異変
三日目の朝、病院に着くと担当者の様子が違った。
正面玄関で会った瞬間にグラスが表情データを表示した。発汗、視線の揺れ、声の緊張。昨日までとは別の数値だった。
「おはようございます」と俺は言った。
「ああ、佐藤さん」と担当者は言った。「今日もよろしくお願いします」
声が上ずっていた。
俺はグラスのフレームに触れた。何かあった。
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午前中、サーバー室でニコールと作業を続けた。
電力線経由の転送ログの追跡は続いていた。IAISから昨日の照会結果が来ていた。転送先の中継サーバーの一つがアメリカの企業名義だった。ニコールが「インフェクターの系列です」と言った。
「確定ですか」と俺は聞いた。
「状況証拠です」とニコールは言った。「ただし、ここまで一致すれば動けます」
俺は頷いた。
ただし担当者の表情が気になっていた。
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昼前、廊下で担当者とすれ違った。
「少し時間をもらえますか」と俺は言った。
「今日は少し立て込んでいまして」と担当者は言った。「明日ではだめですか」
「明日でも構いません」と俺は言った。「ただし、何か問題が起きていれば教えてもらえると助かります。私たちの調査に関係する可能性があります」
担当者が俺を見た。グラスが葛藤のデータを表示した。
「何もないですよ」と担当者は言った。「本当に立て込んでいるだけです」
俺は引かなかった。
「昨日と表情が変わっています」と俺は言った。「何かを抱えているように見えます」
担当者が少し止まった。
「……少し待ってください」
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小さな会議室に入った。
担当者が椅子に座った。俺も座った。
「昨日の夕方」と担当者は言った。「治験の患者に関して、主治医から報告が上がりました」
「水無瀬さんですか」
「そうです」と担当者は言った。「検査で脳の活動に変化が出ました。視覚野の周辺に新しいニューロンの接続が確認されています。通常の視覚習得のプロセスとは少し違う」
「どう違うんですか」
「詳しくは私には分からないのですが」と担当者は言った。「主治医が言うには、デバイスが処理している信号の一部を、脳が直接認識し始めているようだと」
俺はグラスのフレームに触れた。
「デバイスの信号を脳が直接」
「はい。通常はデバイスが変換して視覚情報として渡すんですが——変換前の信号そのものに脳が反応しているように見えると。主治医も見たことがない変化だと言っています」
「それで経産省に連絡しましたか」
担当者の表情が変わった。
「なぜ分かるんですか」
「推測です」と俺は言った。「デバイスの管理権限は経産省にある。異変が起きれば報告義務があるはずです」
「……昨日の夕方、連絡しました」と担当者は言った。「ただし、経産省の担当者の反応が」
「どうでしたか」
「驚いていなかった」と担当者は言った。声が少し低くなった。「想定内だと言いたそうな反応でした。それが気になって」
俺は何も言わなかった。
「私たちは治験の場所を提供しているだけです。でも患者は人間です。何かあれば私たちにも責任があります」と担当者は言った。「佐藤さん、あなたたちは何を調べているんですか。本当のところを」
俺は少し間を置いた。
「言える範囲で言います」と俺は言った。「病院のシステムへの不正アクセスを調べています。その中に、デバイスに関係する動きがある可能性があります。今日教えてもらったことは、調査に役立ちます」
「水無瀬さんは安全ですか」
「分かりません」と俺は言った。「ただし、把握しておきます」
担当者が頷いた。安心したわけではなかった。それでも話した。
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サーバー室に戻ってニコールに伝えた。
「脳がLTE-Mの信号を直接認識し始めている」とニコールは言った。少し間があった。「それは」
「聞いたことがない話です」と俺は言った。「ただし、経産省は驚いていなかった」
「想定内だったとすれば、最初からそういう設計だった可能性があります」とニコールは言った。「デバイスが芙由さんの脳を変えることを、経産省は知っていた」
「仕込みか、それとも研究目的か」
「どちらにしても」とニコールは言った。「本人の同意があったかどうかが問題になります」
俺はグラスで午前中の記録を確認した。
水無瀬の姿が記録されていた。自動販売機の前で指をパネルにあてている。
脳が直接、デバイスの信号を読み始めている。
本人は気づいているのか。
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夕方、外来棟の廊下で水無瀬を見かけた。
今日は椅子に座っていなかった。廊下の窓際に立って、外を向いていた。
いつもと少し違った。
視線の向きが変わっていた。焦点が定まらない、というより——何かを探すように動いていた。
俺は近づかなかった。
グラスがデバイスの電波を捉えた。
LTE-Mの信号が出ていた。今日は昨日より強かった。
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オフィスに戻る途中、スマホが鳴った。
知らない番号だった。
出た。
「佐藤さんですか」と声がした。「名刺をもらいましたね」
男の声だった。低くて、ゆっくりしていた。
「どちらですか」と俺は言った。
「虎ノ門のコンビニの前で、アマギフを買おうとしてた男から、あんたの名刺を預かった者です」
グラスが声紋の照合を始めた。
データベースに一致なし。
「何の用ですか」と俺は言った。
「あんたが調べていることと、俺が知っていることが、たぶん重なっている」と男は言った。「会って話しませんか。急ぎじゃないです。ただし、早い方がいい」
グラスが照合を続けていた。
一致なし。
「場所と時間を言ってください」と俺は言った。
―― 第9話 了 ――
すみません。本日は朝の投稿を忘れました。遅くなりましたが投稿します。




