、雨風をしのぐためのガラクタを寄せ集めている。

 毛布代わりの新聞紙には困らない。街の貴族が貧民区を偶然通りがかった時に、火事でほぼ全焼しかけている家を見つけて通報したとか。素性の知れない浮浪児を屋敷に入れて仕事を与えてやったとか。そんな柔らかい言葉に包まれた号外が頻繁にバラまかれるからだ。


 橋の下に入る。住処はすぐそこだ。

 けれど犬は鶏肉を湿った草の上に落とし、住処に向けて低く唸った。

 住処に何者かがいる。この雨のせいで、近づくまでその匂いがわからなかった。

 何者かはこの住処の主人が帰宅したのに気づいたのだろう。もぞもぞとした動きで住処の外へ這い出て来た。


 それは人間の女だった。

 街中ですれ違っても印象に残らないような、平凡な出で立ちだ。ただ、雨に濡れた肌には所々に火傷の痕が見え隠れしていた。

 女は比較的に火傷が目立たない顔を犬に向け、だらしなく笑った。


「こんばんは」


 唸り声を上げる気も失わせるような、締まりの無い声だった。


「私、この新聞に書かれてる家に住んでたんだ。火事に全財産持ってかれちゃって、こんなナリ。雨宿りさせてもらってもいいかな?」


 犬は女の横をすり抜け、入り口に尾を置いて女の侵入を拒絶した。

 そして女の存在など無かったかのように、無心に鶏肉にかぶりついた。


「お肉、好きなんだ?」


 犬が骨を噛み始めた頃、女は住処の外で身を丸めて眠っていた。




 翌日、街の人間が仕事へ家を出る頃に犬は目を覚ました。

 昨日の女の匂いはしない。犬は昨日の骨を朝食にした。

 昼間、犬が散歩から号外を拾って住処へ帰って来ると、そこに昨日の女が紙袋を抱えて立っていた。服は、昨日と比べて遥かに上等な黒のワンピースだ。

 女は犬の姿を見つけると、昨日と同じようにだらしなく笑う。


「これ、私が働いてる所のまかない。おすそ分けだよ」


 女は紙袋の中から、豪勢な七面鳥の骨付き肉を取り出した。

 しかし犬は興味が無いように女をすり抜け、くわえていた号外を雨で湿った新聞紙の上に重ねた。

 女は残念そうに七面鳥にかぶりつきながら、その号外を覗き見る。


「あ、この人私んちの火事を通報してくれた人だよ。長年子宝に恵まれなかったけど、ようやくご息女が生まれたんだって。おめでたいね」


 女は食べかけの七面鳥を犬の鼻先に近づける。

 ものは全て盗んできた犬は、ものをもらう事は無い。

 犬は首を振って七面鳥を草地の上に落とした。


「ざんねん」


 女は七面鳥を拾って紙袋に戻し、そしてたずねる。


「名前、ある?」


 こんな場所に住んでいる所を見ればわかるだろうに。それでも何故たずねたのかはわからない。

 犬は取り合わず住処へ入って行った。


「もし、名前がないなら。私につけさせてくれるかな?」


 寝入り始めた犬からは何の返事も無い。女は拒絶されていないように思ったのか、軽い足取りで住処を去って行った。




 夜、犬は人間たちによって、明かりの無い部屋の中にある鉄製の檻に捕らえられた。

 犬に落ち度は無かった。毎夜と同じように周りを警戒しながら盗みを行なえた。

 しかし今夜の人間たちは事情が違った。貴族の屋敷へ賊が侵入したというのだ。

 そして強まった警戒網に、偶然その屋敷の近くを通った泥棒犬が、賊のついでで捕らえられたのだった。


 欲しいものがあるなら、もっと盗みやすい所から盗めばいいものを。わざわざ号外に毎回載るような有名人の屋敷を狙うなど、文字通り犬畜生にも劣る愚かさだ。

 捕らえられる際に棒で殴られた傷が痛む。犬の意識は限界だった。


 そこに、廊下の明かりが細く差し込む。すぐに元の闇に戻ると、犬の耳でないと聞き取れないほど小さな足音が、檻の前までやって来た。

 犬は匂いを嗅ぐ。あの女のものだった。


「ごめんね。ダメな奴で」


 女は沈んだ声で檻の南京錠を鍵で開け、犬を抱き上げた。

 女の格好は、昼のワンピースに白いエプロンを足していた。この屋敷で働いていたのだろうか。

 犬の意識は闇の中へ沈んでいった。




 心地良い温かさにむず痒くなり、重いまぶたを開ける。

 辺りは真っ暗だった。しかし自分の住処の匂いがする。帰って来たのだ。

 傷の痛みは、意識が落ちる前より幾分も和らいでいた。身体に真新しい、白く細い布が幾重にも巻かれている。人間たちがするような、丁寧な手当てだった。


「起きたんだね。でもまだ動かない方がいいよ」


 狭い住処の中で女が犬の背を撫でていた。さっきまでの温かさはこのせいだったらしい。

 犬は血の匂いを嗅いだ。自分のものでは無い。女からだ。この女もどこかを怪我している。


「私、仕事で失敗して怪我しちゃったんだ。悪いのは私だから、仕方ないよね」


 女はおそろいだとでも言うように、嬉しそうに笑っていた。

 その夜、犬は大人しく女に背を撫でさせていた。


 朝日が住処の隙間から差し込み、犬はぬくもりと少しの息苦しさを覚えて目を覚ました。

 女の匂いを嗅いだ。女は犬の胴に腕を回して、抱え込むように眠っていた。

 無防備な寝顔が静かに呼吸をし、犬が噛みつきやすそうな首筋をさらしている。

 人間とは、他者とは。

 犬が再びまどろみの中に身を沈めるほど、あたたかいものだったのだろうか。




「おはよう」


 太陽が中天にさしかかってようやく、犬と女は目を覚ました。

 女は住処の外に出て伸びをする。犬は住処の中でこっそりと欠伸をした。


「私の怪我、ちょっとは治ってきたみたいだし。ごはん持ってくるよ」


 負けじと犬も立ち上がる。しかし住処の入口から伸びてきた腕によって、あっさりと新聞紙の上に座り直された。

 覗き込んでくる女の顔は、珍しいしかめっ面だ。


「そんな包帯グルグルの姿で歩き回ったら、親切な人に拾われちゃうよ」


 その声には、犬に対する独占欲のようなものも含まれているようだった。

 言い置くなり女は去って行く。犬は不満げに低く唸る事しかできなかった。


 やがて犬の住処へ戻って来た女は、また紙袋を抱えていた。


「ただいまー。あれ?」


 この住処はいつから女の家になったというのだろう。犬は心外だと言うように、尾を軽く振って首を逸らした。

 しかし女はそんな犬の様子には目もくれず、住処の中の真新しい号外が敷かれたスペースに目を瞬かせた。


「……正体不明の賊、当家の警備力に敗北か」


 のん気に号外の記事を読み上げる女に痺れを切らしたように、犬は住処の奥に詰め寄った。号外の上に乗る気はないらしい。


「……もしかして、私に?」


 呆然と呟く女の顔は、まさかあの犬が自分のために新しい新聞紙を調達してきたなんて信じられない、と告げていた。

 女はしばらくそのかすかに揺れる尾を眺めていたが、ふと、微笑んだ。


「ありがとう」


 女は号外の上に腰を下ろし、息をついた。


「勇気、出たよ」


 犬は尾を振りかけて、止めた。

 何故だか、その言葉から不穏な気配を嗅いだ気がしたからだった。




 あれから翌日の朝にかけて、女が犬の前に姿を現す事は無かった。

 天気は昨日の夜から再び崩れ、鉱山街は風雨に包まれていた。けれど今更あの女がそれくらいの理由で顔を出さなくなるなど、納得できようか。


 犬は住処から立ち上がり、雨風が吹き荒れる外へ出て行った。

 そして無様にも泥混じりのぬかるんだ草地に鼻先を近づけ、消えかかっている女の匂いを辿って行く。

 食わない餌をもらいに行くのでは無い。ただあの女が餌を持って来る、その行為こそが、もはや犬にとっての日常になっていた。だからその日常を勝手に狂わせられてたまるかと、こっちから餌を受け取り、突っ返しに行く事にしたのだ。

 ただそれだけの理由で、犬は足を踏み出した。


 雨風に煽られた号外が、街道にゴミとなって張り付いていた。号外の見出しには『賊、再び屋敷に侵入! 正体は当家の使用人であった!』と書かれている。

 雨具に身を包み険しい顔をした男たちが、逃げた賊を探せと雨風の中を叫び駆けずり回っていた。

 しかし犬はその片隅で女の匂いを辿り続ける。小汚い犬など誰も気に留めない。

 誰かが、増水した川に賊が流されたと叫ぶ。男たちは足を止めて安堵の息をついた。

 そして犬だけは川下に鼻先を向け、駆け出して行った。


 街の外、山のふもとにある崖下。勢いよく流れて行く川の側に、女がぐったりした様子で岩に背を預けていた。

 それを見つけた犬は女に向けて、初めて吠えた。

 その声に女がまぶたを震わせ、開く。どこか焦点の合っていない視線を彷徨わせ、駆け寄って来た犬の方へ目を向けた。

 女の身なりは川と泥で酷く汚れ、以前と同じ上等な服だとは思えない。泥と雨にまみれた犬と変わらない。どこか違いがあるなら、それは犬の鼻を不快に刺激する、女のおびただしい血の匂いだけだ。

 女は青白い顔で、笑う。


「こんにちは」


 いつもと同じように、挨拶をした。

 しかし女の手は犬を探して彷徨う。これほど近くに、目の前にいるというのに。


「ごめん。もうあなたの顔、見えないんだ」


 犬はその手に鼻を押しつけた。女はくすぐったそうに笑い、もう片方の手で懐を探る。取り出したのは、丁寧に畳まれた淡い緑の布。


「これ、赤ちゃんのおくるみ。これと、同じ匂いを辿ってね」


 文字、おそらく名前が刺繍されたおくるみからは、女の匂いも香った。


「かわいい女の子を、盗んだんだ。正しくは、盗み返したんだけどね」


 犬がおくるみをくわえた感触が伝わると、女はもう一つ、革の首輪を取り出した。


「あなたの名前も、これに書いたんだ。あなただけは、誰にも盗まれず、私がつけた名前だけを、使い続けてくれると、うれしいな」


 川上から、巨大な音が近づいて来る。

 犬が首輪もくわえると、女は笑って犬の背を押し、走らせた。

 そして、女の身体は氾濫した川の激流に飲み込まれ、消えた。




 あれから六年の時が経った。

 トイランド王国の王都にある路地裏。そこもやはり鉱山街と同じように、治安は整えられていない。浮浪児や、表の世界では生きられない者たちがたむろしている。

 革の首輪をつけた大人の犬が、今日の食料を探しに路地裏から出てきて広い通りを横切る。

 後ろから小走りに駆けてくる小さな足音を耳が拾い、振り返る。元気な少女だった。


「待ってフェブ! ゼファーも一緒に行くよ!」


 路地裏で生きてきた少女の持ち物は、この犬と名前だけだった。

 少女たちには、去年亡くなるまで面倒を見てくれた浮浪者の老婆がいた。彼女が赤子と犬を拾ってくれた時に、赤子を包んでいたおくるみに刺繍されていた名前がゼファーだ。だから少女は自分に与えられた数少ないものであるその名前を大切にし、自分の事をゼファーと呼ぶのだろう。

 そして自分と一緒に生きてきたフェブも、同じように大切に思っている。だから片時も離れたくなくて、こうして走って来るのだろう。


 フェブはゼファーが追いつくのを待つ。馬蹄が石畳の通りを歩いて来ている。貴族の馬車だ。

 ゼファーの足音と馬蹄が重なりかける。

 フェブはとっさに突進した。

 ゼファーを突き飛ばし、フェブだけが馬に弾き飛ばされる。

 喉の奥が甲高い音を立て、石畳にべしゃりと落ちた。


「――フェ、フェブ?」


 起き上がったゼファーが、真っ青な顔をして慌てて駆け寄って来る。

 泣きそうな顔をしている。それがフェブにとって唯一すまない事だった。


 ――どうか、元気で。


 フェブの意識が身体を離れ、なにかあたたかいものに包まれた、気がした。


「ありがとう」




 おわり

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