第八話「輝く星の内側」-3-
六時間目の授業が終わり、事務的な帰りの会が終わった。
優菜は荷物を手早く片付け終えると、星輝の肩にちょんちょんと触れる。
「一緒に帰っていいかな」
できるだけいつもと変わらない声色で尋ねた。
「ああ。もちろん」
星輝は笑顔を見せるが、右頬はやや引き攣っていた。朝よりはいくらか回復しているようだが、まだまだ気が滅入っているようだ。五時間目の体育の授業ではいつも以上に元気に声を出し、クラスメイトに「今日元気なさそうだったけど大丈夫?」と聞かれても「もう元気になった!」と返していた。
星輝は昔からそうだった。落ち込んでいるときこそ、いつも以上に元気そうに振る舞う。今日の午前中のように、から元気すら出せないことは稀だった。
優菜は、教室の後ろ側にいる瑞季と沙耶に目で「一緒に帰ろう」と合図する。瑞季は、すぐにその意図を汲み取り、小さく頷き返した。沙耶は何かを察したようで、瑞季に何かを小声で伝えると、優菜たちに向かって会釈し、先にひとりで教室を出ていった。
瑞季は、沙耶の後ろ姿を見送ると、てくてくと優菜たちの元へとやってきた。
「今日は図書室に寄りたいから先に帰ってて、だって」
……事情を知らない自分がいるよりも、わたしたち三人だけのほうが話しやすいって、気を使ってくれたんだろうなあ。
沙耶の優しい心遣いに、心の中でそっと感謝し、バッグを肩にかけた。
「はあー。今日はなんか、全然、授業の内容が頭に入ってこなかったなあ……。まあ、ぶっちゃけ、毎日ほとんど入ってねえけどな、ウチは」
下駄箱でスニーカーを取り出しながら、軽い口調で話す星輝は、一見いつもどおりだ。だが、優菜や瑞季には、無理して明るく振る舞っているようにしか見えず、かけるべき言葉も見つからないまま、うまく反応することができなかった。
「おいおい、今のは笑うところだぜ?」
星輝がため息をつく。
「ずっとウチが落ち込んでて、心配かけたのはすまなかったけど、もう立ち直ったんだ。ふたりも元気な顔見せてくれよ」
「うん……そうだね」
優菜は、曖昧に微笑みながらスニーカーを履いた。
外に目を向けると、空一面に灰色の雲が覆われている。雨雲ではないようだが、けっして気持ちの良い天気だとは言えなかった。
他愛のない話で、無理やり笑顔を作りながら校門を出る。
大きな通りへ出た、その瞬間だった。
「あ…」
瑞季の短い声に、空気が凍る。震える彼女の視線の先に、少女が立っていた。
頭の右側が黒、左側が銀色に染まった、高校生くらいの細身の少女——ナーサだ。
ナーサは、優菜たち三人全員が自分に気づいたことを確認すると、手招きで「こっちに来い」と合図をする。そして、優菜たちに背中を向け、ゆっくりと歩き去っていった。
「昨日の今日で……!」
瑞季は苛立ちを隠せない。
「行こう」
真っ先にそう言ったのは星輝だった。しかし、彼女は言った側から表情を曇らせた。
「——って、ごめん。ウチが戦うわけじゃないのに」
あまりにも弱々しい、自嘲的な言葉。
――これは、相当重症かも……。
「気にしないで。罠かもしれないけど、本当に行くの?」
相手がわざわざこちらを呼ぶということは、何か策がある可能性が高い。
そうネガティブに考える優菜に対し、瑞季がきっぱりと答えた。
「でも、行かなかったら、私たちじゃない誰かが傷つくかもしれない。それに、もし既にスレイヴが現れていたとしたら」
「——いや、それはないニャ」
不意に、ヒナの声が瑞季のバッグの中から聞こえてきた。
「スレイヴの気配は感じないニャ」
多くの生徒は校門を出て左側へ向かうため、優菜たちは右手に出て、他の生徒たちに見えないように、校門に背を向けてバッグを開けた。「ふう」と一息ついて外の空気を吸いながらヒナが顔を出した。
「瑞季のバッグの中はいつも荒れてて空気が悪いニャ」
「うるさい。で、なんでスレイヴが現れてないって分かるの?」
「スレイヴの気配くらい察知できるニャ。まだ現れてないニャ」
「なに、その、この手のキャラあるあるな能力」
「うるさいニャ」
「優菜、どうする?」
一時は罠の可能性で不安になっていたが、「無関係の誰かが傷つくかもしれない」と他の誰かの安全を真っ先に考えた瑞季を見て、迷いは消えていた。
「見失う前に追いかけましょう」
ナーサが待ち受けていたのは、学校を出て徒歩五分ほどの河川敷だった。川幅は十メートル程度だ。二車線の道路と歩道があるだけの、簡素な橋がかかっている。ナーサは、その橋の下に、まるでこの場の主であるかのように悠然と立っていた。
河川敷では、キャッチボールで遊ぶ小学生や、ウォーキングに励む老人がまばらに見られる。この、のどかな景色の中では、彼女の派手な髪色がひどく浮いて見えた。
「昨日の今日で、何の用?」
瑞季が警戒しながら問いかける。
「あたしの用なんてひとつしかないさ。デシリル・ジェムとデシリル・アンプを寄越しな」
ナーサは、こともなげに言い放った。
はあ、と瑞季がため息を着く。
「諦めが悪いんだね。昨日できなかったんだから諦めなさいよ」
「昨日は、ただの前哨戦さ。それに、この『地の黒槍』のテストも兼ねてたからね。だから、わざわざ第一世代スレイヴを使ってやったけど……。今日は、あんたたちにもお馴染みの、第二世代を使わせてもらう」
第一世代スレイヴ。それは昨日、優菜たちが初めて戦ったスレイヴのことだ。何でも素体にして召喚主の思う通りに動かせるという、便利な代物。だが、召喚主が操作に集中しなければならないという性質上、召喚主自身の気を紛らわすことができれば、動きを止めることができる。
対して、第二世代スレイヴは、強い黒感情を持った人間そのものを素体とし、その心の奥底にある黒感情を元にした強力なスレイヴだ。かつて、メルキーヴァが召喚していたスレイヴは、すべて第二世代に属する。
第二世代を使用するということは、素体がいるということ。周囲には、たくさんの人々がいる。この中の誰かが、ナーサの非道な行いの犠牲になろうとしているのだ。
「誰をスレイヴにするつもりなの」
「さあね。自分で考えてみれば?」
瑞季はナーサの態度にムカっとし、彼女を強く睨みつけた。
「無関係な人を、これ以上巻き込まないで……!」
「それなら心配に及ばない。見たところ、この周辺にはスレイヴになれるほど強力な黒感情を持つ人は、いないみたいだからね」
ナーサは手のひらよりも大きな水晶を手にし、指で撫でていた。メルキーヴァが持っていたものと同じものだ。
「——あんた以外は、な」
ナーサの冷たい視線の先には、星輝が立っていた。
星輝の視線は、蛇に睨まれた蛙のようにナーサに吸い寄せられる。
ナーサは、ふたりの視線が交差する一直線上に、水晶を構えた。
「『水晶よ。黒を喰え』」
「星輝! 離れて!」
瑞季が絶叫する。
だが、遅かった。強い黒感情を持つ者が、召喚主の水晶を一度でも目にしてしまったが最後。逃れることは不可能だ。
星輝の胸から、どす黒い霧が噴き出した。悲鳴を上げ、助けを求めるように伸ばされた、か細い右手。
瑞季は必死に手を伸ばす。
あと少し、あと数センチで届く——!
だが、その指先は、実体を失った黒い霧を虚しく掻くだけだった。星輝の手は、瑞季の目の前で無情にも霧散し、水晶へと吸い込まれていった。
そして、水晶は純黒に染まった。反射さえ許さぬ暗黒が輝きを帯びていく。
星輝の悲痛な叫び声が、ぴたりと止まった。その途端、黒く染まった水晶の中で、炎のような鮮やかな赤い輝きが、ほんの一瞬だけ激しく発生したのを、瑞季は確かに見た。
「『出でよ! スレイヴ!』」
水晶から闇色の靄が現れ、激しく吹き荒れながら、魂の抜け殻となった星輝へと飛んでいく。それがあっという間に彼女の全身を囲い込み、さらなる暴風が吹き荒れた。
瑞季と優菜の髪やスカートが、激しくなびく。優菜はその場にしゃがみ込み、ひんやりとした河川敷の土に、震える右手をつけた。
黒い渦は、みるみるうちに肥大化していく。暴風の中、星輝の甲高い叫び声がかすかに聞こえたような気がした。
次の瞬間、弾けるような大きな音と共に、その暗黒の渦が消える。
そこには、人型の闇色の怪物が、静かに立っていた。
優菜は、そのおぞましい姿に、息を呑んだ。
その怪物が身に纏っている、白鳥の羽のように優雅で美しいワンピース。それは、リアマイムの特徴だ。
後頭部のひとつ結びの銀色の長髪と、胸の薄桃色の大きなリボンは、リアハイリンの特徴。
星輝が生み出したスレイヴは、ふたりのデシリアを歪に足したような造形だったのだ。
「星輝!」
スレイヴの発する低く重たい唸り声が、優菜のお腹の奥底を、不快に震わせる。
優菜は怒りに満ちた声で叫んだ。
「星輝を……! わたしたちの大切な親友を、返しなさいっ!!」
「やなこった」
ナーサはほくそ笑むだけだった。
「優菜」
瑞季がナーサを見据えながら言う。その横顔は、ヒーローのそれだった。
「一秒でも早く星輝を助けよう」
「……もちろんだよ」
優菜もまた、力強く頷いた。
だが、そのとき、誰もが予想だにしていなかったことが、起きた。
「なんだよこれ……」
それは、星輝の声だった。
スレイヴの顔から、その声が聞こえてきたのだ。
スレイヴの足元にいるナーサでさえも大きく目を見開いてスレイヴを見上げていた。
「ウチは、どうなっちまったんだ……?」
スレイヴの声は、通常、ある程度のダメージを蓄積させてから、初めて心の声として聞こえるようになる。また、その声は、耳で直接聞こえるのではなく、周囲にいる者たちの心の中に直接流れ込んでくるように感じられるものだったはずだ。
しかし、今の星輝の声は明らかに違う。確かに、耳ではっきりと聞こえるのだ。
「これ、心の声じゃない……。どうして?」
「……へえ」
ナーサは拳を自分の顎に当てていた。珍しい研究対象でも観察するかのように。
「こんな面白い症例は聞いたことがないな」
全員が、その不可解な状況に困惑していると、瑞季のバッグの中から、ヒナがぴょこんと顔を出した。
「ヒナ、これって、どういうことか分かる?」
「分からないニャ……。でも、スレイヴの中に、星輝の魂とデシリル・ジェムが見えるニャ。もしかすると、デシリル・ジェムを持っているから、完全に吸収されきっていないのかも、しれないニャ」
「スレイヴの中に見える、って何?」
「ぼくら精霊には、魂の光が見えるニャ。人を含めた多くの生き物は、全身に魂の光が満ちているように見えるけど、器に乗り移った精霊やスレイヴは、空っぽの器の中にぽつんと魂の光が浮いているように見えるニャ」
瑞季たちには、ヒナの話がうまく飲み込めなかった。
だが、ナーサは「なるほどねえ」と頷いた。
「あいつがデシリル・ジェムを持ってたのか。それを一緒に吸収したことによる、バグのようなものってことかな。これは、なかなか面白いものが見られそうだ」
ナーサは、陶器のように白い手のひらを空に向け、人差し指以外を閉じた。その指は優菜たちを差している。
「やれ、スレイヴ」
短い命令と共に、星輝を素体としたスレイヴは、仲間たちへと破壊の衝動を向け、歩み始めた。




