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黎明のデシリア  作者: 中條利昭
第十話「辛口カレーに魅せられて」

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第十話「辛口カレーに魅せられて」-7-

第十一話「風鈴」 2026/4/18 8:00投稿予定

「ヒナ、だいじょうぶかな」

 瑞季の家の前まで戻ってくると、優菜が心配の声を漏らした。

「うん。無理してないといいけど」

 瑞季はそう呟きながら、玄関の鍵を回す。家の中は静けさに包まれていた。母のいる気配はない。

 階段を上るたび、胸の奥に溜まっていた不安が、ぎしりと軋んだ。もし悪化していたら。もし、ひとりで無理をしていたら。

 二階の廊下は薄暗く、ヒナの部屋のドアだけが、ほのかに明かりを漏らしている。瑞季はノブに手をかけ、一瞬ためらってから、静かに押し開けた。

 ひんやりした空気が、昼間よりも柔らいでいる。ローテーブルの上では、ヒナがアイス枕に顎を乗せたまま、穏やかな寝息を立てていた。耳はだらりと下がり、尾も無駄に動いていない。苦しそうに浅く上下していた呼吸は、規則正しく、ゆっくりだ。

「……よかった」

 思わず漏れた瑞季の声に、ヒナの耳がぴくりと動く。ゆっくりと目を開けたその表情は、昼間よりも明らかに楽そうだった。

「おかえりニャ」

 掠れは残っているが、声音に余裕がある。

 星輝と優菜もほっと息をつき、顔を見合わせた。ロックアイスは溶けていたものの、まだ冷たさを保っている。ペットボトルの水は大きく減っていた。

「ちゃんと休んでたみたいだね」

「みんなが行ってる間、いい子にしてたニャ」

 冗談めかして笑うヒナを見て、瑞季はようやく肩の力を抜いた。戦いの疲労よりも重かった胸のつかえが、ゆっくりと溶けていく。ヒナの体調は、確かにいくらか良くなっているように見えた。

 瑞季たちがカスパールのことを話すと、「その名前は聞いたことがあるけど、ぼくは会ったことがないニャ。自分で召喚したスレイヴの黒感情を自分で浄化してしまうなんて、変な人もいるんだニャ」と言った。

「何はともあれ、みんなが無事でよかったニャ」

「でも、カスパールが説得しなかったらどうなってたことか……」

「いざとなれば体力を最後まで削りきって無理やり浄化してもいいニャ」

「そういえばその方法も言ってたね。でも、やりたくないかな」

 ヒナは微笑んだ。

「瑞季らしい回答ニャ」

「そうかな? ふたりはどう思う?」

「ウチも同感だ」

「心を救ってあげたいよね」

 うんうん、と嬉しそうに頷いた後、何かを思い出したようにヒナは悲しそうに眉を八の字に曲げた。

「瑞季。今日からぼくのご飯の頻度や量はいくらか減らしてほしいニャ」

「減らせば再発はしなさそうなの?」

「分からないけど、たぶん少し減らせばいいと思うニャ。元々、閾値しきいちにはちょっとだけ気を配っていたから……。これくらいで身体を壊してしまうなんて、困ったものニャ」

「本来いらないんでしょ?」

「それはそうだけどニャ……」

「そんなに落ち込むこと? いらないんでしょ?」

「瑞季厳しいニャ……」

「これまで私の財布を圧迫してたんだから、ちょっとくらい厳しくもなるよ。押し入れが汚いのバラされたし」

 そんな瑞季を星輝が「まあまあ」と宥める。

「そんなきついこと言ってやんなって。うまいものを食えないのは苦しいもんだし。な、ヒナ」

「さすが星輝ニャ。話せばわかる聡明な人ニャ」

「だろ?」

 瑞季は釈然とせず、ヒナを睨む。

「もしかして私、話してもわからない馬鹿だ、ってディスられてる?」


           ◆


 日没頃、しばらく町をうろついていたカスパールは再びカレー屋の前へ来ていた。胸ポケットからお昼にもらったカレー無料券を取り出す。

「我ながらいい具合に腹を空かせられたものだ」

 果たしてカレーとはどのような食べ物なのだろうか。

 カスパールは想像を巡らせようとするが、かすかに店の外に香る複雑な香りは、これまでに出会った食べ物に近しいものがなく、まるで想像がつかなかった。

 カレー屋の扉を開けると、スパイスの香りが一段と強く鼻に入ってきた。

 店内は洋風のカフェのようだった。

 まだ時間が浅いからか、客は一組の若い男たちがテーブル席にいるだけだった。

「いらっしゃいませ! あ! お昼はありがとうございました!」

「礼には及ばん。人として当然のことをしたまでだ」

 カスパールはカウンターの奥の店主へ無料券を差し出す。

「トッピングはいかがいたしましょうか」

 店員はカウンターに置いていたメニュー表を開き、その右上のリストを指差した。「ウインナー」「コロッケ」「ハンバーグ」「エビフライ」「卵焼き」「全部乗せ」と書かれている。日本語を勉強中の彼女はかろうじてそれらすべてを読むことができたが、それらがどのような食べ物であるかを知らなかった。

「ほう。他に追加注文をして彩る食べ物なのだな。だが、まずは単品を頂くとしよう」

 初めて入るお店では看板商品を単品で嗜むのが私の流儀——、と彼女は心の中で唱えた。

「はい! カレートッピングなし一丁入ります! お好きな席にお掛けしてお待ちください」

「承知した」

 カウンター席の一番端の椅子を引き、腰をかける。さきほど本屋で買った広辞苑の入った紙袋を膝の上に置く。

 その際に、若者たちが喋りながら食べているものに目をやった。銀色のスプーンに茶色のドロッとした液体と白いご飯を乗せ、口に運んでいる。ご飯と液体は別々に食べるのではなく、一緒に頂くのだと、カスパールは学んだ。

「お水どうぞ」

「どうも」

 香りから察するに、多量の調味料を駆使した濃い味の食べ物なのだとカスパールは想像していた。ということは、水の役割が大きいのではなかろうか。

 しばらく待っていると、店主が「お待たせしました!」と彼女の前に大きなお皿を置いた。円形の深いお皿の端に白ごはんが円く盛られ、残りをルーが占めている。濃茶色の中には、小指の先くらいの大きさに切られた人参やじゃがいも、豚肉がぽつぽつと浮いていた。

 目の前にすると、写真などで見ていたものとはまるで迫力が違う。

 そのスパイスの香りが、食欲を強く掻き立てていた。

「ありがとう。では、頂くとしよう」

「召し上がれ」

 食事を食べ終えて立ち上がる若者たちを見て、店主はレジへ向かう。四人の若者のうちひとりがスマートフォンを取り出し、それをレジの店主に見せた。

 こちらの世界にも電子決済があるのだな、と思いつつ、カスパールは両手を合わせた。

「いただきます」

 先ほど買った広辞苑で、日本人はものを食べる前に両手を合わして礼をしながら「いただきます」と言うのだとカスパールは学んでいた。カレーの項はまだ読んでいない。あとで読まねば。

 一旦カスパールはルーのみをスプーンで掬う。遠目で見たときはもっとドロっとした印象だったが、彼女が想像していたよりはサラサラとしていた。味も思うほど濃くないのかもしれない——そう思いながら、スプーンを口に運び、舌の上に流した。

「っ!? こ、これは……!!」

 カスパールは言葉を失い、硬直した。しかし、心の中で叫び続けていた。

 なんという複雑な旨味……! そして辛さ! この香りはいったい……。我が国にあるスパイスのどれともまるで違う……。よもや、何十種類ものスパイスを合わせているのか? そうに違いない! この複雑さはひとつのスパイスから成るものではないはずだ! しかし、それほど大量のスパイスを用いてこれほど整った味になるものだろうか……。これは、もはや奇跡の代物だ!!!!

 彼女は改めてメニューを見る。700円と書いてある。本屋での本から為替を逆算するに、この味でこの値段は破格だった。

「桁がひとつ違うのではないか……?」

「お気に召しましたか?」

 その声に顔を上げると、店主が笑顔で立っていた。笑顔ではあるが、その瞳の奥には「恩人に自分の料理が喜んでもらえているだろうか」という不安が見え隠れしている。

 カスパールは口の中のものを飲み込み、拳と声を震わせる。

「私は……猛烈に感動している。これほど刺激的かつ美味なものは、生まれて初めてだ」

「いやあ、お世辞がお上手ですなあ」

「世辞などではない」

 カスパールの瞳には涙が浮かんでいた。

 それを見た店主は、やや引いていた。

「最後の一滴までとくと味わわせてもらおう」

 宣言し、カスパールは一心不乱にカレーを食らい続けた。



(第十話「辛口カレーに魅せられて」了)

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