第四話「嘘」-1-
西沢沙耶は朝が得意だ。
運動部が朝練を始めたばかりの時間は登校する生徒が少ない。そんな閑散とした通学路を歩くのが、彼女は好きだった。
鍵を開け、誰もいない教室で教科書や便覧の欄外を読む。朝練の音をBGMに、歴史の裏話や作者のエピソードに浸るのが、彼女の日課。
勉強は嫌いじゃない。ただ、成績は伸びない。
理由は分かっている。興味が教科書の欄外の補足に向いてしまうことは多いけれど、それだけじゃない。
学校での人間関係。
特に、自分のコンプレックスを容赦なく踏み荒らす、あの男子の存在。
学校になんて行きたくない。毎日毎日、「今日はいつ、あいつに馬鹿にされるのか」と怯えながらじっと座り続けるなんて、まるで拷問だ。
「……やだな」
学校も、自分も。
なにか、ガツンとやり返せたらいいのに。
そう思ったときだった。
カラン、と乾いた音が足元で止まる。
「なに、これ……」
革の鞘に収まった、刃渡り十センチほどのポケットナイフ。
どうして、どこから。
見渡しても誰もいない。
「自分を変えたい?」
突如降ってきたテノールの声。
見上げれば、電柱の頂上に男が立っていた。暗紫色の外套を纏い、沙耶を見下ろしている。
沙耶は言葉を失う。
「己を救えるのは、己のみ」
逆光のせいで彼女からは男の顔がよく見えない。しかし、彼の眼光が鈍い緑色に輝いたのは、はっきりと見えた。
「それをあげる。好きに使っちゃいな」
突風が吹いた。砂の混じる風だ。
腕で目を守る。
風が止まり、ふたたび電柱を見上げるが、そこには誰もいなかった。
まるで夢のような数秒だった。
だが、ナイフは変わらずそこにある。
それを拾い、鞘を外す。
間違いなく、本物のナイフだった。
——好きに使っちゃいな。
真っ先に浮かんだのは、自分の喉元に突き立てる光景。
消えてしまいたいと、何百回も願ったから。
そして次に浮かんだ用途に、沙耶は戦慄する。
「そんなこと……」
あいつを、殺す?
否定しながらも、ナイフを手放せない。熱を帯びた凶器をポケットに捻じ込み、沙耶は逃げるように走り出した。
染谷瑞季、月音優菜、高梁星輝が、早足で教室から出ていく西沢沙耶を見たのは、お昼を食べ終えて教室に戻ってきたときだった。
瑞季たち三人が前方のドアから教室に入ろうとしたとき、沙耶が後方のドアから出てきた。ハンカチで顔を押さえ、うつむいて早足で歩く様子は、用事へ向かっているようには見えない。
瑞季は沙耶とすれ違う。沙耶が一瞬、瑞季を見上げ、視線がかち合った。
その瞬間、瑞季の胸に疼痛が走る。
それは、沙耶の目に浮かんでいた感情があまりに強く、しかし、どんな感情なのか、まるで分からなかったから。
「……」
彼女のひとつ前の席の辺りには、いつもどおり莉照蓮司とその友達の苗田侑が群がっていた。きっといつものことなのだろう。なのに、沙耶の様子はいつもと違う。
そもそも。
傷ついたすぐ後の西沢さんを、正面から見たことあったっけ——。
沙耶はそのまま逃げるように女子トイレに入っていった。
「どうしたのかな、西沢さん」
「トイレ我慢してた、ってふうには見えなかったよな」
ふたりが首を傾げたのを見て、瑞季は初めて気がついた。教室の席が一番前の星輝と、二番目の優菜は、瑞季の隣の席で起きていることを知らないのだと。
話すべきか、迷った。知って気持ちの良い話ではないのだから、知らない方がいいかもしれない。
以前の瑞季なら、きっと、口をつぐんだだろう。
「ちょっと、いいかな」
瑞季は教室に入りかけていたふたりを手招きし、廊下に呼んだ。教室内に話を聞かれたくない人物がいることを察したのだろう、ふたりは黙って中庭側の窓のそばまで来て、瑞季に耳を寄せた。
「あのね」
瑞季は沙耶と莉照について、一通り話した。通り過ぎる生徒たちが、ちらちらと彼女たちに目をやっては、去っていった。家族の愚痴か、誰かの悪口を言っているように思われているかもしれない。
「なるほどね。あいつが話しかけてるのは何回か見たことあったけど、そんな酷い感じだったのか」
「うん。もちろん気づいてるのに何もできない私も悪いんだけど」
「そんなことないって」
星輝が首を振る。
「ウチな、あいつとは幼稚園のときからよく遊んでたんだけど」
「そうなんだ」
「そうそう。いわゆる幼馴染ってやつ。めっちゃ仲がいい、ってわけではないけど。そういう危うさは、ある奴だったな……。よし!」
星輝はパチンを手を鳴らして、腕まくりをした。
「いまからボコりに行こうか」
「待って!」
冗談冗談、と星輝は歯を見せた。
何度も莉照を痛みつける妄想をしたことがある瑞季は、本気で肝を冷やしたが、どうやら星輝には本当にその気がなかったらしい。
「ごめんごめん。なんか暗くなりすぎるのも嫌で」
「ううん、ありがとう」
「でも、いざとなったら、いつでもガツンと言ってやる準備はできてるぜ」
そう言ってくれることが、瑞季には嬉しかった。それは、ひとりで悩んでいたときにはなかった気持ち。
「私、こう思ってて」
その考えが正しいかはわからないけれど。
「SOSを出していないのに助けて、それが、西沢さんのためになるのかな、って」
自分の足で立たなきゃいけないんじゃないか。
そんな迷いを口にする瑞季に、優菜は静かに首を振った。
「わたしは、ちょっと違うと思う」
優菜の瞳が、瑞季を射抜く。
「SOSを出しても、どうせ助けてもらえない——西沢さんは、そう諦めているのかもしれない」
ハッとする瑞季に、優菜は続ける。
「暗闇で怯える人に『こっちに来い』って叫ぶより、まずは懐中電灯を渡してあげたい。『あなたはひとりじゃない、いつでも声を出していいんだよ』って、伝えてあげなきゃ」




