自動販売機
渋谷が椅子から立たずに言った。
「名刺を渡したのはなぜだ」
虎ノ門のオフィスは、霞ヶ関まで徒歩十分のビルの一室だった。窓から首都高が見える。
渋谷義明、元自衛隊情報部。この男はいつも椅子に座ったまま本質を突いてくる。
元情報部らしい整理の行き届いた机。ただ、精密なプラモデルが一つ置いてあるのが唯一異質だ。
そのプラモはザクだった。
「相手が動くと思いました」と俺は言った。
「説明しろ」
「相手は私の情報を掴みます」と俺は言った。「そこで動けば、足跡くらいは見えます。誰の指示で動いているか、どこに報告が上がるか」
渋谷が俺を見た。グラスが表情データを表示した。評価中。
「リスクは分かっているな」
「評価済みです」
渋谷が窓の外を見た。しばらく黙っていた。
「監視の男の歩行パターンは記録したか」
「しました」
「IAISに照会しろ」と渋谷は言った。「それと——」
デスクのスマホが鳴った。
渋谷が画面を見た。
「厚労省だ」と渋谷は言った。「出る」
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電話は十分で終わった。
「国立医療センターに行ってもらう」と渋谷は言った。「先方から協力要請が来た。院内のシステムに不審なアクセスの痕跡がある。ただし、院内のセキュリティでは特定できていない」
「インフェクターの仕掛けの可能性があります」
「そう判断している。ニコールも合流させる」と渋谷は言った。「今日の午後、現地確認だ。正式な契約は後から来る」
「承知しました」
「佐藤」
俺は立ち止まった。
「名刺の件、悪くない判断だ」と渋谷は言った。「ただし次は先に言え」
俺は頷いた。
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国立医療センターは、四ツ谷から歩いて十分だった。
大きな病院だった。外来棟、入院棟、研究棟。グラスが建物の構造を表示した。敷地内のカメラの位置、出入口の数、人の流れ。
ニコールと正面玄関で合流した。
「システムの担当者と話をします」とニコールは言った。「あなたは院内を見てきてください」
「何を」
「違和感があるものを」
俺は院内に入った。
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外来棟の廊下は人が多かった。
グラスが次々と照合する。患者、家族、医療スタッフ。該当なし、該当なし、該当なし。
自動販売機のコーナーに来た。
三台並んでいた。飲み物、軽食、日用品。
少女がいた。
15歳前後だった。制服ではなく、グレーのパーカー。自動販売機の前に立っていた。
グラスが照合した。登録なし。
俺は足を止めた。
少女がお金を入れた。硬貨の音がした。
しかし、ボタンを押す様子がなかった。
指が動いていた。パネルの表面を、ゆっくりとなぞっている。点字を読むような動きだった。迷いがなかった。指が何かを確認している。
視線が不自然だった。ボタンを見ているようで、見ていない。焦点が定まっていない。
右耳に小さなデバイスがあった。補聴器のような形だが、少し違う。
グラスが分析した。外部デバイス。音声出力型。病院の構内案内と連動している可能性がある。
少女は自動販売機のパネルを指でなぞり続けた。ボタンの位置を、文字ではなく触覚で確認していた。
俺は近づかなかった。
少女の指が止まった。
ボタンを押した。
缶コーヒーが落ちた。
少女が屈んで取った。立ち上がった時に、俺の方を向いた。
目が合った。
合ったと思った。しかし、少女の視線は俺の少し横を向いていた。
少女が「すみません」と言った。声は落ち着いていた。「この自動販売機の横に、椅子はありますか」
「あります」と俺は言った。「右に二メートルほどです」
「ありがとうございます」
少女が右に歩いた。椅子を手で確認して、座った。缶コーヒーを開けた。
俺はその場に立っていた。
グラスが少女の耳のデバイスを再分析した。
病院のカメラ映像と外部マップを音声で変換して受信している——そういう仕様のデバイスだった。
少女は視覚を補うためにそのデバイスを使っていた。
しかし、さっき缶コーヒーを選ぶ時、少女の指は点字をなぞっていた。目ではなく、指で世界を読んでいた。
デバイスが補助している。しかし、指の方が速かった。
俺はしばらくその場に立っていた。
―― 第6話 了 ――




