第五話「衝突」-3-
ガラス片と生徒たちの悲鳴が、阿鼻叫喚となって弾け散る教室。廊下側の窓際にいた生徒たちが、グラウンド側へと押し寄せ、瑞季や沙耶もまた、窓に貼りついていた。
「な、な、なにあれ……? う、嘘でしょ……?」
沙耶たちの、恐怖に震える声を聴きながら、瑞季と、いつの間にか隣に来ていた星輝と優菜は、互いに言葉もなく、目を見合わせていた。
スレイヴだ——。
スレイヴは巨大なヤモリのように壁にへばりつき、歪んだサッシに手をかけた。
隣のクラスからは、生徒たちが我先にと逃げ出す足音や怒号が聞こえてくる。
だが、怪物が正面にいる、瑞季たちのクラスの一員は、誰ひとりとして逃げ出せない。
スレイヴが窓枠から巨体をねじ込み、廊下へと侵入する。
右手が横薙ぎに振るわれ、廊下側の窓ガラスが全て吹き飛んだ。
爆発のような悲鳴が、教室を満たす。
怪物の腕が、教室の内部へ伸ばてくる。
戦わないと——。
瑞季は、ヒーローとしての使命感を、右手に強く握りしめる。
だが、クラスメイトの前で変身することには戸惑いがあった。
再度、優菜たちとアイコンタクトを取ろうとする。しかし、隣にいたはずの星輝の姿が、そこにはなかった。
「おい、デカブツ」
教室のドアの外側に、星輝がいつの間にか立っていた。
スレイヴへ挑発的な笑みを浮かべ、手招きをする。
「鬼ごっこしようぜ。……もちろん、おまえが鬼な?」
瑞季は、星輝が何をしようとしているのか気づく。止めようとしたが、彼女の口は隣にいた優菜によって、素早く押さえられてしまう。
「……ダメ、瑞季」
優菜が耳許で囁いた。
「ここで、スレイヴの気をこっちに向けてしまったら、元も子もない」
優菜の顔は苦渋に歪んでいる。彼女もまた、星輝の行為に反対していることが窺えた。
しかし、同時に、星輝の一手がこの状況を打開するための最善策であるということにも気づいている。
「どうした? もしかして、鬼よりも子のほうがお好み? あー、それはダメだね。年頃の女の子のお願いは、法律より重たいからな。そうだろ?」
星輝は、ゆっくりと無駄口を叩いていた。他のクラスの生徒たちが、この危険な三階のフロアから安全な場所へと逃げ切るための時間を稼いでいるのだ。
「それにしてもさあ。いくらなんでも、女の子にお尻向けて逃げるなんてさあ……」
スレイヴの顔が星輝に向く。距離は十歩もない。
「……ダサいぞ」
その一言が引き金だった。
スレイヴが咆哮を上げ、星輝へ突進する。
星輝がニヤリと笑い、廊下を全力で走り出した。
スレイヴは巨体を校舎の内側へと引き込ませる。立ち上がろうとしたが、頭頂部を低い天井にぶつけ、身体を四十五度以上起こすこともできず、四つん這いで星輝の後を追いかけていった。
「……今のうちに!」
優菜はクラスメイトの群れの中から抜け出し、星輝が逃げていった方向とは逆側へ指差した。
「みんな! グラウンドへ避難しましょう!」
優菜や星輝のように、極限の状況下で機転を利かせた判断ができる人間など、そうそういるものではない。
クラスメイトのほとんどは、依然としてその場に固まってしまっていた。
動きたくても、恐怖で足が動かせないのだ。
誰かが背中を押さないと——。
瑞季は拳を握りしめ、飛び出した。
「みんな、早く! 星輝の勇気を無駄にしちゃダメ!」
特別な人間じゃない。リーダーでもない。
昨日までクラスの隅っこにいた、ただの少女。
だが、その叫びが、凍りついた空気を溶かした。
クラスの委員長が、優菜が指し示した方向へと飛び出し、それに続いて体育委員の男子生徒たちが、他の生徒たちを促しながら続いた。そのまま、クラスの全員がぞろぞろと動き出す。
しかし、沙耶は動かなかった。じっと、不安そうに瑞季を見つめている。
瑞季は、ふっと微笑み、彼女へ近づいた。
「……沙耶も、早く」
「瑞季さんは……? 優菜さんは、どうするつもりなの……?」
クラスメイトたちの群れの最後尾について、一緒に避難する——という気が彼女たちにないことに、沙耶は勘づいているらしい。
瑞季は彼女の華奢な肩に、そっと手を置いた。
「私たちは星輝を追いかける」
その声に、迷いはなかった。
「でも……! それじゃあ、瑞季さんたちまで……!」
「いくら星輝でも、あんな化け物相手にひとりじゃ危険すぎる。だから、誰かが助けに行かなきゃ」
優菜もまた、「さあ、沙耶ちゃんも、みんなと一緒に逃げて。大丈夫だから」と、優しく、しかし有無を言わせぬ口調で沙耶を急かす。
沙耶は何か言いたげな様子だった。しかし、自分だけが無理にここに残ろうとすることが、どれほど無意味なことなのかも、彼女は理解していた。
沙耶の瞳が涙ぐむ。
「絶対に、無事でいてね。約束だよ」
「うん。約束する」
瑞季は、力強く頷いた。
走り出す沙耶の後ろ姿を最後まで見送ると、ふたりは互いに顔を見合わせた。軽く脚の筋肉や腱を伸ばし、これから始まる戦いへの準備運動を始める。
「瑞季も、すっかりヒーローの顔だね」
「そんなことないよ」
謙遜する言葉とは裏腹に、横顔には自信が満ちていた。
瑞季はデシリル・アンプを取り出す。
「早く仕事を済ませて、約束を守らなきゃね」
南校舎の構造はシンプルだ。
星輝たちの教室は三階西側。彼女はあえて階段から遠い東側へと走っていた。
廊下を逃げ惑う他のクラスの生徒たちの気配が無くなってから走り出したが、ビンゴだった。追われながらちらりと教室を覗いたが、誰もいない。ちゃんと逃げきったようだ。
最も東の教室の後ろ側を曲がると、コンクリートの階段が姿を現した。
「ウチが変身できたなら、今がベストタイミングなのにな」
ここまでは計算通り。
一段飛ばしで踊り場へ駆け上がり、四階の様子を窺う。
だが、そこで計算が狂った。
「!」
上級生の集団が、立ち往生していたのだ。
スレイヴを直接見ていない上の階の生徒たちは、状況把握が遅れていたらしい。
「こっちは危険だ! 逆から逃げろ!」
叫びと同時。
角から闇色の巨体が躍り出た。
狭い廊下を曲がりきれず、窓のサッシを蹴り飛ばして強引に方向転換したのだ。
ガラスの雨が降り注ぐ中、上級生たちは恐怖に凍りついていた。
右目に、動けない生徒たち。
左目に、殺意の暴走列車。
時間がない。
「早く!」
突進が迫る。
床を滑るように転がり、射線から逃れた。
紙一重の回避。
直後、スレイヴが壁に激突する。
分厚いコンクリートが、豆腐のように抉り取られた。
あそこに生身の人間が、挟まれていたら——。
惨状を目の当たりにし、ようやく上級生たちが弾かれたように逃げ出した。
「はあ……。助かる」
ひとつ息をつく。
「やっとふたりきりになれたな。嬉しいぜ」
星輝はさらに上へと駆け上がりながら、脳内をフル回転させる。
屋上へ誘導すれば時間は稼げる。だが、グラウンドへ飛び降りられたら被害が広がる。
——ここで食い止める!
狭い廊下はスレイヴにとっても檻だ。
瑞季たちが来るまで、ここで粘ってやる——。
覚悟を決め、足を止めた。
「……おまえ、莉照だろ」
壁から頭を引き抜いたスレイヴが、星輝をじっと見つめる。
「おまえの黒感情は、なんだ?」
答えの代わりに、巨大な拳が突き出された。
避けきれない。
拳圧が頬を浅く切り裂く。
それでも、星輝は視線を逸らさなかった。
「……正直、おまえの気持ちなんて分からん。でも、放っとけねえんだよ。幼なじみのよしみだ。教えてくれよ、莉照。おまえの気持ちを」
スレイヴが柵を飛び越え、拳を振り下ろす。
星輝は跳躍し、空中で身体を捻った。
渾身の回し蹴り。
ダメージなど期待していない。ただの牽制だ。
だが、スレイヴは過剰に反応した。
頭を振って回避しようとし、勢い余って後頭部を壁に強打する。
「へへっ、ラッキー」
踊り場の窓から差し込む光が、怪物の衣装を照らし出す。
どす黒く変色しているが、それは見慣れたサッカー部のユニフォームだった。
「やっぱ莉照だな」
確信と共に着地——しようとした、そのとき。
足元の感覚が消えた。
抉られていた階段が、彼女の着地の衝撃で崩落したのだ。
「まじかっ!?」
瓦礫と共に落下する。
内臓が浮き上がる感覚。
打ち所が悪ければ死ぬ。
受け身を取ろうと身構えた瞬間、背後から温かい腕が身体を包み込んだ。
驚きで身を固くするが、その温もりにすぐに力が抜けた。
「サンキュー、ハイリン」
「どういたしまして」
下の階の踊り場に、ふわりと降ろされた。
「クラスのみんなは、もう逃げたか?」
「うん、おかげさまでね。三階には、もう誰もいないはずだよ」
頭上で鈍い衝撃音が響く。
リアマイムがスレイヴを抑えているのだろう。
パラパラと粉塵が落ちてくる。再び、階段がガラガラと崩れてしまうのは、もはや時間の問題だ。
「やっぱり、階段での戦いは危険だな、こりゃ……」
星輝が苦笑する。
「三階の廊下で戦うよ。星輝は逃げてて」
「ああ。あと、ひとつ報告。あのスレイヴは莉照だ。間違いない」
「そっか……分かった。あとは任せて」
リアハイリンが力強く頷く。
「ああ。バトンタッチだ」
星輝とリアハイリンは、互いの拳を軽く突き合わせた。
言葉以上の信頼を交わし、ふたりは背中を向け合った。
リアハイリンは、崩れかけた踊り場から三階の廊下へと一気に跳び上がり、リアマイムと合流した。
スレイヴは三階の崩れた階段の下に足を置き、四階へと続く踊り場に頭を置いていた。
次の瞬間、スレイヴは、脚をバネのようにぎゅっと縮ませた。
階段の一、二段目を力強く蹴り、一直線に飛びかかる。
ふたりは咄嗟に左へ跳び、紙一重で避ける。
スレイヴは、頭をそのまま廊下の壁にぶつけ、校舎の壁に大きな風穴を開けてしまった。
そして、スレイヴはそのまま校舎の外へ飛んでいく。
「しまった! 外に逃がしちゃった……!」
すぐさま壁に開いた大きな穴から、スレイヴの行方を見下ろす。スレイヴが降り立ったのは、校舎と校舎の間に広がる、緑豊かな中庭だった。
「中庭なら、周りを校舎で囲まれてるから、半分くらいは閉じ込めてるみたいなものだよね」
「うん。行こう」
ふたりは中庭に降り立ち、湿り気のある土を踏み締める。
スレイヴは準備運動のように足首を回し、首を鳴らしていた。
「ここからが本番ってことかな」
リアハイリンは唾を飲み込み、声を響かせた。
「……莉照くん。あなたの本当の気持ち、聞かせて!」




