三ツ矢サイダー
浅草の銭湯は、夕方になると常連が増える。
番台のおばちゃんが湯加減を確認して戻ってきた。特に何も言わなかった。それがいつもの合図だった。
ケンさんは個室サウナの脱衣場にいた。
瓶の三ツ矢サイダーを栓抜きで開ける。一口飲んだ。炭酸が喉を抜けた。
扉が開いた。
組の若いのが入ってきた。松田だった。27歳、元土木作業員、借金で転がり込んできた。三年経った今は使える。ただし判断が雑だった。
「報告があります」と松田は言った。
「なんだよ」
「虎ノ門で監視していた田中を回収しました。ターゲットの男は、別の男に声をかけられて思いとどまりました」
「別の男」
「はい。ターゲットと少し話して、名刺を渡していました」
松田が名刺を出した。
ケンさんは受け取った。
Lynceus Japan。佐藤澄。
「民間軍事会社か」とケンさんは言った。「警察でも公安でもないな。なんで日本で活動してんだ」
「そこまでは——」
松田が次の言葉を言いかけた時、ケンさんの手が動いた。
松田の頭が壁にぶつかった。
「お前、今コーラに手を伸ばしたな」
松田が壁を背にしたまま固まった。
「いえ」と松田は言った。声が裏返った。「サイダーですよ。三ツ矢サイダーを飲もうと」
ケンさんは松田を見た。
それから笑った。
「なんだ」とケンさんは言った。「そうか。悪かったな。俺にも一本くれよ」
松田が震える手で瓶を渡した。
ケンさんは栓抜きで開けた。一口飲んだ。
「日本人なら三ツ矢サイダーだよな」
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脱衣場に出た。
隅に格闘ゲームの筐体があった。手書きのガムテープが貼ってある。「故障中」。
ケンさんは椅子を引いた。座った。
筐体の側面に手を入れた。パネルが外れた。中に小さなキーボードがあった。
電源を入れた。
モニターに起動画面が表示された。
Linuxだった。
「さて」とケンさんは言った。「久々に潜るとするか」
キーボードを叩き始めた。
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Lynceus Japanの登記情報はすぐに出た。
アメリカに本拠を置く民間軍事会社の日本法人。日本政府との契約で情報収集分析と特殊警備を請け負っている。設立三年。
「新しいな」とケンさんは言った。
佐藤澄のデータを掘り始めた。
住民票、運転免許、社会保険。表に出ている情報はすぐ揃った。30代後半、東京出身、離婚歴あり。
次に深いところへ潜った。
政府のデータベースに触れた。ここからは時間がかかる。
ケンさんは三ツ矢サイダーを飲みながら画面を見ていた。
「なんだ? こいつ米軍で訓練うけてるじゃねえか…これ以上はダメかぁ」
番台のおばちゃんが脱衣場を覗いた。
「ケンさん、夕飯どうします」
「後でいい」とケンさんは言った。画面から目を離さずに。「それより、インフェクターの動向、松田に追わせてくれ」
「分かりました」
おばちゃんが戻った。
画面に新しいデータが流れてきた。
ケンさんの目が細くなった。
Lynceus Japanは、ある国立病院と契約していた。最近の契約だった。
その病院の名前を、ケンさんは知っていた。
三ツ矢サイダーを一口飲んだ。
「よしよし」とケンさんは言った。誰にでもなく。「お前らもやっとそこに気がついたか」
画面を閉じた。
次に開いたのは別のウィンドウだった。
暗号化された通信ログだった。
―― 第5話 了 ――




