第一話「ヒーロー」-5-
これでよかったんだ。
瑞季は自分に言い聞かせる。
「私は、関係ない」
ヒナとは八年の付き合いだ。でも、所詮はぬいぐるみ。突然喋り出したことも、王子だと言われていたことも、スレイヴのことも、巨体の男のことも、関係ない。このまま去れば、全部最初からなかったことになるだけ。
アパートの角にスクールバッグが落ちていた。スレイヴを見て驚いた落としたバッグだ。
あれを拾って、帰るんだ——。
家に帰って、お絵描きして、ご飯食べて、お風呂入って。嫌々宿題して、寝て、眠たい目を擦って学校に行く。そんな、昨日まで当たり前にあった日常に戻る。
たったそれだけ。
そのとき、地面が揺れ、地響きに足を取られた。膝をつき、立ち上がらずに俯く。
振り返らない。絶対に振り返らない。
私は関係ない。何も知らない。
何度も何度も言い聞かせる。
言い聞かせるということは。
それが本心ではないということ。
「……っ」
——スレイヴに捕われた者の声に耳を——心を傾けてほしいニャ。
そのヒナの言葉が、ずっと気になっていた。
声なんて聞こえない。
だが、なんとなく、その気持ちが分かる気がした。
ついに振り返ってしまう。
怪物は勇ましい姿をしているものの、背中を丸めて破壊を続ける姿は、どこか哀しかった。まるで子供のようだ。
「あ……」
ずっと、スレイヴの姿には既視感があった。
遠くから見て、ようやくその正体に気づく。
あのスレイヴの姿は、文字通り『ヒーロー』なのだ。
おそらく炎っぽいデザインは今年のライダーだ。甲冑のイメージは、去年のライダーによく似ている。
「そっか……」
あのスレイヴの中にいるのは、本当に子供なのだ。そう思うと、いくら身体が大きくても、静かに泣きながら拗ねている男の子にしか見えなくなった。
「たぶん——」
その子は、テレビで活躍するヒーローが実在すると信じていたのだ。しかし、それが作り物だと知ってしまった。学校のクラスメイトに笑われてしまったのかもしれない。
努力すれば憧れの人に近づける。必ずなれる。
ヒーローたちが訴え続けてきたその希望が、現実に打ち砕かれてしまったのだ。
「って、ほとんど昔の私じゃん、それ」
何の根拠もない。けれど、確信があった。
あの子は、私と同じだ。
そして、脳裏に蘇る。初めて憧れた、ヒーローの言葉が。
あれは幼稚園の頃。友達とケンカし、酷いことを言ってしまった罪悪感と、謝るのが怖い気持ちで、瑞季は心を閉ざしていた。
そんな朝、偶然流れていたアニメ。これまで見たこともなかった、女の子が変身するヒーローもの。
そこで聞こえたのだ。「みずき」と、自分と同じ名前が。
画面の中の小学生「みずき」も、親友とケンカして、一方的に自分が悪いと悩んでいた。なんて偶然だろうと、瑞季はテレビに釘付けになった。
物語のクライマックス。怪物が現れ、姉である主人公がヒーローに変身して戦う。その危地に、妹の「みずき」が駆けつけてしまう。
敵の攻撃から、主人公が華奢な妹を庇った。ボロボロになりながら、彼女は振り向きもせずに言う。
「私なら、だいじょうぶ。さあ、逃げて」
「ごめんなさい……」
「あなたが謝りに来たのは、私じゃない。違う?」
そこへ、敵の怪物が駆け寄り、拳を放った。盾使いの仲間が盾を作るが、それはあっけなく破れ、主人公たちはそれを全身で受け止めた。
主人公たちの足が土を抉りながら、少しずつ後退していく。このままでは受け止めきれず、押し潰されてしまう。
そこへ、「みずき」が叫んだ。
「がんばってえええええええええええええ!!」
あの日の叫びが、今、瑞季の背中を押した。
大切なものを護るために、彼女は駆ける。
前を向くと、吹き飛ばされて転がるヒナが見えた。砂塗れで、ボロボロだった。瑞季に気づいている様子はない。
「王子くん。そろそろ、おしまいだね」
メルキーヴァは、近づいてくる瑞季のことなど眼中にないらしい。
スレイヴが足を上げ、ヒナを踏みつけようとしていた。
巨大な足が落とされる。
「ヒナ!」
瑞季は跳んだ。
ヒナを抱きしめ、振り下ろされる巨大な足裏と地面の間を、滑り込むように駆け抜ける。
足の先を衝撃波が掠める。潰された空気が砂塵を巻き上げ、ただの女子中学生の身体を空き缶のように吹き飛ばした。
全身をアスファルトに打ちつけながらも、歯を食いしばる。
腕の中の温もりだけは、絶対に離さない。
「瑞季!」
全身が焼けるように熱い。
それでも瑞季は、痛みをこらえて微笑んだ。
「ごめんね、ヒナ」
「瑞季……どうして」
「やっぱり、嫌だったから。大好きなヒーローに教えてもらった勇気から、目を逸らしたくなかったから」
起き上がり、のそのそと近づいてくるスレイヴを刮目する。
「あなたの心を、聞かせて」
《もう嫌だ》
男の子の声が、脳内に直接響いた。
瑞季は、心を澄ます。
《つらい……》
スレイヴの咆哮の奥で、少年の魂が確かに泣いていた。
「何があったの?」
《騙された。ヒーローになれるって信じてたのに……全部、嘘だった》
「……そっか。やっぱり、君と私は似てるね」
瑞季は、柔らかく語りかける。
「私、あなたと、もっと話がしたいな。だから、近寄らせて」
柔らかく語りかける。
彼女はにじり寄る怪物へ手を伸ばす。怖くないといえば嘘になる。しかし、顔を強ばらせないように意識する。
「瑞季……」
心配するヒナへ、瑞季は微笑みかけた。
「テレビアニメの世界に入ったみたい」
彼女たちも、この声を聞きながら戦っていたのだろうか。
「がんばってえええええええええええええ!!」
妹のエールを背に、物語の主人公たちは気合を叫びながら、怪物の拳を打ち返し、怪物の体勢を崩させた。そこへ必殺の浄化技を唱え、怪物の浄化に成功する。
戦いの後、主人公は妹の前にしゃがみこんだ。
「怖いの。許してくれるかな……」
泣きそうな妹の頭を撫でて、ヒーローは微笑む。
「今度は私があなたに勇気をあげる」
彼女は妹の手を強く握った。
「だいじょうぶ。——あなたには、私がいる。怖くなったときは、この手のあたたかさを思い出して」
その言葉と手の温もりが、画面を越えて、幼稚園児の瑞季の心まで届いた気がした。
あの日、瑞季は勇気を出して友達に謝り、仲直りできた。
それからずっと、彼女たちの諦めない心が、瑞季の中に確かに残っている。
そして今、あのスレイヴの中にいる男の子も、かつての自分と同じように——。
スレイヴの中にいる男の子へ、瑞季は正面から立ち向かう。
「私が憧れた人たちは、絶対に諦めなかった。苦しんでいる人を、絶対に見捨てたりしなかった」
胸に手を当て、心のままに言葉をぶつける。
「だから、私も諦めない」
あのとき、ヒーローが瑞季を助けてくれたように。
「今度は、私があなたを助ける!」
その叫びが、奇跡の引き金だった。
瑞季の手元が、まばゆい光を放つ。
光の中から現れたのは、純白の宝石と、複雑な紋様が刻まれた白い板。
「なに、これ」
ヒナは目の前の光景に驚いているのか、声を失っていた。
指示がなくても、瑞季は自分がやるべきことを理解していた。
導かれるように、宝石を板に嵌め込む。カチリ、と手応えがあった瞬間、白い板は風と化し、瑞季の身体を奔流となって包み込んだ。
光の中で、制服が霧散する。
現れた素肌に、絹のような白い布が滑り、手甲と具足を形作る。
天から降る光輪が、その身体を洗い清めるように天から地へ向かって通り抜けていく。
小さな羽飾りが肩に芽吹き、薄桃色のリボンが胸元で揺れた。
ミニ丈のスカートがふわりと広がり、腰には純白の大きな蝶結びが咲く。
地面に辿り着いた光輪は、今度は勢いよく風を発し、天へ昇っていく。
光を吸った黒髪は、腰まで伸びる桃色がかった銀髪へと変貌する。つむじ風が、金色の剣を模したヘアピンとなり、その髪を留めた。
風が凪ぐ。
右手を正面へ。
風を握り、心臓の前へ。
「『デシリアの 穢れを裁く魂は 如何なる者にも染められない』」
純白の閃光が、世界を塗りつぶす。
「『透き通る心、リアハイリン!』」




