第七話「選ばれなかった者たち」-1-
ヘヴンのアジトの二階バルコニーは、壁一面が巨大なガラス張りになっており、そこからは、どこまでも広がる雄大な山々と、吸い込まれそうなほどに深い蒼穹の空を、一望することができた。
「……昨日、メルキーヴァがやられたようだ」
暗い緑色の軍服に身を包み、同色の軍帽を目深にかぶった金髪の女——カスパールは、窓の外に広がる景色を眺めながら、背後から近づいてくる足音へと、静かに声をかけた。重量感のある足音は、やがて、彼女のすぐ側で止まる。カスパールは、そちらに目をやることはせず、遠くの景色を眺め続けていた。
「だろうな」
しゃがれた声で答えたのは、黒のタンクトップとカーゴパンツを身に着けた壮年の男——ブラフザールだった。カスパールは振り返り、その深いシワが刻まれた歴戦の顔を見据える。綺麗に切り揃えられた白髪と髭は、少しも乱れていなかった。年齢は六十近いが、その清潔感と引き締まった身体からは、その年齢を感じさせない。
「ほう。驚かないのか? ブラフザール殿」
カスパールは振り返り、その青い瞳でブラフザールを見据えた。
ブラフザールは、吐き捨てるように言う。
「あの若造が空の邦の王子を発見し、デシリアが誕生した旨を報告しなかったと知ったときから、こうなることは容易に想像できた。空の邦の王子に出し抜かれ、計画に八年の遅れをもたらしたというのに。その上、ジンに仮想空間の改造プログラムまで作ってもらったそうではないか。勝負が決まらねば出られぬ決戦場など、趣味が悪い。そのような俗物を作ったにも関わらず負けるなど、なんと無様な最期であろうか。兵士の風上に置けん」
「あれでも、一国の軍のエリートなのだがな」
ふん、と興味なさそうにブラフザールは鼻を鳴らし、カスパールと同じように、窓の外へと視線を向けた。
「もっとも、我々のどちらかが出動したとして、相手は伝説の存在だ。勝てたとは限らぬ」
ブラフザールは冷静に分析する。
「……ジンにとっても、あやつはデシリル・アンプの捜索と、例のアレを完成させるまでの時間稼ぎにすぎぬだろう。前者は実る見込みが低いが」
「なるほど。メルキーヴァも、一応役目を果たしたということか」
カスパールの言葉に、ブラフザールはかすかに眉を顰める。
「役目は果たした? 完成したのか」
「『地』だけ完成したと、今朝ジンから聞いた。メルキーヴァの死についても、そこで聞いたのだ」
「ほう」
ブラフザールが、感心したように短い声を漏らしたとき。
カスパールの背後から、シュー、という圧縮された空気が抜けるような音がした。王座の間の自動扉が開く音だ。ふたりの傭兵がそちらへと目を向けると、そこには瞳に強い意志の光を宿した少女が立っていた。
向かって右側の半分が夜の闇のように深い黒色、そして、左側の半分が紫がかった銀色という、特徴的なウルフカットの髪型。切れ長の美しい瞳。少女——ナーサは、カスパールとブラフザールの姿を認めると、その細い右手を自らの左胸に力強く当て、軽く頭を下げた。それは、彼らの世界における、上官への敬礼のポーズだった。
「カスパールさん、ブラフザールさん」
ナーサは顔を上げ、ふたりへ歩み寄る。
「どうした、ナーサ」
「メルキーヴァさんの後任を、あたしが勤めることになりました」
弱冠十八歳のナーサの声はまだ若いが、同い年の少女たちと比べると、ずっと大人びている。黒いブラウスと同じ色のミニスカート、コンバットブーツからはやんちゃな印象を受けるが、首元の紫色のネクタイは丁寧に結ばれ、美しい左右対称を保っている。
「……ほう。今しがた、カスパールから聞いたが……。どうやら、例のアレの『地』の属性が完成したようだな、ナーサ」
ブラフザールが、確認するように言う。
「はい。その力の最終実験も兼ねて、次は、あたしがデシリア討伐の任務へと向かうことになります」
ナーサの瞳はまっすぐだった。
敬愛するジンから重要な任務を直接任されたことが、心の底から嬉しいのだろう、とカスパールは思ったが、そのことをあえて口にはしなかった。ナーサの白い額は汗でじっとりと濡れている。これから始まるであろう未知の戦いに対して、緊張や恐怖を覚えているらしい。
カスパールは、そんなナーサの健気な様子を見て、固い表情をわずかに和らげ、彼女の細い肩に、そっと手を置いた。
「あまり焦る必要はない、ナーサ。……いざとなれば、我々がいつでも君の元へと駆けつける。……だから、安心して行ってくるといい」
ブラフザールもまた、その言葉に頷き、続ける。
「ナーサ。……君はメルキーヴァとは違い、聡明だ。冷静な判断力も持ち合わせている。あの愚かな男のように、戦いそのものを娯楽扱いした挙句、油断して敵に足元を掬われるような、みっともない真似はせんだろう」
「……はい! おふたりのご期待に応えられるよう、精一杯尽力します!」
ナーサは力強く答えた。
「……それで、ナーサ。他の属性の『アレ』の完成は、まだ、もう少し時間がかかりそうなのか?」
カスパールが尋ねる。
「はい。ジンによると、あたしの出動で『地』の実力を検証し次第、おふたりの分の制作に入るとのことです」
そうか、とカスパールはため息混じりに頷く。
空の邦の王子が奪還したのが、水や火でさえなければ、私たちが先に出られたのに——。
「なるほど。実験体のようで少々嫌な役割かもしれないが、よろしく頼む」
「はい。そこでお願いがあるのですが……」
ナーサは、改まった口調で言った。
「カスパールさん。しばしお手合わせ願いないでしょうか。急がないから七日ほど、鍛えてもらえとのことです」
「ああ。もちろんだ。喜んで引き受けよう。相手はけっして弱くない。メルキーヴァは行動こそ問題があったが、腕力だけであれば我々の誰よりも強靭だったのだから」
◆
じりじりと、耳障りな電子音が部屋に響く。高梁星輝は、その音で重たい瞼をこじ開けた。昨夜、遅くまでギターの練習をしていたせいか、体は鉛のように重く、頭の芯がじんじんと痛む。寝返りを打ち、手を伸ばしてスマートフォンのアラームを止め、ぼんやりとした視界で、机の上に置かれたデジタル時計に目を向けた。
午前六時一分。まだ、外は薄暗い。
いつもであれば、リビングから朝のニュース番組の音声や、父がまな板で小気味よく野菜を切る音などが漏れ聞こえてくるはずだった。だが、今日の朝は、不気味なほどに静かだった。
「嫌な予感するなあ……」
星輝はベッドの上で大きく伸びをしながら呟いた。
制服に着替え、別の部屋でまだ眠っている兄弟たちを起こさないように、細心の注意を払い、抜き足差し足、音を殺して自室の戸を開けた。忍び足で階段を降りていく。
一階のダイニングキッチンは、電気がついておらず、薄暗い闇に包まれていた。
電気をつけずとも、テーブルの中央に一枚のチラシが裏返しに置かれているのが、朝の光で、かろうじて見て取れた。その白い裏面には、赤いサインペンで、父からの走り書きが書かれていた。
『ごめん! 会社のサーバーに障害出ちゃったから行ってきます! 颯太のお弁当と送り迎えよろしく!』
「はあー……。いつものことね。はいはい、了解、了解……」
朝ご飯の準備や一番下の四男である颯太の保育園への送り迎え、星輝のお弁当の用意などは、在宅勤務が中心である父が担当することが多い。だが、父が急なトラブルなどで早朝から出社しなければならない日の朝は、必然的に長女である星輝が、そのすべての家事を一手に引き受けることになっていた。
今朝は、本来であれば父が家事当番の日だった。会社のサーバーの非常事態によって、星輝の登板となったわけだ。先月、会社の基幹システムに、何か大きな更新があったらしく、それ以来、このような突然の呼び出しは多々あった。
炊飯器はすでに動き出していた。昨夜お米と氷をセットして予約していたのだ。
予約機能ありがてえ、と呟き、星輝は手首にはめていたヘアゴムで、腰まで伸びている長髪を、後頭部でひとつにきゅっと留めた。
冷蔵庫の扉にマグネットで貼ってある、ホワイトボードの献立表を見上げる。父の字で今日の朝食のメニューが書かれていた。
「ええっと、今朝の献立は、しいたけと厚揚げの煮物、味噌汁、卵焼き……」
颯太の小さなお弁当箱を思い浮かべ、限られたスペースの中に、いかにして栄養バランスと彩りの良さを両立させるかを、頭の中でシミュレートしていく。その半分を白米で埋め、残りのうち四分の一ほどににしいたけと厚揚げ、卵焼きを置く。これで残り四分の一。
「……昨日の豚肉も残ってるな。野菜枠は冷凍のお惣菜でいいだろ。あれ美味いし。あとは、ふりかけとカニカマで色足せば、そこそこカラフルに見えるはず。……よし、決まり。歯磨きしながらやるか……」
慌ただしい朝の仕事を一通り終えた星輝が、少し冷めてしまったお味噌汁を飲み終えたとき。次男の晃が、眠そうな目をごしごしと擦りながら、ダイニングキッチンに入ってきた。
「……ん……。おはよ、姉ちゃん……」
「おう、おはよう、晃。顔洗って歯磨いてきな。朝ごはん、できてるぞ」
「ん。……父さんは今日も仕事?」
「うん。なんか、またトラブったんだとさ」
「ふーん……」
晃は大きなあくびをしながら、のっそりと洗面所の方へと向かっていく。その、寝ぼけ眼の後ろ姿を見て、星輝はふと眉を顰めた。彼の着ているシャツの裾に、小さなほつれがあったのだ。その服は、もともと男の子っぽいラフなデザインの服を好んで着る、星輝のお下がりだった。もう何年も着古されているのだから、ほつれのひとつやふたつ、できてしまうのも、仕方のないことなのかもしれない。
「新しいの、買ってあげないとな」
だが、自分の財布の中身と、いつも疲れた顔で家計簿をつけている父の背中を思い出し、その呟きはため息に変わる。
先日、月音優菜や染谷瑞季、西沢沙耶とカフェに行ったときの、けっして安くはなかった出費を悔やみそうになる。だが、その弱気な思いを、ぶんぶんと頭を振って振り払った。
「大事なときには使うお金は、後悔しちゃいけない」
それは、まだ母が生きていた頃に星輝に言い聞かせてくれた大切な言葉だった。
その懐かしい母の声を、心の中でそっと噛み締め、星輝は再びぐっと腰を上げる。
空っぽになった食器をキッチンのシンクへと運んだ。軽く水で濯ぎ、洗い桶の中へと静かに沈める。兄弟たちがご飯を食べ終わったら、まとめて一気に洗う予定だった。
星輝は一息つく。
「そろそろ、幹斗と颯太を起こしに行くか」




