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黎明のデシリア  作者: 中條利昭
第十話「辛口カレーに魅せられて」

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第十話「辛口カレーに魅せられて」-3-

 休日の昼下がり。

 繋町は、どこか気の抜けたような穏やかな空気に満ちていた。太陽は高く、初夏の気配を漂わせる風が緩やかに吹き抜けていく。

「……相変わらず平和な町だ」

 カスパールは、そんな町並みを縫うように続く脇道を、目的なく散策していた。

 この国に来てから何度かこの町を訪れているが、その度に感じるのは、故郷パルメダとは異なる、緩慢で、退屈なほどの静けさだった。

 山を削って造成されたこの町は、地形に逆らわず作られたためか、全体が緩やかな坂になっており、道は曲がりくねっている。大通りを外れれば、民家の軒先を掠めるような細い路地や、苔むした石段が現れることもあった。

 カスパールは、そんな迷路のような脇道を辿るのが嫌いではなかった。計画性のない散策は、気晴らしには丁度いい。

 アスファルトで舗装された三十段ほどの狭い階段を、カスパールは静かに上りきった。現れた道路は、中央線こそないものの、徐行すれば自動車が悠々とすれ違える程度の道幅がある。道の両脇には、古びた民家と真新しいマンションが混在し、小さな公園が彩りを添えていた。

 平凡で、どこにでもある日本の住宅街の風景。

 ふと、カスパールの鼻腔を、これまで経験したことのない不思議な香りが掠めた。

「……む。これは……食べ物の匂い、だろうか」

 濃厚で、それでいてどこか食欲をそそる香り。未知の香りではあったが、不快ではない。むしろ、奇妙な心地よささえ感じさせる。

 香りの源を探るように、カスパールは周囲を見渡した。

 階段を上がってすぐ左手。そこには、五階建てほどの、やや古びた縦長のビルが建っていた。その一階部分に、その香りの発生源と思われる店舗があった。

 ガラス張りの扉には『CURRY HOUSE』と洒落た文字が描かれ、その脇には年季の入った木製の立て看板が置かれている。看板には、丸い皿の中央に白いご飯が盛られ、その周りをとろりとした茶褐色の液体が満たしている料理の写真。その下には、カスパールがまだ習得しきれていない複雑な文字——漢字で『特製ビーフカレー』と書かれていた。

 どうやらこの店は、『カレー』なる異国の料理の専門店のようだ。

「……摩訶不思議な香りだ。これは、少々気になるではないか」

 未知の文化に触れるのは、やぶさかではない。しかし、ヘヴンのアジトで昼食は済ませてきたばかりだった。

 看板の隅に書かれた営業時間を見ると、夜は十八時から開店するらしい。

「……ふむ。時間はある。夕刻までこの近くを散策し、戻ってきてみるのも一興か」

 そう決めると、カスパールは立て看板から離れ、再び道なりに歩き始めた。

 だが、十歩と進まないうちに、背後で木製の扉が激しく開け放たれる音と、カラン、とけたたましい鈴の音が響いた。

 何事かとカスパールが振り返る。

 先ほどのカレー屋から、三十歳前後の男が鬼の形相で飛び出してくるところだった。

 男の目は充血し、荒い息をついている。その尋常でない様子は、昼下がりののどかな町の風景の中では、ひどく異質で不穏なものに見えた。

 状況を理解できずにいると、店の中からエプロン姿の若い男性店員が顔を出し、必死の形相で叫んだ。

「誰か! その男を捕まえてください! 食い逃げです!」

 なるほど、とカスパールは内心で呟いた。平和に見えるこの町にも、このような輩は存在するらしい。

「くそっ、邪魔だ!」

 食い逃げ男は悪態をつきながら走り出した。

 その逃走経路の先には、ちょうどカスパールが立ちはだかっている。

 男は、既に罪を犯した身ゆえか、あるいは単に相手が女だからと侮ったのか、カスパールを避ける素振りも見せず、一直線に突っ込んできた。

 やれやれ、と呟くカスパールは一歩も退かない。

 食い逃げ男は「どけえ!」と声を裏返しながら左腕を右に振りかぶり、カスパールの肩を左手の甲で殴ってどかそうとした。

 だが、男の腕がカスパールに触れる直前、その動きはぴたりと止められた。カスパールが、男の振りかぶった左腕を、自身の左手でこともなげに掴んでいたのだ。

 男が驚愕の声を上げる間もなく、カスパールの空いていた右手が男の胸ぐらを鷲掴みにしていた。流れるような動きで体勢を低くし、男の懐に滑り込む。掴んだ腕を引き寄せながら、背中を軸に男の身体を宙に舞わせると、そのままアスファルトへと叩きつけた。

 鈍い音と共に、男は腰から落下し、地面を転がる。

「ぐああ……いてっ……」

 腰を強打した男は苦痛に顔を歪め、呻き声を上げる。カスパールは無表情のまま男を見下ろし、冷ややかに言い放った。

「この豊かな町にも、無様なことをする者がいるのだな」

 カスパールは食い逃げ男から手を放す。

 店主の男性が駆け寄ってきた。

「あ、ありがとうございます! お嬢さん、お怪我はありませんか?」

「お嬢さん……?」

 カスパールは三十八歳だ。お嬢さんなどという表現をされるのは、いつぶりだろうか。翻訳機の誤訳を疑う。

 ただ、悪い気分ではなかった。

「ああ、問題ない」

 カスパールは短く答える。

「それより、この男の処遇をどうするかだ」

「そ、そうですね……。今のは見事な技でした。柔道か何かですか?」

「この国の柔道という武術によく似ているが、私の国の武術の基本技だ」

 食い逃げ男は腰を抑えながら立ち上がり、カスパールを睨んだ。その目には憤怒と羞恥が現れている。

「女のくせに……舐めやがって!」

 逆上した男は再びカスパールに殴りかかってきた。

 しかし、その動きは怒りに任せただけで、速度もなければ隙だらけ。無駄な動きが多く、格闘技の心得など微塵も感じられない、素人丸出しの攻撃だった。

 カスパールはその振りかぶられた拳を、手首を軽く払うようにして弾き、がら空きになった男の鳩尾みぞおちへと拳を打ち込んだ。

「ぐぶっ……!」

 男は言葉にならない呻き声を上げ、自身の鳩尾を押さえてその場に膝をついた。激しい嗚咽混じりの咳をしながら、苦痛に身を捩らせる。

「舐めているのは貴殿の方では?」

 ゲホゲホと咳き込み続ける男を、カスパールは冷徹に見下ろした。そして、ふと何かに気づいたように尋ねる。

「ところで、財布は持っていないのか? 最初から払う気がなかった、というわけではあるまい?」

「……げほっ……現金は、もう……ない……」

 男は苦し紛れに答える。

「ふむ。だが、クレジットカードはあるようだな」

 カスパールは、男の前の前に二つ折りの財布を差し出す。

 男は驚いて自分のズボンの尻ポケットを探るが、そこにあるはずの財布は影も形もなかった。

「て、てめえ! いつの間に財布を!」

「投げたときに拝借しておいた。これを使えば、支払えるのではないか?」

「……口座に金がねえんだよ」

「ならば、働け」

 カスパールの言葉はシンプルで、一切の同情を含んでいなかった。

「……っ、働く場所もねえんだよ!!」

 食い逃げ男は、しゃがんだ姿勢から蛙のようにカスパールへ飛びかかった。カスパールは財布を持ったままひらりと身を躱して男の背後に回り込み、その首に素早く腕を回した。

 そのまま、的確な力加減で頸動脈を圧迫する。

「ぐ……ぁ……」

 食い逃げ男の身体から力が抜け、全体重がカスパールの腕にかかる。彼女は食い逃げ男の膝を地面につけさせ、そのままゆっくりとうつ伏せにして寝かせた。

 カスパールは気絶した男の財布を、元の尻ポケットに無造作にしまい込みながら、呆然と見守っていた店主に尋ねた。

「それで、この男が支払うべき料金はいくらだ?」

「あ……えっと、千円です」

 カスパールは頷くと、自身の腰につけた小さな革のポーチから、コンパクトな折りたたみ財布を取り出した。中から千円札を一枚抜き取り、店主に差し出す。

「ならば、これで一旦代替えしておこう」

「えっ、いや、そんな! お嬢さんに払っていただくわけには……!」

「構わん。手間賃だと思えば安いものだ」

 カスパールは有無を言わさぬ口調で言うと、半ば強引に千円札を店主に握らせた。

 店主は恐縮しながらも、深く頭を下げる。

「あ……ありがとうございます! 本当に、助かりました!」

「礼には及ばん」

 カスパールはそう言うと、踵を返してその場を去ろうとした。

 だが、店主が「少々お待ちください!」と慌てて呼び止め、店の中へと駆け戻っていく。鉄道の切符のような小さな紙片を手に持って戻ってきた。

「こちら、ほんのお気持ちですが……!」

 その紙には『カレー無料券』と書かれていた。

 しかし日本語を勉強中であり、まだ漢字が不自由なカスパールには『無料券』という言葉の意味が分からなかった。金髪で青い瞳を持つ彼女が日本人でないことは男性にも明らかであり、「無料券です。フリーチケット。これを持ってきてくだされば、カレー一杯を無料で提供いたします」と言った。

 翻訳機があるため聞き取りは問題なくできる彼女は「なるほど」と頷き、カレー無料券を貰った。

「いつでも、いらしてください。心よりお待ちしております」

「そうか。では、また夕方にでも、改めて世話になることにしよう」

 カスパールがそう言うと、店主は再び深々と頭を下げ、今度こそ店の中へと戻っていった。

 後に残されたのは、カスパールと、アスファルトの上に伸びている食い逃げの男だけだった。周囲には、遠巻きに様子を窺う人影がいくつか見える。

「……ふむ。このままここに残していても、他の者の迷惑になるだけだろう。仕方あるまい」

 カスパールは小さくため息をつくと、気絶している男のポロシャツの襟首を無造作に掴み、ずるずると引きずり始めた。向かう先は、近くのビルの間の、日が差さない薄暗い路地裏。

 路地裏の壁に男の背中をもたれさせると、カスパールはパンパン、と軽い音を立てて男の頬を叩いた。

「おい、起きろ」

「……ん……うぅ……」

 男が呻きながら、ゆっくりと瞼を開ける。意識が朦朧としているようだった。

「まったく、情けないものだ。だが……」

 カスパールの目が、男の内側にあるものを見透かすように細められる。男が放つ、仕事も金も失い、社会からも見放され、挙句の果てには食い逃げという浅ましい行為にまで手を染めてしまったことへの自己嫌悪、絶望、そして世の中への逆恨み——その、どす黒く淀んだ感情の気配を、カスパールは敏感に感じ取っていた。

「その黒感情は利用できる」

 カスパールは呟くと、腰のポーチから手のひらほどの大きさの水晶を取り出した。そして、まだぼんやりとしている男の目の前に、その水晶を掲げる。

「『水晶よ。黒を喰え』」

 冷徹な声と共に、水晶が禍々しい光を放ち始めた。男の瞳に、絶望とはまた違う、暗い光が宿るのが見えた。


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