霞ヶ関
坂本浩二は、廊下を歩きながら胃が痛かった。
経済産業省の廊下は、昼間でも人の往来が少ない。会議室のドアが並んでいる。その一つに呼ばれていた。
第三係長として十二年。こんな呼ばれ方は初めてだった。
ドアを開けた。
課長と、課長補佐がいた。それから法務の人間が一人。
坂本は頭を下げた。
「座ってください」と課長は言った。声が平らだった。
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「村田准教授の件です」と課長は言った。「報告が上がっていました。デバイスに通信機能が追加されていた。あなたはそれを把握していましたか」
坂本は少し間を置いた。
「把握していました」
「なぜ報告しなかったんですか」
「想定内だと判断しました」と坂本は言った。「デバイスの研究目的に沿った機能です。水無瀬さんの脳の変化のデータは——」
「そこです」と課長は言った。遮った。「水無瀬さんの意向を確認しましたか」
坂本は答えられなかった。
「していない」と課長は言った。「村田准教授が独自に仕込んだ機能を、あなたは研究上の必要として黙認した。本人の同意なしに。それが問題です」
「データの価値は」
「データの価値は分かっています」と課長は言った。「だからこそ問題なんです。価値があるから慎重にやらなければいけなかった。あなたは判断を緩めた」
坂本は俯いた。
課長補佐が資料を出した。
「さらに問題があります」と課長補佐は言った。「水無瀬さんの脳の変化です。デバイスの信号を直接認識し始めている。これは想定していましたか」
「していませんでした」と坂本は言った。「村田先生も想定していなかったはずです」
「しかし経産省としてのリスク評価がなかった」と課長は言った。「未知の変化が起きている患者を、適切な管理なしに置いていた」
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会議は一時間続いた。
廊下に出た坂本は、窓の外を見た。
霞ヶ関の交差点が見えた。
自分は正しいことをしようとしていた——そう思っていた。μITRONの医療応用、国産技術の実績、データの活用。全部、日本のためになると思っていた。
ただし、一人の15歳の少女の意向を聞かなかった。
坂本はスマホを出した。
村田に電話しようとした。
止めた。
今さら何を言っても遅かった。
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同じ頃、横田基地から一台の車が走っていた。
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ケイが来たのは昼過ぎだった。
日系アメリカ人、30代前半。グラスが照合した。Fujimoto, Kay。元米軍、除隊後Lynceus Japanに入った記録がある。
「お久しぶりです」とケイは言った。日本語が自然だった。
「久しぶりです」と俺は言った。「状況を説明します」
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会議室でニコールと三人で話した。
ケイが資料を確認しながら聞いた。質問が少なかった。必要なことだけ聞いた。
「インフェクター側の実行部隊は」とケイは言った。
「車での追跡が主な手段だと想定しています」とニコールは言った。「軽武装の3から5人程度です」
「芙由さんの現在地は」
「今日の夕方、病院を退院します」と俺は言った。「浦和の両親の家に移動します」
「移動中が一番危ない」とケイは言った。
「そうです」
「もう一つの組と合流するタイミングは」
「今日の夕方、浅草で」と俺は言った。「ケンさんの部下と顔合わせをします」
ケイが少し間を置いた。
「NULLの構成員と組む、ということですか」
「そうです」と俺は言った。「方向は同じです」
ケイが頷いた。それだけだった。
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夕方、浅草の銭湯だった。
脱衣場に人が集まっていた。
ケンの部下が三人。作業着の松田、それから初めて見る二人。グラスが照合した。一致なし、一致なし、一致なし。
ケイが入ってきた。
松田がケイを見た。ケイが松田を見た。
誰も何も言わなかった。
ケンが奥から出てきた。三ツ矢サイダーを持っていた。
「よく来てくれた」とケンは言った。ケイを見た。「元米軍か」
「はい」とケイは言った。
「俺は小学校も出てない」とケンは言った。「それでも、あんたと同じ方向を向いて動く。文句あるか」
「ありません」とケイは言った。
ケンが三ツ矢サイダーを一口飲んだ。
「よし」とケンは言った。「じゃあ始めよう」
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ケンが地図を広げた。
「芙由ちゃんが病院を出て浦和に帰る。その間を守る」とケンは言った。「俺の部下三人が車で前後につく。ケイさんが直接そばにいる。佐藤、あんたはどうする」
「病院から一緒に移動します」と俺は言った。
「ニコールは」
「別ルートで浦和に先回りします」とニコールは言った。「到着後の警戒をします」
「ドローンは」とケイが言った。
「三台用意してある」とケンは言った。「カメラ付きだ。上から見張る」
「重装備は」
「ある」とケンは言った。「使わない。ただし、ある」
ケイが頷いた。
「分かりました」
ケンが地図を指で叩いた。
「インフェクターの船が東京湾に入るまで、あと一日だ」とケンは言った。「今夜は芙由ちゃんを無事に浦和まで送り届ける。それだけだ」
誰も余計なことを言わなかった。
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銭湯を出た。
夜の浅草は人が多かった。
スマホに芙由からメッセージが来ていた。
「今日、退院します。怖いですか、と聞いていいですか」
俺は少し考えた。
「怖いです」と返した。「ただし、対応しています」
少し間があって返信が来た。
「そうですか。ただし悪くなさそうですね」
俺はスマホを見た。
この子はどこでその言葉を覚えたのか。
歩き始めた。
―― 第15話 了 ――




