第五話「衝突」-4-
スレイヴは背中を伸ばし、気楽そうに曇天を仰いでいた。
「ずいぶん隙を見せるね!」
リアハイリンが瞬時に死角へ潜り込み、軸足を刈り取るようなローキックを放つ。
だが、手応えはない。
蹴りは空を切り裂いただけだった。
スレイヴは逆立ちし、ブレイクダンサーのように身体を旋回させていたのだ。
回転する両脚。
遠心力が、殺意となって解放される。
認識する間もなく、リアハイリンは弾き飛ばされた。
校舎の窓を突き破り、家庭科室へ飛び込む。
食器棚に激突し、視界が乱舞する陶器の破片で埋め尽くされた。
粉砕音と共に崩れ落ちる日常。
その光景は、全身の打撲痛よりも深く、彼女の心を抉った。
一方、リアマイムもまた、悪夢のような速度に翻弄されていた。
このスレイヴ、これまでの相手のは速さが段違いだった。校舎と校舎の間の数十メートルを、一秒にも満たない時間で往復するほどのスピード。
真正面からの突進さえ、速すぎて軌道が見えない。
リアハイリンが蹴り飛ばされてから、わずか十秒。
ふたりのデシリアは、それぞれ壁に背を預け、地に伏していた。
完全に圧倒されていた。
リアマイムは震える膝で立ち上がり、必死に呼びかける。
「莉照くん……! あなたは、昔から足の速いサッカー選手に憧れていたよね……。ちっちゃい頃は、星輝よりも足が遅かったけど、あなたは誰よりも努力して、今では学年でもトップクラスの俊足を手に入れたじゃない。その、血の滲むような努力は……! こんなことに使うために積み重ねてきたものなの!?」
スレイヴにされてしまい、自慢のスピードを無理やり利用されている——普通に考えれば、そう結論づけるのが自然だろう。
しかし、リアマイムには、そうとは思えなかった。
このスレイヴの動きは、莉照自身が己の破壊欲求を満たすため、スレイヴの力を進んで利用しているかのように見えたのだ。
そのおぞましい衝動は、彼が心の奥底に抱えていた、本当の黒感情なのだろうか。
少なからず、それはあるのだろう。
「ヤケになってるんだね、莉照くん……」
彼を追いやった原因は、紛れもなく自分たちだ。
悔恨に浸る間もなく、死神の爪先が迫る。
強烈な蹴り上げ。
紙人形のように四階の高さまで打ち上げられた。
頂点で時が止まる。
視界に入ったのは、無人の教室。
乱雑な机。途中で途切れた黒板の数式。
日常の切れ端が、残酷なほど鮮明に焼き付いた。
咄嗟に外壁の配管を掴む。
質量を消すイメージで、落下の衝撃を殺した。
「そろそろ反撃させてもらうよ」
直径六十センチの水球を生成する。
イメージするのは、冷たく硬い鉄塊。
スレイヴはリアハイリンのいる家庭科室へにじりよっていた。
「はあ!」
水球を、スレイヴの背中へ渾身の力で投擲した。
空気を裂く重低音。
スレイヴがゆらりと振り返る。
迫りくる鉄の水球を——こともなげにヘディングし、真上へ打ち上げた。
落下する水球を、膝で柔らかく受け止める。
爪先で蹴り上げ、踵で弾く。
「リフティング……?」
怪物が、ボールと戯れている。
リアマイムが再び地上に戻ると、数回のリフティングの後、足裏でピタリとボールを止めた。
そして、彼女へ向けて軽く蹴り出す。
転がってくるボール。
スレイヴが軽快なステップで追いかけ、再び蹴る。
ドリブルだ。
「嘘でしょ……」
あの水の球は、ただの水ではない。鉄のように硬くなるイメージを強く込めて作り出した、凶器そのものだ。あんなものが校舎の窓ガラスにでも当たろうものなら、壁ごと粉砕されるだろう。
止めないと——。
直接触れれば、ただの水に戻せるはずだ。
正面からボールを奪いに行く。
スレイヴの上体が左へ揺れた。
つられて動いた瞬間、鋭角な切り返しで右へ抜かれる。
「っ!」
慌てて反応するが、さらに左へ。
巧みなフェイント。重心が完全に崩された。
リアマイムを抜き去ったスレイヴは、誰もいない空間目掛けて、力強いシュートを放った。
ボールは、二階の渡り廊下の壁に直撃し、壁を凹ませながら宙高くへと舞い上がる。
怪物が跳躍する。
空中で身体を反転させ、オーバーヘッドキックでボールを叩き落とした。
流星のような速度で、水球が迫る。
間一髪で回避。
しかし、球はスーパーボールのように校舎や地面を不規則にバウンドし続けていた。
その軌道を目で追うことすらままならない。
あまりに複雑な弾道。
それを予測できるはずなんてなかった。
なのに。
上空で打撃音が響いた。
「!?」
見上げると、眼前に水の玉が迫っていた。
スレイヴが神速で先回りし、蹴り落としていたのだ。
「くっ……!」
咄嗟に鉄塊と化した水球に触れるが、水に戻す暇などない。
リアマイムは無惨に地面へ叩き潰された。
衝撃で意識が飛びかけ、ようやく水球が水溜まりへと戻る。
霞む視界で顔を上げる。
そこには、冷たく見下ろすスレイヴの足裏と、渡り廊下から呆然とこちらを見つめる星輝の姿があった。
怪物に踏みつけられるリアマイムの姿を見て、星輝が黙っていられるはずはなかった。
スレイヴに自分の存在を気づかれてしまうと、まずいことになるかもしれない。
だからといって、親友の危機を見過ごせるはずなんてない。
「優菜っ!!」
だが、彼女の叫びなど、スレイヴには興味がないらしい。リアマイムの身体を無感動に踏み続けている。
星輝は、震える手でスカートのポケットに手を入れた。そこから取り出したのは、赤いデシリル・ジェム。いつか、ヒナから託されたものだった。
——もし、戦う覚悟が少しでもあるなら、これを持っていてほしいニャ。きっと、デシリル・アンプが応えてくれるニャ。
ヒナから打診を受けたとき、優菜は水色の宝石を、星輝は赤色の宝石を、それぞれ受け取っていた。そのときの星輝は、自分もデシリアとして戦う覚悟を決めていたつもりだった。
その後、優菜は見事にリアマイムへと変身を遂げ、リアハイリンと共にスレイヴと戦った。
星輝は、それをただ指を咥えて眺めていたわけではない。
彼女もまた、変身しようと試みたのだ。
しかし、星輝の身には何も起こらなかった。
昨日だってそうだった。
赤いデシリル・ジェムを握りしめる。
無残な惨状に、彼女の胸の奥底から熱く、どうしようもない何かが、込み上げてきた。
「応えてくれよ! 優菜たちを助けたいんだ! 頼むから……変身させてくれよ!!」
ジェムを握りしめ、祈るように叫ぶ。
宝石が輝き、どこからかデシリル・アンプが現れる——という想像をするが、何も起きなかった。
悲痛な声が、虚しくこだまするだけ。
「くそっ……! なんでだよ……! ウチには……見てることしかできないのかよ……」
脚から力が抜ける。
壁にもたれかかり、その場に力なく座り込んだ。
胸の中に黒い靄があるのを、確かに感じながら。
「やっぱり、ウチじゃダメなのか……」




