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黎明のデシリア  作者: 中條利昭
第四話「嘘」

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第四話「嘘」-7-

 沙耶は、ぼんやりとした意識の中、夢を見ていた。

 どこまでも続く、夜の海の中に、ただひとりで漂っているような夢

 周囲は完全な暗闇で、何も見えない。だが、恐怖はなかった。むしろ、心地よい静寂と安心感に包まれている。

 遠くから、複数の優しい女の子たちの声が聞こえてくるような気がした。何を言っているのか、その内容は分からない。でも、耳を優しく包み込むような響きが気持ちよくて、固く強張っていた心が、ゆっくりと晴れ渡っていくのを、沙耶は確かに感じていた。

 すると、その夜の海に、一筋の柔らかな光が射してきた。光は徐々に輝きを増していき、やがて周囲の暗闇を完全に払う。目の前には息を呑むほどに美しい、エメラルドグリーンの透き通った海が広がっていた。そして、光はさらに輝きを増していき……。あまりの眩しさに、沙耶は思わず、ぎゅっと目を閉じてしまった。

「——沢さん。西沢さん」

 優しい声に、重い瞼を開ける。

「……染谷さん? え」

 目の前に瑞季の顔。柔らかい感触。

 彼女の膝枕で寝ていたと気づいた瞬間、沙耶は弾かれたように起き上がった。

「わっ!」

 勢い余ってベンチから落ちそうになるが、瑞季が咄嗟に支えてくれる。

「大丈夫?」

 心配そうな顔。沙耶の顔は真っ赤に染まった。

「え、あ、その、……うん」

 しどろもどろに答えるのが精一杯だった。

 ここは学校の近くの小さな公園だった。カラフルな滑り台と砂場があるだけの、こじんまりとした場所だ。

 どうして自分がこんなところにいるのか、思い出せなかった。

 最後の記憶は、隠していたナイフを落としてしまい、瑞季たちに見つかってしまったところ。

「えっと、私……」

「ナイフは持ち主に返したよ」

 瑞季が、何でもないことのように、あっさりと言った。

 沙耶は硬直した。

 気を失っている間に、何があったの?

 ナイフを渡してきたあの大男は?

 様々な疑問が、頭の中をぐるぐると駆け巡るが、思考がまとまらない。

「不審者にも色々いるみたい。ガツンとお灸を据えて追い払ってやったから、安心して!」

 どういうわけか、瑞季は得意げに胸を張っている。

「西沢さん」

 不意に、後ろから優しい声がかかった。沙耶は弾かれたように振り返る。すると、頬に、ひんやりとした冷たいものが、そっと当てられた。

「きゃっ!」

「あはは、ごめんね。びっくりさせちゃった? はい、お水」

 そこに立っていたのは、月音優菜だった。その隣には、快活な笑顔を浮かべた高梁星輝もいる。

 差し出されたミネラルウォーターのペットボトルを、沙耶はそっと受け取った。

「あ、ありがとう……」

「魔が差すことなんて、誰にだってあるよ」

 優菜は沙耶の隣に腰を下ろす。

「大切なのは、そこからどうするか。西沢さんはナイフを使わなかった。自分の力で悪魔の囁きに勝ったんだよ。……それって、すごいことだと思う」

 優菜の言葉が、ささくれた心にじんわりと染み込んでいく。

「そうそう」

 星輝はベンチの後ろに立っていた。彼女は屈み、沙耶と目線の高さを合わせて、ニカッと、太陽のような笑顔を見せた。

「西沢さんはさ、弱い自分自身に勝ったんだ。それってすげぇことだぜ。ウチなんて、いつも宿題から逃げてるし、弱い自分自身に負けっぱなし。だからさ、誇っていいんだよ。いや、誇るべきだ!」

 星輝はそう言うと、グーの形にした右手を、沙耶の顔の横にそっと突き出し、悪戯っぽく目配せをする。

 沙耶は困惑しながらも、丸めた右手を星輝の拳に、こつん、と軽くタッチさせた。

「いえい」

「ねえ、西沢さん」

 瑞季は沙耶のほうへお尻を滑らせ、彼女との間の三十センチを、十五センチに縮めた。

「——ううん、沙耶、って呼んでいい?」

 沙耶の頬が、熟れたリンゴのように染まる。

「……うん」

「やった! じゃあ、私のことも下の名前で呼んでね」

「わたしも」

「ウチのことは、『片翼の星輝』と呼んでもらおうか」

「ふざけないの」

 クスッ、と沙耶から笑みが漏れた。

 それをきっかけに、他の三人も、それぞれ思い思いに、楽しそうな笑い声を上げ始める。つられて、沙耶もまた、「あははっ」と、久しぶりに声を上げて笑った。

 あーおなか痛い、と瑞季が脇腹を押さえながら呼吸を整えるまで、四人は意味もなく笑い合っていた。

「ちょっと日が暮れてきちゃったから、カフェは今度にしようか」

 瑞季が、少し名残惜しそうに尋ねる。

「時間、もうちょっとだけ、大丈夫かな」

「うん。大丈夫だよ」

 沙耶は、先ほどまでの怯えたような表情ではなく、穏やかな笑顔で答えた。

 そのとき、沙耶の右手に、ふわりと、温かい何かが触れた。

 それは、瑞季の、少しだけ汗ばんだ小さな手だった。

「私たち、沙耶の力になりたい」


           ◆


 三限目が終わり、沙耶は国語の教科書を読んでいた。現在、授業で扱っている評論は、あまり好きではなかった。しかし、文字を読むこと自体が好きだっし、新しい漢字や語句を覚えることにも喜びを覚えられた。本文は難しくてよく理解できなかったが、そのぶん欄外の注釈、すなわち知らなくても問題のない知識を、彼女は素直に楽しんでいた。

「国語だりぃな」

 ひとつ前の席に座る、苗田侑の愚痴が、彼女の耳に入ってきた。

 顔を上げなくても、分かる。その前には莉照蓮司がいる。

「……だよなー。小説とかだったら、まだ、ギリ読めなくもねえけどよー。評論とかって、マジで何言ってんのか」

 嘲笑うような声。沙耶は小さな恐怖を覚える。

 でも、昨日までの絶望的な孤独とは違う。悲しみを分かち合える友達がいるから。

 そっと隣を見る。瑞季の姿はない。優菜や星輝もいない。

 途端に、抑えていた恐怖が膨れ上がる。脚が震えだす。

 まだ、ひとりは怖い。

「なあ、西沢ぁ」

 最も聞きたくなかった声。

 背筋に、ぞくりとした悪寒が走る。

 本を読んでいる最中に声をかけられていれば、勇気を出して無視することができたかもしれない。しかし、タイミング悪く、ちょうど顔を上げてしまっていた。

「そんなの読んで何が楽しいんだ? お前の鼻くそのほうが、何百倍も面白いだろうに」

 ぎゃはははは。

 莉照の下品な笑い声が不快に響き渡った。

 沙耶はゆっくりと顔を上げ、氷のような表情で彼を睨みつけた。

「ああん? なんだよ、その顔。反抗期? パパとケンカでもした?」

 莉照は、さらに沙耶を嘲る。

「……くだらない」

 吐息のような声が漏れた。

「あ? なんて? 聞こえねえよ」

 机の下で拳を握りしめる。爪が食い込むほど強く。

 いつもなら、感情を殺すための痛み。

 でも、今日は違う。

 これは、勇気を絞り出すための痛みだ。

「……くだらないって、言ってるの」

 小さな声。

 けれど、そこには確かな意志が宿っていた。

「ん? 急に何言ってんの? つまんね」

 莉照はそう言うと、興味を失ったようにぷいっと顔を背けようとした。

 そのとき、

「——やめなよ」

 それは、莉照のちょうど背中側からの声だった。

 凛とした、強い意志を秘めたその声は、教室中にはっきりと響いた。

 ざわついていた教室の空気が、一瞬にして静まり返った。

 瑞季だ。

 彼女も拳に力を込め、心の底から軽蔑するような目で、莉照を睨む。

「人をいじめて……楽しいの?」

「いじめる? 遊んでやってるだけじゃん。笑うわー」

 莉照はいつものように笑う。

 だが、教室は静まり返っていた。

 笑っているのはひとりだけ。

「莉照」

 彼の肩に手が置かれる。

 星輝だ。

「お前さ。はっきり言って、クソダサいぞ」

 幼馴染からの容赦ない一言。

 莉照の薄っぺらいプライドが音を立てて崩れる。

 クラス中の視線が、冷ややかに彼を射抜いていた。

「……は? なんだよ」

「あなたに、いじめているつもりはないのかもしれない」

 星輝の隣に立つ優菜の声は、こんなときでも優しかった。

 しかし、甘やかすこともなかった。

「でも、あなたは目の前にいる人を傷つけている」

 莉照は言葉を失い、呆然と立ち尽くしているだけだった。

 そんな哀れな彼に、星輝が厳しい声で問いかける。

「そんな行為が、お前のスポーツマンシップか?」

「……い、いや……、別に俺は何もしてねえし。なあ、苗田」

 彼は沙耶の前の席にいる苗田侑に助け舟を求めた。苗田は「いや、その……」と困惑した様子を見せ、それ以上何も言わなかった。

 そんな様子を黙って眺めていた、ひとり男子生徒が、「……あのさあ」と、口を開いた。

「ずっと前から俺も思ってた。言い出せないでごめん、西沢」

 すると、次々と声が上がり始めた。

「莉照くんのおこないは、良くないよ」

「悪気がないのなら、いま覚えて。西沢さんに謝って」

「謝れ!」

 これは次第に高まり、ついには怒号まで飛び交うようになってしまう。

 沙耶は、クラスのみんなが自分のために怒ってくれるとは思ってもみなかった。ましてや、ここまで教室の空気が一変してしまうんて。

 統制を失った暴徒のような、度を越した騒然さのざわめき。

 もはや、ひとりひとりの言葉を聞きとることは不可能だった。

「——黙れ!」

 有無を言わせぬ力強さを秘めたボーカリストの声は、そんな中でもはっきり響き、空間に残響だけが残る。

「なんか言えよ、莉照」

 星輝が莉照を睨むと、彼も星輝を睨んだ。

 また、苗田は困惑している様子だった。クラス中の視線が隣にいる友達に向けられている状況に、自身がどう立ち振る舞うべきかを考えているらしい。彼の表情は徐々に暗くなっていき、最終的に西沢へ身体を向け、頭を下げた。

「俺もほとんど共犯だよな。ごめん、西沢さん」

 沙耶は何も言わなかった。彼に目を向けることもしない。

 ついに孤独になった莉照は、声を震わせて叫んだ。

「なんだよ……なんなんだよ! なんかの学園ドラマの真似か!?」

 誰ひとりとして彼の言葉に頷きもしない。ただ、震える彼を見つめていた。

「……」

 莉照はそれ以上は何も言わず、逃げ去るように教室から出ていった。


           ◆


 教室から飛び出した莉照は北校舎北側の通用門に来ていた。教員用の駐車場もあり、安価な軽自動車から高級車ブランドの車まで無作為に並べられている。

 とにかく遠くへ行きたかった。ここにある車を盗んで去っていきたい思いに駆られる。次に、高級車を殴りたくなった。思いきり凹ませて、持ち主の教師が激怒するのを想像すれば、少しは気が紛れるだろうか。

 胸の奥が、カッと焼け付くように熱くなった。

 しかし、それもほんの一瞬のこと。

 すぐに急速に冷めていき、後には、どうしようもない虚しさと、自己嫌悪だけが残った。

 石ころを蹴り上げ、植え込みのコンクリートの段差にうずくまる。

「……何してるんだろ」

 いじめ。

 自覚はなかった。

 でも、確かに加害者だった。

「馬鹿だな、俺……」

 脳裏に浮かぶ父の姿。完璧で、偉大な父。

 やっぱり俺は——。

「——孤独になったようだね、坊や」

 突如降ってきた声に、莉照はハッと顔を上げる。

 背筋を伸ばさないと顔が見えないほどの大男だ。日陰であるため外套による影は薄い。病的に白い肌と威圧感のある鋭利な目が、はっきりと見えた。

「あんた……この前の」

 大男——メルキーヴァは不敵に笑う。

「素晴らしい黒感情だね。やっぱり、孤独の黒こそが至高だ」

 メルキーヴァが懐から取りだした水晶玉に、思わず眼を奪われた。

 ただの、どこにでもあるような、透明のガラス玉だと思った。

 しかし、どういうわけか目を離すことができなかった。

 水晶玉の中に映る、深く歪んだ自分自身の姿に、釘づけになってしまう。

「『水晶よ。極上の黒を喰え』」



(第四話「嘘」了)


第五話「衝突」 2026/3/7 8:00投稿予定

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