アスクレピオス
翌朝、ニコールが資料を持ってオフィスに来た。
テーブルに置いた。
「ケンについて調べました」とニコールは言った。「FBIのデータベースに引っかかっています」
俺は資料を見た。グラスが文字を照合する。
「NULL」とニコールは言った。「日本で追跡している情報系ヤクザの組織です。構成員の一人と声紋パターンが近い」
「確定ですか」
「状況証拠です」とニコールは言った。「ただし、あなたが会った人物がNULLの構成員である可能性は高い」
俺はグラスのフレームに触れた。
「敵ですか」
「分類が難しい」とニコールは言った。「NULLは多重債務者を対象にした情報収集と資金洗浄を本業にしています。ただし医療系の犯罪には関与していない。病人は狙わない、という原則があるようです」
「インフェクターとは利害が対立する」
「そうなります」とニコールは言った。「今回の件で言えば、NULLは敵ではない。ただし味方と呼べるかどうかは別問題です」
渋谷が「引き続き接触を続けろ」と言った。それだけだった。
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午後、IAISから新しい照会結果が来た。
経産省のデバイス開発の委託先が分かった。国立大学の研究室だった。担当教員の名前があった。
ニコールが「この人物を調べます」と言った。
俺は別の記録を確認していた。
デバイスに仕込まれたLTE-M通信の送信先を追っていた。転送先のIPアドレスを辿った。最終的に国内の個人サーバーに繋がっていた。
経産省のサーバーではなかった。
「経産省の仕込みではないかもしれない」と俺は言った。
「開発者が独自に仕込んだ可能性がある」とニコールは言った。
「経産省はそれを知っていた可能性があります」と俺は言った。「病院の担当者が言っていた。経産省は驚いていなかった、と」
「知っていて黙認した」
「データが取れるなら、誰が仕込んだかは関係ない」と俺は言った。「水無瀬さんの脳の変化は前例がない現象です。再現性があるかどうかも分からない。それでも——」
「データには価値がある」とニコールは言った。「問題が起きれば、開発者が勝手にやったことで逃げられる」
「担当者が勝手にやったことです、と言えば経産省は関与していない」
ニコールが少し間を置いた。
「政治家みたいな考え方ね」
「そうです」と俺は言った。
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夕方、スマホがニュースアラートを出した。
ニコールも同じ画面を見ていた。
「出ました」とニコールは言った。
医療システムへの不正アクセスの報道だった。都内の複数の病院でデータの書き換えの可能性があると、夕方のニュースが伝えていた。
続けて別のアラートが来た。
一部の議員がコメントを出していた。「信頼性の低い国産データサーバーの使用を制限するべきだ」。
「事実はどうですか」と俺は言った。
「標的にされたのは国産データベースだけです」とニコールは言った。「ただし、それはインフェクターが意図的に国産を狙った。外資系サーバーを無傷のまま残すことで、移行を促す」
「国産が危ない、という印象を作る」
「印象操作です」とニコールは言った。「実際には外資系の方が脆弱なケースもある。しかしそれは報道されない」
渋谷がモニターを見ていた。ザクに視線をやった。また戻した。
「動き出した」と渋谷は言った。
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ニコールが資料を広げた。
「アスクレピオス」とニコールは言った。「それがインフェクターの船の名前です」
「医療の神ですか」
「ギリシャ神話の医神です」とニコールは言った。「インフェクターらしい命名です。フライホイール付きのサーバーを積んだメガクルーザーです。洋上でデータを処理して、どの国の管轄にも引っかからない場所で動いていた」
「今は」
「ハワイを出ました」とニコールは言った。「まもなく東京湾に入ります」
俺はグラスで地図を表示した。太平洋上に一点が表示された。
「東京湾に入れば」と俺は言った。
「日本の管轄になります」とニコールは言った。「ただし、インフェクターが日本の医療データをアメリカのサーバーに移行させることに成功すれば——その後はCLOUD法でどうにでもできます。船の上で処理しても、陸に上がっても、全部アメリカの法律が適用される」
「日本政府はそれを防ぎたい」
「身柄とデータを外交カードとして確保したい」とニコールは言った。「私はインフェクターを止めたい。あなたたちは実績が欲しい」
三者の思惑が揃っていた。
方向は同じだった。
「アスクレピオスが東京湾に入るまで、どのくらいですか」とニコールは言った。渋谷を見た。
「三日です」と渋谷は言った。
窓の外に首都高が見えた。
夜の東京だった。
―― 第11話 了 ――




