第五話「衝突」-1-
九年前。世界が変革を迎える頃。
メルキーヴァは重々しいマホガニー製の扉を、無造作なノックで叩いた。中から「入れ」と、しゃがれた威厳のある声が聞こえてくると、扉を開け、中へと足を踏み入れる。
そこは、高級な革張りのソファや趣味の良い調度品がいくつも置かれた、格式ばった部屋だった。その部屋の中央に位置する、ひときわ豪華なソファに、背が低く恰幅のいい壮年の白髪の男が深々と腰掛けている。彼こそが、メルキーヴァ所属するイシュー軍の頂点に立つ長官だった。
彼は、入り口に立つメルキーヴァに、目をやることすらしなかった。ただ、手元の高価そうなグラスを、ゆっくりと揺らしているだけだ。
「ご足労だったね、メルキーヴァ将軍」
「どんな風の吹き回しだ? 長官」
尊大な態度を隠そうともせず、メルキーヴァは尋ねた。
この事務所に直接足を運んだのは初めてだった。彼とこの男との関係は、ドライで汚れたものだ。普段、長官が軍の基地を視察に来た合間を縫って、他の誰にも知らせることなく、ふたりだけでこっそりと落ち合い、そして、表では話すことのできない「裏の仕事」の依頼と、それに見合うだけの汚れた金を、メルキーヴァに渡す。ただそれだけの浅く歪んだ接点。
「ふむ。君に会ってほしい者が、この奥の部屋に待っている」
長官は、自身の背後にある黒い扉を、太い親指で指し示した。
「長く待たせるのも、相手に失礼だ。単刀直入に話そう。彼は現在、世界で最も注目を集めている男……。例の、ヘヴン社の若き『英雄』だ」
「……へえ」
メルキーヴァは立ったまま、奥の扉へと目を向けた。
「退屈な平和を呼び込み、軍人の仕事をすっかり退屈にさせてしまった、あの英雄くんね」
「……はは。戦争を止めたのだ。そう悪く言うことはないだろう」
長官は、乾いた笑い声を上げた。
「それで、だ。その彼が、光の連邦への侵略のために腕利きの傭兵を探していてね。お触れは出ているが、聞いたか?」
「さあね」
「我がイシュー軍から優秀な傭兵をひとり雇いたいと打診があった。……私は、迷わず君を推薦したよ」
長官が初めて視線を上げる。抜け目のない小さな瞳。
「……どうして俺なんだ?」
「光栄な役目だろう? 世界の未来を担う精鋭のひとりだ」
「あんなの、アピール目的の人寄せ動物だろ。俺には似合わない」
「考えてみたまえ。君の長い脚をもってしても踏み越えることができないほどの大出世ではないか。……それに、君が今しがた言ったように、仕事のない現在の軍は君のような規格外の男にとって、さぞ退屈だろう? 悪い話ではないはずだ」
「だが、あんたにとっては悪い話なんじゃないのか? 長官」
メルキーヴァは、かすかに意地の悪い笑みを浮かべた。
「俺が軍を離れて光の連邦だか何だかへと侵略しに行くことになったとしたら、長官、あんたはもう二度と、この『便利屋』を手足にできなくなくなるんだぜ?」
「いかにも。実に寂しいことだ。しかし、私のことなど気にするな、メルキーヴァ君。君は、君自身の、燦然たる未来だけを見つめなさい」
長官の瞳の奥。
そこにあるのは惜別ではない。
『恐怖』と、厄介払いができることへの醜い『安堵』。
見慣れた色だ。これまで幾度となく向けられてきた、忌まわしい視線。
メルキーヴァはすべてを悟った。
——なるほど。そういうことか。
これまで、汚い仕事専門の駒として、メルキーヴァを利用してきた老獪な長官だったが、今は立場が危うくなっているのではないだろうか。戦争が一時的に休戦した影響か、何か別の政治的な要因か。あるいは彼が秘密裏にメルキーヴァに依頼してきた、数々の血生臭い用件が、暴かれそうになっているのかもしれない。
何はともあれ、彼はメルキーヴァという、自らの汚点を知る存在を一刻も早く遠ざけたいのだ。できることならば、口封じのために殺してしまいたいのだろう。しかし、仮に、別の暗殺者にメルキーヴァの暗殺を依頼したとしても、特殊な能力を持つ彼に敵うとは思えない。そして、その暗殺が失敗に終わり、メルキーヴァが生き延びてしまったとしたら……。そのときは、長官自身が殺されることになる。
なんとか波風を立てることなく、自分自身の手を汚すことなく、このメルキーヴァという厄介者を確実に遠ざけたい……。そう思っていた矢先に、ヘヴンの傭兵の話が都合よく舞い込んできた。——そんなところだろう。
俺を異国のヘヴンや異世界である『光の連邦』へ追いやり、あわよくば戦死してくれれば万々歳——相変わらず、食えない狸ジジイだ。
「まあ、急ぐこともないか」
内心の侮蔑を隠し、メルキーヴァは肩を竦める。
「まずは『英雄』とやらから、話を聞かせてもらうよ」
長官はあからさまに、ほっとしたような表情を浮かべた。
「そうしてくれたまえ。彼も、君とゆっくりと話がしたいとのことだ。これより私は席を外させてもらう。……もちろん、盗聴などといった野暮な真似はしないと約束する。話が終わったら、君は勝手に出て行ってくれ。私への挨拶など不要だ」
長官はソファから腰を上げた。
「これまでの長きに渡る協力、心から感謝する。メルキーヴァ将軍」
長官はそれだけを言い残すと、そそくさと扉へと向かい、外へと出ていった。
メルキーヴァは、その哀れな後ろ姿を黙って眺めていた。
どのような形であれ、誰かに必要とされることは、悪い気分ではなかった。たとえ、利用されていただけなのだとしても。
メルキーヴァは深いため息をつき、奥の黒い扉の前へと立った。ノックもせずに、その扉を開ける。
そこは、先ほどの悪趣味に豪華な部屋とは打って変わり、機能的で清潔感のある、簡素な応接室だった。ふたり掛けのシンプルなソファがひとつと、それと向かい合うようにして、ひとり掛けのソファがふたつ並んでいる。その間には、ガラスでできたローテーブルが置かれていた。
そして、奥のソファには、白衣を着た若い男が静かに座っていた。




