第一話「ヒーロー」-3-
帰宅部の瑞季は帰路についていた。
なだらかな坂道を、力なく下っていく。
彼女の視線は、アスファルトの染みや、道端に落ちている色褪せた広告チラシといった、取るに足らないものばかりを捉えていた。
「西沢さん……」
ぽつりと、口からクラスメイトの名前が漏れた。西沢沙耶の震える手の残像が、未だに瞼の裏から剥がれていなかった。まばたきをするたびに、何もできなかった自らの無力さを、嫌というほど見せつけられる。
「なんでこんなに悔しいんだろ。逃げてるだけなのに」
莉照蓮司は毎日のように西沢沙耶をからかう。おそらく、本人に悪気はない。傷つけている自覚すらないのかもしれない。
だからといって、許せるはずもなかった。
もし勇気を出して「やめて」と言えたなら。彼はどうするだろう。謝ってくれるだろうか。
仮に彼が謝ったとしたら、彼女は許すかもしれない。
だが、一度刻まれた傷は消えない。
「私なら、許せない」
もし、ここで簡単に許してしまえば、彼はまた同じように、別の誰かを無自覚に傷つけるかもしれないのだから。
それに、少しくらい、同じような痛みを感じさせてやらないと、腹の虫が治まりそうにない。
ふと、そんなことを考えている自分自身に、言いようのない虚しさが込み上げてきて、思わず立ち止まってしまった。
「何もできない臆病者のくせに、何を偉そうに想像してるんだろう……」
そのとき。
視界の端を、不自然な土煙がよぎった。コンマ数秒後、ビルが崩れるような轟音が鼓膜を打つ。
顔を上げれば、南東の方角から黒煙が立ち昇っていた。
直後、遠くから甲高い悲鳴が響く。
続いて、怒号と騒音が断続的に聞こえてきた。
脳裏に、かつて夢中で見たヒーローの背中が浮かぶ。
困っている人がいれば、後先考えず危険に飛び込む、無鉄砲で頼もしいヒーロー。時に盛大に空振りして、見ているこっちが恥ずかしくなるような、おっちょこちょいな一面もあったけれど。
理想のヒーロー像が、現実の重さに押し潰されて消えていく。
「危うきに近寄らず、だよね……」
残念ながら瑞季は、あのヒーローのような野次馬根性を持ち合わせていなかった。
「あっちに用事はないし、普通に帰ろう」
そう自分に言い聞かせ、再び家路へと足を向けようとしたときだった。
「——おい! おぬし!」
背後からのふてぶてしい声。
同時に、ぽすん、と肩に軽い何かが触れた。
「きゃっ!?」
反射的に振り払い、振り返る。
軽いそれは簡単に弾き飛ばされ、コロコロと坂道を転がっていった。
見覚えのある、クリーム色と茶色のぶち模様のぬいぐるみ。
「いてててて……。急に何をするニャ! 乱暴者めが!」
そのぬいぐるみ——ネー子が、悪態をつきながら、むくりと起き上がった。
「ネー子!? なんで? え、なんで!? 色々なんで!?」
瑞季は、パニックになりながらも慌ててネー子を拾い上げ、その体についた土や埃を丁寧に払った。
しばらくの間、衝撃で目が渦巻き模様になっていたネー子だったが、やがて、パチパチとまばたきをすると、まん丸な目で瑞季を睨みつけた。
「おぬし! 今朝、どうして、ぼくを起こさなかったんだニャ! ちゃんと起こせと言っておいたはずニャ!」
「あ、ごめん忘れてた」
「あ、ごめん忘れてた。じゃないニャ! もし、奴らがもっと早く行動を起こしていたら……!」
「奴ら?」
「説明は後ニャ!」
「あっ、この手のキャラの伝家の宝刀『焦らし』だ」
「呑気なこと言ってる場合じゃないニャ! 急げ! 走るニャ!」
「走るって、どこに」
「決まってるニャ! あの騒ぎの方角だニャ!」
「ですよねー」
天を仰いで、深いため息。
どうやら今日は、平穏な帰宅は許されないらしい。
ふと、少し先の女子生徒と目が合った。訝しげな、不審者を見る目。こちらの状況など知る由もない彼女には、瑞季が語尾に「ニャ」をつけ、ひとりで騒いでいるようにしか見えないだろう。
「もう、なんなの〜っ!」
羞恥心に背中を押され、瑞季は土煙の上がる方角へ駆け出した。




