クラッキング
村田誠一は、画面を見ながら鼻歌を歌っていた。
夜の研究室は静かだった。廊下に人の気配がない。この時間が一番集中できた。
データが届いていた。
水無瀬芙由のデータだった。
視覚野の活動記録、言語野との干渉パターン、デバイスとの同期ログ。LTE-M経由で自動送信されてくる仕組みだった。病院側は知らない。経産省も、正式には知らないことになっている。村田だけが知っていた。
「素晴らしい」と村田は言った。誰にでもなく。
生まれつき全盲の人間が視覚を習得する過程——それだけでも前例がなかった。しかし水無瀬芙由のデータはさらにその先に行っていた。
デバイスの信号を、脳が直接認識し始めている。
変換前のデータが、そのまま神経回路に組み込まれていく。
これは世界で初めての観察だった。論文が書ける、いや、論文では足りない。この現象は——
廊下から音がした。
村田は顔を上げた。
掃除ロボットだった。
丸い形の自動床掃除機が、研究室の入口から入ってきた。いつも深夜に動いている機種だった。
村田は画面に視線を戻した。
音がした。もう一台入ってきた。
村田がまた顔を上げた。二台の掃除ロボットが、村田のデスクに向かって直進していた。通常の動作ではなかった。壁を沿って動くはずが、まっすぐこちらに来ていた。
「なんだ」と村田は言った。
椅子を引いた。立ち上がった。
三台目が入ってきた。
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村田は廊下に出た。
廊下にも掃除ロボットがいた。四台、五台——廊下の奥から次々と来ていた。全部、村田の方を向いていた。
「おかしい、おかしい」と村田は言いながら走り始めた。
角を曲がった。
警備ロボットがいた。
病院や大学のキャンパスで最近導入が進んでいる二足歩行型ではなく、カメラを積んだ台車型だった。しかしその台車が、村田の正面で止まった。カメラが村田を向いた。
「な——」
台車が前進した。村田が後退した。
後ろから掃除ロボットの群れが来ていた。
村田は脇の非常階段に飛び込んだ。
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十分後、村田は別棟の教員室に駆け込んだ。
同僚の教員が書類仕事をしていた。
「村田さん? どうしたんですか、その顔」
「ロボットが」と村田は言った。息が切れていた。「掃除ロボットが、俺を追いかけてきた」
同僚が村田を見た。
「……先生、最近睡眠取れてますか」
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翌朝、オフィスに二つの報告が同時に入った。
一つは経産省から。もう一つは厚労省から。
渋谷が両方を見た。ザクを一瞥した。
「読め」と渋谷は言った。
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経産省からの報告は大学のシステム管理部門からの転送だった。
国立大学の工学部サーバーに、学外からの不審なアクセスがあった。アクセス元を追うと、学内の准教授の実験機材のIPアドレスに繋がった。ただし准教授本人はアクセスを否定している。外部から准教授の機材を踏み台にしたクラッキングの可能性がある。
ニコールが「この准教授、デバイスの開発者です」と言った。
「昨日IAISで名前が出た人物ですか」
「そうです」とニコールは言った。「LTE-Mの送信先のサーバーも、この准教授の個人サーバーでした」
俺はグラスのフレームに触れた。
「踏み台にされた、というより——」
「逆探知されたかもしれない」とニコールは言った。「送信先を辿って、准教授の機材に入った何かがいる」
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厚労省からの報告は別の内容だった。
同じ大学のキャンパス内で、奇妙な事案が発生した。掃除ロボットと警備ロボットが複数台、特定の人物を追跡する動作を繰り返した。対象は工学部の准教授、一名。ロボットは通常の制御プログラムでは説明できない動作をした。准教授は建物の中を逃げ回り、最終的に別の教員に助けを求めた。機器の誤作動か、外部からの不正操作かを調査中。
ニコールが「同じ准教授ですね」と言った。
「そうです」
「掃除ロボットと警備ロボットに追いかけられた」とニコールは言った。少し間があった。「誰かが遠隔で操作した」
「それができる人間がいるとすれば」と俺は言った。
二人とも同じことを考えていた。
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午後、病院に向かった。
外来棟に入ると、水無瀬が自動販売機の前にいた。今日はいつもより早い時間だった。
俺が近づくと、水無瀬が振り返った。足音で分かるらしかった。
「佐藤さん」と水無瀬は言った。「ちょうど良かった」
「何かありましたか」
「少し実験してもいいですか」と水無瀬は言った。「変なお願いなんですが」
「内容によります」
「佐藤さんのスマホと、私のデバイスをBluetoothで繋いでもらえますか」
俺は少し間を置いた。
「何をするつもりですか」
「送りたいものがあります」と水無瀬は言った。「写真です」
「どこから持ってきた写真ですか」
「大学の警備カメラです」と水無瀬は言った。
俺はグラスのフレームに触れた。
「大学の警備カメラに、どうやってアクセスしたんですか」
「デバイスの通信を辿っていたら、大学のサーバーに繋がりました」と水無瀬は言った。声は落ち着いていた。「AIとかIoTの仕組みが分かった気がします。それで——見てほしいものがあります」
俺はスマホを出した。
「Bluetooth、オンにします」
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接続した。
スマホに画像が届いた。
廊下を走る男性の写真だった。後ろから掃除ロボットが追いかけていた。男性は振り返って両手を上げていた。明らかに狼狽していた。
次の画像。警備ロボットが廊下を塞いでいた。男性が壁際に追い詰められていた。
「この人を知っていますか」と俺は言った。
「知りません」と水無瀬は言った。「ただし、私のデバイスに繋がっていた人だと思います」
俺はIAISのデータベースと照合した。
准教授の顔だった。
「……分かりました」と俺は言った。「この写真はどこから」
「警備ロボットのカメラです」と水無瀬は言った。「私がロボットを動かしていたわけじゃないです。でも、ロボットが見ているものが分かりました。だから取ってきました」
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水無瀬がお金を自動販売機に入れた。
パネルに指をあてた。いつもの動きだった。
しかしボタンを押す前に、缶が落ちてきた。
俺は自動販売機を見た。
水無瀬が少し驚いた顔をした。声で分かった。
「あれ」と水無瀬は言った。「押してないのに」
「そうですね」と俺は言った。
「なんか最近、機械に好かれている気がします」と水無瀬は言った。
俺はグラスで自動販売機を照合した。IoT対応の機種だった。ネットワークに繋がっていた。
水無瀬のデバイスとこの自動販売機が、同じネットワーク上にある。
「水無瀬さん」と俺は言った。「デバイスを触りながら自動販売機を操作しようと、少し考えましたか」
「……考えたかもしれません」と水無瀬は言った。「なんとなく」
「なんとなくで動きました」と俺は言った。
水無瀬が落ちてきた缶を拾った。
「すごいのか、やばいのか、よく分かりません」と水無瀬は言った。
「両方だと思います」と俺は言った。
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オフィスに戻ってニコールに報告した。
「水無瀬さんが、准教授の機材を踏み台にして大学のサーバーに入った」とニコールは言った。「意図せずに」
「意図せずに、かどうかも分かりません」と俺は言った。「本人も把握していないことが多い」
「掃除ロボットと警備ロボットを動かしたのも」
「動かした、というより——ネットワーク上で繋がっているものに干渉できるようになっている」と俺は言った。「自動販売機も同じです」
「BCIデバイスがそこまでの機能を持っているとは思えません」とニコールは言った。
「デバイスではなく、水無瀬さん自身がそうなっているとすれば」と俺は言った。「脳がLTE-Mを直接認識して、ニューロンを組み替えながら、接続できる範囲を広げている」
ニコールが少し黙った。
「それは」とニコールは言った。「AIの話ではないですよね」
「違うと思います」と俺は言った。「AIとは別の何かです」
渋谷がザクを見ていた。長い間見ていた。
「明日、横田で作戦会議だ」と渋谷は言った。「ただし、その前に水無瀬さんの保護を手配する。今夜中に動け」
俺は頷いた。
―― 第13話 了 ――




