第九話「どん底の親子」-3-
ヘヴンの傭兵・ブラフザールが繋市に来たのは、この日が初めてだった。カスパールは何度か任務外で訪れているようだが、彼は任務以外で敵地へ赴くことを良しとしない性格だった。たとえ平和な町だと知らされていようとも。
いざ訪れてみると、想像以上にこの町は平和だった。もっとも、この町に限らず、国全体がそうであるらしい。
夕方、ブラフザールは地下鉄繋駅の付近に降り立った。商業ビルよりもオフィスビルが多く立ち並ぶこのあたりは、郊外の中心地といった趣だ。彼の故郷とも雰囲気が近しい。
駅は会社員や学生が多く利用しており、人手は少なくない。時刻表を確認すると、この時間は十分に一本程度電車が止まるらしい。朝はその倍以上の本数となっている。
駅を出て真っ先に見えるのは、一般車やタクシーが利用するターミナルだ。その北側にはバスターミナルがあり、その中央には二本のバスが休憩している。
駅を出てバスターミナル側に向かうと、四本のコンクリートの柱と木製の屋根による簡易的な休憩所があり、飲料の自動販売機が三つ並んでいた。ふたつは缶やペットボトルの飲料が並び、ひとつは紙の容器の飲料が並んでいた。どの自販機にも傷はない。その自販機の前には若い男が品揃えを確認しており、しばらく悩んでから彼はジーンズパンツの後ろポケットから長財布を取り出し、小銭で五百ミリリットルの炭酸飲料を購入した。彼はまた長財布を後ろポケットに突っ込み、財布の半分を晒したまま去っていった。
「治安が良いのだな。無人販売機には傷ひとつなく、当たり前のように後ろポケットに長財布を入れられるとは。思えば、我が国にも戦前はあのような景色が散見されたかもしれぬ」
ブラフザールは空を見上げる。ここに来たときよりも空の茜色が暗くなっていた。
空とは、このように変化するものなのか——。
「休戦して八年あまりが経った。その間一度も戻っておらぬが、治安は戻っているのだろうか。——いいや、今はそんなことなどどうでもいい。任務中だ」
こちらがまだ生身である以上、第一世代では戦力にならない。黒感情を素体として強力なスレイヴ、通称『第二世代スレイヴ』を使う必要がある。しかし、目立った黒感情を持つ者は周囲に見当たらなかった。
ブラフザールたちヘヴンの傭兵は人々の黒感情が見える。
その力は、光の連邦侵略前に彼らのリーダーであるジンの手術で授かった能力だった。これにより、何百メートルも先にいる人物の黒感情まで見ることができる。
ただし、ブラフザールにはその黒感情がどのような性質の物であるかということまで把握することはできなかった。彼とは違い、メルキーヴァは元から人の感情を読み取ることが得意であり、この力によって黒感情の詳細まで把握することができたらしい。
ブラフザールは感情が表に出にくいにもかかわらず、メルキーヴァは時折彼の心を読んだ。ブラフザールにはそれが気色悪く、彼の軽い口調や性格が性に合わないことも相まって、気に食わなかった。
「離れるとしよう」
駅から県道に沿って南へ進むと三叉路があり、そこを東に曲がると川幅十メートルの川を越える橋がかかっている。そこから北を向くと数百メートル先に似た橋が見えた。先日ナーサがデシリアたちと戦ったのはその橋の麓だ。
川を超え、河川沿いの堤防を南へ進んだ。町を見下ろすことができるこの場所なら黒感情の持ち主が見つかると思ったが、なかなか見つからなかった。
一本先の国道を越えて進んでいくと自動車専用道路が堤防を横切っており、それ以上進めなくなっていた。一旦、川の外側へ降り、自動車専用道路の下を横断するトンネルへ入る。この頃にはすっかり空が真っ暗になっており、壁面の黄ばんだ白色電灯によりトンネルの中は明るかった。
トンネルに入り、そのまま抜けようとしたとき、背後から足音が聞こえた。振り返ると、強い黒感情を放つ男がこちらに歩いてきていた。
ブラフザールは立ち止まる。その男の背丈はブラフザールより高いが、体格はずっと細かった。歳は五十程度だろうか。背中を丸め、俯いて歩いている。紺色の背広の生地は滑らかで、肩や袖の長さには無駄がない。オーダーメイドのスーツだろう。身なりからは地位が高いことが容易に窺えるが、抱えた黒感情やかすかに酒気を帯びた顔色、丸まった背中には気品がなかった。
男の視界にはブラフザールなど入っていないらしく、そのままトンネルを通り過ぎていった。
ブラフザールはポーチに手を入れ、水晶を取り出そうとする。そのとき、もうひとり男がトンネルに入ってきた。ワイシャツを着た中学生くらいの子供だ。幼さが残りつつも整った顔立ちをしている。眉毛が八の字に曲がっているが俯いてはおらず、視線は先ほどの男の背中に向いている。どうやらこの子供は先程の男を追っているらしい。
少年は一度ブラフザールに目をやるが、あまり気にした風ではなく、彼の横を通り過ぎていった。
「あの子供を追うか」
南へ向かう中高年男性を追う少年を追いかけること三分。
男性はサッカーグラウンドに入っていった。ブラフザールはサッカーという競技を知らないが、ここが何かの球技をする場所であることは一目で分かった。中高年男性は北西からグラウンドに入り、フェンス沿いのベンチに腰掛けた。
彼の跡を追っていた少年はグラウンド内に入らず、フェンスに身を隠して中高年男性を見つめていた。
ふたりの関係はよく分からないが、年恰好からして親子と考えるのが自然だろう。
何かしら事情があるようだが、ブラフザールにはどうでもよかった。
立ち止まる少年を追い抜き、いくつかの街灯に照らされるだけの薄暗いグラウンドに入ってく。
そして、男の前に立つ。近くから見たところで、ブラフザールにはその黒感情の性質は見えない。
中年男性が顔を上げた。
「な、なんですか?」
「貴様の黒感情を使わせてもらう」
「くろ、かんじょう……?」
「許せ」
メルキーヴァは腰のポーチから水晶を取り出す。ブラフザールの左右の手のひらでようやく包み込めるほどの球体だった。
それを中年男性の目の前に掲げる。中年男性の視線はその水晶に引き込まれていた。
「『水晶よ。黒を喰え』」




