第九話「どん底の親子」-2-
部活動を終えて校門を出たのは、陽が完全に落ちきった後だった。
サッカー部の練習はいつも長引く。泥だらけのバッグを肩にかけ、莉照蓮司は同級生や後輩と他愛ない話を交わしながら駅までの道を歩いた。ひとり、またひとりと別れ、最後の友だちが手を振って角を曲がる。
笑顔が視界から消えた瞬間、蓮司の顔からもまた、感情の温度が消えていく。
口元は結ばれ、視線は地面に落ちる。自分が笑っていた記憶すら幻のように思えた。
ボストンバッグの重さが、急に現実味を帯びて肩にのしかかる。今日だけではない。ここしばらく、蓮司は帰り道になると決まって気持ちが沈んでいた。
かつては尊敬してやまなかった父——大きな背中に、夢を重ねていた日々はもう遠い。
現在家にいるのは、無気力に沈みきった男でしかなかった。背中は丸まり、覇気はなく、歩いた跡の空気さえも黴臭くよどんで感じられるほどだ。言葉を発することさえほとんどない。
母も、蓮司も、それに呑まれていた。何も話さない空間に身を置くと、ひとりでいるよりも孤独を感じるのだと知った。
自宅付近に差しかかると、周囲は闇に沈み、街灯の光も頼りない。物音ひとつ立たないのに、不思議と何者かに監視されているかのような気配が漂っていた。
敷地に入ると、玄関の人感センサーが彼の存在を感知して灯る。
重たい扉を引くと、また別の灯りがぼんやりと点った。玄関の床はよく掃除されていたが、乱暴に脱ぎ捨てられた革靴がその秩序を歪めている。母の靴はない。リビングからはテレビの笑い声が漏れ聞こえていた。耳に触れるその軽薄さが、やけに白々しく響く。
「ただいま」
小さく呟いてみても、返事は返ってこない。
靴を揃え、バッグを階段の一段目に置いて、蓮司は脱衣所へと向かった。洗濯機に体操服を投げ入れ、冷たい水で手を洗う。照明のついていない洗面所の鏡には、目の下に隈を浮かべた無力な顔が映っていた。
うがいを済ませて廊下に戻る。空腹を感じていたが、キッチンに向かうには、リビング——父のいる場所を通らなければならない。
廊下の照明は消えたままだ。玄関の灯りも自動で落ち、蓮司の影を照らすのは、リビングの扉から漏れるテレビの人工的な光だけ。ため息をつき、廊下を歩き出す。たった数メートルの道のりが、終わりのないトンネルのように感じられた。
扉を開けると、テレビのけたたましい笑い声が、蓮司の鼓膜を殴った。その空虚な喧騒の中で、ソファに座る父の背中だけが、異様な静寂を纏って小さく見えた。
ビールの腐ったような匂いが鼻をつく。
「……親父」
喉から絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。
父・莉照光司は反応を見せない。寝ているのか、あるいは、何かを考えているふりをしているのか。
「ちょっと……引きずりすぎなんじゃないか?」
声が震えた。本当に眠っていればいいと願いながら、それでも口を開いた。
「親父のそんな姿……見たくねえんだよ。だから、早く前みたいに——」
「おまえまで俺を否定するのか!」
テーブルを叩く轟音が空気を裂いた。振動とともに恐怖が襲いかかる。父が、蓮司を睨みつけていた。乱れた髪、酒気を帯びた顔。ビールの缶が二本、転がり、一本からは尿じみた液体がテーブルにこぼれていた。
立ち上がった父が、音を立てて蓮司に近づく。そして、制服のネクタイを掴んで引き寄せ、顔が数センチの距離に迫る。
熱く、生臭い吐息が蓮司の顔を撫でた。
「おまえまで……おまえなんかにまで!」
蓮司は目を逸らした。息をするのも苦しかった。
「くそっ」
突き飛ばされ、尻もちをついた。父はそのまま蓮司を超えて、玄関へと向かっていく。
「親父、どこに……」
「黙れ」
玄関の扉が開かれ、夜の風が流れ込む。父の姿は、暗がりの中に消えていった。
蓮司はひとり、リビングに残された。しばらく動けずに立ち尽くす。
ビールが染み出したテーブル、倒れた箸立て、濡れた座椅子。
すべてが黙っていた。
「……俺の憧れてた背中は、あんなのじゃなかった」
蓮司は缶を立て、こぼれたビールをティッシュで拭き取る。指先にべたつく感触が不快だった。
ふと、父がどこに向かったのかが気になった。そう感じると同時に、自分は単に父親の残滓から逃げ出して外の空気を吸いたいだけなのかもしれない、とも思う。
「行くか」
誰に言うでもなく呟き、蓮司はリビングの電気を消した。途端に部屋は闇に包まれ、窓の外から差し込む頼りない月明かりだけが、床の一部をぼんやりと照らしている。
再び重たい玄関扉を開け、夜の闇へと踏み出す。ひやりとした空気が肌を刺した。
右を見ても左を見ても、人影はない。なんとなくの勘で左へ進み、二本目の通りを曲がったとき、遠くに父の背中を見つけた。その足取りはおぼつかなく、幽鬼のように頼りない。
声をかけようとして、やめた。
何を言えばいいのか分からなかったし、また怒鳴られるのも嫌だった。
少し距離を置いて、黙って跡をつけることにした。
父は小さな橋を渡り、右へと折れた。その先には、高架下が暗い口を開けている。高架下のコンクリート壁には落書きがされ、薄気味悪い雰囲気を醸し出していた。父はその暗がりへと吸い込まれていく。
そこで蓮司は一瞬、誰かが立っているのを見たが、意識はすぐ父へ向けられた。
その先にあるのは、小さなグラウンド。小学生の頃、蓮司がクラスメイトと日が暮れるまでボールを追いかけていた思い出の場所だった。今は夜の闇に沈み、六基の頼りない街灯だけが、ぼんやりと土のグラウンドを照らしている。
グラウンドは金網のフェンスで囲まれているが、隅の一か所だけフェンスがなく、そこからよくボールが外に転がり出て行ったことを思い出す。その頃の笑い声が、今では遠い他人の記憶のようだ。
父はグラウンドのベンチに座り、頭を抱えていた。
立ち止まって見ていると、不意に、誰かが彼の背後を歩き抜けた。
壮年の男——顔は見えなかったが日本人ではないようだった。身体つきは引き締まり、異様な気配を纏っていた。身長は蓮司よりも少し低く見えるが、その異様さにより、まるで巨人のような存在感があった。
父が顔を上げ、男と目が合う。短い会話が交わされたようだった。次の瞬間、男の手が腰のポーチに伸び、何かが引き出された。
男が水晶を突き出した瞬間——父の口から、人間のものではない絶叫が迸った。時間が、引き伸ばされる。
蓮司の耳には、骨の髄まで凍らせるような断末魔だけが、スローモーションのように響いていた。
動けない。声も出ない。
ただ、目の前で、父だったものが黒い靄に呑まれ、渦巻き、おぞましい何かに膨れ上がっていく光景を、見ていることしかできなかった。




