第九話「どん底の親子」-1-
「おっはよー!」
突き抜けるような快晴の空をそのまま持ってきたような声。
高梁星輝が勢いよく教室のドアをくぐった。
一瞬、しんと静まり返った教室に、自分の声が反響する。入り口近くの男子が「高梁、昨日は死んでたけど完全復活だな」と茶化すと、星輝は満面の笑みで親指を立てた。
「ここ最近で一番機嫌がいいまである」
星輝は目的の席に視線を走らせる。染谷瑞季の席には月音優菜が腰掛け、隣の席の西沢沙耶と談笑していた。
自席にバッグを放り投げ、星輝はその輪に加わる。
「おはよ」
「おはよう星輝。元気そうで何より」
優菜が安堵の笑みを見せると、沙耶も隣で小さく頷いた。
「おはよう、星輝さん」
「おう。沙耶も元気か?」
「おかげさまで、すこぶる元気」
「それはよかった。元気が一番だ。あ、そうだ、沙耶」
「どうしたの?」
「沙耶にはまだ、ちゃんと謝れてなかったと思って。昨日、心配させちゃってごめん」
星輝が真っ直ぐに頭を下げると、沙耶は慌てて首を横に振った。
「ううん、謝らないで。前は私の方がずっと心配かけちゃったんだし——」
「おっと、昔の話はなしだぜ」
星輝はひょいと腰を落とし、両肘を沙耶の机に預けた。組んだ腕に顎を乗せ、少し首を傾げて覗き込む。
「今、沙耶が笑ってる。それで万事解決。だろ?」
ニカッと歯を見せて笑う。
その言葉に、沙耶の表情がパッと華やいだ。それはまるで、朝日を浴びた花が太陽に向かって蕾を開くような、鮮やかな変化だった。
「……うん。ありがとう、星輝さん」
「ところで瑞季は?」
「まだ来てないね。いつもなら星輝さんより先にいるんだけど」
しゃがんだまま、星輝は教室の入り口へ目を向ける。ちょうど莉照蓮司が入ってくるところだった。
クラスメイトと軽く挨拶を交わし、廊下側の最後列に座る。一瞬、こちらと視線がぶつかったが、彼はすぐに暗い影を落とした顔で俯いてしまった。
焼けた肌と短髪が似合う、本来なら爽やかなはずのサッカー部員。かつては次期部長と目されるほどの人気者だった莉照の背中は、今ではどこか小さく見える。
二週間前の事件以来、彼は真摯な反省の色を示した。その結果、今では以前より少し落ち着きながらも、これまで通りに教室で過ごしていた。彼を責める者はもういない。
だが、星輝の目には、今の彼が心にもやもやとした澱を抱え込んでいるようにしか見えなかった。
莉照の視線が、一度だけ沙耶の横顔をなぞり、再び星輝に向く。彼はすぐに目を逸らし、俯いた。
「心配だなあ」
ほとんど無意識に、言葉が零れた。
「ん? 何が?」
「あ、いや」
沙耶の前で彼の名前は出せない。
莉照による沙耶へのいじめは、彼は沙耶に謝ったことで一件落着した。もっとも彼女は「二度と話しかけてないでください」と彼を拒絶したのだが。
莉照はその言葉を忠実に守っている。それどころか、彼女の視界に入ることさえ避けるように、教室の隅でひっそりと息を潜めている節さえもあった。
星輝は咄嗟に話題を逸らす。
「瑞季だよ瑞季。ウチより登校するのが遅いなんて。ヒナが駄々こねて大変なのかもな」
「ちょっと!」
優菜が鋭く制止するが、後の祭りだ。沙耶が「ヒナ……?」と首を傾げる。
——あっ! 沙耶はデシリアもヒナも知らないんだった!
「あっ。いや、あれだよ。アニメのキャラ。そういう名前のキャラの、ぬいぐるみが瑞季の部屋にあるんだ」
「ぬいぐるみが駄々をこねるの?」
話せば話すほどボロが出る星輝を見て、優菜は目尻を押さえて天を仰いだ。
星輝は「もう残された手はこれしかない!」と開き直り、一気にまくし立てた。
「実際には駄々こねないけど、瑞季って想像力が激しいところがあるだろ? 好きすぎてぬいぐるみが喋ってるように妄想をし続けた結果、現実と区別がつかなくなったんだ。毎日ぬいぐるみと喋ってるんだよ。もちろん、これは秘密な?」
「なんていう偏向報道してるの……」
一時間目後の休み時間。
廊下でことの顛末を聞かされた瑞季は、半眼で星輝を睨みつけた。星輝は拝むように手を合わせている。
「ごめんて。ああするしかなかったんだ」
「猫を知り合いから預かってることにでもすればよかったじゃん。なんで私をイカれたやつに仕立て上げる必要があった?」
「ほんっとごめん!」
ゴミを見るような眼差しを向けていた瑞季だったが、やがて大きなため息とともに肩の力を抜いた。
「もういいよ。で、星輝は何を心配していたの?」
「それはだな」
星輝はあたりを警戒し、沙耶や莉照が近くにいないことを確かめる。
だが、答えを言う前に背後から声が飛んできた。
「莉照くんのことでしょ」
「お、さすが優菜。いつの間に」
「今お手洗いから戻ってきたところ。だけど、だいたい話の流れは察した。瑞季、もっとガツンと言ってやっていいんだよ」
「私はガツンと言いたい派じゃなくて美少女にガツンと言われたい派なので」
「癖の話はしてないよ」
優菜は目を細める。そんな目を向けられた瑞季の頬が少し紅潮したのを見て、優菜は行き場のない深いため息を零した。
「で、星輝はどうして莉照くんのことが気になるの?」
「ほら、莉照の黒感情は浄化したけど、そもそもの原因って親父さんだろ? そっちは何も解決してないよなあ、って思って」
「そうだけど、おうちの問題ばかりは、わたしたちにはどうしようもないね」
「それは……そうだな」
星輝の脳裏に自分の家庭のことがよぎった。
星輝もスレイヴになったことがある。そのときの黒感情は家庭を支えたいが故のものだった。お金稼ぎさえできれば、もっと家族に楽をさせてあげられる。とはいえ、裕福な家庭に育つ優菜から支援してもらいたいという気持ちはない。
家庭の問題には、誰も巻き込みたくない。
莉照だってクラスメイトに家の敷居を踏まれたくないだろう。
「確かに、ウチらには遠くから見守ることしかできないわな」
瑞季も優菜も何も言わなかった。そのまま五秒ほどが経過したところで、優菜が「ところで」と話を変えた。
「瑞季はどうして遅れてきたの?」
瑞季は一時間目前の朝会が始まるチャイムと同時に息を切らせながら教室に入ってきた。そのため、一時間目が終わった現在まで、その理由を聞く時間がなかったのだ。
瑞季は大きなあくびをしながら、目をこすった。
「寝坊。昨日の夜、推しのVチューバーがチャンネル登録者数耐久歌枠配信始めてさ。でも思うように登録者数伸びなくて、結局四時までかかっちゃってね。ファンとして最後まで見なきゃって思って、マスコットキャラクターのぬいぐるみと一緒に応援してたってわけ」
「あながち偏向報道じゃなかったじゃん」




