第五話「衝突」-2-
三限目の始業を告げるチャイムの音が、教室に響き渡った。担当の小池先生が教壇に立っても、莉照蓮司の席は空いたままだった。
先生は、その空席に一瞬だけ怪訝な視線を向けたものの、特に何も言及することなく、淡々と授業を始めてしまう。
染谷瑞季の胸には、黒いインクのような予感が広がっていた。
言いようのない、嫌な予感。
——メルキーヴァは、ぼくのことを気にしてたかニャ?
昨日の戦いで、西沢沙耶のスレイヴを浄化した直後のこと。瑞季のバッグの中から、いつの間にか様子を伺っていたらしいヒナが姿を現し、そう尋ねてきたのを思い出す。
「そういえば、何も言ってなかったね」
彼らの標的はデシリル・ジェムだ。残りのひとつは星輝が持っているが、メルキーヴァはそのことを知らない。ヒナが持っていると思っているはずだ。また、ヒナ本人にも恨みがあるはず。
瑞季たちがスレイヴと戦っている最中に、瑞季が放置していたバッグの中を漁り、ヒナを奪い取ろうとするくらいのことは、してもおかしくなさそうだったのに。
「どういう風の吹き回しなんだろう」
「メルキーヴァは今回、あきらかにウチらの身近な人を標的にしたよな。事前にナイフを渡してまでして」
高梁星輝と月音優菜は首をかしげ、かすかに目を細めた。
「もしかして、ヒナよりも、わたしたちに何かをすることを優先にしてる?」
その会話を授業中に思い出しながら、瑞季は思った。
メルキーヴァが根回しをしていたのは、本当に沙耶だけ……?
キーンコーンカーンコーン……。
不意に、突然のチャイムが授業を遮った。
「ん?」
小池先生は板書の手を止め、怪訝な表情で頭上のスピーカーを見上げる。
〈——こちらは放送室です。えー、ただいまより、緊急集会を開きますので、次の放送があるまで、生徒の皆さんは、そのまま教室で静かに待機していてください。係の先生方は、至急、職員室へ。繰り返します……〉
平静を装ってはいるが、明らかに早口で切羽詰まった声だ。
教室がざわめき始める。
「……はいはい、みんな落ち着いて」
小池先生は、手に持っていたチョークを粉受けへと静かに置いた。
「先生は係だから、職員室まで行ってくる。多少お喋りしていても構わないが、隣のクラスに迷惑をかけない程度にな」
何の係? と瑞季は思ったが、クラスの誰かがそれを質問する暇もなく、先生は足早に教室を出ていってしまった。
瑞季が、ふと心配になって沙耶の方へと目を向けると、ちょうど彼女もこちらを見ており、視線が不意にかちあった。
「なんだろうね、今の」
瑞季が小声で尋ねる。
「うん……。変なことじゃなかったらいいんだけど」
沙耶もまた、不安げに答えた。
莉照の席は依然として空いたままだった。
まさか、莉照くんのこと?
いや、でも、生徒がたったひとり教室にいないってだけで、緊急集会とやらが開かれるもの?
それに——。
「さっきから、遠くで変な物音がしてるような……」
「工事かな」
物音は廊下側の窓の方から微かに聞こえてきていた。瑞季たちがいるのは南校舎で、廊下側には北校舎が建っている。
「工事なんて聞いてないけど」
呟いた瞬間。
ビルが崩落するような轟音が響き渡った。
轟音に混じる、甲高い悲鳴。
教室が凍りつく。
「……え?」
誰かが廊下側の窓を開けた。
「あれ、煙じゃない……?」
北校舎の方角から、黒煙が上がっている。
「え、うそ……」
「マジだ! なんか、黒い煙が上がってるぞ!」
「火事……? でも、なんか、火事の煙って感じでも、ない……?」
すると、一番後ろの席にいた男子生徒が立ち上がり、「ちょっと、俺、見てくるわ!」と言って教室を飛び出してしまう。
隣のクラスで授業をしていた別の教師の声が聞こえてくる。
「こら! 危ないから、早く教室に戻りなさい!」
「え、でも、先生! 何かヤバいことになってるんすよ!」
「いいから、早く教室に戻りなさ……」
教師の言葉が途切れた。彼女は廊下の外に目を向けているのだろう。男子生徒はつられるようにして、そちらへと顔を向けた。
「え……。な、なんだよ……あれ」
教室にいた他の生徒たちも、そのただならぬ雰囲気にぞろぞろと席を立ち、我先にと、廊下側の窓の外を覗き込もうとした。
その瞬間、最初に廊下へと出ていた男子生徒が血相を変えて、教室へと振り返った。
少年と隣のクラスの教師が、北校舎の屋上で見たもの——。それは、禍々しい闇色のオーラを放つ、巨大な人間の形をした何かだった。
その身長は、四階の窓の上あたりから三階の窓の下あたりまで届くほど。太陽の光に照らされてもなお、その体躯は、まるで影そのものが実体を持ったかのように、どこまでも暗い。その怪物がこちらを一瞬だけ見下したかと思うと、次の瞬間、ふっと後退し、屋上から姿を消した。
どこからか、安堵の吐息が聞こえた。
だが、それは大きな間違いだった。
怪物が下がったのは、助走をつけるため。
突如、黒い巨影が現れ、跳躍した。
北校舎の屋上から、こちらへ。
一直線に。
「——う、うわあああああっ! 逃げろぉぉぉぉぉっっ!!」
だが、逃げ場などない。
誰かが絶望するよりも早く。
中庭に面する窓ガラスが爆ぜた。




