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黎明のデシリア  作者: 中條利昭
第一話 ヒーロー

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第一話「ヒーロー」-4-

 喋るぬいぐるみを胸に抱えながら、危険が迫っているであろう地帯へと逆走していく。

 その姿は他の人々から見れば、異様な存在にしか見えなかっただろう。

 案の定、すれ違う大人たちから「おい、嬢ちゃん、何をしているんだ!」「そっちは危険だぞ! 早く逃げろ!」と心配する声をかけられたが、瑞季はまともに応える余裕もなく、ただ無視して走り続けた。

 しかし、「公園に怪物が現れたぞー!」という切羽詰まった叫び声と、大量の木の葉が激しく擦れ合う音、そして、木が幹ごと地面に叩きつけられるような破壊音が聞こえてきたときは、さすがに立ち止まってしまった。

「か、怪物……?」

 公園のそばまでたどり着いた頃には、もうクタクタだった。脇腹がズキズキと痛む。その上、舞い上がった土煙のせいか、舌の上にじゃりじゃりとした砂の感触が貼りついて、息をするのも苦しかった。

「帰宅部には重労働すぎる……」

 トタン屋根のアパートの角を曲がる。

 その瞬間、身体が硬直し、肩からバッグがストンと落ちた。

 公園に、異質な巨体を見つけたから。

 紫がかった鈍色の巨体。人の形をした何かが、折れた桜の幹を小枝のように踏みつけていた。

 その身の丈は、二階建ての家屋を優に超える。全身を覆うのは、炎を模した禍々しい赤黒の装飾。昆虫じみた兜には天を突く二本の角が生え、戦国武将の甲冑を彷彿とさせた。

「な、何あれ……。ライダー戦士みたいな格好だけど」

「あれは『スレイヴ』ニャ」

 腕の中のネー子の声は、普段のふてぶてしさとは打って変わって、深い悔恨と憎悪を無理やり心の奥底に封じ込めているかのような響きを持っていた。

「闇の邦の組織・ヘヴンが生み出した生体兵器・スレイヴ。生きとし生ける者の黒感情を増幅させて生まれる化物ニャ。そして——」

 ネー子は言葉を飲み込んだ。まるで、その先を語ることを躊躇っているかのように。

 しかし、その続きを、誰かが代わりに代弁した。

「——そして、そいつの故郷を壊滅させた兵器でもある」

 男の声が、空から降ってきた。

 瑞季が顔を上げると同時、巨大な影が眼前に着地し、地響きを立てる。

「わっ……!」

 闇色の外套を纏う男は、身長二メートルを超えるだろう。フードの奥の顔は見えないが、覗く肌は死人のように白い。

「やっぱり『扉』の近隣にいたね。読み通りだ」

 巨体から発せられる、地を這うような低い声。

 瑞季の脚は恐怖ですくんでしまい、一歩も動くことができない。

「メルキーヴァ……!」

「やあ、また会えて嬉しいね、空の邦の王子くん」

 メルキーヴァと呼ばれた男とネー子は、互いに敵意を込めた視線を交わし合う。

 ただひとり、瑞季だけがこの緊迫した状況を理解できずに、置いてけぼりにされていた。

「王子……? ネー子が?」

「ネー子じゃないニャ」

 メルキーヴァと対峙していたネー子は、瑞季の腕の中で器用にくるりと体を回し、彼女の顔を真剣な眼差しで見上げた。

「ぼくの名はヒナ。危機に瀕した全世界を救うためにここ——無の邦に来た、空の邦の王子ニャ」

「空の邦の……王子?」

 ネー子もといヒナは頷くと、瑞季の手元から跳び、ブロック塀の上に着地した。

「おぬしは何と申すニャ」

「えーっと、瑞季。染谷瑞季」

「瑞季よ、力を貸してくれニャ」

 握手を求めるように、まるっこくて短い右の前脚を差し出した。

「えっと、力を貸すって、どうすれば」

「……おやおや。呑気に喋ってる暇があるのかい?」

 メルキーヴァの嘲るような声と、ほぼ同時だった。

 瑞季とヒナが巨大な影に包まれたのは。

 スレイヴが自分たちを踏みつけようとしているのだと、瑞季はようやく気づく。

 しかし、恐怖で震えたままの脚は、脳からの危険信号に反応することができない。

「瑞季!」

 その声の瞬間——瑞季の身体は、宙に浮いていた。

 視界に映るのは、迫り来る巨大な足裏と、青空。

 スローモーションの景色の中、青空の面積が増えていく。

 視界から闇色の足裏がフェードアウトした瞬間、背中と後頭部に鈍痛が走った。

「いたた……」

 瑞季の胸の上にはヒナがいた。ヒナが瑞季の胸へと飛び込み、吹き飛ばしたのだ。

 上体を起こす。

 目の前の景色に、戦慄した。

 数秒前まで自分がいた地面に、スレイヴの足が深々と突き刺さっている。コンクリートで舗装された歩道は、爆撃でも受けたかのように抉れ、その亀裂は瑞季の足元まで達していた。

 もし、ヒナが助けてくれなかったら、今頃——。

「大丈夫かニャ」

「……大丈夫なわけ、ない!」

 ヒナを抱えたまま、なんとか立ち上がり、スレイヴの股の下を必死で走り抜けた。

「私、どうすればいい?」

 公園の古いブランコの向こう側へと回り込む。

「スレイヴに取り込まれた者の声は聞こえるニャ?」

「声?」

 瑞季は、ブランコの鎖の隙間から、再び巨大な怪物を見上げた。

「あの中に、誰か、人がいるってこと?」

 ヒナは、懇願するように瑞季を見上げた。

「いるニャ。悲しい、苦しい、憎い、怖い……。そのような黒感情を無理やり増幅されて、スレイヴという化物はできているんだニャ。感情はうまく見えないけど、あの子が苦しんでおるのは、間違いないニャ。だから瑞季……。どうか、あの子を助けてやってほしいニャ」

 ブランコ越しに、改めてスレイヴの姿を観察する。

 朝のヒーロー番組に出てくる戦士のような勇ましい格好だ。だが、その大きな背中は力なく丸まっていた。両腕はだらりと垂れ下がり、その歩調はどこかおぼつかない。

 言われてみると苦しそうにも見えた。

 しかし、喉を締めるような唸り声は聞こえてきても、助けを求めるような言葉は聞こえてこない。

「助けるって、どうやって」

「強く願うんだニャ。なりたい自分、強い自分を。そして、あの子を救いたい、と! さすればデシリル・アンプが現れる。ぼくのデシリル・ジェムとそれが揃えば、おぬしは変身できるんだニャ。——伝説の戦士、デシリアに!」

 矢継ぎ早に繰り出されるヒナの言葉に、思考が追いつかない。

「待って、情報量多すぎ」

「問答無用! 今は変身するニャ!」

「へ、変身……!? よく分かんないけど、変身したとして、どうするの?」

「戦うニャ」

 ヒナの断言。

 直後、耳をつんざくような破壊音が世界を震わせた。

 古びたフェンスが濡れた紙細工のように踏み潰され、飴細工のようにひしゃげる。

 スレイヴの巨腕がブランコの鎖を掴むと、鋼鉄のはずの鎖が、枯れた蔦のように容易く引きちぎられた。

 圧倒的な質量と暴力。

 あんな力で、生身の人間が掴まれたら——。

 脳裏に、最悪の想像がフラッシュバックする。

 粉々に砕ける全身の骨。

 破裂する内臓。

 熟れすぎた果実を握り潰すように、自分の『中身』が外へと溢れ出し、原形を留めない肉塊へと変わり果てる光景。

 足元に広がるのは、血液でできた水溜り。

 かろうじて保っていた冷静さが、薄氷のように砕け散った。

 堰を切ったような恐怖が、冷たい手となって全身を鷲掴みにする。

「た、戦うって、む、無理だよ! あんなの……! 絶対に、無理!」

「できるニャ」

「できない!」

「できるニャ!!」

 ヒナは、それでも言いきった。

「ぼくを信じてほしいニャ。信じて、スレイヴに捕われた者の声に耳を——心を傾けてほしいニャ」

「意味分かんないよ……。何も聞こえないし……」

 拒絶の言葉に、ヒナは寂しげに視線を逸らす。

 その直後、世界が闇に覆われた。

 スレイヴの巨体が空を遮り、死の影を落としたのだ。

 あ……もう、ダメかも——。

 思考が白く染まる。

 諦めかけた、そのとき。

「無の邦のお嬢ちゃん。君に、とっておきの選択肢を与えてあげよう」

 メルキーヴァの声がすぐ背後から聞こえた。いつの間にか彼は、瑞季が寄りかかっていた公園のブロック塀の上に、音もなく立っていたのだ。

 逃げ場はない。

 彼は子供を諭すように軽く、しかし絶対的な響きで告げる。

「これから、十数える。その間に王子を置いて去れば見逃してあげる。ただし、数え終えるまでこの場に残っているか、王子を連れて逃げようとすれば、容赦はしないよ」

「そんなの……」

「特別にゆっくり数えてあげるから、よーく、じーっくりと、考えるんだね」

 十……。

 カウントダウンが始まる。

「瑞季! 早く変身するんだニャ!」

「変身、って……どうやるかも分からないし、だいたいまだ協力するとは言ってないし……」

「いいから! 早くニャ!!」

「わがまま言わないで!!」

 ——プツン、と。

 瑞季の中で何かが切れた。

 極限の恐怖が沸点を超え、行き場のない感情がマグマのように喉元までせり上がる。

 理性の堤防が決壊した。

「急に勝手に私の前に現れて! よく分からないことに巻き込んで! ちゃんと説明もしないし! 何なの!? 王子だかなんだか知らないけど、あなたのわがままに付き合ってやる義理が私にある!?」

 叩きつけた言葉が、静まり返った公園に響き渡る。

「それは……そうだニャ……」

 ヒナが小さく縮こまる。

 七……。

 カウントは無慈悲に進む。

 吐き出した熱が冷めるにつれ、遅れてやってきたのは、冷たい自己嫌悪だった。

 言い過ぎた。

 分かっている。

 でも、間違ったことは言っていない。私は巻き込まれただけ。悪いのは私じゃない。

 自分を正当化する言葉を並べても、胸の奥の不快な重みは消えてくれない。

 気まずい沈黙が、ふたりの間に壁を作る。

「すまないニャ。確かに、おぬしの人生は、おぬしだけのもの。ここまで連れてきてしまったけど、無理してぼくに付き合う必要なんてないニャ。ぼくがわがままだったニャ」

 ヒナの声は震えていた。

 瑞季は唇を噛む。

 謝らないでよ。

 そう言われると、まるで私が悪者みたいじゃん。

 でも、喉に何かがつかえて、言葉が出てこない。

「やっぱり、無理だったんだニャ……ぼくがヒーローになるなんて」

 ぽつりと零れたその言葉。

 それが、瑞季の想像力を残酷なまでに刺激してしまう。

 八年前、ヒナは滅ぼされた故郷を背負い、たったひとりでやってきた。

 おそらく、デシリアというわずかな希望を求めて。

 その旅路の果てに偶然出会ったのが、私。

 私があんまりいい子じゃないせいで、ヒナの旅路は徒労に終わる。

 それに——。

 ごくり、と唾を飲み込む。

 もしヒナがあいつに捕まったら?

 どんな酷い目に遭わされる?

 考えたくない。

 聞いてしまったら、知ってしまったら、もう逃げられなくなる。

 本能が耳を塞ぎたがっていた。

「さあ、ぼくを置いて早く逃げるニャ。こんなことに巻き込んでしまって、申し訳なかったニャ」

 五……。

 ヒナは、にっこりと笑った。

 泣き出しそうな、無理に作った笑顔で。

「八年もぼくのことを守ってくれてありがとうニャ。記憶はないけど、瑞季の想いはしっかり届いてたニャ」

 その笑顔が、心臓をぎゅっと締め付ける。

 逃げられるはずはなかった。戦えるはずもない。ましてや、助けるなんて。

 置いていけば、私は助かる。

 明日も学校に行ける。漫画の続きが読める。昨日の描きかけの絵も、いつか完成させられる。

 でも、ヒナは?

 この小さな体が怪物に蹂躙されるのを、私は一生背負って生きていくの?

 でも、逃げなかったら——。

「……」

 死ぬかもしれない。

 嫌だ。

 まだ、生きたい。

「……ごめん」

 絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 瑞季は腕の中のぬいぐるみを、ひび割れた砂地へそっと置く。

 温もりが離れていく。

 一度も振り返らない。

 振り返れば、もう歩き出せなくなるから。

 震える足で、ただ前へ。

 スレイヴの巨大な影を抜けて、彼女は日常へ帰っていく。


「壱」

 メルキーヴァが、瑞季がいた場所に降り立った。

「零。……教えてやらなくてよかったのかい? どのみち、この世界に明日はない、ってさ」

 子供をからかうような、軽い言い草だった。

 ヒナは尻尾を真っ直ぐに立てて、ゆっくりと退く。

「脅すような真似をしてまで、巻き込みたくはないニャ」

 ヒナはメルキーヴァを睨む。

 メルキーヴァは嗤う。

「そっか。その様子だと、デシリル・ジェムを差し出す気はなさそうだね」

「当然ニャ。このはらわたが裂かれるまで、絶対に渡さないニャ」

「……へえ。さすがは王子様だ。意外とかっこいいこと言うじゃん。もっと情けない奴だと思ってたよ」

 メルキーヴァは、愉快そうに肩を竦めた。

「でも、俺には君のちっぽけな心の中が、手に取るように、よーく分かる。強がってるんだね。怖いんでしょ? 本当は、この世界を犠牲にしてでも生き延びたいんでしょ? 本当は、誰よりも弱虫だもんね」

「……なんとでも言うがいいニャ」

「強がっちゃって」

 メルキーヴァは、まるでこれから始まるショータイムに胸を躍らせるかのように、指の関節をコキコキと鳴らした。

「俺の八年分の憎しみを、たーっぷりと堪能させてあげようと思うんだけど、いつまで強がりが持つかなあ、王子くん?」


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