第一話「ヒーロー」-2-
昨日のあれはなんだったのか……。
教室の一番後ろの席の窓から、瑞季は町を見下ろしていた。
異音は学校でも話題だったが、ぬいぐるみが喋ったなどという話は当然ない。言えば馬鹿にされるだけだから、誰も言ってないという可能性もあるが。
実際、ネー子はただのぬいぐるみだった。昨日ベッドからどかすために持ち上げたときも、いつもの重さ。口も目も、縫われた模様にしか見えない。
空の邦の精霊。
昨夜、ネー子が言っていた言葉。
『空の邦』って、なんだろう。
「染谷」
教壇からの呼び声は、瑞季の意識の膜をすり抜けていく。
空を見上げる。
分厚い雲が蓋をするような曇天。空の邦、という言葉を改めて舌の上で転がした。
「染谷!」
鋭い声に、思考が強制的に遮断された。
「……は、ハイっ!」
反射的に立ち上がり、背筋を伸ばす。
視線を感じる。
実際に見ているのは先生だけかもしれない。けれど、クラス全員の目が一斉に自分に突き刺さるような錯覚に襲われた。
背中を冷や汗が伝う。
「聞いてたか?」
「えっと……」
頭が真っ白になる。
今、何ページだっけ? 何の話をしてた?
視線が泳ぎ、救いを求めて彷徨う。
そのとき、隣の席から微かな衣擦れの音がした。
隣の席に座る、ぱっつん前髪とツインテールの女子・西沢沙耶が教壇の小池先生に気づかれないよう、少しだけ身体を傾け、机の上の教科書を瑞季の方へずらしていた。
白い指先が、ページの一点をトントンと叩く。
といさん。
彼女の唇が、音もなく動いた。
瑞季は慌てて自分の教科書に目を落とす。
問三。
傍線部Aの心情を答えなさい。
——ダメだ、全然分からない。
そもそも、どの文章の話をしているのかさえ検討がつかない。
「すみません、分かりません」
正直に答えるしかなかった。
小池先生の授業では、いつも出席番号順に当てられる。
ちょっとでも警戒していれば防げたはずの失態。
それほどまでに、瑞季の心はここになかったらしい。
「まあ、確かにここは難しいところだな。いいか? ここで作者は——」
先生が解説を始めると、教室の緊張がふっと緩んだ。
瑞季は椅子に座りながら、隣へ顔を向ける。
両手を合わせ、「ごめん! ありがとう!」と必死に口パクで伝える。
西沢沙耶は困ったように小さく手を振り、少し赤くなった顔を俯かせて、前髪で隠してしまった。
授業後、瑞季は隣の席の机を、とんとんと叩いた。
「西沢さん」
うつむいていた西沢沙耶がハッと顔を上げる。警戒したような仕草は小動物じみていた。
「消しゴムありがとう。あと、さっきは助けてくれたのにうまく答えられなくてごめんね」
「あ、ううん、気にしないで。どういたしまして」
彼女の声はか細かった。ざわついているとはいえ、瑞季の耳までなんとか届くくらいの声量だ。彼女が貸した側なのに、どこか申し訳なく思っているように見える。
一声続けようかな、と思うも、うまく言葉が出なかった。瑞季は机の下へ脚を戻し、提げていたバッグに筆記用具とノートを入れた。
「部活だりいな」
西沢沙耶のひとつ前の席の男子は、背もたれに大きく身体を委ねていた。頭とそれを抱えた腕はほとんど西沢沙耶の領域を侵している。
彼女は何も言わない。
「でもまあ、楽しいからいいじゃん。二年になって、雑用は全部後輩がやってくれるようになったし」
そう応えたのは、莉照蓮司。
浅黒く焼けた肌と前髪のない短髪は、いかにもスポーツ少年だった。サッカー部の次期部長候補とも言われているらしい。顔つきが爽やかでリーダーシップもあるため、女子によくモテていた。
もっとも、瑞季は彼のことが嫌いだが。
莉照蓮司の視線が西沢沙耶へ向くのを、瑞季は感じ取った。耳を塞ぎたくなるが、ここで耳を塞ぐのも嫌だった。
想像した通りのシナリオが進んでいく。
「あれ、西沢」
莉照蓮司の声に、西沢沙耶が無表情に顔を上げる。
「鼻の下、ゴマついてんぞ。あ、ホクロか。わりいわりい」
下卑た笑い声。
瑞季の中で怒りが燻る。
西沢沙耶は前髪で顔を隠すように俯き、膝の上のスカートを強く握りしめた。
その姿が見ていられなくて、瑞季は教室前方に目を向ける。
みんな、相変わらずキラキラとした空気をまといながら談笑している。教室の後ろで起こっていることなど、まるで気づいていないようだ。
特に、最前席に座る茶髪のポニーテールの女子・高梁星輝と、彼女と話す黒髪ロングの美少女・月音優菜は、スポットライトを当てられているかのように輝いて見えた。ふたりは校内にもファンがいるという人気者で、まさに物語の主人公にふさわしい人間。選ばれた人間。
選ばれた人たちが輝くために、暗いものたちが自分のいる日陰に集まってきてるんじゃないか——そんなことを思わずにはいられなかった。
そのとき、教室の戸が開き、小池先生が戻ってきた。
「じゃあな」
莉照蓮司が去っていく。
汚物が過ぎ去ったような安堵と、何もできなかった自分への嫌悪が、瑞季の胸に渦巻いた。
◆
繋市は、南に太平洋を迎える。海から四百メートル以北の大半は、九十年前まではただの山だった。町全体がゆるやかな斜面となっており、南から観れば住宅街と自然が共存した長閑な町を見渡すことができる。
瑞季が通う学校は山側にあり、生徒の多くは登校を「プチ登山」と表現した。そのような環境のせいか、公立にも関わらず、県大会や全国大会に出る運動部が複数存在する、スポーツの強豪校でもあった。
中学校より更に北へ昇ると、市の名所である時計台がある。頂上は市で最も標高が高く、町と水平線を見渡せる絶景スポットだ。
平日の昼下がり。時計台に慣れ親しんだ地元の住人、その屋根の上など見上げもしない。
だから誰も、そこに立つ大男には気づかなかった。
男——メルキーヴァは頬に風を受け、闇色のローブをなびかせていた。
「ここが無の邦かあ。いいとこじゃん」
マントの下は肌にピタリと貼りつく強固な黒衣に包まれている。鎧のような胸板と、小学生男児が丸々すっぽり入るであろう屈強な二本の脚は、彼が並の戦士ではないことを物語っていた。
「さあ、どこにいるかな。空の邦の王子くんは。遠くに逃げてないといいけど」
むしろあいつの性格なら、俺たちを待ち受けていても可笑しくはない——。
かつて自身を欺いた仇敵を思い、彼は口元を吊り上がらせる。
「さて、炙り出しちゃおうかな」
メルキーヴァは見渡す。
目薬をさす男。使えない。
理科の実験で微笑む女生徒。使えない。
広場の角で、ランドセルを抱えて俯く少年。
「悲しみ、憎しみ、破壊願望……いい黒感情じゃん」
メルキーヴァは跳ぶ。隆々の筋肉から成る脚力は、軍人にも右に出る者はいない。たった一歩の跳躍で、数百メートル先の男の子の背後にある民家の屋根へ飛び移った。
そこから、湧き上がる黒感情を見下ろす。
「全部嘘だったんだ……。ぼくはずっと騙されて……」
そう呟く少年の後頭部へ、メルキーヴァは不敵な笑みを向ける。
「その感情、ぜーんぶ吐き出しちゃいな」
「え」
メルキーヴァは少年の眼前に着地する。人差し指と中指に無色の水晶を挟み、少年の前に突き出した。
「手伝ってあげようか?」
巨体のメルキーヴァが持っていると、水晶はビー玉のように見える。しかし、少年の五本指では到底掴めない大きさだ。そこに写る自らの歪んだ姿に、少年の目は吸い込まれていた。
メルキーヴァは詠唱する。
「『水晶よ。黒を喰え』」
途端、少年の胸から黒い霧が吹き上がった。叫びながら胸に手を当てるが、噴射された黒は指の隙間から輝きを放ち、水晶へ吸い込まれていく。
そして、水晶は純黒に染まった。
反射さえ許さぬ暗黒が輝きを帯びていく。
少年の叫びがピタリと止まった。
「出でよ! スレイヴ!」
水晶の黒が渦状に吹き荒れ、少年を飲み込んだ。何十倍にも膨れ上がった黒感情は、やがて戦闘スーツで武装した人型の怪物へと姿を変えた。




