第七話「選ばれなかった者たち」-3-
ナーサはオフィス街にいた。そこは、優菜が初めてデシリアとして覚醒し、戦った場所でもあった。
五階建てのオフィスビルの屋上で、足を組み、両手を枕がわりにして寝転がっていた。コンクリートのひんやりとした感触が、背中に心地よい。
空は憎らしいほどに快晴だった。五月の、ふわりとした柔らかで心地よい風が、頬を優しく撫でていく。
「あーあ……。このまま、ずっと、こうして寝てたいな」
縁側で昼寝をする猫のように、気怠げに呟く。
おもむろに、その細い左腕の手首を顔の前に持ってきて、そこに装着されたシンプルなデザインの腕時計を見た。それは、ジンから支給されたものだ。細く美しい針は、間もなく午後の十六時を、指し示そうとしていた。
「もう、一時間近くも経ったのか。こっちの、のんびりとした時間の流れには、どうにも慣れないな。……さあ、仕事の時間だ」
ナーサは億劫そうに華奢な体を起こした。カスパールやブラフザールたちの前では、彼女は礼儀正しく、そして丁寧な言動を心がけていた。だが、本当は、そんな堅苦しくて回りくどい言葉遣いは、性に合っていなかった。
ツートンカラーの髪を、手入れされた爪でガシガシと無造作に掻きながら、屋上の縁まで歩いていく。
眼下に広がる平和な街並み。
平和で、退屈そうな景色。
「さて、と。何をスレイヴにしよっかな。どうせ第一世代だし、なんでもいいんだけどね」
眼下の表通りを品定めするかのように、じっと見下ろす。平日のこの時間帯だからか、人通りは比較的まばらだ。道の脇には数台の車が静かに停車しており、その中の一台である銀色のスポーツカーに目を止める。
「おっ、あの車かっこいいなあ。暴れん坊な感じがする。世界は違えど、意外と形は似るもんだね。ただ、今回の用途には合わないな」
その銀色の車のそばに、立派なソメイヨシノの木が立っているのが、ナーサの目に留まった。瑞々しい新緑の葉が、五月の風に、さらさらと心地よさそうに揺れている。
「あの木でいいや」
腰につけた小さな革のポーチの中から、テニスボールほどの大きさの水晶玉を取り出す。それは、かつてメルキーヴァが使用していた水晶よりも一回り小さく、小さなナーサの手でも、しっくりと掴むことができた。
「『水晶よ。黒を宿せ』」
ナーサが静かに詠唱すると、彼女の手の中にある水晶からどす黒いモヤが吹き出し、美しい新緑の葉に覆われたソメイヨシノの木を、瞬く間に包み込んでいった。
ソメイヨシノの木を包み込んだ黒い靄が、少しずつ膨んでいく。そして、五秒ほどが経過したところで、乾いた破裂音と共に黒い靄が一気に爆散し、周囲の空気へと溶けるようにして消えていった。
そこへ現れたのは、ソメイヨシノの面影をわずかに残した、一匹の怪物だった。
太く、ごつごつとした何本もの木の根が、まるで蛇のように絡み合い、集合したかのような二本の巨大な脚。その太い主幹の上部には、不気味な瘤が、ひとつできていた。その絡み合った根を脚と見立て、そこから伸びる、第一主枝と第二主枝を、その腕だと見なすならば、その不気味な瘤は、怪物の歪んだ顔のようにも見えた。
主幹は、元の木の姿のまま苦しげに湾曲しており、枝分かれした腕と相まって、人間の姿と重ね合わせて見てしまうと、あまりにも異形で恐ろしい風采だった。
「うん。まあ、上出来じゃない?」
ナーサは、満足げに頷いた。
「さあ、スレイヴ。まずは手始めに、適当に暴れちゃいな」
ナーサの軽い命令に、スレイヴは忠実な犬のように応えた。鋭く枝分かれした腕を天へ高く振り上げ、ガラス張りのオフィスビルの一階部分へ振り下ろした。
強化ガラスが、けたたましい音を立てて砕け散る。ビルの中から、甲高い女性の悲鳴が響き渡った。
「来い、デシリア。地の黒槍を試させな」




