第十話「辛口カレーに魅せられて」-6-
スレイヴは膝をついて足元を殴る。アスファルト走った亀裂に指を入れてアスファルトのかけらを引きちぎり、リアハイリンへ投げた。
リアスピサがそれを火球をぶつけ、アスファルトのかけらはバラバラに砕けた。
《お前らみたいなガキには何も分からねえだろうよ。俺の苦しみが》
「分からないかどうかは、聞いてみないと分からないよ」
《いいだろう。教えてやろう》
スレイヴはリアハイリンへ飛びつく。
彼女にたどり着く前に現れた水の盾を、スレイヴが掴もうとする。しかし、その手の親指と中指をリアスピサが掴んで動きを止めた。
《俺は昔から勉強が苦手で、大学には行こうとも思わず高卒で就職した。建設会社の作業員——いわゆる土方だ》
スレイヴは水の盾とリアスピサの力から逃れようとしていたが、依然として動けないでいた。
男の心は続ける。
《でも、その会社でパワハラを受けたんだ。恒例の新人いびりってやつに耐えられなくて、うつ病を発症した。会社は辞めて、日の光を浴びる気にすらなれないまま一年間も寝込んだんだ》
「ひどい……」
《カウンセリングの先生と相談しながら、俺は気づいた。自分は集団の中の働き蟻でいることが向いてない、って》
スレイヴはつらつらと話し続ける。その様子からリアハイリンは、「この人は誰かに自分の話を聞いてほしかったんじゃないか」と感じた。
《職業相性診断をすると、クリエイティブ系が向いているって言われた。俺は昔から絵を描くのが好きだった。身の回りの商品のパッケージデザインを眺めるのが好きだった。だから俺はCGデザイン系の専門学校に入学したんだ。親に頭を下げて高額な入学金や授業料、必要なPCソフトの代金を払ってもらって。三年間専門学校に通って、就職活動をしたけど、残念ながら俺は学校で大した実力をつけられず、俺をクリエイターとして拾ってくれる会社はなかった。……俺の通っていた専門学校は、限りなく百パーセントに近い希望就職率の高さを売りにしていた。でも、実際に希望の職種につけたのはほんの一握りの、化け物みたいに優秀なやつだけだった。ほとんどの学生は希望の職種へ手が届かず、心が折れた。結局給料の安い単純作業ばかりやらされる会社や派遣会社を学校から紹介されて就職するか、『私は就職を希望しません』みたいな誓約書にサインさせられて、学校の売り文句である希望就職率の分母から弾かれるだけだった》
「生々しい……」
語られる社会の闇は、まるでどこか別の世界の出来事のように感じられ、取り残されていく感覚があった。
ただ、それが間違いなく現実の出来事であるのも理解していた。
これ以上、この話を聞いていたくなかった。
スレイヴは雄叫びを上げ、リアスピサに掴まれた右手を無理やり引っ張った。彼女に掴まれていた中指と親指が、手を握る方向とは逆方向に曲がると、ついに右腕が解放された。拳にならない拳で水の盾を殴る。何度も殴る。いつか、折れた指が引きちぎれてしまいそうだった。
《俺はなんとか派遣会社に登録し、派遣社員としてあちこちで働かされることになった。給料は生きるのに精一杯になるような少額で、親への借金なんて返せるはずもなかった。三番目の現場で、俺は元派遣の正社員に出会った。ここで頑張れば正社員になれるかもしれないと思い、俺は与えられた仕事を必死にこなした。不器用ながら周囲に業務を教えてもらって頑張った。三年目の契約更新のとき、単価が上がったことを現場から聞いたのに給料が一円も上がらず手取りが下がっても、俺は耐え続けた。そのまま五年、そこで業務を続けた》
話が明るくなっていくにつれ、リアハイリンは「頑張れ! その調子だ!」と念じていた。五年程度一箇所で派遣を続ければ正社員になることも珍しくない、と聞いたことがあった。しかし、
《不況による事業縮小で、俺はいとも簡単に切られた》
驚くほどの速度で話がどん底に落ち、リアハイリンの気分も暗く沈んでしまった。
《派遣じゃダメだとようやく本気で焦り始め、俺は正社員でデスクワークの仕事を探した。身体が弱いし、昔のトラウマもあるから肉体労働は御免だった。しかし、派遣の単純作業しかさせてもらえず、専門技術を何も身につけられなかった三十二歳のおっさんを採用してくれる企業には、まだ出会えていない。親に借金を返すこともできないまま、ついになけなしの貯金が尽きちまった》
生々し過ぎてリアハイリンには何も声をかけられそうになかった。
リアマイムとリアスピサも同じ気持ちらしく、えも言わぬ顔を互いに合わせることしかできないでいる。
《こんなクソみたいなシステムの国でどうやって生きていけばいいんだよ……。俺を救えるってんなら救ってくれよ!》
スレイヴは水の盾を殴ることを諦め、曲がった首を水の盾に叩きつけた。その一撃でとうとう盾は敗れ、ハンマーとなったスレイヴの頭が、リアハイリンに振り下ろされた。
残りの力を振り絞り、受け止める。
《この際、最後に好きなものを腹一杯食い逃げして牢屋にぶち込まれた方がマシだ。いっそその辺の女を食ってやってもいい。ムカつくやつを殴り殺してやってもいい。こんなに俺を追い込んだこの世界が悪いんだ》
「そんなこと言わないで!」
リアマイムとリアスピサがスレイヴの左の脇腹と肩を殴り、吹き飛ばした。
嫌悪感と筋肉の痛みで、リアハイリンは吐き気を催していた。
それでも、どうすれば男を救うことができるか、考えるのを辞めはしない。
しかし、どんな声をかければ彼が救われるのか、まったく思いつかなかった。
リアマイムたちもそのようだった。
ある意味で、過去最大に強大な黒感情の相手かもしれない。
せめて自分に社会人経験があれば——と思ったときだった。
「——甘ったれるな!」
大砲のような怒声が響いた。
「……え?」
「貴殿は本当に全力を出し切ったのか!」
カスパールはアパートの二階の柵から飛び、スレイヴとリアハイリンの間に着地した。起き上げることもできないスレイヴを睨みつける。困惑するリアハイリンたちのことなど視界に入っていないらしい。
「ええい! さっきから黙って聞いていたら調子の良いことをダラダラと述べ続けおって。我慢ならん! はっきり言わせてもらうぞ!」
リアハイリンたちのことを置いてけぼりにし、カスパールは背中で腕を組みながら続けた。
「病気で体が動かせない。心が動かせない。業務外でスキルを身につける努力をする暇がないほど忙しかった。それなら同情はできる。だが、貴殿の話を聞いている限り、本当に努力する隙間がなかったようには聞こえなかったぞ。身体が弱いなら鍛えなおせばいい。デスクワークのスキルがないなら、多少の投資をしてでも死にもぐるいで取りに行け。変な言い訳をする前に、まず動け。仕事を選ぶな。時計など見るな。なんでもやれ。自分が社会的に不利な状況にいると分かっていながら、なぜ自分を徹底的に追い込まない!」
その根性論に、思わずリアハイリンは横槍を入れてしまう。
「それはちょっと時代錯誤な精神論な気が」
「外野が口を挟むな! 私の話はまだ終わっていない!」
「外野どころか、バッターボックスに立つ対戦相手だと思うんだけど」
「貴殿は一人暮らしか?」
カスパールは本来戦うべき相手を無視してスレイヴに対峙する。
《……はい》
弱々しい敬語だった。まるで学校で一番怖い先生に怒られる小学生男子だ。
「そこに座れ」
《はい》
スレイヴは両膝を合わせて地面につけ、そこを支点にして身体を起こした。正座の体勢だ。
「それなら時間は言い訳にならないな。家庭の事情で時間が取れないというのであれば、同情の余地がある。どうせ家でも社会の理不尽さを嘆きながら、退屈な時を過ごしているのだろう」
図星らしく、スレイヴは目を逸らした。
再びリアハイリンたちは互いに顔を合わせる。
「意外と効いてる?」
「みたいだね」
「うーん。なんだこれ」
カスパールは右手を胸の前に出し、強く握りしめて続けた。
「社会的逆境というものは、それを乗り越えようとがむしゃらに走れば強力な経歴へと変わる。それでも誰にも認められぬなら、私が貴殿の足跡を精査してやろう。そこに逆境を乗り越えようとした意志が感じられたら、我が軍に入隊させてやる。感じられなかったら、私がみっちり鍛え直してやる。町一番の不良を、二日で泣きながらゴミ拾いさせるようにするほど更生させる私の訓練を、思う存分堪能させてやる。終わった頃には、社会の理不尽を理由に罪を犯そうなどという気は起こらないことだろう」
《もうちょっと頑張ってみます……》
今にも泣き出しそうな声だった。
「ああ。次に貴殿を見かけたときに、その目つきが変わっていることを願っている。――さあ、デシリアよ。浄化してやれ」
「え」
よく見ると、先ほどまでスレイヴから感じていた禍々しい黒感情は消え去っていた。いつでも浄化できる状況だ。
「あ、はい」
「まったく。軟弱すぎる。これが平和呆けというものなのか」
そのままカスパールはどこかに歩き去っていく。
彼女の背中を目で追いかける三人と、正座して俯く置物のような黒紫色の巨体だけが残された。
「なんだったんだ? あの人」
「さあ……」
「あんまり悪い人ではなさそうだけど」
リアマイムは、親に怒られた子供みたいなスレイヴを眺め、言った。
「あの人の言うことが正論だとは思わないけど、この人に必要だったのは、厳しい言葉をかけてくれる人だったのかもしれないね」
「そういうものなのかな……」
いまいち釈然としないまま、リアハイリンはスレイヴを浄化した。




