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TOKYO PMC  作者: ヒロセカズヒ
ニューロン
2/6

排水路

 成田行きの便は定刻に離陸した。


 グラスの電源は落ちたままだ。


 機内は、少し居心地が悪い。

 隣に人がいる。声でニコールだとわかる。通路を挟んだ向こうに別の乗客がいる。声が聞こえなければ、それが誰かわからない。俺はいつもこうやって生きている。ただし普段はグラスがある。


 ニコールが資料を広げる音がした。


「読めますか」


「問題ない」と俺は言った。「グラスがなくても文字は読める。顔が認識できないだけです」


「そう」


 しばらく機内のノイズだけがあった。


---


「インフェクターの話をします」とニコールは言った。「背景から」


「聞いています」


「現代のアメリカから始めます」とニコールは言った。声が少し低くなった。「高額な医療費と不十分な保険制度。仕事を失い、家賃が払えなくなる。住まいを失って路上生活者になると、多くの州で有罪になります」


「路上生活が犯罪になる?」


「そうです。三回有罪になると終身刑になる州もある」


 俺は黙って聞いた。


「終身刑の受刑者は、民間運営の刑務所に入ります。そこでコールセンターや軽工業の仕事をする。高額納税者が刑務所を運営している。政府からの補助金、受刑者の安価な労働力、そして継続的に送り込まれる受刑者——損をする構造になっていない。投資すれば必ず儲かる」


「刑務所が産業になっているんだな」


「そうです。ビジネスモデルとして完成しています」とニコールは言った。「そこから逃れようとした人たちがいます。路上では犯罪者になる。だから地下に潜る。都市の地下には雨水処理路があります。広くて、人が住める空間がある。そこに隠れる人たちがいた」


 機内のノイズが続いた。


「豪雨で」とニコールは言った。「定期的に洗浄される」


 声が変わった。ほんのわずかだった。グラスがなくても聞こえた。


「私のおばさんは、排水路で発見されました」


 俺は何も言わなかった。


「知的で、優しくて、包容力のある人でした」とニコールは言った。「それが……」


 言葉が止まった。数秒あった。


「今のアメリカは、何かが狂っています」


---


「インフェクターとの繋がりは」と俺は静かに聞いた。


「直接的な繋がりはありません」とニコールは言った。声が戻っていた。「ただしインフェクターは、その構造を強化しようとしている。医療データを握ることで富裕層の医療を人質にする。さらに上の層に食い込む。政治家、保険会社、製薬会社——全部繋がっている」


「それを同盟国まで広げようといていると?」


「今回のターゲットは日本です」とニコールは言った。「私は日本の全てが正しいとは思わない。でも、少なくとも保険制度は正しいと思う。誰もが同じ医療を受けられる仕組みは、正しい」


 俺はシートに背を預けた。


「あなたのおばさんは、日本の医療制度があれば」


「分からない」とニコールは言った。「でも、少なくとも路上で暮らす理由はなかった」


 機内が暗くなった。長距離便の消灯時間だった。


 グラスのない機内で、俺は目を閉じた。隣にニコールがいる。声でわかる。それだけだった。


---


 成田に着いたのは現地時間の翌朝だった。


 入国審査を抜けて、ニコールがグラスをかけ直した俺を見た。


「どう」


「見えています」と俺は言った。グラスのデータベースが照合を始めた。ニコールのプロファイルが表示された。顔の特徴、声紋、歩行パターン。「同期と照合は完了しました」


「感想は」


「思ったより若い」


 ニコールが「誰の事?」と笑った。


 自動ドアが開いた。二月の東京の空気が入ってきた。


 冷たかった。



―― 第2話 了 ――



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